第二話 記憶をゆらすもの
「……おかしいわね」
私は、焼き上がったパイを少し冷ましながら、小さくつぶやいた。
レム・ステラの震えは、偶然ではない。
火の揺らぎと、香りと、わたしの手の動き。
それらが、何かの記憶を引き寄せていた。
でも、それがどんな記憶なのか。
それは、はっきりとは分からなかった。
「記録されない記憶……」
そう。
ネリスに住む人々のほとんどは、記憶を記録しない。
できないのだ。
語った瞬間に、崩れてしまうから。
言葉にしただけで、その記憶は“壊れて”しまう。
だからこそ、語らない。
代わりに、火がある。
香りがある。
そして、私たちは料理をする。
料理とは、語られなかった記憶の受け皿。
名を呼ばれなかった人たちの、静かな痕跡。
私は皿にパイを載せ、そっと一切れだけ切り分けた。
そのとき、扉が静かに開いた。
振り返ると、ノイラがいた。
いつものように、無言のまま。
肩までの黒髪が、少し濡れていた。
雨でも降っていたのだろうか。
ノイラは何も言わず、レム・ステラを見た。
そして、次に私を見た。
それだけで、すべてが伝わる気がした。
私は、パイの皿を差し出した。
ノイラは少しだけ目を伏せ、それから一口、食べた。
「……懐かしい」
それは、とても小さな声だった。
でも、確かに聞こえた。
私は息を呑んだ。
ノイラが言葉を発したのは、どれくらいぶりだろう。
それだけで、空気が変わった気がした。
火の温度が、わずかに高まったように感じた。
「これ……誰の?」
私は答えなかった。
答えられなかった。
でも、ノイラもそれ以上は聞かなかった。
レム・ステラが、再び震えた。
けれど今度は、わずかに光を帯びていた。
それは、まるで何かを思い出そうとしているような、そんな光だった。
「……また始まるのかもね」
ノイラが、ぽつりと呟いた。
私は、返事をしなかった。
けれどその言葉が、私の胸の奥で何度も反響した。
また始まる。
語られなかった物語が。
語ってはいけなかった記憶が。
沈黙のなかで。
火のまえで。
名前を呼ばぬままに。
そしてきっと、もうすぐルオも来る。
音を鳴らしながら。
そのとき、この沈黙に、ひとつの“語られぬ語り”が生まれる気がした。
私は再び、火をくべる。
灰を払い、新しい薪を組む。
記憶を、語らぬまま渡すために。