第一話 火を灯すだけのこと
火を灯すだけのこと。
それだけで、胸がふるえる日がある。
私は今日も、朝のうちに薪を組んだ。
手順はいつも通り。薪を縦に、そして横に。中心に枯れ枝をねじこむ。
火打ち石を軽く打つと、小さな火種が、やがて命のように膨らんでいった。
ただ、それだけのこと。
けれど、何故だろう。
火を見ていると、名前を呼びたくなる。
この世界では、それが禁じられている。
名前を呼ぶこと。
記憶を語ること。
声にしてしまうこと。
そのすべてが、崩壊の引き金になるから。
私たちが暮らすネリスでは、言葉は慎重に選ばれ、
いや、ほとんど選ばれなくなった。
語るより、灯す。
語るより、香らせる。
語るより、黙る。
私の名は、セレア。
けれど、もう何年も、それを誰かに伝えたことはない。
今日は、林檎のパイを焼こうと思っていた。
ふと、そう思った。
林檎は、昨日、裏の畑から分けてもらったばかりだ。
まだ皮に土の匂いが残っていて、洗いながら少し涙が出た。
目に沁みたのではない。胸が、少しだけ熱くなったのだ。
林檎の皮を剥いて、薄く切って、鍋に入れて、少しの水と砂糖を加える。
そこに、ほんの少しのシナモンを振りかける。
それが、私の父の癖だった。
彼が、最後に残した香り。
そう、記憶ではない。
香りなのだ。
語ってしまえば、崩れる。
名前を呼んでしまえば、もう戻らない。
だから私は、火のまえで、林檎を煮詰める。
黙って、ただ、手を動かす。
その匂いが立ちのぼったとき。
あの日の、笑い声も、温度も、残された沈黙さえも、私の中に帰ってくる。
火がパチンと音を立てた。
私は、生地を広げながら、そっと目を伏せる。
涙ではない。
ただ、世界が、少しだけ揺れたような気がした。
そのときだった。
台所の隅に置かれた、小さな装置が震えた。
レム・ステラ。
かつての語り手たちが作った、記憶の受信器。
誰も語らなくなって久しい今では、眠っているはずの機械だった。
なのに。
今日は、わずかに震えた。
赤い光が、一瞬だけ、火の色と重なる。
私は手を止めた。
その震えが、風によるものではないことを、知っていた。
火によるものでもない。
これは、記憶が語られそうになったときの反応。
私はそっと、レム・ステラに触れた。
金属の表面は、微かにあたたかく、呼吸をしているようだった。
私は、思わず呟きかけた。
名前を、呼びたくなった。
でも、呼ばなかった。
そのかわりに、パイを焼いた。
何も語らず、ただ、火に任せて。
手順だけで、記憶を伝えるように。
焼き上がる頃、部屋には懐かしい匂いが満ちていた。
誰かが言った。
――この香り、知ってる。
でも、それが誰かは分からない。
私も、名を呼ばなかった。
名前を呼ばずに、伝えられるものがあることを、私は知っているから。
そして、レム・ステラが、再び震えた。
今度は、静かに、肯くように。
語ってはいけない世界で、
それでも私は、火を灯す。