第9話
放課後、翔は教室まで雫を迎えに行くと有無を言わさずに「ちょっと来て」と雫を引っ張っていった。翔がそんな強引な言い方を雫へしたことは今まで一度もない。
嫌な予感がするなと小百合も光助も浩も思った。教室内でこそこそとなにか言ってる連中もいた。
いつものひと気のない場所へ行くと、翔は踊り場で雫を壁に押し付けた。
翔が怖い、怒ってるのがわかる。しかし雫は怒られる理由が見当たらない。そもそも怒っている翔を見たことがない。
「俺以外が雫ちゃんに触れるのは嫌だ」
冷ややかにそう言われて、雫は言葉を失った。
強引に押し付けるようなキスを翔がして来て、少し胸を揉まれて、雫は怖くなった。馬鹿力で逃げようとしたけど、もちろん本気を出したら翔の方が力は強い。
押し返そうと翔の胸元に当てられた手が少し震え出した。
やだ、やめてと言いたいのにうまく声が出せなくて、それを雫の喘ぎと勘違いした翔は、強引に舌を絡ませると更に雫の胸を揉む。
ようやく終わらせると翔が耳元で言った。
「雫ちゃんは俺のものだ。触れていいのは俺だけだ。しかも触れたのが壮だなんていっそう許せない」
冷ややかな声が耳元で聞こえてきて、雫は知らない人を目の前にしている気分になり、本当に怖かった。
これが翔だ、雫の知らなかった翔の本性。
いつだって優しく微笑む翔の違う顔を雫はひとつも知らない。
今の翔はただの嫉妬などから生まれた感情じゃない、それ以上に行ってしまっている自覚がない。 壮だけじゃない、全て許せなくて、だから雫の初めてをまたひとつ自分のものにした。
それはもはや、ただの独占欲に留まるのだろうか。
自分から離れて行きそうな雫を縛り付けたくて、それこそもう自分しか見えないように雫の全てを奪いたい。性欲が湧いているのとも違う。
「やだ、やめて……翔君、離して」
涙目で雫は訴えたが、それが翔の怒りを逆なでした。
しかし翔が怒っているのは雫に対してではなく壮に対してだった。
雫がそんなこと気付けるはずもなく、ただただ怖さだけが先行する。
再び強引なキスをすると、翔は雫のスカートへ手を入れた。
驚いた雫の体がびくりとほとばしった。そうして体が固まってしまった。自分の体になにが起こっているのか思考が伴わない。
触れた場所がどうなっているか確かめられた翔はやっと満足した。
そして翔が雫へ掛けるには意地悪い言葉をぶつけた。
「感じてるじゃないか」
もう一度スカートに手を入れてなぞる。
ぞくりとした感覚が雫の体に走った。
「わかる? これ、俺に触られて感じてるからこうなるってこと」
翔から解放されると雫は全力で駆けた。
わからない、わからない、なんで翔はあんなことをするのか。
キスより先がなにかなんて知っている。しかし、まだ雫はそれがどんなものなのか知ろうとしていなかったし知りたくもない。
先を知っていても、自分の体がどんな風に変化するかなんてまるで知らない。想像なんて付きもしない。
だから余計に怖い。
翔がキスより先を求めていることがはっきりとわかった。大人になりたくない雫は知りたくない自分まで知らされたようで嫌だった。
教室で鞄を取ろうとして泣き崩れた。
嫌な予感がするなと待っていた壮など気付かず、雫の目にはなにも映っていなかった。
「雫? 大丈夫?」
そう声を掛けられて、雫は壮が居たことに気付いた。
泣きながらこちらを見た雫が痛々しく壮には映り、どうせ翔だろうと思うと、幼馴染であることを選んだ自分を少しだけ責めた。
守ってあげられなかった。
なにがあったのかなど聞くつもりはないし、聞きたくない。翔が雫を傷付けるようなことをしたに違いないことだけはわかる。
抱きしめたい。泣き崩れている雫を抱きしめてあげたいのに、今抱きしめていいものか壮はわからなかった。
雫は翔にさよならを言おうとしてる。
いつ言えば良いかわからなくて、まだ言えないでいて、更にどうやって言ったら良いのかわからなくなった。
さっきの翔の強引な行為を思い出して、泣きながら思った。
さよならを言ったら翔はどうなってしまうのだろうか、それも怖い。
雫はあんな翔に怖さを覚えたのに、さよならを言うべきなのかまたわからなくなった。
あんなことをした翔が自分をどう思っているのか、よくわかってしまった。きっと、翔は自分以上に傷付く。
「……さよならして来たの?」
壮が優しくあやすようにそばに屈んで雫に問うと、泣きながら雫が横に首を振る。
「言えない……さよなら、言えない……怖い……」
思わず、雫は怖いと言ってしまった。
色んなことが怖いのは確かだ。
翔が校内にいればいいと思いながら壮は駆け出して探し当てた。
階段でうずくまり頭を抱えている翔がいた。
「お前……」
無理やり立たせると一発だけ殴った。
翔は殴られて当然だというような顔をしていたから、だから一発だけで留めた。
「お前、昔俺に言ったよな。あいつの初めては自分が全部もらうって」
「雫ちゃん、泣かなかったよ。涙目だったけど……」
なにをしたのかなんて知らなくていい。そんなことが問題なのではない。
「お前が……あいつの初めてを奪う最後が……泣き顔でもいいのかよ……」
壮はどうしてか泣いていた。自分が泣いていることに驚いた。
翔は春までしか雫と一緒に居られない。だから余計に自分でいっぱいにしたいのだろうとはわかっているつもりだ。
だから翔だって苦しいだろう。
けれども自分だって苦しい。
翔の気持ちもわかってしまうから、彼のことを思えば気の毒にも思える。
「泣いてたよ、教室で。お前には、見せたくなかったんだよ。泣いてるところ」
「……わかってるよ、俺がどんな人間かなんて……隠していたのに、一生隠すつもりでいたのに、無理だった。抑えられなくなる」
わかっていた翔の本音を聞いた壮は、その後突っかからなかった。翔も壮に対してお前のせいだとは言わなかった。
それくらいに自分たちは少しだけ大人なんだと実感する。
ごしっと涙を腕で拭うと、翔にも自分にも言い聞かせるように壮は言った。
「雫はまだ中学生になったばかりなんだよ。無理して背伸びなんかさせたくない。しちゃいけないんだ」
それだけ言うと、翔を置いて壮はまだ雫がいるかもしれない教室へ向かった。
案の定、まだ居た雫は泣き止んでいる代わりにうずくまったままで、ぼーっと宙を見ている。
由美が言った言葉の意味、さよならを言うことは少しだけ大人になる為に必要なことだ。
やっぱり翔は自分より少し大人だ。
翔は怖かったけど、苦しそうで、少し大人になっても苦しいことはきっといっぱいあるのだろうと漠然と思った。
苦しいのは嫌だ、怖い。
そう思うとやっぱりこれ以上大人になりたくない。少しずつ自分も変わっていっていることが怖い。
翔にあんなことをさせたのは、きっと自分のせいだ。それだけはわかる。
「雫、やっぱりまだ居たんだ」
壮は今出来る精一杯の優しい声で優しく言った。
「帰ろう。一緒に帰ろう?」
雫は少し考えてから、うんと言った。
「ありがとう……今、ひとりは嫌だ」
雫の鞄を持って、手を差し出すとその手を取って雫が立ち上がった。
抱き寄せてあげたいけれど、今はそれをしてはいけない気がした。
よくよく考えると、少しだけ成長した自分が臆病になったわけではなく、もともと臆病だったのかもしれない。だから泣かせて笑わせて、どうにか自分を少しでも見てほしいと思っていたんだと今ならわかった。そうやって苦しいのを抑えて自分に自分を隠し通してきたんだ。
翔が羨ましかった、ずっと。翔は優しく笑って雫のそばにずっと居て、雫は翔のそばにいるといつだって笑うこと以外しない。
ふと、引っ越す前に雫に伝えた気持ちを思い出した。あの時のことを思い返した。
優しくしたのに泣いた雫が最後に自分のTシャツを掴んだ。なにも言わずに掴んだ。そうして暫く離してくれなくて、最後に壮君が好きと小さな声で呟いた。雫にしてみたら無意識だったのかもしれないけれど、ちゃんと壮には聞こえてしまった。
戻って来るって言ったのに、目前のことしか見えない雫は自分にもう二度と会えないんじゃないかと不安になったのかもしれない。そう思ってしまえるような状況だった。
失くしたものがもう二度と戻らないと自分たちが思い知った直後の出来事だったから。
一緒に並んで帰りながら壮は思った。
出来ることなら翔から雫を今すぐ奪ってしまいたいけれど、雫の弁ではないが誰かを傷付けてまでそんなことはしたくない。どうしたら誰も傷付けずに出来るかもわからないし、雫が自分に向いてくれるかだってわかりはしない。
今出来るようになった少しだけ優しい自分で居たい。
やっぱり俺は臆病なんだなと思った。
ふと微かに触れた手を握ってやることすら怖くて出来なかった。
いつかの、今だけでいいから甘えさせてなんて言わなけりゃ良かった。最初で最後みたいな言い方なんてしなければよかった。
黙ったまま雫を送り届けると、また怒りが芽生えた。
それが翔に対してなのか自分に対してなのかはわからない。