第7話
雫が学校を休んだ二日目、小百合たちがそわそわしている。大体二日くらい休み三日目には登校して来るけれど、今回は心底心配だった。
昨夜小百合が電話で透子から聞いた話では、途中で歩けなくなって壮が負ぶって帰って来て、ひとまず死んだように寝ているとのことだ。長く持った分、長くかかるのではないかと心配だ。長くなれば長くなるほど、雫はきっと気を負う。
そういえばさと友好的なクラスメートが三人に話しかけてきた。
「なんで相田って相田ちゃんなの?」
「そそ、雫って名前可愛いのにね」
揃って思わずきょろきょろと廊下を伺った。あの人達は地獄耳だからなあと怖くなる。
「重ーいトラウマがあってね」
そう小百合が言ったが、わざわざ名前を呼ぶことがトラウマになるってどんなことがあったのだろうかと、みんな俄然興味を抱かされる。
「雫ちゃんとか雫って呼ぶとね、怖ーい先輩がいきなり怖い声で背後から耳元で呪うぞーって脅して来るんだよ。俺らも経験したけど……未だに恐ろしい」
光助は説明するとあの恐ろしさを思い出し、またきょろきょろとした。そうせずにはいられない程のトラウマである。
「呪うぞー」の言葉に「え?」となった瞬間、背後から耳ががんがんするくらいの大声で「うわっ!」と脅される。小学校低学年の時分では夜寝られなくなるくらいの恐怖体験だった。雫と仲良しになった三人は、面白がった壮に何度それをやられたことか。何度されても、驚くものは驚くし、不意打ちされるから本当に怖かった。
「そもそも、その先輩って普段から厳しいっていうか怖かったのよねー」
可笑しそうに小百合が言った。
あの壮が今や恐ろしいガキ大将から割と優しい爽やか人間になっているのだ。臆病なところを最近は弄って遊んでいる。立場がまるで変わった。
「うちの学校の人?」
興味を持っていた全員が、なんとなく翔のことかなあと思ったが、あの翔が「呪うぞー」と言っている姿は想像し難い。
「東雲先輩」
さっきまできょろきょろ確認していたくせに、小百合と光助と浩は声を揃えて壮を茶化すように言った。
「面白いよね、ほんとあの先輩」
そう言ってみんなは笑ったが、当時は笑い事じゃなかった。
「幼馴染の中で一番年上なのが東雲先輩と大野先輩らしいよ」
浩はそう言ってから、壮よりも翔の方が当時からよほど恐ろしかったと心の中で呟いた。翔の脅し方はそれはそれは直接的だったものだ。
「あとさ、古谷のあのノート!」
「ああ、相田ちゃん事件簿? これ本人に言ったらダメだよ。内緒で書いてるから」
そもそも相田ちゃん事件簿を書きはじめたのは他の中学へ入学した友達で、代わりに光助が書き留めているのだった。
卒業文集で将来の夢を相田ちゃん事件簿で小説デビューと書いた者が二人がいて、当時はどっちが先にデビュー出来るかなどと喧嘩をしていた。今は仕方なく光助に頼りつつ共闘している。
おてんば変人少女は奇怪な逸話も沢山あるが、成績も良ければ様々な賞を取ったりしてもいて、悪いことばかりではない。むしろ、中身は雫ではなく壮と翔絡みのことや雫の凄いことで占められていた。
他人から見ても哀れな事件は、最悪でトラウマと本人が思っている、学年でただひとりだけ一輪車に乗れなかったことだ。
三年間、毎日ひたすら練習していたのに出来るようになれず、ある時遂に泣きだした。みんなでもう諦めようと宥め説得した。
しかし雫がそんなことで諦めるわけもなく、ひとりだけ出来ないのが悔しくて泣き喚き続ける。
そこに校長先生がやって来て言った。
相田さんはみんなよりも長けてることが沢山あるのだから、ひとつくらい出来ないことがあってもいいんじゃないかい。
物腰の柔らかい優しい校長先生の言い方にやっと涙を引っ込めた雫がおもむろに笑顔を咲かせた。
おてんば変人少女は一等賞も好きなら一番乗りも好きだ。負けず嫌いなのか、ただの物好きなのか最早わからない。きっとどっちもだ。
倒れるほど無我夢中になる必要ってあるのかなと雫を少し知っているだけの者なら思うが、よく知っている者からすれば、それでこそのおてんば変人少女なのだ。
無敵モードの度に、心臓に悪い思いはするが。
その頃、雫は概ね体力が戻り、次の日は学校へ行こうと思っていた。いっぱい休んで勉強が遅れるのも嫌だし友達に会えないのがとても淋しい。
どうしてか、翔に会えないことを淋しく思っている自分は居なくて不思議だ。
あんなにそばに居たのに、なんとなく遠くに感じはじめた翔が時々知らない人のように映る時がある。
物悲しくてもさよならを言おう。どうしてそう思っているのか、自分では見つけられないけれど、きっとそうした方が良い。でも、上手にさよならを伝えられる自信はない。
言わないと、ちゃんと言わないといけない。壮が嘘を吐かれる方が傷付くって教えてくれた。
まただ、もやもやする。翔のことを考えていたのに壮が頭の中に出てきて、頭がごちゃごちゃして嫌になった。
今の壮は昔と少しだけ違うから、余計にごちゃごちゃする。どうしてなのかはわからない。
こんこんとノックされ、はーいとそれなりに元気な声で答えた。透子ならわざわざノックなどしない。
「お姉ちゃん!」
雫は嬉しそうに微笑んだ。鉄平の姉の由美がお見舞いに来たのだった。
「元気そうだけど元気にみえないね。透子ちゃんに言えない悩み事、あたしだったら聞いてあげられるよ?」
雫をおてんば変人少女に仕立て上げたうちのひとりでもある由美には、いつも他の人には言いづらい悩み事を相談していた。うんと歳の離れている由美はいつも答えを見つけるための素敵なアドバイスをくれる。
「頭がごちゃごちゃするの」
雫はとても単純に、でも曖昧に答えた。
「どうして?」
「壮君と居ると頭がごちゃごちゃする。翔君が最近いつもと違って、どうしていいのかわからなくなる。三年生って大人だね。あたしはまだ子供なのに二人ともとても大人に見えて、時々難しいこと言う……」
雫は時々、まだ子供っぽい自分を恥じたくなる。わからないことばかりの自分が嫌だ。そのことに関して鉄兵に頼ってみても、難しいことばかり言うから、結局いつもよくわからない。
由美ならわかりやすい言葉をくれるかもしれない。
いつも由美はそうだ。由美は欲しい言葉をわかりやすく教えてくれる。
雫が翔に従順なのは自分ばっかり子供なことが悔しくて追いつきたい、隣に居て良い自分でありたいと心のどこかで思っているからだ。
無意識にそうしてきただけに、最近戸惑いを覚える。
翔とキスをするのは嫌ではなくて、されたらされたでもっとしたくなる。けれども雫はその先のことを考えたくない。
理由は、先を知ってしまったらまだ子供のままでいたいのに大人になってしまうからだ。
翔がもっとすごいこともしたいと思ってることは知らない。
「ねえ、ふたりとなにがあったの? 言ったでしょ、透子ちゃんには出来ない相談乗るって」
掛け布団に顔を押し付けて、くぐもった声で雫が言った。
「キスした……翔君とも壮君とも」
「どっちが感じた?」
「感じるってなあに?」
「気持ちよかったかってこと」
咄嗟に思い出したのは壮とのキスだった。翔とのキスより印象的だった壮とのキスの方を先に思い出してしまった。
「壮君のキス、優しかった」
そして翔のことを考えてみる。雫は少しだけ悲しそうに顔を歪ませた。
「翔君とキスするのは……その……翔君のキスは……」
どんな風に伝えればわからなくて、雫は言い淀んだ。
「優しくないんだ?」
「時々、どうしていいかわからなくなるの……」
伏し目がちにそう言った雫に由美は思った。
もしかしたら翔はまだ雫を待っているけれども、性格的にそのうち我慢出来なくて、もっと先を押し付けるような気がする。
「翔君のキスと壮君のキス……同じことしてるのに全然違った……どうして?」
また難しいことを聞かれたものだと由美が少し考え込むと、雫が言葉を続けた。
「触れたくなるのは好意があるからだってお兄ちゃんが言ってた。壮君に好きだって言われてる。でも、翔君、一回もあたしのこと好きだって言ってくれないの。好意にも色々あるってわかっているの」
弟め、ややこしいことを雫に言いやがったと、由美は鉄兵を恨めしく思った。
それからやっと雫は色々な経緯を話しだした。
「翔くんと手を繋いで学校に行ったら、先生に怒られて、そうしたら翔君、付き合ってますって言ったの。あたし、その時初めて翔君は男の子なんだって思ったら、これが恋なのかなって。でも、お母さんは翔君はダメって言った。しばらくして壮君と学校で会ったの。あたし、壮君が大人っぽくなってて気付かなかったの。壮君、あたしの首にキスマークつけた。少しの間、髪おろしてなきゃいけないと思ったら、翔君がね、髪おろしてるところを他の人に見せたくないって。翔君、いつもと違うキスした。初めはね、どうしようって思ったのに、そんなこと考えられなくなっちゃって……自分が自分じゃないみたいだった」
ごちゃごちゃしている雫は上手に伝えられている自信がない。
「壮君が、今でも好きだって言ってくれた。でも今あたしには翔君がいるから、壮君ね、すごく悲しい顔したの。一回だけ、その後、翔君のこと邪魔しないから少し甘えさせてって。そしたら壮君、いきなり大人のキスしてきた。壮くんのキス、優しかった。翔君のキス、激しくなっていくの。付き合うってこういうことなのかなって思ったら怖くなった」
雫の顔は泣くのを堪えているように由美には見えた。
「あたし、もうさよならする。でもさよならの仕方がわからない。壮君に聞いたら、素直な気持ちを伝えればいいって。壮君らしいね、まっすぐで。あたしは壮君に比べたら全然まっすぐじゃない。壮君は優しくて、あたしはずるい。でもね、あたしには俺の事好き? って聞くのに、翔君は好きって言ってくれないから、翔君もずるい」
ついに涙声で話す雫は、本当は壮が好きなままなのではないかと由美は思った。壮のことを記憶から隠しちゃうくらい、無自覚に壮のことを想っていたに違いなかった。
しかし今それを言ったら、余計に雫を混乱させてしまう。
「あたし、どうしたらいいのかわからない。誰も傷つけたくないのに、もう壮君を傷つけていて、今度は翔君を傷つけちゃうと思ったら、何が正解なのかわからない」
「それはね、雫が少し大人になる為に必要なことだよ。それはわかる?」
「あたし、大人になんてなりたくない。いやだ。でもならなきゃいけない? 苦しくてもならなきゃいけない?」
翔の前では昔から雫は大人だった。由美も、背伸びする雫らしくない雫は好きではない。
しかし透子は反対しながらも、例え雫が傷ついても、それは必要なことだからと変わらず奔放なままにさせている。
透子には透子の考えがあるのは由美だってわかっている。なんとなく想像もつく。
「あたし、好きの意味がよくわからないのかもしれない。だってみんな好きだもの」
由美は壮が引っ越した時のことを思い出していた。泣きながら自分の気持ちを曖昧だけれど由美に話す雫は、止めどなく涙をこぼしていた。
好きだと壮に言われてキスをされたことを雫は話しながら、恋が終わったような顔をしていた。
その時の雫は本当の恋がなにかきっと気付いていた。そんな風に思わせる言葉を泣きながらぽつぽつと言っていたことを本人は覚えているのだろうか。ただただ淋しそうで悲しそうで、そして辛そうだった。
壮と遠くに離れてしまうことは仕方のないことだった。
あれは印象的で鮮明に覚えている。あの時雫はくしゃくしゃに泣きながら、壮に居なくなってほしくないけどわがまま言えない、言っちゃいけないのと自分に言い聞かせるように何度も言っていた。
そうして雫は壮のことも壮への気持ちも仕舞い込んで蓋を閉じてしまった。
「好きがどんなことか、時期にわかるよ、きっと」
雫の頭を撫でながら由美はそう言ったものの、雫のことだからなにかわかりやすいきっかけがなければ気付けないとは思う。
「お姉ちゃんは、いろいろなさよならを知っている?」
「もちろん傷つけあったものもあるし、すっきりしたことやそれが互いの優しさだったこともあるよ」
昔から雫に執着していた翔にとって 、きっと一年間なんてあっという間だろう。だからこそ束縛し続けているのだろうかと由美は考えた。
翔の性格を考えると、束縛してるつもりなどないのだろう。独り占めしたいだけなのだろうけれども、結果的にそれが束縛に繋がっていることを彼はわかっているのか由美は疑問に思った。好意は押し付けるものじゃない。
春になったら雫が傷付くことを翔はきっとわかっていない。
翔は雫のそばを離れたくないだろうから、この一年を何よりも大切なものとして互いの心に留めて置きたいのかもしれない。
大切で愛おしい雫を大切に特別なままで居させるために、最後に初めて自分の前で泣かせようとでもしているのだろうか。
由美はうっかりそんな邪推をしてしまった。
忘れないでほしいがために、長年一緒に居られなくなることを、自分の初めてと特別な意味を、雫に与え続けたいのかもしれない。
それが雫を傷付けることになっているときっと理解していないに違いなかった。昔からそうであったように。
由美からすれば雫の話す翔は独りよがりでエゴを押し付けているようにしか思えない。