第6話
ある日、雫はやたらとご機嫌だった。
知る者は恐ろしいものを目にした顔をする。
これは相田ちゃん事件簿である。
何日これが続くのかとはらはらしつつ、時々起こるこれをみんなは相田ちゃん無敵モードと呼ぶ。そしてその後、必ず雫はぶっ倒れるという嫌なおまけも付いてくる。
たまたま席替えで運良く四人ともにまとまった席に当たって喜ぶ雫の無敵モードがじわじわと増している気がする。
毎度やって来る壮が慄きつつも体育を休むように言い聞かせたが、そんな約束を守るほどおてんばしていない。何度も言い聞かせても無駄で、最後は男子に混じってそれは楽しそうにサッカーをしに行ってしまった。
問題は次の体育だった。
小百合が休ませてほしいと体育教師に掛け合ったが、体育教師は昼休みのサッカーを目撃していた。休ませてもらえるはずもなく、結局体育の授業に出た雫はぶっ倒れた。
「歩ける?」
小百合が心配そうに尋ねると、うんと雫は答えた。ふらふらしながら小百合の付き添いで保健室へ向かう。
授業、出なくちゃと青白い顔で言う。残ってる授業はひとつだけ、辛いのを我慢出来ると本人は思っている。
保健医が無理やり雫をベッドに押し込み、保護者に連絡をする為に保健室から出て行った。
「相田ちゃん、頑張ったね」
みんなのおかげだよと言った雫の声がか細い。
雫はちびっこのキャパを超える行動ばかりする。本人は無自覚で、なんでと倒れる度に悩む。いっぱいご飯も食べているしいっぱい寝ているのに、根本的に体力が足りなくなる。
小百合たちが思うには、ずいぶん持った方だ。きっと無意識に我慢していたのだろう。一ヶ月くらいでこれが起こるだろうと実は考えていた。内心気が気ではないこともあった。
元気に笑ったり泣いたり、ころころ表情を変える雫は、豊か過ぎる感受性のために余計な体力も使うのか。
そんなことを考えながら小百合が教室に戻ろうとすると、思いがけないことを保健医から頼まれた。
「相田さん、ちょっとお母さんが迎えに来れないって。代わりに三年の東雲くんに送らせてって頼まれたのだけど、飯田さん知ってる? 」
「はい」
「伝えてくれないかしら?」
「わかりました」
さすが、相田母! と小百合は思った。
雫はといえば、壮が連れて帰ってくれることに関して感情的ななにかなど思いつかず、漠然といつもそうだなと思い出しただけだった。
最後の授業に間に合った小百合はこっそりと光助と浩にメモを回した。翔には雫は帰ったと伝えること、帰りは壮が付き添うことになっていることを書いたメモだ。
三人とも、雫の母も翔よりも壮の方に信頼を置いているのだなと思った。
小百合はいつだったか、雫が翔のことで母に怒られたと泣いたことがあったのを思い出した。この世の終わりのような声で電話してきた雫を慰めるのは大変だった。自分も翔とは一緒に居てほしくないから、それを隠すのも大変だった。
雫はあれだけ翔にべったりなのに、普段友人たちにはあまり翔の話をしない。そんな雫が翔のことで自分に泣き付いてきたことがとても不安で、じいっと話を聴いた。流石に電話口で甘やかすどころではない状況にあった。
その後から空元気に見えていた雫が壮によって自然な笑顔を取り戻した気がする。
しかし、結局、一度重荷となったものはなくならないのだなと今頃わかってしまい、可哀想になった。
ホームルームが終わると、光助が雫の鞄を持って素早く教室から飛び出し、壮のクラスへ行った。
事情を説明すると壮は困った様な表情を浮かべたが、それ以上に心配をしていて、やっぱりこういう時は壮に任せるのが一番だと光助は安心した。
壮は前に不安だと言っていた。やっぱり雫のことをよく理解しているのは翔じゃなくて壮の方だと再認識させられた。
朝の様子で雫が無敵モードに入っていると気付いていた翔は、いつものところで待たずに教室まで彼女を迎えに行った。すると小百合と浩が早く帰らなければならない用事があるみたいだと言った。
雫が自分になにも言わずに帰ってしまうことがあるなんて、翔は思いもしなかった。
淋しそうに、そっかと呟いた翔の姿がいつもと違うなと三人は感じた。嫌な予感がする。昔から束縛が激しい翔が見たことない表情を浮かべている。
三年生ってやっぱり大人っぽいなと思いつつも、根っこの性格が変わっているとは思えない。
「雫ちゃんさ、まだ無敵モードだった?」
「ですね。だから先に帰ったんじゃないですか?」
白々しく小百合が言う。雫の無敵モードには翔ですら恐ろしさを感じるのだ。
毎日一緒に登校して下校するのが当たり前で、今日だって朝一緒に登校してきた。たまに一緒に帰れないだけで、翔は恐ろしいほどに寂しさを感じる。自分の気持ちで精一杯だから、無敵モードの雫がもう倒れたことも知らずに、心細さだけを覚えた。
なにが雫の無敵モードを引き起こしたのかも考えることなどしない。疲れを溜め込んでいたのだというその程度の認識にしか留まらない。
自分が一因であることなど思いも付けなかった。
全て受け入れてくれる雫はちゃんと自分のことしか見ていないと思っているからこそ、今の雫の彼と過ごす時間に対する困惑など知りようもなかった。
「失礼しまーす」
壮が保健室に入ると保健医が可笑しそうに笑った。ああ東雲ってこの子かと、目立つ存在だから自然と顔だけは知っていた。
「先生、相田さんどんな感じ?」
「ただの疲労だと思うけど、なかなか良くならなかったら病院に行くように親御さんに伝えて」
「体力ないのに無茶ばっかするからなあ」
「それにしても、意外だわ。てっきり大野君だっけ? 相田さんのお母さん頼むと思ってたから」
「まー俺も幼馴染なんで」
幼馴染、自分で言っておきながら壮は傷付いた。
幼馴染のままでいるのと恋人でいるのってどっちが得なのだろうか。恋人じゃなきゃ出来ないことが沢山ある。しかし幼馴染のままならそれを理由に、そういう方法で、いつまでも守ってやれるかもしれない。
雫じゃないけど、壮だってどうしたらいいかなどわからない。臆病に考えるから余計にわからない。
「雫、大丈夫? 歩ける?」
優しく声をかけてやる。雫が倒れる度に胸が締め付けられて、不安が襲う。
「大丈夫、歩いて帰れると思う……」
雫は壮の手を借りてベッドから這い下りた。馬鹿力の雫の手にあまり力が入っておらず、とにかく弱々しい。
思うという言い方が不安だが、徒歩通学の自分たちにはそれしか方法がないから仕方ない。
「きつくなったら負ぶってやるから、帰ろう」
「……壮君、ごめんね」
雫の声は弱々しく、ありがとうじゃなくてごめんねと言ったので、壮は少し戸惑ってしまった。
普段の雫なら自分が優しくすると笑顔でありがとうと言う。本当に疲れているだけなのか、実はなにか憂い事があるのではないかと壮は勘ぐった。あまり見せないそんな時の表情をしている。
奔放なくせに、雫が常に周りへ気遣いをしていることなどわかっている。
その憂いが翔のせいなのか、他のなにかなのかはわからないけども、一番彼女に苦しい思いをさせているのは自分かもしれない。
苦しいのは自分も同じだ。嫌われているかもしれなくても、そばに行くと笑ってくれる雫に甘えていることが、自己嫌悪として時々襲ってくる。
翔の隣で微笑んでいる雫と、自分の横で笑ったりわがままを言ったりする雫を比べては、どちらが雫の為に良いのかと悩む。
恋人の顔で翔に微笑む顔と自分に向ける笑顔は、恋人と幼馴染みという線引きと少し違うように壮は感じる。
翔はきっと、昔からこれが嫌だったろうと思う。他のみんなに見せる顔と、自分たちに見せる顔は全然違うことを壮は知っている。
今はきっと他意などないのだろう。けれども引っ越す時、泣いた雫がそれまでどういう意味で自分に笑顔を向けていたのか知った。
壮は翔と顔を合わす度に、本当は再会などしない方がよかったのかもしれないとまで思う。雫が翔に恋をしているのならば、会うべきじゃないと一年間隠れていたのに、やっぱり無理だった。
翔が自分に押し付けてきたエゴはきちんと翔なりの真剣さだとわかっているけど、自分だって真剣だ。
自分の気持ちと行動はごちゃごちゃしている。
どんな形であってもいいから、雫の中にちゃんと自分が居てくれたら嬉しい。
はっきりしていることはそれだけだ。
壮はいつだって雫のことになると無性に不安になる。好きだと言って困らせたことではなく、ただ単純に屈託のない雫がいつも無理して笑っているんじゃないかと不安になる。相田ちゃんや雫ちゃんを演じ続けないとダメなんじゃないかと、無意識に無理をしているのではないかと感じる時がある。
もしくは、少しずつ変わっていく自分に戸惑っているのかもしれない。
そう考えると、壮は随分と自分も変わったのかなと思う。これ以上困らせないように慎重になっている自分にも時々驚く。
二つ分の鞄を持ち、よろよろ歩く雫を支えながら学校を後にした。
学校を出るまでの間、若干周囲の目が痛かったが、それ以上に雫の友人が心配して声をかけてくれる。
相変わらずみんなに愛されてるなあとしみじみ思う。
「あのね、壮君……」
辛そうに声を出した雫を翔は制した。
「無理しない方がいいよ」
今度はありがとうと雫は言った。
「それより、家まで持ちそう?」
「……わからない」
ふらふらして頭も働かないし、本当にわからなかった。小百合が去り際に、翔に伝えておくと言っていた気がする。
結局、雫は途中でふわっと蹲ると動けなくなった。屈んだ壮におんぶして帰ってやるからと言われて、素直に雫は壮に背負われた。
随分軽いなと壮は思った。たまに出す馬鹿力は一体どこから出るのか不思議だ。
雫は昔からとにかく破天荒で自分が無理してることなど全く気づかない。はらはらしているこちらのことなどつゆ知らずに。
壮の背中は大きかった。壮も自分より大人になってしまったんだなと、雫は働かない頭の中で最近の翔と思わず重ねた。
朦朧としながら、雫は悲しい夢を見ている気分になった。
力なく壮の背中に身体を預けながら、雫は昔のことを少し思い出した。
今日学校休めと壮に言われた少しした後、いつも倒れていた気がする。ぐったりして透子の迎えを待ち、呆れられながら帰路に着く間抜けな自分にいつも落ち込む。
雫は中学生になってもこんな頼りない自分が情けなくなった。
こういう時に壮に頼って、壮は相変わらず助けてくれる。壮はなにも言わないけれど、本当にそれでいいのだろうか。壮がこうさせてくれるうちは、そうしてたい。壮といるとごちゃごちゃするくせに、そばに居てほしくて、もう居なくなっちゃったら嫌だ。
壮は人に頼られることに慣れているだけだった。けれど雫にしてみると、そんな壮はとても大きく大人に感じた。
本人はちょっと疲れただけだと言うが、実際には二、三日寝込むほど雫は溜め込む癖がある。
ついつい壮は自分を棚に上げて、結局は翔のせいなのではないかと考えてしまい、そう思うと腹が立つ。
雫は自分の前で泣くし笑うし、 自然体に見えるのはきっと気のせいじゃない。
翔といる時の雫はそうじゃない。まるで違う。
別に無理をしているわけではないのかもしれないけれども、翔が絶対だと思い込んでいる雫は彼が望むように振る舞い続けている。
それは自然体とは少し違う気がした。
昔から翔と壮は性質が真逆だったし、翔が羨ましいと思うことも沢山あった。翔は常に大人びていて、どこに居てもガキ大将じみていたのは自分だけだ。翔は雫に関すること以外ならば昔から爽やかで周囲に優しい。今現在も変わらずそうであるように。
引っ越した時から、壮はやんちゃをするのをやめた。やんちゃをしようにも相手が居ない。
会えなかった時、いつだって雫を思っていた。バカなことしてないかな、無理してないかな、泣いてないかな。
いつだって翔と同じように、愛らしくておてんばで、たまに変わった言動をする雫が恋しくて、いつでも会える翔へ嫉妬したりもした。
けれども、雫の笑顔を思い浮かべるとすっと和んで心が笑う。
別れる少し前からの雫はそばでじっと支えてくれて、だから離れていても雫を思うと笑っていられた。
ガキ大将をやめて少しだけ変わった自分は、思いの外臆病のようだ。やっぱり直ぐに会いに行くべきだった、戻って来た時に。当時ならまだ雫と翔は恋人ではなかった。
しかし雫へ前に言った通りで、翔の横で昔と変わらない表情で笑う彼女に対して自分の感情を抑えることが出来るか心配だった。雫を傷付けてしまったらどうしようと考えると怖かった。
嫌われてもいいと言ったものの、大切だからずっとそばに居たい。かけがえのなく心の支えであり続ける雫を、自分なら何年もいなくなる翔よりも、これからはずっとそばで守ってあげられる。
でもこれって、自分のエゴだよな。背中で朦朧しているだろう雫のことを思いながら壮は自分に呆れた。
「悪かったわね」
そう言った透子は悪かったと思っていないに違いない。
「役得?」
そんな風に言ってみて、壮は落ち込んだ。
「ベッドまで連れてって。もう制服のまんまでいいわ。ちゃんと寝てくれるまで壮、見張りね」
やっぱり軽いなと思いながら、雫をベッドへ下ろして布団をかけてやる。
その時、はっきりしない雫の目が縋るように壮に映った。そうして力がはいらない手で壮の制服を掴んだ。
「寝るまでいてやるって」
小さくこくりと頷いた雫は安心して壮の制服を離した。
壮はどうにか起きていた雫がちゃんと寝るのを見届けると、髪をひと撫でして部屋を出た。
「不安?」
そう呼びかけた透子に、素直に壮は言った。
「いつだって俺は不安だよ」
「あんた。本当、あの子が好きなのね」
「おばさんはさ、なんでこんなに俺のこと信頼してくれるの?」
「あんたって、意地悪したりするけど世話焼きだし生真面目じゃない。それに……わかってると思うけど」
「翔とのこと?」
「翔はあたし、反対なのよ。あの子は無意識にいつも雫を傷付けてる気がするの」
透子の言いたいことはわかる。
翔の本性は独占欲の塊だから、とことん雫を欲しているに違いない。なにをどこまでしたのかなど想像はしたくないし、知りたくもないけれど。
自分は一年我慢したし、例えば自分が翔の立場にあっても束縛するつもりなどない。雫には雫らしく居てほしいから、必要ならばこれからだって幾らでも我慢が出来る。
最近の翔はそのうち自制が効かなくなるのではないかと思ってしまう。
「溺愛と束縛は違うわ」
壮が考えていたことを見透かした透子が言った。
「壮だから教えてあげるわ。あのふたり、たぶん幼い頃にあたしには言えないような秘密作ってる」
引っ越す前、最後に翔と話した時に雫とキスをしたことを自慢したら、俺の方が先だと馬鹿にされた。いつまで遡った先かは考えたことがなかった。
その時、翔は言った。雫の初めては全部俺がもらうんだと。
「あいつ、怖いよ。雫が絡むとさ時々言動がおかしくない?」
「爽やかで優しい振りして、なに思ってるのかしらね。あたしはあんたの味方してあげるわ、壮」
「それはどうも。俺、頑張らなきゃなあ……」
頑張らなきゃと自分に言い聞かせたくても本当は怖い。
最近は泣かしてしまった時、その後に上手く笑わせられているのかわからなくて不安ばかりが募る。
もし、自分のせいで翔が雫を傷つけるようなことをしたら嫌だ。
自分が誰になにをされようと構わないが、雫が誰かに傷付けられるのは見たくない。
結局のところは自分も翔と変わらないのかもしれない。そう思うと自己嫌悪に陥った。
「大人になったけど、臆病にもなっちゃったわねー」
透子が馬鹿にしたように高笑いした。
翌日、欠席した雫を心配した翔が訪れるとしれっと透子は追い返した。
ちょうど雫の様子を見に行こうとしていた壮は、すれ違いざまに翔に言われた。
「会わせてもらえないと思うよ」
そう言った翔の表情はひどく冷たかった。
雫以外の身内に構わな過ぎるそれはどうかと思う。もう自分たちは幼くはないのだ。再会した翔のそれは拍車がかかってしまっている。
翔は変わりたくないのかもしれない。それが雫のためだと思い込んでいるような気がした。
昔、壮と翔はふたり揃って雫や雫ちゃんと呼ぼうとした雫の友達に冷ややかなことを言って脅していた。もちろん雫はそんなことつゆも知らなければ、翔までそんなことをしていたとは知らない。
チャイムを鳴らすと壮は追い払われず招かれた。
「そばに居てあげると良いわ」
雫の部屋へ入る許可が下り、ノックをして部屋に入ると少しだけ雫は回復しているように見えた。
表情がなんだか曇っている。
「……壮君」
そう言って少し雫が手を伸ばしたから、手を握ってやる。
こういう時、壮がとても優しいのを雫は知っていた。
こういう時、雫が自分を頼りにすることを壮は知っていた。
雫は普段、幼馴染の中でもあまり壮を頼りたがらない。甘えたりわがままなら幾らでも言ってくるが。
「……さよならってどうしたらいいの?」
そのか細く発せられた言葉に、ベッドの端に腰を掛けていた壮はしばらくなにも言えなくなった。
「傷つけるの、嫌……」
翔のことだろうとは推測がつく。どうして今になってそんなことを言い出したのかはわからない。
あまりにも怖がる雫の様子は怯えているようだった。
「素直にお別れしたいならそう言えば良いんじゃない? 嘘って方便だけど、そっちの方が傷付くと俺は思うな」
ただ、さよならを言いたい相手が翔ならば、そう素直に別れることを承諾しない気がする。そのせいで雫が傷付いたら、あいつはどうするのだろうか。
別れたくても別れさせてもらえないって残酷だと、あり得なくもない想像をする。
別れたい理由があっても、翔はそういう残酷なことが得意だし、好きだ。相手が雫なら殊更だ。