第5話
中間テストの時期が来た。仲良し四人は恐ろしいほどに殺伐としていた。というのも、全員が大の負けず嫌いだった。
一番良い成績を取るのはきっと雫だけれども、愛でるのと成績とでは話が違う。譲りたくないものは譲りたくない。
お昼休み以外の休み時間は殺伐と黙々と、話もせず中間テストの勉強をする。わからないところがあっても質問をし合うことはないし、されたところできっと教えてあげようともしない。そんな風に見えるほどに殺伐としているのだ。
昼休みにやって来るのが当たり前になっている壮から、もう雫は逃げたりしない。
昔当たり前にそばにいた壮がまたそばにいるのは、結局心地良くて楽しい。壮はやっぱり意地悪なことばかり言う。それがどうしてか嬉しくて、妙なわがままばかり壮に言っては困らせていた。
昼休みに仲の好い他のクラスメイトも混ざって、楽しい時間が繰り広げられる。
普段の殺伐に対してなにか言ってあげてと雫たちのクラスメイトに頼まれた壮が窘めても、ガチンコ勝負だと言い張り、まるで効かない。
その殺伐さと無我夢中で授業の合間にも勉強をしている四人はいつもと違い過ぎて、余計に異様に映る。
一度翔が昼休みに雫の顔を見に行くと、楽しそうに壮と話す雫が見えた。あんな自分は隠し通そうと思っていたのに見せてしまって、壮と居る雫を見たらまたそんな自分が顔を出した。冷ややかな顔をしている自分に気付いた翔は、きっと雫の手を引いて連れ去る自信があった。
また自分を押し付けそうで怖い。
雫に見せたことのない自分の顔を彼女が全て知ったら、間違いなく幻滅されると思う。
本当の自分は晒したくない。
その時、遠くから見つめただけで声を掛けずに去った。
ある日の昼休み、いつものように雫のクラスへ来ていた壮が戻り際に、こそっと雫の耳元で囁いた。
「あのさ、テストが終わったら、少しだけ俺の話聞いて?」
壮のお願いを断る理由が見つからない雫は約束した。
結果的に中間テストの勝者は雫だった。破天荒が学年一位を取ったことにクラスメートは驚いた。二位が浩、三位が小百合と同率で光助。あの殺伐さに納得しつつも慄いた。
その結果におてんば変人少女の周囲の見方が少し変わった。
「お前らがこんな頭がいいって知らなかったわ」
やっかみでなくて尊敬に値するけれども、テスト前のあの殺伐さはやっぱりどうかとみんな思う。
放課後、雫は壮の話を聞くために翔の誘いをどうにか断った。あの時と同じ、雫が先に帰ってほしいとなかなか言えないでいるうちに、翔は優しい微笑みを浮かべると「先に帰るね」と去っていった。寂しそうな余韻を残して。
嘘をつくのは嫌だった。嘘をつくのは嫌いだ。けれども言えない、壮と約束をしているなんて。だから切り出せなかった。
雫と壮は校門を出て一つ目の角で落ち合う約束をしていた。のんびりと歩いていく壮の背中をぼんやりと雫が付いていく。
「壮君、話したいことってなあに?」
自分たちの家に着く少し手前で雫が尋ねた。
「うん、少し寄り道してもいい?」
「わかった」
あの時と同じ、近所の外れにある公園へ行き、ベンチへ隣り合って腰を下ろす。
「あのさ、俺が言うと雫は傷付くかもしれないけど、翔と別れた方がいいよ。別に俺のものになってとかそういうのじゃなくて。本当は俺の口から言うのはどうかと思うけど、あいつ、卒業したらいなくなるんだよ」
青天の霹靂だった。
また誰かが居なくなる。また居なくなるなんて、もう嫌だ。
今度はどうやって自分をやり過ごすのだろう。自分らしく居たくても、自分らしく居られる自信が持てない。
「………どういう意味」
みなまで言わない透子がやめなさいと言った理由、それがどういう訳か知っても、わけがわからない。
きっと翔は本当のことを言うつもりがないのだろうと壮はなんとなく気付いていた。
翔は一年経って、春が来て、自分がしばらく居なくなっても何も変わらないと思っている。変わらず雫は自分を見つめてくれて、絶対に待ち続けてくれると思っている。翔にとって、しばらく自身が居なくなることは些細なことなのだ。一緒に過ごしてきた年月に比べれば、これから先ずっと共に過ごしていく未来と比べれば、まるで些細だ。
「泣いてもいいよ」
壮はそう言ったけれども、雫は泣かなかった。強がっているのかなと壮は思った。
漠然と思った。遠くに感じはじめている翔は本当に遠くに行ってしまうのだ。悲しいのかわからない、それがどうしてなのかもわからなかった。
「俺が知ってること教えてあげる。透子おばさんもご近所もだいたい知ってる。あいつね、卒業したら留学するんだよ。少し前に言われたんだ。だから邪魔するなって」
翔らしいと、その時に壮は思った。少し前というよりも、正確には壮がこちらへ戻って来てすぐのことだ。
翔にとってはだたの牽制なのかもしれないけれども、悔しいが雫には笑顔で居てほしい。だから彼女の前に姿を見せることを躊躇ってしまった。
鉄平にも透子にも言われていた、さっさとしろと。
しかし壮は、前に進もうと思うほどにさっさとなんて出来なかった。
雫が翔の横で笑い続けていることを知っていたし、どんな形であれ雫にそのまま笑っていてほしいから、戻って来たことを隠し通して今まできた。
もちろん理由はそれだけではない。
ただ単純に怖かった。けれどその怖さよりも、もう他が限界だ。そのうちに雫が悲しむ顔は見たくない。だったら泣かれたとしても教えてしまうことを選んでみた。
「大学卒業するまでだって。少なくとも7年は離れ離れなんだよ。耐えられる? 顔も見られないんだ」
自分の口から話すのは意地悪なのはわかっている。
泣かせたいわけじゃない。どうか泣かないでほしいけれど、自分の横で泣く雫は自分だけの特権のようなものでもある。
翔が時々言う一年間しかの意味に気付かなかった鈍感な自分を雫は恥じた。
「あいつ。すごく真剣。離れる時、きっと雫はものすごく傷付く」
傷付くってどんなだろう、知りたくなどない。
「あいつだって誠実だし、その分、雫は傷付くと思う。このままを続けるかは雫次第だけど」
「俺のものなれって、もう言わないのね」
まるで俺のものになれと言われたいように聞こえて、壮は切なくなった。雫はそんなつもりはないのだろう。
「俺のものになるかわからないから、今だけ、少しだけ甘えさせてくれない? 」
雫が小さく「うん」というと、壮が切ない目で雫を見つめた。そうして唇を奪った。奪っただけじゃなくて、すぐに舌を絡ませてきた。今だけと言われたから、雫は抵抗しなかった。
翔とするキスとは同じなのに全然違った。
昔に一度だけ、さよならする時にキスをしたことを思い出した。すごく優しくて淋しくて悲しい壮からもらったキスを今の今まで忘れていた。
今だって、壮の深い大人のキスはとても優しい。
だけれどやっぱり混乱している。頭の中がごちゃごちゃする。雫はよくわからない不安に襲われた。壮まで遠くに行ってしまうのかと思ってしまった自分に気付いてはいないけれど、いつのまにか雫は壮の服をぎゅっと握っていた。
もう自分は居なくなったりしない。せめてそれだけは伝えたくて、壮は雫へキスを施したつもりだった。
そばで泣いたり笑ったりする雫をずっと見ていたい。それさえ叶えば、自分の想いは叶わなくてもいい。それもわかってほしい。
ただの自己満足なのは知っている。しかしこうすれば、しばらくは雫を困らせない自分で居られるような気がした。
きっとこれからも結局は昔のように泣かせて笑わせて、そんな日々が続いていく。それだけでもいい。
昔から壮はそんな風にして雫のそばに居た。そんな風に思わせるのが雫で、だからそんな風に自分は居られる。
そばに居られないことがもどかしかった時間をもう終わりだ。
「なんか良いことでもあった?」
いつもより少し遅く帰宅した雫に透子が問うた。
悲しいことがあったと言いながら笑っている雫の姿に、相変わらず訳の分からない娘だと透子は思う。どうせ壮あたりがまた何かしたのだろうなとは察しは付く。
壮君が意地悪した! 壮君は意地悪だ!
そう訴えながら壮に泣かされて帰ってくる雫は、昔からいつも嬉しそうな顔をしていた。どうせまた壮にわがまま言って困らせてきたんだなといつも呆れるのだ。
全くもって雫も雫だが、壮も壮だなと透子は可笑しくなった。
「あんたってほーんとおバカさんよねぇ」
「お母さんひどい!」
なにがあったかなんて透子はてんでどうでもいい。雫が泣いたり笑ったりしていてくれればそれでいい。
最近は少しお行儀が良かったから壮様々かななどと透子は思った。
雫は翔から嬉しいことをもらった時と壮から嬉しいことをもらった時とでは全然違う顔をする。まるでわかりやすい。もちろん他の誰かからもらった嬉しいことに対しては、また全然違う顔をする。
あのふたりが昔から雫の特別であったことは決して閉鎖的な感情ではない。雫が、あのふたりを含めた、あまねく見える自分の世界の全てが大好きだということを透子は知っている。だからその特別の意味が悪いことだとは思っていない。
翔の雫に対するそれは、雫の特別とは違う。狭い世界に留まり続けようと必死で外を蔑ろにする。そんな翔を変える為に、翔の両親が中学を卒業したら彼を留学させると決めたのはもう随分前のことだ。
壮は自分の環境がどんなに素晴らしいかを知っていて、たまたまそこに雫も含まれているだけだ。
娘を任せるなら壮の方が良い。息子のように可愛がってきた壮への色目も入っているかもしれないけれども。