第4話
雫の顔に小百合たちは沈黙した。なにかあったのだろうが、翔絡みではない気がする。翔じゃないとすれば、想像がつく。三人が想像している人物だとしたら、下手をすると自分たちも地獄をみる羽目になる。
そもそも、彼がおとなしくしていたのが意外だった。
ガキ大将が帰って来ていることは知っていた。
壮は目立つし、あんなののファンも多い。明るく活発で分け隔てなく接するあの壮が兄貴風は吹かせていない。まず、そこが驚きだ。そして、あれこれ噂もあるが、それを野放しにしているのも意外だった。
壮の噂は、彼を知っている者からすると絶対あり得ないと思うようなお涙頂戴ものが多い。
複雑な家庭事情を抱えているとか、病弱な恋人がいて甲斐甲斐しくお見舞いに通っているとか、はたまた前の学校で付き合っていた彼女が自殺を図ったとか、この辺ならまだましなのだが、心中に失敗したという謎の噂まである。
情報好きの光助は耳にするなり色々と探ってみたが、学校七不思議の如く火の出所も何もない。どうやってその煙が上がってしまったのか全く謎のまま、恐ろしくて本人に突撃する勇気もない。
事実、壮の家は父を亡くしており母子家庭だが別に複雑な事情は特になく、二年間ここを離れていた間に彼が暮らしていたところは病弱な彼女をお見舞いに行ける距離でもなく、彼が変わってさえいなければ、彼の想い人は雫のまま変わっていないと光助は思っている。浩にそれを言ったら「そうだろうね」と笑っていたから、きっとこの推測は間違っていないと光助は思っている。
小百合は壮を怖がりながらも時々壮を負かす度量があり、光助は雫と共に壮に叱られて、子供の頃から物腰が落ち着いていた浩のことを壮は気に入っている。
とはいえ、壮は彼の子供の頃を知るものには、とにかく怖いイメージが植え付けられている。トラウマにしたいくらい怖かった。
翔ではないが、壮も雫のことを溺愛している。しかし壮は意地悪でもあるが雫に対して恐ろしく厳しい。
他に対してはもっと恐ろしいが、面倒見の良さは折り紙付きだ。
相田ちゃんの周りって賑やかな人が多いなと彼らは自分たちを棚に上げて苦笑う。
「珍しいね、髪下ろしてる」
光助が気づいて指摘すると、雫が青ざめた。これは事件簿に加えたいけど加えてはいけないやつな気がした。
「……壮君、嫌い」
ぽつりとそんな返答が返ってきて、間違いないなと三人は思った。やっとあの人は動き出したようだけれど、もう遅い気もする。
「俺がなに?」
教室の後ろにあるロッカーの前で立ち話をしていたら、ご機嫌な壮の声が聞こえて、雫は思わずぎゃあと叫んだ。
逃げるのは早い。ホップステップジャンプと人様の椅子に飛び乗り、その向こうの机に飛び乗り、換気で全開に開いていた窓越しにベランダへ飛び込んでいった。
雫はうずくまり頭を抱えた。
やっぱり壮が関わると頭の中がごちゃごちゃになって嫌だ。泣きたいけど授業が始まっちゃうから今泣いたらダメだと我慢する。
壮が教室に入って来た時、若干の女子たちは浮き足立ったが、雫絡みだとわかるとひっそりと陰口も始まった。
雫は気付いてない。しかし流石に三人は気付いている。
雫は気付いていても、きっと壮のことで頭がいっぱいだ。気にする余裕などないだろうし、気にするような性質でもない。
他人の陰口ならともかく、どこまでも自分は後回しにする。
ともかく今は壮が問題だった。
どうしてわざわざこの教室に来るのか。壮は昨日あんなことをして、あんなことを言って自分を泣かせたくせに、きっとちっとも悪いと思ってないに違いないと雫は思う。
しかしよく考えれば、壮はなにも悪くない気もする。
もうよくわからない。
壮は随分と大人びてしまったが、何も変わっていなかった。楽しそうに草太が壮と遊んでいた。あの後、なんにもなかったように透子にからかわれながら相田家のみんなと一緒に夕食を囲み、帰り際、雫の頭をぽんと撫でて帰っていった。
ぎゃあと叫んでしまったのは条件反射に近い。しかし、ぎゃあと叫びたくなるくらい雫は混乱していた。
逃げ出す以外に思い付かなかったし、一晩明けてみると心の中のごちゃごちゃが増していて、それに加えてもやもやしたものも生まれてしまった。
「あー逃げられたー」
壮がごちると、ご愁傷様ですと残された三人の声が重なる。
言っちゃってから三人称は同時に青ざめた。壮の浮かべた爽やかな笑顔が怖い。含みがあるに違いないと邪推してしまう。
恐る恐る浩が聞いた。
「先輩、なにしたんですか?」
すると随分素直に、とても小声で壮は少しだけ明かした。
教室に入って声をかけた瞬間、雫がどんな風に周りに映っているか、なんとなく壮は理解していた。
話を聞くと、小百合も光助も浩も構わず白い目を浮かべた。頭いいのに相変わらず馬鹿なことばかり思い付くなと呆れ、雫を泣かしたことが恨めしい。
その視線を少し痛く感じながらも、壮は言った。
「別にいいよ、俺。もうこれでいいや」
少し壮の色々を知ってる三人は少し悲しくなってしまった。
そんなのよくない。別に今の壮や彼の思うところを否定しようとは思わないけれど、そんなのは壮らしくない。
「先輩、頑張ってください。あたしは、先輩の方が良いです」
代表するように小百合がきっぱりと言った。
壮が困ったような表情を浮かべたが、少なくとも小百合はこの気持ちを手放す気がない。むしろ、どうして隠れていたのか問いただしたい。
壮が帰って来ていたことを知った時、小百合は壮のところに押しかけようとしたけれど、浩にどうしてか止められた。
雫の感受性の豊かさを思いっきり引き出せるのは絶対に翔じゃなくて壮の方だと思う。
本人には感情を抑えている自覚がないけれど、翔といる時の雫は感情が平坦過ぎる。時々不安になる。そしてそんな雫を見続けていくのは少し心臓に悪い。
「で? お前らは誰の味方だ」
壮が尋ねると、当たり前のような返事が返って来た。
「もちろん、相田ちゃんですよー」
ぴたりと声を揃えて答えた三人へ返ってきた返事は意外なものだった。
「よろしく頼むわ。俺、色々と不安なんだ。あいつのこと」
やっぱり壮の方が良い。翔はそんなこと気にしない。雫が自分のことだけを見ていればよくて、雫の事情など構わない。
「昼休みまた来るわー」
壮が去って行ったことを知らせるために小百合はベランダへ顔を出した。泣きそうな顔で小百合を見上げた雫が可愛かった。
おてんば変人少女は壮が絡むと実は殊更可愛くなる。
翔といる時の雫は大人びていて普段よりもおとなしく、おてんば変人の特徴的な部分が形を潜む。
昼休みに予告通り壮がやって来たが、その時雫は既に教室に居なかった。
「一足遅かったみたいですよ、先輩」
「あと、多分ですけど、あの人怒ってますよ」
光助と浩が順々に教えた。
雫は昼休み早々に翔が呼びに来てお弁当を持って消えた。
「相田ちゃんてなんであそこまで大野先輩に従順なのか先輩知ってます?」
今まであまり気にしていなかったなと思いながら光助は壮に訪ねてみた。
「幼稚園の頃にはもう既にああいう図式が出来上がってたからなあ。その頃からこっそり二人でいること、多かった気もする」
「あの溺愛っぷりと翔先輩の性格でいうと、まだまだ先輩に勝算あると思うんですよねー」
小百合がそう言うと壮は伏し目がちになり切なそうな表情を浮かべた。
「どうなんだろうな……」
浩は壮のこの顔を昔にも見たことある。
それは諦めているようで諦めていない時の顔だ。壮がこの顔をする時、それはいつも雫に関わることだった。雫のことに関して、壮がとても良い意味で諦めが悪いことを浩は知っている。
「あの人って冷たいと思いません?」
久しぶりに見た壮の切なそうな顔に、浩は思わず言った。
「……あいつは残酷なのが好きなんだよ」
壮は言ってしまってから、自分の今の言い方が物凄く冷ややかだったことに気付いた。というのも、揃って小百合たちが慄いたからだ。
「先輩は先輩のままでいいんじゃないですか」
慄いた挙句にくすくす笑いながら浩が言った。
壮は面を食らった。この三人からこんな風に背中を押される日が来るとは思っていなった。
壮が壮らしく在ってくれないと、本当の雫の行き場が無くなる。行き場を失くしそうになっていた雫の目の前に突然現れたのは、実は狙っていたんじゃないかと三人とも思いたい。
「あーでも、先輩。あんまり好き好きオーラは控えた方が良いですよ?」
小百合が釘を刺すと、壮が渋い顔をした。
「わかってるよ、それは。むしろそれ、あいつに言えよ」
「わかってなさそうですね、確かに」
光助のその嘆きに釣られて翔の浮かれようを思い浮かべると、揃って溜息を吐いた。
雫と翔はいつも放課後を過ごす階段、いつもキスをするその場所に居た。
他愛ない話をしながら昼食を摂っているが、昼休みにこうして過ごすことは初めてだった。
雫はなんとなくだけれども、なにかお話があるんだろうなと思っていた。しかし、翔はいつもと変わらない様子だ。
思い過ごしかなと思った頃、雫は翔の一言にとても困る羽目になった。
「ねえ、なんで今日、髪の毛下ろしてるの?」
そう言って翔は肩よりも少しだけ長い雫の髪の毛に手を通して梳いた。
「気分転換」
言えないから、雫はそう返した。
「いやだ。雫ちゃんは髪下ろしてる方が似合う。いっそう可愛いから他の奴に見せたくない」
こんな風に翔が雫自身に対して直球で嫉妬を露わに伝えるのは初めてに等しいかもしれない。少なくとも、雫はこんな翔を見たことがない。
翔自身は言わないだけでいつだって嫉妬の塊を抱えている。溺愛して甘やかすのは、それが自分の特権だと思いたい独占欲からだ。
「昨日、壮となにしてたの?」
雫は言葉に詰まった。どうして翔が知っているのだろうか。
答えは面白がった透子が意地悪くわざわざ電話して翔に教えたからだ。
翔がいつもとなにか違う気がしたが、なにが違うのかまで雫は見つけられなかった。
「……思い出話、してたの」
「雫ちゃんと壮が?」
いつだって自分たちのそばには壮も居たはずなのに、まるで居なかったような言い方を翔はした。
「壮君、昔とちょっと違う。変わったね」
完全にその言葉は墓穴だった。翔の嫉妬心を煽ってしまった。
自分だって変わったつもりだし、壮が変わったことは翔だってわかっている。それが前から気に食わなかったが、壮を変えたのが雫だと思うといっそう腹が立つ。
雫の口から壮の話など聞きたくない。話を振ったのは自分だけれども。
きっとこんな場所にはいつものように誰も来ない、そう考えた翔は苛立ちを隠すために雫の頭を引き寄せて、有無を言わせずキスをした。
今日の翔はいつもとなにかが違う。触れ方も違う気がした。いつもより少し激しい気もするけど、嫌ではない。
しかし、何かが変な気もする。
吐息が漏れたことに雫は気づいていなかったし、その理由も知らない。
翔の手は雫の胸に触れていて、翔のキスが嫌いじゃない雫は翔のキスを夢中になって受け止めていたから、いつもと少し違うこと以外一切気づかなかった。
翔は、雫が感じていることに気付いていた。触れるだけでなく、我慢がならずに少しだけ胸を揉んでしまった。
一年の猶予、雫を自分のものに早くしたい。もっと雫を自分のものにしたい。
雫はきっと自分をずっと好きで居てくれる。だから早く、もっと早く、雫をもっと自分でいっぱいにしたい。
壮のせいでそんな気持ちが一気に膨らんでしまった。
雫から壮を消し去りたいと渦巻いていく気持ちは嫉妬から来るものなのかよくわからない。雫のそばに壮が居ることがとにかく嫌だった。
このままじゃ自分の欲望が止められなくなると思った翔は、一度ぎゅっと雫を抱きしめて解放した。
「ごめん。先に行くね」
そう言って去って行く翔の背中を見つめながら、雫は泣きたくなった。
雫は翔の前で一度も泣いたことがない。翔はこのままでは泣かせてしまいそうで怖くなった。雫が知らない自分を晒せば彼女は泣くに違いないと思う。
一年は長いようで短い。一緒に居られるのもあっという間だ、きっと。
一生、雫のそばに居たい、そう考えれば一年なんてやっぱり短いものでしかない。
翔は一生そばに居られると思い込んでいる。一生側で雫を守るのは自分で、壮ではない。
そんな風に思っているのに、焦燥感に駆られ、ついつい衝動的に動いてしまうなんて。流石に自己嫌悪に陥らずにはいられなかった。こんな自分を雫にだけは見せたくない。
雫を泣かせたくなどないし、いつまでも隣で微笑んでいてほしい。
翔が望むものはそれだけだった。
その為にもっともっと雫を自分でいっぱいにしたいのだった。自分だけしか見えなくなるように。自分のエゴがエゴでなくなるように。
昼休みはまだ半分近く残っている。翔は二年生のクラスが並ぶ階へ来ていた。雫や壮と同じ幼馴染である双子の工藤猛と友理のもとに向かった。
「あら珍しい」
「おや、珍しい」
工藤双子には、翔が傷付いた顔をしていることなどすぐにわかる。
翔と壮は何故かこのふたりに頭が上がらなく、彼らには謎のパワーバランスがある。
「ちょっとお願いがあるんだけど……雫ちゃんのとこに行ってほしい」
きっとまだ雫はあそこにいる。そんな気がした。
場所を伝え三年生の教室へ繋がる階段の方へ向かっていく翔の背中を少し見つめた後、猛と友理は顔を見合わせた。
互いに深刻な表情が浮かんでいる。
雫の元に2人が顔を出すと、まるで彼女らしくない表情をしていた。困惑に染まった顔を歪ませている。
「何かあった? 翔と」
猛が尋ねると、雫は悲しそうに伝えづらいことを言葉にした。
「今日の、翔君、なんだかいつもと違って……」
どうしたらいいのかわからなくなったと言った。
「この間、泣けばどうにでもなると思ったら思い違いだってお兄ちゃんに言われたの」
雫を挟んで二人も階段に腰を下ろた。
「中学三年生て大人だね。あたしはまだ一年生だからわからないことがたくさんある」
「雫、いいこと教えてあげる」
そう言って猛は雫の頭を撫でた。それを友理が引き継いで話しはじめた。
「あいつはね、実は嫉妬深いんだよ。我慢できなくて、でも雫のこと傷付けたくないなの。雫は翔の前で泣いたことないでしょ? 感情的にもならない。だから安心し過ぎなのよ。でもね、翔だって男の子だから仕方ないんだよ」
「……わからない、あたし」
「そのうちきっとわかるよ」
猛はそんな風に慰めるしかなかった。
慰めたけれど二人は知っていることがある。
雫が思い切り傷つく時はもうそう先ではないのだ。一年なんてあっという間に決まっている。
そう思うと、猛は雫にしてあげられることが見つからず、友理は雫を抱きしめてあげるくらいしか出来ない。
あんなに傷付いた顔をするくらいなら、素直に自分を出せばいいと翔に対していつも思うが、あれが翔なのだから仕方のないことだし、彼の個性でもあるから否定などしてはいけないところでもある。
どうにもしてあげられないから、歯痒くて、時々痛くて目を逸らしたくなる。