第3話
「おはよう、雫ちゃん」
マンションの脇で待っていた翔がいつものように雫に声をかけて、彼女の頭に手を伸ばす。
毎日雫は精一杯の笑顔でおはようと返した。
透子の言ったことが気になるけれども、怖くてなにも聞けないまま暫く経ってしまい、どんどん翔が遠くに感じはじめていた。
一緒にいるのにどこか遠い。付き合っているのに恋人であるという実感が持ち難いのは、翔が雫に彼女が欲しい言葉をあげていなかったからだ。
今の雫が欲しいのは珍しく言葉だった。指先の感覚と反射神経で生きているような人間なのに、どうしてかこのことに関して、雫は具体的な行動などではなく言葉を欲している。
しかし雫本人もそのことに気付いていなければ、翔も気付いていない。
手を繋いで登下校し、学校の付近では先生の言いつけを守っている。
交わすキスがどんどん深いものになっていく。その度に不思議な気持ちになる。不思議だけれど嫌じゃない。嫌じゃないけれど、どきどきしない。どきどきしないけれど、戸惑うことはたまにある。戸惑うけれども、安心もした。
透子のあの時の言葉がずっと頭を占めている。
透子が知っていて自分が知らない翔の秘密は知りたい、けれども知りたくない。一緒に居られるなら知らない方が良いと思い込んだ。
今だって少しだけ遠いのに、知ったらもっと遠くに行っちゃう、そんな気がした。
「相田ちゃーん、最近元気ないわね?」
小百合の問いかけに雫は少し困ったように笑った。
「はい、飴ちゃんあげるから元気出しなさい」
「ふふ、あたしの好きなやつだ!」
友人達は雫が落ち込んでいる時、いつもに増して彼女を甘やかす。
大抵の雫は落ち込んでいる自覚がなく、こうされて初めて自分が落ち込んでいることに気付く。今回はさすがに落ち込んでいる自覚が大いにあった。
理由は聞かない優しさを持っている友人が好きだ。三人とも何も聞かない。
季節は梅雨にさしかかっていた。晴れた青空も好きだけど、雫は雨も好きだ。明るかったり暗かったり、自分の代わりにお天気が心を代弁してくれているようでどんな天気も嫌いじゃない。
元気な自分でいつも居たい。けれども何があっても元気で居られる自信はないから、お天気に手伝ってもらえばいつだった笑って居られた。
その頃、クラスの中で友好的な友達もいれば、雫をよく思っていないクラスメートもいた。
相田ちゃん事件簿がいくつか更新されており、いかんせん雫は目立つ。
日直の雫が教室に居ない時に誰かが言った。
「お前らさあ、ベタベタ気持ち悪い」
そんなことを言われる日が来るだろうと三人共に感じていた。
「悪いかよ。相田ちゃんファン二号だ、俺は」
光助が事もなく返すと、気持ち悪いと言った男子は鼻で笑った。
「ちなみに一号はあたし」
小百合がそう言うと、浩が三号だと言った。
「なに? あんたも相田ちゃんの可愛さに気づいた? ヤキモチ?」
バカにされたからバカにして返した小百合に男子が突っかかる。
教室の隅で、陰口を叩きだした女子グループもいる。
「あの女、頭おかしいだろ」
雫を揶揄する言いがかりが更に加わる。
なんやかんや言いたい放題に悪口を叩きだされ、遂に一番温和な浩がキレた。手を出すことは絶対にしない。笑顔のまま言葉選びや口調が怖くなる。タチの悪いキレ方だ。
「良い加減にしてくれない? 俺たちが誰と仲良くしようとお前らには関係ない。そもそも、気に入らないなら本人に言えば? あー、そんな度胸なさそうだよね、お前ら。哀れだな。滑稽だな」
滑稽などという言葉を口語で使う中学一年生など早々いないだろう。相手は意味を理解したのかしてないのか他所に、馬鹿にされたという顔をはっきりと浮かべている。
更に浩が続けようとしたところで雫が戻ってきた。
「ケンカはダメ!」
付き合いが長い分、浩が怒っていることに雫は気付いた。周りにいた男子と険悪な雰囲気だ。
平和主義の雫は、時々とんでもない喧嘩の仲裁の仕方をするが、こういう時、必ず仲裁に入る。
そもそもの言いがかりを付けてきた男子は雫と共に日直である。全ての仕事を雫に押し付けるそれは嫌がらせ以外のなにものでもないが、雫はなにも言わずに日直の仕事を全部していた。
浩はいろいろと頭に来ていた。
雫に喧嘩を止められた瞬間、浩はいつもの穏やかさに戻り、ごめんねと雫の頭を撫でた。その代わり様に慄いた男子たちを、更に雫が睨みつけた。
喜怒哀楽が激しいくせに、あまり見せない雫の怒った顔は効果てき面だった。
声を潜めて女子の陰口は続いていたが、本人たちには聞こえていなかった。
小百合は醸し出す大人っぽさがなんとなく怖いイメージを女子に与えていて、誰も陰口が叩けない。普段から強気な発言が多いため、あとが怖そうだ。
明るい光助は人付き合いが得意だから陰口の対象になることはない。浩は優しい性格とそれなりに整った容姿を持つからそれなりに人気がある。
単体でも目立つ三人が雫にべったりな為、どうしても標的は雫になる。
本当に一番怖いのは普段温厚な人間であることを彼女たちはわかっていない。
一部始終を見ていた友好的なクラスメートが、面白そうに入学式後のことを指摘した。
「そういえば、入学式の日。四人でハイタッチしてたよね」
「あれ印象的。すげー仲いいんだろうなあって」
「小学校の頃良くクラス一緒だったとか?」
四人が顔を合わせて笑った。そして「逆だよ」と浩が言うと雫が続けた。
「初めてやっと同じクラスになれたから嬉しかったの!」
この仲良しの四人組は、実は小学校で同じクラスになったことがない。
小学校一年生の頃、なんとなく目で追っていた女の子が面白いことをやり始めたから声をかけてみた。その一人目が小百合で、二人目が光助で、三人目が浩だった。小学一年生とは思えない発想で、しかし小学一年生らしい遊びを始めた雫は、少し発達の早かった三人にとって目新しかった。
休み時間の度に新しい遊びをみんなで考えて、最後は周りも巻き込んで、やり過ぎて先生に怒られる。
小百合も光助も浩も単体ならば手がかからない。まとまらなければまともだから、いつもクラスをバラバラにされていた。
雫はどんなに教師が頑張ってもマイペースが崩れない。相田ちゃん事件簿が本人によってどんどん出来上がって行き、学校で雫を知らない者はいなかった。いつも笑顔をくれる相田ちゃんがみんな大好きだ。
光助が入学当初のことを思い出してため息を吐いた。
「相田ちゃんと同じクラスになれなかった奴らにすげー悔しそうにされたよなあ」
この日に限って日直の仕事がやたらと多かった。先生に色々と頼まれてしまったのだ、「ふたりでお願いね」と。もちろん熟すのは雫ひとりでだ。例の男子はホームルームが終わるとあっという間に教室から去っていた。
ひとりではすぐに終わらせることが出来なくて、雫は一度教室を後にした。
どっちかが遅くなる時は待っているなんて約束をしていたけれど、今日なら日直の仕事を口実に翔と一緒に帰らないで済むのではないだろうか。無意識に雫はそんなことを考えていた。
翔との仲が深くなっていくことへの自分に対する困惑からほんの少しだけ逃げ出したくなっていた。となりに居たいと思う気持ちは沢山あるけれど、そのために全てを一気に受け入れるのは難しい。翔はハッタリによって、既に一度雫の許容範囲をオーバーさせてしまっている。
帰りの待ち合わせは図書室とふたりで決めたそれは、初めてキスをした場所に変更になっている。毎日あの場所で互いを待つ。それから少しの間、ふたりだけの時間を過ごしてから帰る。
誰にも邪魔されないふたりだけの特別な時間はそこにしかない。形が変わったけれども、恋しくて願っていたふたりきりの時間だ。
部活に入ってなければ忙しい委員会に入っているわけでもない翔は、職員室に用事があるなどない限り、いつも雫より先に着いている。毎日のことなのに毎日気が急く。
そんな翔は学校で自分の本性を押し隠して過ごしている。初めてご近所という小さな庭から外に出た時からそんな癖が付いていた。翔はわがままですぐに感情を顔や言葉に出す。冷たいことや酷いことも平気で口にする。それはそれでわかりやすいし素直でいいじゃないかといつも幼馴染たちは思うけれども、本人はそんな性分をどうしても隠していたかった。
理由は一つ。うっかり雫にそんな姿を知られてしまったらと思うと怖い。
雫が側にいる時の翔は一切そんな自分を封印してきた。だから雫は彼のそんな一面を微塵も知らない。物心がついた時にはもう一緒に過ごしていた幼馴染たちは、雫を交えて遊ぶ時とそうでない時のギャップの差に馬鹿だなあと思う。そうして学校などで繕っている姿を見ても馬鹿だなあと思う。
翔は自分から前に出ることはしないが、物腰が柔らかい優等生を演じている手前、周りに頼られることも多い。雫とのことは真面目一色で浮いた噂が今まで一切なかった翔の色恋沙汰であったから、周りがやたらと浮ついた。普段の立ち振る舞いより、みんなの中で翔は揶揄う対象になく、だから一斉に雫へ好奇の矛先が向いてしまったのだ。
それに、翔は常に周りと一線を引いている印象が同級生たちにはある。実際、翔は意識的に一線を置いている。自分を偽るために。素が出てしまったとして、それが人伝てに雫の耳に届いてしまっては困る。
どうにか頼まれていた仕事を片付け職員室へ提出して教室に戻った時にはもう夕方だった。
鞄を取りに中へ入ると、知らない先輩が適当な机に腰を掛けて楽しそうにしている。
誰だろう、なんだろうと思いながら自分の机にそそくさと戻り、背を向けて帰り支度をして立ち上がった瞬間のことだった。
「ちょっと。お前のこと待ってたんだけど。酷いね、無視?」
満遍の笑顔で言われた。
お前っていきなり言われて雫は知らない先輩にむっとした。
しかし彼は気にした様子もなく、むしろ先ほどからと変わらず楽しそうだ。
「ねえ。お前、本当に大野と付き合ってるの?」
知らない先輩になんでこんなこと聞かれるのだろうと雫は思った。例えば女子の先輩で翔のことが好きだならわかるけれど、相手は男子だ。
雫は何故かとっさに言葉が出なかった。
「教えてよ」
あの時付き合ってますと言った翔に、付き合ってとも言われてないし好きだとも言われていないことに気付いた。
あの日、翔がすごい殺し文句を吐いていたのに、雫はキスのせいで覚えていない。あれがちゃんと雫へ届いてれば、翔の気持ちが雫に届いていたかもしれない。けれどもその直後に届かないようにしてしまったのも翔自身だ。
「……付き合っているのだと思う」
見つけた言葉に自分でがっかりした。
「思うって変なの。普通さ、付き合おうとか言ったり言われたりして付き合うものだろ? 言われてないんだー」
誰だかわからない先輩にそんなことを言われる筋合いはない。
「そんなことわかってる! だから思うって……でも……」
「でも何? なんかしちゃったとかー?」
そう言いながら彼は、腰を下ろしていた机から降りて雫に近づいていく。
からかわれている。しかし、どうしてこの見知らない先輩に自分はからかわれなきゃいけないかしらと雫は思った。
前にもなんだかこんなことがあったような気がするけれども、思い出せない。喉がつっかえそうになった。
「じゃあさ、俺ともっとすごいことしようよ?」
怖くなって泣き出した雫へ相手は構わず手を伸ばして腕を掴むと、引き寄せ自分の胸の中に閉じ込めた。
「頼むから泣くなよ……」
耳元で囁かれた言葉が切なそうだった。
それからちくりと首筋に痛みが走った。
「しばらく、髪下ろしたままにしたほうがいいよ」
馬鹿力で逃げて、トイレへ走って髪を上げて鏡を覗いたら、とんでもないものを見つけた。
髪の毛を下ろしてれば見えない位置、はっきりと跡が付いていて、雫は真っ青になった。中学生てこんなことするの! と慌て果てた。
なんだか最近、中学生になったばかりの自分には刺激の強いことばかり起こる。頭を抱えたくなる。
「あーあ、なんで俺のことわかんないかな……畜生」
教室に残された彼はひとり淋しそうに呟くと帰路に着いた。
背が伸びて声が低くなっただけで、こんなにも気付いてもらえないものかと淋しくなった。
髪を下ろした雫が今度こそ鞄を取りに仕方なく教室へ戻ったら、彼はいなくなっていた。
文句を言いたかったけれど、顔を合わせたらまた泣いてしまいそうだ。
背が高くてカッコいい人ではあったなあとぼんやりと思ったが、されたことを思い出すと頭にくる。
そしてこれを透子に見られないようにしないと、自分のせいなんかじゃないはずなのに困ったことになる。結局、頭を抱えた。
「ただいまー」
「おかえりー」と言ったのは母ではなくさっき聞いた声だった。
咄嗟に言葉がでない。彼が草太と仲良く遊んでいる。
「おおおお母さん!」
取り敢えず状況把握が出来なくて、透子に叫んだ。
「あら。おかえり、雫」
「おかえりじゃなくて!」
雫は嫌なものでも見るように震えながらそれを指差した。
人を指で差しちゃダメです、そう教わって育ったからこそ指で差してやった。
「あー、壮? 今日夕飯食べていくから」
ん? 壮くん? ぎゃあと雫が叫んだ。
背が伸びていて、声変わりをしていて、大人っぽい雰囲気になっていたからまるで気づかなかったが、彼は裏に住んでいた東雲壮だ。幼馴染の一人で、彼の家庭の事情で二年間ほど会っていない。
一年前に戻って来ていたが、雫は戻って来ていたことなど今の今まで全く知らなかった。
「ぎゃあてあんた、壮に何かされたの?」
雫が真っ青になる。
「壮、何したの? 言いなさい」
透子の恐ろしい笑顔と尋問に壮は焦った。
「逃げるぞ、雫!」
そうして無理やり雫の手を掴むと相田家を飛び出した。
雫は壮に捕まえられたまま近所の外れにある公園まで連行される羽目になった。
「お前さ、俺のこと覚えてないとかやっぱり酷いね」
ベンチに腰掛けて肩で息をしている雫に、壮は体を折り目線を合わせて至近距離で問いただした。ぎゃあと雫が小さく漏らす。
「そ、壮君、近い!」
苦情を言ったところで壮がやめるとは思わないけど言ってみた。それから呟くように陰った声で雫は言った。
「覚えてるけど、だって」
「なーに? 俺がかっこよくなっちゃって気づかなかった?」
「普通、自分でかっこいいとか言わないもん!」
そう言い返してくる雫に、壮はわざと溜息を吐いてみせたら、また泣かれた。
「相変わらず、すぐ泣く」
「泣くようなこと、するからだ……」
壮は昔から意地悪だった。しかし意地悪した後、必ず雫を笑顔にする。
隣に腰をかけて、壮はさりげなく手を重ねた。雫はそっぽを向いたが手を払いのけることをしなかった。
「どうしたら、笑ってくれる?」
泣かせた理由が理由だけに思いつけない。
「笑えない、冗談、するから、笑えない……」
ぼろぼろと涙を零す雫を壮は無造作に抱きしめた。雫は抵抗しなかった。
普段結んでいる髪の毛が自分のせいで下ろされていると思うと、少しだけ優越感を感じる。
「じゃあ、笑わなくていいから聞けよ。俺、帰ってくるって言った。好きだって言った。待っててって言った。今だって変わらない。嫌われてもいいから俺のこと思い出してほしくて痕つけた。謝る気もない」
涙が止まらない。溢れ出すのを待っていたように、まるで雫の涙は止まらない。
「……いつまで泣いてるんだよ」
雫の涙が止まるまで壮は彼女を離すつもりがない。
「……どうして会いに来てくれなかったの?」
壮の胸の中で、くぐもった涙声で雫は尋ねた。直ぐに会いに来てほしかったような言い方だった。
「雫が小学生だったから」
「わけわからない」
「お前のこと、笑顔にする自信がなかった、じゃダメ? あーゆうこともしたくなるから。我慢してたのに誰かさんに掻っ攫われてすごくショックだった」
壮の言葉は理解できるようでまるでよく分からなかった。
昔から壮に関わると頭の中がごちゃごちゃする。翔といるとそんなことはなくて安心する。だから壮のことは考えないことにしていた。考えないようにしたら頭の中から消えてくれていた。
一緒に居ない人のことで頭がごちゃごちゃするのは嫌だ。