最終話
「壮君、遊園地行きたい!」
短い春休みの半ば、明日どこ行こうかと壮の部屋で相談していた時、雫がそう提案した。
正確には、提案では無くて決定項だなと壮は思った。やだと言ってみたい気もするけど、駄々を捏ねられても面倒くさいからわかったよと壮は答えた。
きらきらした目で楽しみだなという風に雫が嬉しそうな顔をした。
ジェットコースターに乗りたい。恋はなんだかジェットコースターに似ていると雫は思う。
壮とジェットコースターに乗ったら、楽しい時間がもっと楽しくなるような気がする。
どきどきしたりわくわくしたり、はらはらしたりして、その隣に壮が居ると思うと胸が弾む。
次の日、壮は雫を迎えに行って玄関に入った瞬間、出迎えた雫に面を食らった。
ちょっと待っててと言われて引っ込んでいった雫の代わりに透子がやって来た。また透子に遊ばれた。
透子に施された雫の薄化粧は、去年のお祭りの時より遥かに綺麗に見えた。前よりも雫が少しだけ大人びてきたから、あの時よりも更に大人びた綺麗さが滲んでいる。
「透子さん、なにあの服」
「日頃の感謝を込めたあたしからのサービス。あたしってなんて優しいのかしら」
白々しく言う透子を呆れた目で壮は見たが、自分で遊ぶ透子はいつも楽しそうだから諦めるしかない。
雫の格好は、少し露出度が高かった。
よくよく考えて、壮は気付いた。
「あのさ。俺たち、遊園地に行くんだけど」
遊園地なんて、機能的で動きやすい格好の方が断然楽ちんだと壮は思う。
ミニスカートで遊園地ってどうなのだろう。短いスカートを気にしながら楽しむなんて面倒くさそうだ。雫ははしゃいでそんなこと気にしなそうだから、気にしなきゃいけないのは自分だ。
「あら、ミニスカートって機能的だと思わない? 動きやすいのよー」
「そういう問題じゃない」
自分の不平をその一言で透子に訴えた。
「ちゃんと靴はスニーカー履かせるわよ」
まるで透子はしらを切る。壮はそういうことを言いたいわけではないが、透子が折れるわけがない。
準備を終えた雫が戻ってくると、また透子がにやりと笑った。とにかく壮はばつが悪い。そんな壮の姿に雫が首を傾げた。
今日行く遊園地は思い出がある。壮にとって大切に違いない思い出。だから雫はその遊園地を選んだ。壮が喜んでくれるといいなと思いながら。
「ねえ、壮君。今日は絶対にジェットコースターに乗るの!」
準備の整って玄関に戻ってきた雫はそう言って、待たせていたのは自分なのに壮を急かした。
「大切な人を大事にいつまでも守って行けるように、強くいなさい。壮ならきっと出来るよ」
亡くなった父が最後に壮へくれたこの言葉は壮の宝物だ。
壮の周りには大切な人がたくさんいる。その父の言葉は、母を守ってほしい、それだけではないと感じた。
今ならなんとなくわかる、大切な人をどんな風に守っていけばいいのか。
きっと出来ると自分に言った父へ恥じないように、大切な人をもっともっと大事に守りたい。
まるできりがないなと欲張りな自分に自分で呆れて、ごちゃごちゃしながらも父の分も生きている自分が可笑しくなることがある。
母の負担を増やしたくなくて、頑張って高校の特待枠を獲得した壮を、母は可笑しそうに笑った。あんたってたまにやたら素直じゃないところがあると。誰かさんに対してはてんで素直じゃなかった壮が、素直に変わって行くさまを見るのは母として嬉しくて楽しいことだった。
「あんた頑張り屋さんだから、あの人もきっと喜んでるわ」
そう言った母に、その時壮は照れくさそうにはにかんだ。本当に照れくさかった。
大好きな母は大好きな父のことをあの人と呼ぶ。
太陽のようなあの人は、いつもにこにこと笑っていて、壮は殆ど怒られた記憶がない。なにかやらかしても、大抵お前はバカだねとからかうように笑うだけだった。
時々、窘められたけれど、やっぱり笑う。
「お前の好きな子への優しく仕方は面白いねぇ」
そんな風に楽しそうに笑う父のことを思いながら、壮は思い出した。
そうだ、自分がたまに怒られる時は全部雫のせいだ。
雫絡みではなくて、雫のせいだった。
雫のわがままに怒った壮に雫も折れないから喧嘩になる。そして父に怒られる。長男よろしく怒られるのは壮の担当だ。取っ組み合いまで行けば、流石に仲良くげんこつはもらっていた。
母ではないが、尊敬する父を壮もあの人と心の中では呼んでいる。居なくなってしまったけれども、太陽のようなあの人は壮の誇りだ。
「お前のせいであの人に怒られたこと思い出した」
壮は雫に父のことを話す時はあの人と呼ぶ。
遊園地の観覧車の頂上、目をきらきらさせて眼下の景色を見ていた雫が、首を傾げた。
「なんのこと?」
壮はどのこと? だろと突っ込みたくなった。とにかく雫のせいでしか、父に怒られたことがない。
「ここ。この遊園地で俺がひどい目に遭ったこと」
壮の父も一緒にみんなで来た楽しかった記憶しかなかった雫が、うっかりあることを思い出してそろりと顔を逸らした。
その時は翔も居たのに、雫は「壮君、次はあれ!」と壮を引っ張りまわした挙句、身長が足りなくて乗れなかったジェットコースターの前でいきなり悔しそうにうわーんと泣いた。
雫に厳しい壮が怒って、わがままに「絶対乗るんだから!」と雫は駄々を捏ね出した。アトラクションのお姉さんが宥めに入ったものの、壮と雫のやり取りにおろおろし始め、軽く迷子化していた二人を発見した壮の父に「人様に迷惑をかけるんじゃない」とがっつり怒られた。
あの時、どうしてだか雫はどうしても壮と一緒にジェットコースターに乗りたかった。
今度こそ一緒に乗りたいという魂胆を他所に、雫は乗れなかった後の自分の悪態ぶりを完全に忘れていた。
「怒られた中で、あの時が一番怖かった!」
怖かったと言いながら、雫の顔が笑っている。
楽しかった記憶しかなかったのは、きっとそういうことだ。
雫は自分もよく知っていて大好きな壮の父の話を壮から聴くのが好きだ。嬉しそうに楽しそうにあの人と話をする壮の顔が好きだ。
「雫さ、悪かったと思ってないよね」
「思ってるもん」
雫はそう言ったが、絶対に嘘だと壮は思う。
あの時もどの時も、ごめんなさいを言うのは壮の係りだ。
観覧車を降りて、逸れないよう壮は雫を捕まえておく。一日、手を繋いで遊園地を巡り、色々乗り回っていた。手を繋いでいる理由が、手を繋いでいたいというよりも、捕まえておくだった。
本当に雫は気になることを見つけると勝手にふらふらどこかへ行ってしまう。たかが映画館で逸れた時は壮もびっくりした。
全く目が離せない。これは思うに大人になっても変わらないのではないか。壮にはそんな確信がある。
去年のお祭りの時、終始手を繋いでおいて本当に良かったと思わずにはいられない。広い遊園地で迷子になられるよりも、お祭りのような雑多な人混みで逸れる方が絶対に探すのに苦労しそうだ。
「壮君、ごめんなさい」
夕方、遊園地を出て駅へと歩きながら、雫が突然言った。
「なにが?」
いきなり謝られて、壮は聞き返した。だってわからない。
「やっぱり悪い子だから」
「誰が?」
「あたし」
落ちた声で言うと、雫が立ち止まった。
人の流れがある程度あり、困った壮はたまたまあった路地へと雫を引っ張って行った。
「雫ー、あんなとこで止まったら他の人の迷惑だろ」
雫の返事が返ってこない。
その時、雫はどうしてか、ごちゃごちゃしていた。
意地悪ばかりだったはずの壮が本当はそれだけじゃなくて、わがままに迷惑ばかりかけていた自分を急に責めだしていた。
壮はなんとなく、雫が今なにを考えているのかわかってしまった。
あたしは悪い子、あたしはずるいと時々言う雫にそんなことないと言い続けてきたけれど、壮の言葉に雫はきっと納得していない。
「だからさあ、俺はどんな雫でも好きなんだけれどな」
ぽつりと思ったことを呟いた壮を、俯きかけていた顔を持ち上げた雫が見上げた。
「帰ろう?」
そう言って自分の頭を撫でた壮の手が心地好くて、ごちゃごちゃしているのにとても自然に笑顔になれることが雫は不思議だった。
壮と居ると、ごちゃごちゃしながら不思議なことがいっぱい起こる。どきどきしたり安心したり、不安になったり、忙しい自分が雫はとても不思議だ。
でも、ごちゃごちゃするのが本当の恋で、恋をしていると本当にどきどきするんだなと思うとなんだか嬉しい。
これがこういう好きなんだと覚えたことも嬉しい。
壮の父が倒れた時、亡くなる少し前から急に雫は翔と居る時間よりも壮と居る時間を優先しはじめた。
壮の母が「そろそろかもしれない」と壮に言った時、そばにはやはり雫が居て、ぎゅっと壮の手を握りしめた。
離さないやつだと壮は思って、病室まで結局連れて行った。雫は怖いのに強がって押し黙ったまま壮の隣に居た。絶対に手を離さなかった。
そのさまを見て父が微かに笑ってから言ったあの言葉の意味が、恐ろしいほどにじんと壮の心に響いた。
怖かった。少し前まで笑っていた父さんが居なくなる。空きそうな心の穴を埋めてくれようと、無意識にそばに居続ける雫が少しだけその穴をすぐに埋めてくれたけれども、無理なものは無理だ。
それでも、「わかったよ、父さん。安心して」と言えた強がりは、雫がそばに居たからだ。
最後の瞬間、呆然としてしまった壮の横で震えながらぎゅっと自分の手を握りしめ歪んだ顔で泣くまいと耐える雫に、起こったこと、これからのことを漠然と受入れていた自分がいた。
父も母もひとりっ子だった。遠い親戚が、もうひとり子供がいたのかと勘違いするくらい、雫は全てが終わるまで壮から離れようとしなかった。
全てが終わる頃、虚ろにぽつんと雫が言った。
「おじさん、お空でちゃんと笑って見ていてくれてるかしら」
父を見送り終えるまで、雫は終始無言のまま、壮の隣を離れようとしなかった。だから言えた。
「笑っているよ。父さんだから」
それからしばらくの間、無理なはずなのにどうしてか笑っていられる自分が不思議だった。きっと、あの人が笑っているから笑っていられるんだと納得すると、胸が温かくなった。
壮の父が亡くなった後、父方の祖父が直ぐに身体を壊した。壮が引っ越したのはそんな祖父と一緒に暮らすためだった。父を失った直後、高齢の祖父も失うかもしれない不安の中でも笑顔で過ごせたのは雫のおかげだ。祖父はいつだって壮の笑顔を喜んでくれた。
帰りの電車の中で雫の口数が少なかった。まだごちゃごちゃしているのかと思うとそのまま家に送って行く気になれず、壮は自分の家に連れて行った。
壮の部屋で、ベッドの真ん中にちょこんと座った雫がなにを考えているのか、壮はよくわからなかった。
壮は机の椅子を引いて、そこに座り、少し困ったなあと思いながら、雫を見つめた。
雫は思い詰めた風でもなく、悲しそうでもなく、しかし楽しそうでもなく、嬉しそうでもない。なにかを考えているのは、壮にもわかる。きっかけはきっと、自分の昔話のせいだろう。それしか思いつかない。
雫は悪い子なんかじゃない。子どもの頃、甘えん坊でわがままな雫に意地悪をしながらも散々壮は振り回されて、けれどもそれが迷惑だなんて思ったことは一度もない。そうじゃなければ、意地悪して泣かせて笑わせたりしない。わがままにわざわざ付き合って怒ったりしない。
好きになったり、するわけがない。
壮は雫の不思議な様子に切なくなってきた。
今、笑ってほしいけれど、なにを考えているのかわからないからぱっといい言葉は見つからない。
ふと、雫が言った。
「壮君、わがまま言ってもいい?」
いいよと壮が言うと、雫が途端に嬉しそうに微笑んだ。
ごちゃごちゃした不思議などきどきを感じて、雫は嬉しくなった。
自分は悪い子だと思う雫は、ごちゃごちゃ良い子でいるための方法をひたすら考えていた。
自分だってどんな壮でも好きなくせに、どんな雫でも好きだと言った壮は自分より大人だから言えるのだと、雫は子供っぽい自分と壮を比べて少しだけ不安になって、でも嬉しくて、どんな方法でこの気持ちを伝えたら良いのか、ごちゃごちゃ迷ってしまった。
結局、わがままを言う自分しか見つからなくて、壮はいつもそれを許してくれるから、口に出してみた。
「壮君。壮君のしたいように壮君にされたい」
雫はそれを言おうか悩んでいただけなのかもしれない。そう思うと壮は可笑しくなった。
可笑しくなったから、意地悪を言ってみた。
「なにしてもいいの?」
とろんとした目でこくんと雫が頷く。
前にも同じこと言われたなと思いながら、壮は雫の隣に腰を下ろした。
「本当にいいの?」
壮は意地悪なことを思い付いて、もう一回聞いてみた。
「壮君のしたいように壮君にされたいの」
もう一度そう言った雫の耳元で、壮は雫と囁いた。
「どうなっても知らないよ?」
壮は雫の頬に触れた。雫の頬も自分の手も、同じくらいの温かさを持っていた。
壮は意地悪をしようとしていたのに、雫は壮が面食らうほどすごいことを言った。
「あたし、壮君になら、なんだってされたい」
なにを言っても雫のわがままには負けるなと思いながら、壮は雫を押し倒してみた。
負けていると思いながら、悔しいから壮は意地悪を続けることにした。
いつだかの場所にキスをしようとしたら、雫に避けられた。
「なにしてもいいって言ったの雫」
そう言って雫の顔を覗き込むと、壮は睨まれた。
「あのね、するわけないだろ。透子さんに殺される」
「ならいいけど」
そう言ったくせに雫はなにかが不満そうだ。
「……キスマーク付けてほしいの?」
「……そういうのじゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔するんだよ」
雫が期待しているなにかは想像が付く。キスより先が欲しいのだろう。しかし、意地悪がしたくなった壮は、キス以外する気がなかった。
雫は不服だろうけれど、まだそれは少しだけ先でいい。
「キスマーク付けるんじゃなくて、キスしたかっただけ」
壮が言うと、雫は嬉しそうに微笑んだ。
しかし再び壮が同じところにキスをしようとしたら、また逃げられた。
「お前、ひどい」
「条件反射」
諦めた壮は雫の唇にちゃんとキスをしてあげた。
顔の横に置かれていた雫の手に自分の手を絡めて、いろんな角度からキスをした。
壮の意地悪はまだ終わらない。
大人のキスはしてやらない。
雫が言ったんだ、自分のしたいようにされたいのだと。だから自分のしたいように壮はした。
顔を離すと、雫の頬に軽くキスして壮は起き上がった。
「俺は意地悪なの」
そう言って雫を見下げたら、壮はまた可笑しくなった。
いつだかのように、雫がとても嬉しそうに天井を見つめていた。
(おわり)




