第21話
壮は相田家のチャイムを押した。
「どうしたの? 壮」
卒業おめでとうだろう、普通、と壮は思った。
「どうせ雫、慌てて着替えてそうだから。透子さん、待たせて」
夏以来、透子様は嫌だから透子のことを壮はおばさんじゃなく透子さんと呼ぶことにした。
呼ばれる本人もまんざらじゃないようだ。
「そうねー、そうなさい」
「……透子さんさ、俺に言うことない?」
透子が暫し考え込む。絶対に振りだという確信が壮にはある。
「ああ、忘れてたわ。卒業おめでとう。よかったわねえ、きっとまた二年後には雫と同じ学校よー」
「心がこもってない」
「いいじゃない。受かった時にお祝いしてあげたから忘れてたのよ」
「そうだね。あの時はありがとう、嬉しかったんだ、俺!」
透子は雫を手伝わせてふたりで壮へのお祝いとしてご馳走を振舞ってくれた。
壮は父を亡くしてている。母は女手ひとつで壮を育て仕事をして忙しく、夜遅くなることも多いから相田家で夕飯をご馳走になる。
雫に戻ってきていることをバラすまでは頑なに断り続けていたが。それまでは母に作り置きをお願いしていた。
壮の母親は本当は雫に会いたいくせにといつもからかっていたが、その頑なさは思春期特有の感情なのかなと思うことにしていた。
姿を現したのは、雫がいない隙に相田家へお遣いに行った時、透子に嫌になるほどせっつかれたからだ。
「透子さん、ありがと」
そんなことを思い出したら自然と言葉が出た。
「なによ、いきなり」
「いや、なんとなーく、言いたい時にこういうのは言った方がいいと思って」
可笑しそうに透子は笑った。揶揄う時のそれとは少し違った。
「あんた、意気地なしのくせにそういうところはやたらと良い男よねー」
そう言われて図星な部分はともかく、壮は照れ笑いを浮かべた。透子にこういうことを言われるとむず痒いけれども安心する。
大切なことは言いたい時にちゃんと、大事なことは伝えなきゃいけない時にちゃんと伝えなくては、時はどんどん過ぎていくことを知っている。
あれからちゃんと雫に好きだって言っていないなと思い出した。今日、言ってやろうかなと企む。
それとも、遊ぶというデートの時に取っておこうかと悩む。
どうせ雫のことだ、デートなんて洒落た言葉など思い付いていない気がする。
もうどっちの時も言いたければ言えばいいのか。大切なことだから、言いたい時に言えばいいのだ。
「あれ? 壮君どうしているの?」
着替えて玄関にやって来た雫がぽかんと壮を見ている。
「慌てて着替えてそうだから、待ってればいいかなあと思って」
そう言うと、壮君はエスパーだ! と騒いだ。
「はいはい、そんなわけないでしょ。うちくるの? どーするの」
「行きなさいよ」
間髪入れずに透子が口を挟んだ。
「むしろ、草太も雫もうるさくて面倒くさいからあんまりうちでいちゃいちゃしないでよ」
「お母さん、ひどい! それにいちゃいちゃってなに!」
始まったかと壮はため息を吐いた。雫がこうなったのは確実に透子のせいだろうと思う。
取り敢えず、自分のせいではないと思いたい。
眺めていて面白いことこの上ないし、一応自分は巻き込まれてはいない。話題が自分のことなのは今更だ。
壮は珍しくこのじゃれ合いをしばらく眺めていた。
「透子さーん、もう良い?」
だんだん自分たちが哀れになってきて、壮は止めた。
「はいはい、バカップルはさっさとお行きなさーい」
そんな捨て台詞をいただきながら壮と雫は相田家を後にした。
「俺着替えてくるからそこでちょっと待ってて」
そう言うと、壮は雫を玄関に残して部屋へ引っ込んでいった。
さっきまで散々壮を待ちぼうけさせていたくせに、今日は待ちぼうけばかりだと雫は思った。
上がり框の段差に腰を下ろし、膝に肘を置いて頬杖をついて考えてみる。
本当は待っていたかったあの時も、夏休みも、卒業式の後の今日も、全部待ちぼうけ。
壮はもっと待ったのかなと思うと切なくなった。
「……なに考えてるの?」
しゃがみ込んで壮が雫の耳元で言った。考え事をしていた雫は驚いてびくりとした。びっくりし過ぎて目に涙が浮かんでいる。悪戯しようというつもりでなかったから、壮の方がびっくりだ。
「ご、ごめん! わざとじゃないんだ!」
思わず言い訳して靴を履き、雫が立ち上がるのを待つが立ち上がってこない。見遣ると、上目遣いで壮を睨んでいる。
「壮君のこと、考えてたの!」
そんな風に言われるとなんだか気恥ずかしい。壮はほらとぶっきら棒に手を差し出した。
「どこ行くの?」
「あそこの公園」
「お散歩?」
「お散歩、とはちょっと違うかな」
壮がそう返すと雫はふーんと言った。
「……良い思い出がない」
恨めしそうに壮を見上げた後、ぐっと手を取って漸く立ち上がった。
「……悪かったよ、色々」
「どれを悪かったと思ってるのかわからない!」
「あー、もう。どれもこれも全部悪かったよ!」
玄関を出ながら、でも、と雫が言った。
「あたしも悪い子だから」
そう呟いた。
「雫はちゃんと良い子だよ」
そう言ってやると、雫は少し戸惑っているようだったがにこりと笑ったから、壮は手を離して頭を撫でてあげた。
照れくさくてさっさと歩きだした壮の後ろを雫が追いかけていく。
小さい頃と逆だな、と雫は思った。
壮が追いかけてくるから雫は逃げる。逃げるから壮が余計に追いかける。壮君のバカ! と言ってえんえんと泣いて、最後は笑顔にしてくれる壮のことは嫌いじゃなくて好きだった。
居なくなってしまう時、胸がいっぱいになって、それがどういう意味か今ならよくわかる。
夏休み、あの時も胸がいっぱいだった。好きな気持ちが全身から溢れそうなほど壮が大事だと思った。
そんなことを思いながら、自分よりもずいぶん大きな背中を見つめて追いかける。
壮がちらりと後ろを見遣ると、ものすごく嬉しそうな顔で雫が後を付いてきていた。思わず、笑いが込み上げる。
「壮くーん、どうしたの?」
なんでもないと壮は答えた。すると雫は早足で壮の隣に来て手を絡めてきた。
「どうしたの?」
「こういう気分になったの!」
「あ、そ」
適当に返すと、壮君てばひどい! と文句を言われた。
公園に着くと、まだ子供達が遊んでいる時間帯で、手を繋いでいたふたりを見るなり近所の下の子たちが寄って来た。
「壮にいちゃん、やーっと雫ねえちゃんと両思いになったんだー!」
にやにやと今更それを言われて、ふたりはぐうの音も出ない。
「つか、デート? デートだデート!」
そんな風に男の子たちが騒ぎ立てる。
その横で女の子がきらきらした目で自分たちを見ている。
眩しい。なんだか眩しいと、壮だけでなく流石に雫も思った。
「おい、見せもんじゃねーんだよ、俺らは」
壮がやれやれとそう言うと、見世物だと囃し立てられる。散々囃し立ててから、子供達は家に帰るために去って行った。邪魔しちゃ悪いよなーと言いながら。
自分のことはこの際棚にあげるが、この近所のガキって本当にみんなませてるなと壮は思う。小二にもなって、雫は俺のお嫁になるんだ! と言い張っている草太の方がまるで普通に見える。
「ふふふ! 嵐みたいだったね。壮君」
「なんであんなガキんちょにまでからかわれるんだ、俺は」
「知らないよー、そんなの」
そんな会話を交わしながらベンチに腰をかける。ふたりぴったりとくっ付いて。
ここ、定位置だなと雫は思った。他にもベンチあるのにいつもここだなと。
思い出すと恥ずかしい。壮に好きだって言われた。壮と初めてキスをした。鈍感だった自分がここにまだ居るようでなんだかそわそわする。
「雫?」
不思議に思った壮が雫に声をかけた。
「……壮君。今あたし、懺悔中なの」
またわけわからないこと言いだしたなと思った壮は雫の顔の前でぱんと手を叩く。
「ほい、懺悔終了ー」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で雫は壮を見遣った。それから不満そうに言った。
「壮君のせいなのに」
責任転嫁も甚だしい。
「人のせいにするなよ。勝手にひとりで懺悔してたんだろ。それ、俺のせいだったら、たぶん俺もしなきゃじゃない?」
「それもそうだね!」
そして可笑しくなって、雫は楽しそうに笑った。
壮はそんな雫の頭を片手で抱き寄せた。
「壮君?」
なんだかどこかいつもと違うようで雫はどきどきした。
「雫」
雫がなあに? と聞く。
「好きだよ」
どんな反応をするかなと思っていたら、しごく雫らしい反応をした。
「今は絶対あたしの方が好き!」
絶対に自分の方が好きだ、でも壮は敢えて反論はしなかった。
「ありがと」
なんだか雫の頭が熱いなと思って顔を覗くと、雫は真っ赤な顔になっていた。
自分で言ったくせにと壮は思わず吹き出した。雫が珍しく文句を言ってこない。
壮は嬉しいから嬉しいと伝えた。
ここで壮に好きと言われたのはたぶん三回目。本当は四回目。一回目も二回目も答えられなかった。翔でいっぱいだった偽りの自分がもう遠いところにいる。まっすぐな壮と居ると、雫は本当にまっすぐな自分で居られるような気がする。
嬉しいなと思いながら、雫は壮を見つめた。
「な、なんだよ」
「……あたしも嬉しい。壮君と一緒なの嬉しい!」
そういえば雫は一緒ということが好きだなと壮は常々思う。
夏祭りを少し思い出した。
あの時だって今だって大して変わらないようで、随分と変わっているはず。それでも、やっぱりどんな関係になっても、変わらないものは変わらないのだなと感じた。
いきなり手を繋ぎたいと言った雫も、今嬉しいと言った雫も全部一緒だ。
言動が極端なだけで本当に素直で優しいわがままな甘えん坊。そりゃ、可愛くて仕方なくなる。周りからしてもきっとそうなのだろうと思うけれど壮はそれが嬉しい。
雫が雫で居られるならそれで良い。だから自分が嫌われても構わないとあの頃は思っていた。翔と居る雫は壮の思う雫とは違っていたけれど、あんなに嬉しそうな顔をして翔と一緒に居たから、それでもいいと思っていた。
しかし、結局翔は雫を泣かせた。
そうしたらもう我慢する必要なんてなくて、支えてあげたくて、雫の求める通りにそばに居ることが出来るようになった。雫の甘えと自分の甘えが重なっただけだ、その頃は。
「……壮君、好き」
呟くようにもう一度雫が言った。壮はそれが心地よくて雫の頭を優しく撫でた。




