第2話
雫の友人たちの間では、おてんば変人少女「相田雫」は「みんなのものである」と同時に「誰かさんのものである」という刷り込みがなされている。強いて言えば、「誰かさん」さえ怒らせなければ、わいわい可愛がれるマスコットのようなものだ。
ちびっこくて愛らしい笑顔が可愛い相田ちゃん。
同じ小学校の友達は全員相田ちゃんと呼ぶ。
同じ小学校といっても学区の関係で数少ない。だから他校から入ってきた同級生は雫が相田ちゃんと呼ばれている理由を知らない。
「相田ちゃーん、一週間でやらかしたねぇ」
自称相田ちゃんファン一号と自称する飯田小百合が楽しそうに微笑んだ。朝、事件簿更新と呟いた女子だ。小百合は雫にとって姉のような存在だ。小百合からすれば、雫は妹ではなくマスコットである。小百合は雫からすると姉に見えるだけで、彼女の言動には姉らしさは微塵もない。姉御肌と言われれば、その気はある。
雫は今朝の事態にぶすくれている。泣いているよりはましだ。
「ねえ、どうして付き合ってないと手を繋いじゃダメなの?」
「付き合おう」と言われていないのに「付き合ってます」と言われたことが気に食わないように小百合には見えた。
雫は、透子から翔と一緒に居ることがだめだとはっきり言われていない。だから約束事は守らなければいけないけれども、これが約束事のうちにも入るのかもわからなくなってきた。
「先輩、哀れ。ざまーみろー」
そう言ったのは朝メモを取っていた男子、古谷光助である。「ざまーみろー」にかなりの私怨がこもっている。光助は明るく人と接するのが大好きで、雫の無茶に喜んで付き合っていた。最近はしっかりとしてきて、めっきり破茶滅茶なことはしなくなった。
「あの先生、すごく怖いらしいよ。ツケが来たんだね、あの人も」
こちらも私怨満載な男子、安田浩は楽しそうに笑った。三人の中で一番落ち着いている穏やかな性格を持つ浩は、まさに長男的な性質だ。
六クラスある中、クラスで同じ小学校出身はこの四人きり。他のクラスを含めても雫たちの卒業した小学校出身者が圧倒的に少ない。
この四人の仲の良さは、周りには少しだけ特異にも見えた。それくらいにこの四人は付き合いが長く仲が良い。
休み時間を伝って、噂はあっという間に広がった。昼時には物見遊山に来る者も、教室の隅っこでこそこそしている者までいる。
翔がかました宣言の威力は雫を押し潰そうとしていた。付き合ってなどいないのに翔が言った「付き合ってます」という言葉は、最終的に雫の思考を停止させた。
翔が自分のために吐いた嘘かもしれない。どうやったら一番翔の迷惑にならないかも必死に考えて、遂に疲れ果てた。
きっと小百合たちが居なかったら泣いてた。わけがわからなくなって泣いていたに違いない。もう頭が追いつかなくなった。
はあとため息をついたその時、硬いファイルの角が雫の頭に落ちた。
「いだだ!」
ものすごい痛さに雫が泣き出す。
どうしたら良いかわからなくて、泣くのを我慢している雫への思いやりだ。ただ、やり方が乱暴である。
雫の頭にファイルを落としたのは、元ヤンキーで現教師であり、親戚のように親しい家の息子の半田鉄兵という。雫のとても歳の離れた兄みたいなものだ。鉄兵には由美という姉もいて、雫は鉄兵も由美も大好きだ。
ただ、鉄兵はなにかに付けてやたらと厳しい。
「ねえ、先生、なんで手繋いじゃダメなの?」
泣きながら雫がそう問うと、説明が難しいと前もって言った。
「よくわからない。先生が朝、付き合っているからとかそういう問題でもないって」
「あのな、異性に触れたいっていうのは好意の表れ。それにな、当人同士が良くても周りからしたら嫌悪感を抱く言動もある。あとは風紀」
後者二つは雫もちゃんとわかる。いや、風紀についてはよくわかっていないかもしれない。なにしろ、小学生の頃は当たり前のように手を繋いでいた。他意がないだけに、付き合うと手を繋ぐがいまいち雫の中で重ならない。
周囲に撒いてしまうかもしれない嫌悪感は、周りに幸せのお裾分けをするのが好きな雫もきちんとわかる。
一つ目は、まだあまりわからない。好意の種類ってなんだろう。どんなだろう。
翔の好きってどんな好きなのだろう。自分の好きってどんなのだろう。好きだから好き、一緒に居たいから一緒に居る。それだけで本当に充分だったのに、それだけじゃいけないみたいだ。
好奇な人目はまさにそれを語っているようだけれども、よくわからない。
放課後、雫はひと気のない場所を見つけてうずくまっていた。
翔が教室に迎えに来ているかもしれない。けれども、なんとなく顔を合わせたくない。
ホームルームが終わると教室を飛び出した。
朝、顔を真っ赤にして俯いた雫の耳元で、迎えに行くから一緒に帰ろうと翔が囁いた。待ち合わせは図書館だと思っていた雫は一緒に帰るのが嫌なわけじゃない。手を繋いで帰っていいなら、手を繋いで一緒に帰りたい。
付き合っている自分たちがどんな風に手を繋ぐのか想像出来なかった。そう思うと、翔をどんな顔で迎えればいいのかもわからなければ、なにを話したらいいのかも、なにもかもわからなくなった。
鉄兵の言葉が頭から離れない。たかが手を繋いだだけで、みんながよく頭を撫でてくれるそれと変わらない。頭を撫でられることは鉄兵の言うところの好意なのだろうか。いや、違う。好意にもきっと色々あるんだ。
翔のことはお兄ちゃんのようにしか考えてこなかった。
ずっと横に居て、守ってくれて、ずっとそれが続いていくのだろうと思っていた。
目前の事ばかりが先行して、ずっと側に居てくれている意味を取り違えていた自分が恥ずかしくもある。
翔が好きだ。ずっと変わらず好きだった。好きの意味なんて考えたことなどなかったし、触れたいという感情に他意などなく、手を繋ぎたい頭を撫でられたい。そうされる度に幸せで嬉しかった。
翔は特別な存在、それが全て。
「あ、雫ちゃん。やっと見つけた」
ホームルームが終わると、翔はすぐに雫のクラスへ向かった。しかし雫が居ない。教室に鞄が置きっ放しであることに気付いた翔は、まだ雫は校内にいると探し回っていた。
やっと見つけたと思ったら落ち込んでいる雫だった。予想外の勢いで広まった噂に、流石の雫も気が滅入ってしまったのだろうと翔は考えた。
翔は雫の隣に腰を下ろすと、そっと雫の手の甲に自分の手を重ねた。雫に憂いを与えてしまったのは自分だから、せめて少しでも明るい顔を取り戻してほしい。それができるのも自分だけのはず。
雫の好きと自分の好きは絶対に重なっている。だから朝、あんなはったりをかました。落ち込ませたかったわけじゃなくて、雫にもっと自分の気持ちをわかってほしくて、だからあんなことを言った。ただ周りを牽制したかったわけじゃない。
「こっち向いて?」
翔がそう願うと、雫は俯いていた顔を上げて翔の目を見つめた。翔が申し訳なさそうにしているから笑わないといけない。そう思ったけれども無理だった。
雫の思った以上に疲れた顔が、ハッタリをかました自分とあっという間に広がった噂のせいだとわかっている。しかし翔は、自分の言葉の意味が雫を困らせていることに気付いていなかった。
こつんとおでこを合わせて、「俺のこと好き?」と聞いた。
雫はまだ翔をどんな好きで見ていたかわからなくて、でも好きだから好きだと言った。
雫の瞳が微かに潤んでいて、思わず翔は抱きしめた。
安心する。翔にこうされるのはとても安心する。翔の肩に顔を埋めながらそう感じた。
恋ってどきどきするものだと本で読んだけれども、翔に対してどきどきしない。付き合うって恋をする事だと思ったら、自分は翔に本当は恋をしていたのかなとも思ったけれど、どうしてもどきどきはしない。
どうしてだろう? 翔と一緒にずっと居たいと思っているのに、恋のようなどきどきを翔に感じない。抱きしめられている今だって落ち着くけれども、どきどきしない。
雫は安心するのにどこか心がそわそわする感じを覚えた。不安とは違う、もっと不確かな感覚。それが翔に対してのものなのか、自分自身に対するものなのか、よくわからない。
そっと翔の手が雫の頬を包んだ。至近距離で目が合うと、この後なにをするのか雫にも想像が付いた。
まだ自分たちが恋人同士になったという感覚がない雫は、恋人同士が好きを確かめ合うためにどんなことをするかなんて知っている。本でいっぱい読んでいる。
キスをした。翔が何度か唇を重ねてくる。
雫はこのキスの意味が昔のそれと少し違うことに気づいた。あの時は微かに唇が触れただけだ。そして、やっぱりどきどきしないから不思議だ。あの時はどきどきしたと思う。
「こういうこと、俺にされるのは嫌?」
じっと自分を見つめる翔へ、横に首を振る。嫌なんかじゃない。
「もっとしたい。もっと雫ちゃんを俺でいっぱいにしたい」
翔は有無を言わさず、またキス再開させた。キスがどんどん深くなっていく。
翔はずっとこんな風に深いキスがしたかった。雫が自分のものだって確かめるために。
雫はなんだか自分がいつもと違う気がして、どうしたらいいのかわからなくて、逃げ出したい気分になった。逃げ方がよくわからなければ、逃げる必要もないと言っている自分も居る。
抱きしめる翔の力がだんだんと強くなっていく。
やっぱり、翔に触れられるのは好きだ。
しかし好きってそれだけじゃないことになんとなく気づいてしまった。
そんなことはまだ知らなくていいから、今は蓋をした。知らない振りをすれば大丈夫に違いないと雫は思った。
とにかく翔に従順な雫は翔が行なってくる行為を拒むという考えがない。与えられるだけ受け止めてしまう。
翔の言動に初めて戸惑いを覚えたけれども、拒否をしようとまでは思わない。
これ以上のことはまだしないと自分に誓っているつもりの翔は欲深くキスを止められなかった。子供の時のそれとは少し違う初めての感触は自分を溺れさせてしまいたいくらいの快感を与えた。
どんなに欲が膨らんでいっても、これ以上は絶対にしたくない。こういうのは重ねれば重ねるほど、きっと自分を抑えられなくなるとわかりきっている。自分がそういう性質だと理解している。
舌を差し込もうとしていた自分にはっとして、雫に気づかれない内に翔はキスをやめた。
「帰ろう」
「……うん」
雫の潤んだ瞳が伏し目がちだった。少し大人びた熱っぽい雫の瞳に翔は満足した。
学校を出て少ししてから朝と同じように手を繋いで、家に近づくと仕方なく翔が手を離す。するとなんだか自分たちの距離が一気に離れたような感覚に襲われた。
雫を離したくない。自分だけ見ていてほしい。
あんなにキスを交わしたのに、少しだけ雫が遠くに行ってしまったような感じがして、翔は苛立っている自分に気づいた。
「透子ちゃんさー」
空き時間に鉄平は透子へ電話した。
「あいつやらかしたぜー」
欲張りな翔がこれからどんどん欲張るような気がして、鉄平は朝のあらましを透子へ教えた。
「俺は嫌だな、やっぱ」
厳しく当たりながらも、鉄平は目に入れても痛くないほど雫が可愛い。
あの雫が、翔と一緒にいる時の彼女が時々痛々しくて、見ているのが嫌だ。
「俺、あいつのこと、バラしても良い? なんでダメなの?」
透子ではないが、鉄兵も翔が雫のそばにいることを快く思っていない。鉄兵は自由が好きだ。自分の好む自由を誰かに押し付けようとは思わないけれども、好意というもので相手を縛り付ける人間は好きじゃない。
鉄兵には翔がそちら側の人間としか見えない。昔からそうだった。翔の横で微笑む雫は好きになれない。あの笑顔は雫の笑顔じゃないといつも思う。もっと違う雫の笑顔を鉄兵は知っている。
「雫? あたしに言うことがあるわよね?」
帰宅するなり雫は透子に詰め寄られた。「ない」とは言えない。
約束を破ってしまったかもしれない罪悪感、そして嘘をつく自分は嫌いだ。
「……ごめんなさい」
泣きそうな声で謝る。
透子はため息をついてそれから言った。
「翔はやめなさい。あんた、絶対にそのうち傷付くわよ」
透子は翔といることに関して、やめた方が良いと言い続けていた、昔から。
雫はその理由など考える事なく、一緒に居たいから一緒に居た。
やめた方が良いと言われ続けていたけれど、はっきりとやめなさいと言われたのは初めてだ。
「どうしてダメなの?」
「それは翔から聞きなさい」
「翔君はあたしと一緒に居たらダメな事知ってるの?」
涙声で尋ねる。
「あの子はわかっててあんたを手放さない」
透子は翔があと一年しか雫と居られないことを知っている。
教えるのは酷だ。翔に言わせるのも、もちろん酷なことはわかっている。
しかし当人たちの問題で当人たちで解決するべきだと透子は思う。残酷だけれど、知ってもらわなければならない気持ちがこれからもたくさん待っていることもわかってほしい。
これから大人になる度に、どんなものであれ、いくつもの別れが来る。
本当はもう知っているのに本人が完全に蓋をしてしまっているから、思い出すかまた覚えるかを待つしかない。
ついに雫がうわーんと泣き出した。こうなるとなかなか泣き止まない。
透子は感性豊かな雫に色々な感情を身をもって知ってほしい。だから約束事をいくつも与えた代わりに奔放に育てた。
雫の頭をぽんぽんと撫でると言った。
「あたしの言葉に傷ついた?」
雫は首を横に振った。透子の言うことはいつだって正しい。
正しいことがいつだって正解ではないことを透子は教えなかった。
正しいことが正解とは限らないし、正解が正しい答えとも限らないことは、自分で理解しないと意味がない。
父の悠介は帰るなりぎょっとした。
あまねくものを失くしたように娘が泣いていたのだ。