第11話
その晩、雫は全然寝付けなかった。翔とのことがまだくすぶっているのに、頭の中には壮がいた。翔の感覚がまだ残っているのに、心の中を占めていたのはやはり壮で、壮としたキスの心地好さの安心感が占める。
今までで一番優しかった翔のキスよりも、壮のキスの方がやっぱり優しい。
そんな壮にわがままを言った自分をひたすら責めた。
壮が言った「したい」の意味がなにを示していたのか考えると、きっとおかしな目で壮を見つめてしまっていただろう。そんな自分が嫌だった。
壮がいつだってなにかを我慢していることは流石にわかっている。それを知りながら甘えた自分も嫌いだ。
きっと壮まで傷付けてしまった。
感情的でないにしろ、わがままで片付けてほしくないと言った壮の気持ちを考えたら、自己嫌悪しか生まれない。
もうダメかもしれない。なにもかもがダメになってしまったかもしれない。全部自分のせいなのに、悲しくて仕方がない。
頭の中がごちゃごちゃし過ぎて整理がつかなくなってきた。枕に顔を押し付けると、雫はぐすりと泣いた。
翌朝、いつもの場所に翔はいない。当たり前を当たり前じゃなくした自分に後悔してもなにも変わらないし、誰もが苦しいままにいなくちゃいけなくなる。
とぼとぼと寝不足のまま初めてひとりで歩く通学路の景色がいつもと違う。翔の横で笑って、翔の手の温もりを感じながら歩いていた道はいつだって素敵に映っていた。
今日、自分は笑っていられるだろうか。
無理をしてでも笑っていないと誰も報われない。頑張らなければと自分に言い聞かせる。
そんな無理を今までも無意識にしていたことなど雫はわかっていない。本当はもう無理をしなくてもよかった。
「おはよう、雫」
ぽんと頭を撫でて壮が追い越していった。
壮はいつも通りだ。昨日の壮も含めて壮はいつも通りだと思ったら、自分が腹立たしくなった。
時々難しいことを言う壮をきちんと自分は理解しようとしていなかった。けれども、わからないものはわからない。
わがままで甘えん坊な自分をそろそろ卒業しなくてはならない。
ひとつ、少しだけ大人になったのだから、考えていかなければいけないとは思う。
ただ、その方法がなにか、どうしても雫はわからなかった。
校門で浩に会った。
「おはよう、浩君」
首を傾げた後、浩が微笑んだから雫もなんとなく微笑むことが出来た。
「おはよう。相田ちゃんひとりで来たの?」
「うん」
「そう」
それだけで浩はなにがあったのかわかってしまったが、余計な詮索をするつもりない。それが彼の在りたい形だった。
自分の気持ちは誰にも打ち明けないと決めている。とっくに鍵を閉めてある。だから元気がないように見える雫の頭をふんわり撫でる。
雫は浩のお陰でいつもの笑顔でたわいない会話をしながら教室に入り、いつもと変わらない笑顔を作り続けた。きっと三人にはバレていると思うけれども、そうするしかない。さりげない気遣いが嬉しくてほんのちょびっとだけ笑顔でいるのが楽になった。
ただ、勇利には効かなかった。顔を合わすなり慄いた。
遂に別れたのかと思いつつ、落ち込んでいるだろう雫がいつもの振る舞いを見せる姿が勇利は怖い。せめて自分が絡まれないことを祈るばかりだ。
「相田ちゃんは今日も可愛いわねー」
小百合が言うと、えへへと雫がはにかんだ。
雫が無理をしているのはわかっているけれど、雫はそうしていたいだろうから、小百合も雫がそうしていられるようにしてあげる。
なんだか最近、相田ちゃん事件簿に付けられない事件が多いなと光助は思う。
どうなにがあってそうなったのかは知らないけれど、付き合いが長い分、光助も雫がどうしようもなく無理をしているのはわかる。そして少しだけ雰囲気も違う。
放課後の過ごし方が変わった。翔と決めたあの場所に行くことはなく、教室でみんなとわいわい話したりしてから下校する。よく考えると、いつも早く待ち合わせに来ている翔に気兼ねして、こういう過ごし方など思い付きもしなかった。待たせちゃう、早く行かなきゃと、翔とは違う意味でいつも気が急いていた。
壮は相変わらず昼休みにやって来て、なんやかんやとみんなでわいわいしながら雫をからかっていく。
それが壮の言うところの守り方なのだと雫は理解していた。だからだろうか、壮と話しているとすっと心が和む。
わがままを言って逃げるように帰ったあの日、壮の切ない顔を見た。あの日だけじゃない。雫は何度も壮のそんな表情に出会っている。見えてない振りをしているつもりはない。
変わらず接してくれる壮の優しさにこれ以上は甘えちゃだめだと自分に言い聞かせるも、まるで上手く出来そうにない。
一緒に居たいから、甘えちゃだめだ。
壮に対して無意識にわがままな雫はきっとそれが出来ない。
相変わらず頭の中はごちゃごちゃしたままだ。意識すればする程にごちゃごちゃになる。
壮は雫とのことに関して翔になにも聞かない。知りたくないけど知っている。
加減を知らない翔が頭を抱えていたあの時、壮は一髪殴った後、哀れだなと実は思っていた。
移動教室ですれ違う時、翔と雫は挨拶することもなければ目を合わせることもなくなった。
翔は行ったことに対してよりも、雫を泣かせた自分が悔しかった。
そばにいる資格もなくて、だから声すらかけられない。雫ちゃんと呼ぶ資格はもう自分にはない。けれども、目は雫を追ってしまう。
まだ翔の中では雫が自分の全てであり続けている。長年募らせた気持ちはそう簡単には捨てられない。終わったとわかっていても。
馬鹿なことをしたという後悔はちゃんとある。
泣かせる結果が待っていても、あの方法しか上手く雫のさよならを受け入れることなど出来なかった。
翔にとって雫が全てであったから、雫の全てが欲しかった。その全てにさよならが含まれることなど考えたこともなかった。
心のどこかで、ああすることでさよならをする必要がなくなるかもしれないとも思っていた。
胸元で雫が泣いていたから、もう本当に終わってしまったと気付いた。
欲しかった全てに涙は含まれていない。
手放さなければいけないのだとその時やっと実感した。
雫は優しいから、きっと自分のことを傷付けたと思っているだろう。そう思うと翔は苦しい。傷付け続けていたのは翔なのだから。
ある日、クラスメイトが教室に飛び込んでくると、雫が数人の先輩に絡まれてどっかに連行されたと騒いだ。
小百合たち三人は全く持って問題無いと思う。どうせ雫に毒されるか地獄耳の誰かさんが割り込むに違いない。
久々に相田ちゃん事件簿が更新されると思い、のんびりと物見遊山に行って、こっそりとその様子を観察していた。
やっぱりかと三人とも呆れ混じりに思った。
物見していたら、案の定どこからか聞きつけてやって来た壮が飛び込んでいった。
合間に割り込み雫を引っ張りだす。
たまたまホースの繋がった水道が近くにあったから、壮はとっさにそれを手に取ると蛇口を捻った。そして雫を囲んでいた女子軍団に向かって思い切り水を浴びせた。
その直後のことだ。
雫の馬鹿力による見事な飛び蹴りを壮は背中に食らった。
雫は反射的に飛び蹴りをしただけで着地のことまで考えていなかった。もつれ合って倒れた拍子に壮が手にしていたホースが宙を舞う。結果、自分たちまでずぶ濡れだ。
「壮君のバカ! 女の子いじめちゃダメ! お水かけるなんてもっとダメ!」
因縁をつけていた女子たちはぽかんとせずにはいられなかった。
助けてやったのに何様だよと壮は頭に来て、女の子に意地悪をした壮を雫も許さなかった。
ちっこい一年生と身体の大きな三年生が取っ組み合いを始めて、通りすがりの教師がぎょっとして止めに入る。
びしょ濡れなら土まみれのふたりは喧嘩を止めるとそっぽを向いた。
悲惨な光景になのがあったのかを問いただした教師に雫が言う。
「先輩達とお話ししてたら、勘違いした東雲先輩が水をかけたんです!」
していい事と悪い事がもちろんあって、壮がしたそれはその時の雫の中ではしたらいけない事だった。
びしょ濡れの先輩集団は青ざめた。
彼女たちからすれば、壮がそんなことをするのが意外過ぎた。雫に至っては壮の背中に飛び蹴りをかまして取っ組み合いをした上に、因縁をつけていた自分たちを庇った。
先輩集団が因縁をつけ始めたのは確かだが、雫ひとりでどうにだって出来た。飛び込んできた壮がしたことは自分を守るためだったとわかっていても頭に来た。
その後、体育着に着替えさせられると職員室に呼び出された。
職員室で待ち構えていたのは、完全に怒っている青筋を立てた鉄平だった。
雫と壮は青ざめた顔を見合わせたものの、すぐに睨み合ってそっぽを向いた。
鉄平は説教を申し入れて教頭室を使う許可を取るとふたりを問答無用で押し込んだ。
延々となされる鉄平の説教は恐ろしい。それがしばらく続く。壮は諦めたが、負けず嫌いの雫はなにを言われても文句ばかり言う。更に鉄平を怒らせて泣きべそをかいたら、なんでも泣けば許されるとは思うなって前にも言わなかったっけ? と釘を刺される。
ふたりの担任がドアに耳を当てて盗み聞きしていると、それは本当に怖かった。声を荒げているなどではなく、厳しく冷酷な声で理詰めを並べている。
しばらくして解放されて教頭室から出てきたふたりに、壮のクラスの担任が来年には高校生なのだから自制しろと言いつけ、次いでに女子を泣かせるなど最悪だなと叱った。泣かしたのは自分じゃなくて鉄平なのに。ある意味とばっちりだ。雫のクラスの担任はおてんばは程々にしろと言い聞かせて、雫がむっとする。
全然反省してないなと思った鉄平が近くに戻ってくると壮も雫も再び青ざめた。まだまだ叱り足りないとばかりに怖い顔を浮かべている。
「反省してるようには見えないよなあ? 親父に言うぞ?」
そう凄むとふたりは一目散に職員室の入口まで逃げた。鉄平の父はすごく優しいけどすごく怖い。
「ご迷惑おかけしてすみません!」
頭を下げて職員室から逃げ出してきたふたりの様子を、小百合たち三人は楽しく眺めていた。
壮が悪かったよと謝る前に、雫はまだ泣いたまんまで、ぷいと顔を背けてさっさとどっかへ行ってしまう。
誰も追いかけなかった。追いかけてほしくないことを知っている。
「おかげさまで相田ちゃん事件簿が更新されましたー」
おてんば変人少女の本領発揮だ。
「あーあ、先輩てば怒らせちゃったー」
「あーあ、泣かせちゃったー」
思い思いに壮を茶化す。
もう昔のような怖いイメージはなくて、どちらかといえばもはや壮はいじられ役だ。
しかしムカついた壮が怖い顔をしたら昔を思い出して三人は悲鳴を上げそうになった。
三人と別れて壮が教室に向かっていると今度は工藤双子が待ち構えていた。一番怖いやつだ。完全に顔が怒っている。確実に怒っている。
走って逃げ出したいと壮は思ったが、そんなことをすればその後が更に恐ろしくなる。仕方なく捕まった。
「おやーおバカな壮先輩? 悪いことしたんだってね?」
友理の尋問は顔がいつもなら怖い笑顔なのだけれど、今は笑っていない。一番怖い怒らせた方をしてしまったと壮は瞬間的に反省した。
「水かけたって聞いたけど」
猛がそう尋ねると、壮は反省したくせに暴力よりマシだろと答えた。
友理と猛はお前人間なんだから言葉というものがあるだろうと呆れた。
「壮さー、時々短絡的になるの相変わらず。一応聞くけど、普段雫に対してもそんなことしてないわよね?」
「するかよ。そんなことしてたら、毎日俺、飛び蹴り食らうことになるだろ」
キスマークの悪戯も短絡的にしたわけじゃないし、公園でのキスだってよく考えた結果、雫に甘えた。自分の気持ちを伝える方法を考えた結果、そうするしか出来ない自分に気付いた。あれからは、からかう以外困らせることはしてないつもりだ。
「それとあんたってバカ。この時期に水なんかかけたら女子のブラウスなんか透け透けよ?」
友理のその言葉に壮はぎょっとした。そこまで考えていなかった。衝動的に一番平和だと思い付いた方法をとったまでだった。
「俺、謝るからあの時居た子たち探してくれない?」
仕方ないなと猛と友理は言った。
ふたりは顔が広いから見つけるのはそんなに苦労しない。目撃者もそれなりにいる。
「変な謝り方しないでよ?」
友理が釘をさす。
「わかってるよ、ちゃんと」
それからもう知ってるだろうけども言っておこうと壮は思った。
「あいつら、別れたよ」
案の定、知ってると言った。
「で? お前どーすんの?」
そうからかうと、工藤双子はじゃあねと去っていった。
「あーあ」
壮は思わず呟いた。
どうするのかって問われたところで、どうすることも出来ずにいる自分はいつまで逃げ続けるのだろうか。
大事な瞬間に、必ず壮は雫のことが好きだと伝えてきた。偽り無く思ったことを口にしてきた。
もう逃げてられないし、今度はいつまでも待つしかない。 必要ならこれからだって好きだと何度でも言うつもりだ。困らせたいわけではないけれども。
代わりに、待つことだけなら幾らでも出来る自信はある。
雫が教室に戻るとなんだかヒーロー扱いされた。
それもそうだ、自分よりだいぶん身体の大きい男子の三年生と取っ組み合いをしたのだから。しかも勝ちは概ね雫だ。
不貞腐れてる雫に主に話しかけてくるのは男子だ。いつも一緒にサッカーをしている友達が爆笑している。
雫は大抵わかりやすく振る舞う。怒っているのではなく不貞腐れているのだなとよく知る者には映った。
「てかさ、半田の説教、泣くほど怖かったの?」
雫が泣き虫なことは壮のせいで知っているが、ただでは泣かない。
「ぎゃー!」
興味ない者からしたら迷惑でしかない。
「こここここ、怖いよ! めちゃめちゃ怖いんだよ、昔から」
そして怖がらせるほど恐ろしい説教をした鉄平は、小難しいことを折々挟んで話して来る。雫は怖さより、理解し辛いことが悔しくて泣いたのだった。
雫は幼い頃から読書を嗜んでいて利発だったし、今だって勉強が出来るし、相変わらず読書が好きだ。
他人への気遣いが出来るのに苦手なことがある。
感覚や感情を本能のままに晒け出す性質の雫は時々、具体的でも難しい言い回しをされるとわかり辛い。
鉄平が難しく言うのは雫はちゃんと自分で身を持って気付ける時が来るからだ。ややこしくて難しいと今は思っていても、その時が来たら自分が言った言葉を思い出して自分なりの正解を見つけられるに違いない。
雫のような性質の生き方を突き通すなら確実に必要なことだと鉄兵は考えている。




