第10話
朝、何事もなかったようにおはようと言った翔へいつもの笑顔を作れたけれど、雫は放課後お話があるのときちんと伝えた。
雫が話したいことがなにかはわかりきっていた。昨日の自分への叱責だろう。翔はあそこまでしなければ気が済まなかった自分に恥ずかしさを覚えてているから、まずはきちんと謝罪しなければと思った。
「……昨日は、ごめん。どうかしてた」
翔が謝ると、雫が首を振った。それからぽつりと言った。
「翔君、あたしに好きだって言ってくれない」
そうだっただろうか、言動で気持ちを全部伝えていたつもりだったのに。どうしてだろうか、本当に一回も言っていなかったのだろうか。
昨日、あんなことをしてしまった自分はどうかしていた。好きだから、好き過ぎてあんなことをしてしまったとはいえ。如何に自分の視野が狭いか、壮に殴られてはっとした。
雫は自分を絶対に拒まないと思っていた。
その雫が自分に対して恐怖を持った顔をしていたことにショックを受けて頭を抱えていたら壮が来た。壮に殴られなければ、壮が涙を流さなければ、気付くことすら出来なかったかもしれない。
そうして雫はなにも悪くないことを見ない振りして壮への嫉妬をあんな形で露わにしてしまった自分に落胆した。けれども、もう遅い。
いつものように手を繋ごうとしたら雫の手がびくりとした。
ずっと一緒に居たい。雫にとっても自分が全てだと思っていた翔は、これからまだ長い人生の中で、七年間なんて些細なことに過ぎないと過信していた。
過信していたから幾つも大切なことを見落としていた。雫を見つめていたようで自分の気持ちばかりを見つめていたのかもしれない。
「好きだよ。誰よりも大切」
今更かもしれないけれど、今言わなければいけない。すると翔の想いに答えるように雫から手を絡めてきた。
どうか、春まではこのままで居たい。
七年間が些細なことだと思っていた自分が悔しい。些細なことだと思っていたのに無自覚に只管急いていた。そのうちに雫の心が変わってしまうかもしれないなど考えたことがなかったけれども、どこかで恐れていたのかもしれない。
待っていてくれたなら絶対に迎えに行く。その微かな可能性だけで充分だと自分に言い聞かせたところで、もう上手く出来る自信がない。
軽蔑されてしまっただろうか。見せたことのなかった本当の自分を雫は受け入れてくれるだろうか。
受け入れてくれたと思いたいのは、いつものように手を繋いでくれたからだ。
せめて春まで、春までは一緒に居たい。
その後学校に着くまで二人とも無言で、なにをどう話していいのかわからなくなっていた。共に足取りがやたらと重かった。
この日、雫は一日中さよならを言う準備をしていた。
雫がどこかおかしいことに小百合たちは気付いていたけれど、いつも通りに過ごした。
放課後、いつものところへ先に着いたのは雫だった。膝に頰杖を突きながら階段にしゃがみ込み翔を待った。
しばらくしてやって来た翔が隣に腰を下ろした。
素直に言わなきゃいけない。そう雫は自分に言い聞かせる。一日中いろんな言葉を考えたけれど、見つからなかった。
「翔君、さよならしよう」
単刀直入に素直に伝えた。怖くてもきちんと翔の目を見て伝えた。
目を逸らしたまま伝えるのは間違っていると思った。きっと相手はいっそう傷付く。
素直にはっきりと伝えたのに、翔の悲しそうな顔がじっと見つめていたから、雫はすっきり出来なかった。
「俺のこと、嫌いになった?」
朝ちゃんと気持ちを伝えたのに、こんなすぐに別れたいなんて言われると思ってなかった。手を繋いでくれた雫は許してくれたと思い込んでいた。
やっぱり、許されることではなかったのだ。
「違うの」
「俺は嫌だよ。怖がらせたことは反省してる。でも、それくらいに雫ちゃんのことが好き」
目を逸らして伏し目になった雫が可愛いのではなくて綺麗に見えた。
可愛らしい雫は自分と居る時、いつもこんな顔をしていたのだと今更気付いた。
「春までだって今だって、結局さよならしなきゃいけないのでしょう? あたし、今苦しい。もういやなの」
雫はあくまで翔のせいで苦しいと言ったつもりはないが、その言い方は自分のせいで苦しい思いをさせていたと受け取るには十分だった。
泣きそうな顔で声で、しかし語調が雫らしくなく強く激しい。泣くまいと堪えてるのがわかる。
泣かせたくないのに、もう本当にどうにか終わりにしなければならないと自分に言い聞かせた結果、翔は最初で最後のお願いをしてしまった。
結局、自分はこんな人間なのだと思いながらも、そうせずにはいられない自分がいた。
もう全て遅い。ならば軽蔑されても構わない。
昨日の自分が本当の自分なのだから、曝け出してしまえ。
翔は自分のエゴを最後まで押し付ける選択をした。
抱きしめられて交わした大人のキスは今までで一番優しかった。
この優しさから生まれるその先を知りたくないけれど、翔のお願いを断ってはいけない気がした。
少し放心していると翔が顔を覗き込んだ。
キスは好きだ、でもその先なんて、大人になる自分なんて興味がない。
素直にさよならを言った結果がどうしてこんなことになるのか、これが翔のためだったのだと雫は思う。結局、翔は雫の全てに等しい。
「ありがとう、雫ちゃん……もう苦しませないから」
翔の前では泣きたくないのに、最後雫は泣いてしまった。悲しいのはきっと翔も一緒だと思ったら、涙が溢れてしまった。
そばに居た時間まで失くしたようで苦しくて、翔はやっぱり雫を手放したくなかった。
最後まで真っ直ぐに自分を受け入れてくれた雫が好きだ。形はどうあれ、結局雫は受け入れてくれた。さよならという言葉の代わりに。
今、自分の胸に顔を埋めて泣いている雫がどんな顔をしているのか、翔は確かめられない。
「もう少し、このままで居てもいい?」
翔のお願いに雫はうんと答えた。
重ねた肌の火照りは心地好くなくはなかったし、恥ずかしさと自己嫌悪に陥る前に次の感覚が襲ってきた。
やっぱり翔のことは好きだ。しかし、やっぱりどんな好きかは見つからない。
「翔君が好き……でもやっぱり春までにどんな好きかなんて見つけられない」
雫の好きが自分の好きと違っていたことを翔は初めて知った。
最後まで自分の欲を押し付けてしまった自分が今までも傷付けてきていたことにようやく気付いた。
別れを言われた時点で、雫がお願いを聞いてくれた時点で、全てもう遅かった。
壮が言った通りになってしまったと翔は悲しく虚しくなったが、これしか自分の気持ちを収める方法は見つからなかった。
泣かないでとは言えない。
泣いている雫の気持ちを今考えてしまったら立ち直れない。考えてしまったら色々な後悔が押し寄せてどうにかなってしまう。
どんな好きだとしても未だに自分のことを好きだって言ってくれた。それだけで充分だと自分に言い聞かせるしかない。
こんなお願いを受け入れてそれでも好きだと言った雫の心の中には、本当はもうずっと前から自分はいないのだろう。そんな風に感じた。
翔の雫に対する好きは雫の好きと完全に違っていたのに、雫はお願いを聞いてくれた。
怖い思いをさせてしまった罪悪感が今更襲った。
不健全な自分の思いをいつだって受け入れてくれていた雫の辛さはどんなものだっただろう。
こんな自分を見せることなく、いつまでも優しく優しく在りたかったのに出来なかった自分は所詮こんな自分でしかない。
「お母さん、さよならしてきた」
「そう」
それだけ言うと透子は頑張ったわねと雫を抱きしめた。
「壮君に会いに行ってきていい?」
「いってらっしゃい」
制服から着替えて、雫は壮の家に向かった。
チャイムの音でもしかしたら雫かなと思いながら壮が玄関を開けると、泣きそうな雫が立っていた。
家にあげて、自分の部屋に連れて行こうと手を引くと、ぎゅっと雫が壮の手を握った。
「……さよならしてきた」
部屋に入るなり、雫は立ち尽くしたま、ぽろぽろと泣き出した。
「本当にあたし、さよならしたかったのかわからない。でも翔君の好きとあたしの好きが違ったことだけはわかった」
翔とのことで好きの違いはわかった。けれど、雫はどきどきするような好きの意味がわからず終いだった。
壮はもう良いかなと思ってそっと雫を抱きしめた。
雫が自分にわがままを言ったり甘えてくるのは好きだ。それは恋とかそういうことと関係ない。
しばらくわんわん泣いていた雫が泣き止むと、他に座るところがないからベッドに座らせた。隣に座って頭を撫でてやる。すると雫が今までに見たことのないような笑顔を浮かべた。
抱き寄せてやるのが正解かもしれなくても、今は隣に座る雫の手に手を重ねたのが精一杯の壮の優しさだった。
「頑張ったな」
再会してからの壮はキスマークのいたずら以外、意地悪を言いながらもいつだって優しい。
甘えたくなる、優しくされればされるほど甘えたくなる。
壮のことを考えるとごちゃごちゃするのに、こうして縋るように壮の元に来た雫は、どうしても今壮の顔が見たかった。
やっぱり壮は優しい。
わがままを言ったり甘えたことを言うくせに自分に頼りたがらなかった雫が、最近は度々自分に頼ってくる。壮はそれが嬉しいようで切ない。
雫はわんわん泣いたけれど、一応上手くさよならを翔に言えたのだろうと少し安心もしたが、一体翔はどんな方法で自分の気持ちを収めたのだろうか。
雫が自分に甘えるというよりは頼りにきたのだと思えて、兄貴分としての精一杯で自分の気持ちを抑えるしかない。
押し付けるようなことは絶対にしたくないから、慎重に慎重に雫を慰めようとした。
「壮君、お願い。少しだけ甘えたらダメ?」
雫はそう言いながら自分のずるさを見ない振りをした。いつかの壮と逆だけれども、逆とは少し違うかもしれないとも思った。
翔としてきたことを隠すのはずるいとわかっているけれど、それを言ったら壮がどんな反応を示すか怖い。
壮は雫の横顔を見遣りながら、なんだかいつもの雫と違う気がした。
そういう顔をさせたのが翔だと思うと悔しくて苛立って、思わず重ねていた手をぎゅっと握りしめた。
雫の手を握りしめた力はそれなりに強かったけれども、彼女は痛いともなんとも言わなければ微動だにしない。
「あたし、翔君の前では絶対に泣かないって決めていたのに泣いちゃった。きっと翔君、傷付いた。そう思うとなんだかすごく悲しくて、さよならするのが間違いだったのかしら」
壮の手を退かそうともせずに遠くを見るような目で雫は言った。
あの時、頑張って背伸びした自分はだんだんと普通になってきて、不思議に思いつつも自分が大人になって行く瞬間を目の当たりにした。
まだ知りたくはなかった大人に変わっていく自分。
結局、雫は少し大人な自分を知ってしまった。それが今までも内包していた自分の姿であったことに気付いてしまった。
「どうすればいい?」
尋ねられて、雫は壮の首に抱きついた。肩に顔を埋めた。すると優しく壮が髪を撫でてくれる。
いつもごちゃごちゃしているくせに、無性に落ち着く。
壮の自制心の強さがこの優しさを生んでいるんだと、また止まらなくなった涙を流しながら雫は思った。
壮は強い。知っていた、壮は強い。それに比べたら自分はなんて弱いのだろう。
周りに甘えてばっかりいる自分にがっかりする。
例えばさっきの相手が壮だっら自分はどうなっていたのだろう。
そんなことを考えてしまった自分が嫌だ。
しかしきっと壮が相手だったら、壮しか見えなくなる気がすると漠然と思った。
翔に再び溺れることはなかった。
鈍い雫は、本当はずっと昔からそうだったくせに、本当の気持ちに気付かない。
本当は既にどきどきするくらいの好きを知っている。ごちゃごちゃすることがどきどきするに繋がっていないだけだ。
周りが壮といる時の雫に安心しているのは、雫が昔から本当は壮に恋しているのではないか、そして壮はそんな雫を絶対に悲しませることはないという確信があるからだった。
雫は涙で濡れた顔を上げて壮を見つめるとねだった。
「壮君。壮君とキスしたい」
壮は面食らった。もちろんそれが出来るならいつだってしたいし、既にしている。
翔が思ったように壮も同じことを思った。
可愛い雫が綺麗に見えた。
雫の気持ちが自分に向きはじめたように感じてしまうのはきっと錯覚だ。壮は自分に言い聞かせた。
本当は錯覚などではない。どちらも鈍感だなと、友人達は常々呆れている。
「いいの?」
「したいの。ダメ?」
そんなことを言われたら、せずにはいられない。
雫がよしとするならしたくてしたくて堪らない。それをあれ以来抑えてきていたのも事実だ。雫をこれ以上、困らせたくない。
翔と雫が付き合っているからとかそんなのではなくて、臆病な自分をさらけだして傷付けるのが怖かった。
そっと唇を重ねてやると、いきなり雫の方から、雫の言うところの大人のキスをしてきた。
そんな風に雫をしたのは翔だと思うと壮はなかなかやめられなかった。
雫は、なんだかまだ自分がおかしいことに気付いた。
長いことそうしていると時々、雫から吐息が漏れる。壮は雫が感じていることに気付いた。まるで求められているようだった。しかし今それ以上のことをする気はないし、壮は経験などない。
長かったキスが終わると、見つめ合ったままの雫の瞳が少しだけ熱を帯びているようだった。
「雫……」
翔とどうやってさよならしたのだろうか、どうして今そんな目で自分を見るのか、考えたくない。
今はまだ雫は雫のままで居てほしくて、けれどもう今までの雫と違うことはわかる。
別れはどうあれ、人を成長させる。
壮を頼りに来た雫はいつものわがままと違う形で壮に頼ってきた。
それが良いことなのかどうか、壮にはわからない。
今の雫を、彼女の思うがままに受け止めてあげたいけれど、無理なことは無理であると思ってしまった。
「……壮くんの、キス、好き」
もっとしてほしいとねだられているのかもしれない。壮は戸惑った。
どうしてあげるのが一番雫のためなのだろうかと考えてみても全然答えは見えない。
壮が見つけた言葉はちょっと意地悪だったかもしれない。
「どうして?」
そう尋ねると、今度は雫が戸惑った。どうしてなんてわからない。
俺もと言ってほしかったのか、壮の優しさに縋っているだけなのかわからないけど、わからないと言えずにいた。
「もっとずっとしていたくなる……」
それがどういう意味か壮は考え倦んだ。やっぱりねだられてる。
大好きな雫にそんなことを言われれば拒む理由などない。受け入れられるならもっとしたい。けれども、これ以上を求められてしまっては困る。
「したらダメ? それ以上のこと、してくれなくてもいいから、キスしたらダメ?」
壮は翔が雫になにをしたか勘付いてしまった。
色々なことを飛び越して、とても大人になってしまったんだ。そうして雫がそれ以上のことをしたくなっている。それ以上のことはしなくていいと言った雫はもうそれ以上がなにかを知っている。
その時、雫は無意識に翔としてきたことを壮に上書きしてほしいと願っていた。
壮は雫の頭を抱き寄せると耳元で囁いた。
「俺だってしたい」
その言葉に含まれた翔への渦巻く嫉妬心に、きっと雫は気付かない。嫉妬だけなどではなくて、背伸びさせ過ぎた翔が憎い。
なんてことしてくれたんだ、あいつ。なんて傷付け方をしてるんだ。
悲しかった。出来るなら上書きしてやりたい。
雫は壮と居ると頭がごちゃごちゃするが、壮だってごちゃごちゃでどうしたらいいのかわからない時がたくさんある。
雫はそれ以上のことをしてくれなくてもいいからと言った。要するにしたいのだろうと捕らえずにはいられない。
雫に甘えられたら自分は拒めないけれども、受け入れたら翔の様になってしまうという恐怖が壮を襲った。もちろん、する気はない。
耳元で囁かれた壮の言葉に胸がとくんとしたが、雫はその理由がわからない。キス、もう一度したらわかるだろうか。
壮の最優先と翔の最優先は全然違う。だから余計に不安になったり臆病になったりしてしまう。
壮はいつだかのように下ろされていた雫の髪を一房手に取り梳いた。それから雫の頬の、だいぶん乾いたけれど残っている涙の跡を指で撫でた。その間、雫はじいっと壮を見つめていた。
「俺、雫を大事にしたい。大切だから。もし、もう一回キスすることで雫のなにかを守れるのなら、そうしてあげたい」
壮はちょっと難しいことを言ってしまったかなと思ったが、これが今の自分のまっすぐな気持ちだ。
雫はまだ壮の気持ちが変わっていないことに気付いた。
本当はいつだって自分を一番守ってくれていたのは壮で、一番近くに居るのも壮なのではないかと思った。
ただ、それが恋愛の好きまでは自身でたどり着けなかった。
「……壮君がそばにいてくれてること、確かめたい」
思いのほか大人びた発言をした雫を抱きしめずにはいられなかった。
「いつだって俺は雫のそばにいるよ」
その言葉は逃げだろうか。キスを求めた雫を突き放してしまってないだろうか。
言ってしまってから壮は不安になった。
再会してからの壮はなんだかんだ言いながらいつだって優しい。そして、いつだって昔と変わらずまっすぐだ。
わかっている、わがままを言っているんだ、自分は。壮を困らせたくはない。
「わがまま言った。ごめんなさい」
くぐもった雫の声に被せるように壮は言った。
「そうじゃない。そんなんじゃない。わがままなんて言葉で片付けてほしくない」
今度は自分がわがままなことを言ってしまったと、壮ははっとした。
「雫、俺がお前にするキスがどういう意味かわかる?」
「わかってる」
しかし自分自身の本当の気持ちを雫はてんでわかっていない。
「……あたし、帰るね。ありがとう壮君」
家に帰ってきた雫を見て、透子はとっさになにを言っていいのかわからなかった。
壮のところに泣きに行ってすっきりした顔で帰ってくると思っていたら、泣きそうな顔で帰ってきた。
「お母さん、あたしはずるい人間だ……」




