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第1話

 時計の針は常に右回り。同じ速度で時間を刻む。

 少年少女の歩く速度は時計の針とは関係なく進んでいく。

 時間に逆らって左回りに進もうともがいてみたり、一秒が何時間にも感じる瞬間に出会ったり、一週間がまるで数時間のように感じたり、一年だってきっとあっという間に過ぎていく。

 時計の針が刻む時間と少年少女の刻む時間がぴたりと合わさることは殆どない。

 この物語は、真剣にごちゃごちゃ悩みながら自分たちの大切な時間を刻んでいく少女たちの、在るがままのお話。



 朝、目が覚めると涙に濡れている。

 大切な誰かに大切なことを伝えたいのに、伝えようとすると目が覚める。

 悲しくて胸がつっかえて苦しい。

 思い出せないもどかしさに、また涙が溢れる。

 雫は涙でくしゃくしゃな顔で天井を見つめた。

「雫、起きなさい!」

 母の透子とうこがばたんと雫の部屋のドアを開けた。

 雫はどうにか布団から抜け出すものの、準備にやたらと時間がかかる。

 相田あいだしずく、中学一年生になったばかり。涙で始まる朝は気持ちが沈む。

 ぼんやりしかける雫に透子が言った。

 「あんた、そろそろ行かないと……良いのー? あたしは別にどうでもいいけど」

 雫は慌てて朝食を済ませた。

「忘れ物は?」

 透子に聞かれて、雫は鞄を真剣に見直すとすぐに飛び出していった。しかし彼女が忘れ物をすることなど滅多にない。

「ホントに大丈夫なのかしら……」

 透子の悩みは尽きない。出来れば弟の小学二年生になった草太そうたに悪影響を与えなければいいのだが。

 雫は良く言えばおてんば娘、いわゆる変わり者でしかない。

 幼稚園から数えれば、八年間で透子は何度学校に呼び出されたかわからないし、透子自身が知らないだろうことも沢山あるはずだ。

「草太ー。雫みたいにならないでよ、あんたは」

 思わず小学校二年生である長男へ言ってみたら、変な返事が返ってきた。

「ならないよ。雫は俺のお嫁さんになるんだからちゃんと守る!」

 透子は姉弟揃って幸先の不安を覚えた。

 放任主義は間違っていたのか。

 いくつかの決まりごとを守る前提にそうして来たが、間違っていたかと時々思う。しかし透子が知る限り、雫はひとつとして決まりごとを破ったことはないのだ。

 何事も全力、そして真剣に取り組む雫にとって、決まりごとを破るということは透子の信用を裏切る行為として「してはいけない悪いこと」に分類されている。



「おはよう、雫ちゃん」

 声をかけたのは同じマンションに住む二つ上の幼馴染、大野おおの(かける)である。

「翔君、おはよう!」

 もやもやなど一瞬で吹き飛んで満遍まんべんの笑みを浮かべた雫に翔が言った。

「一年間しかないから今日も一緒に行こう?」

 この翔の言葉の真意を雫は考えることもなく、翔の言い方に不信を覚えない。本能のままに生きる主義の雫は自分の気持ちに忠実な言葉を返した。

「ふふ、翔君と一緒。嬉しい」

ご近所という自分たちの庭から出た瞬間、翔の手が雫に触れた。

「ね、雫ちゃん。手、繋ぎたい」

 雫は迷うことなく翔の手を取った。

 翔が中学校へ上がるまで、行きも帰りも手を繋いで登下校していた頃に戻っただけだ。

 中学生になってからの翔は、毎日マンションの傍らで待っていて必ずおはようと言って頭を撫でてくれた。

 中学校までの道のりと小学校への道のりはほんの少しだけ一緒だから、時々通学時間が一緒になれば、そのほんの少しの間だけでも本当はいつだって手を繋いで一緒に行きたかった。

 雫にはそれが許されない。透子が決めた決まりごとのひとつだったから。

「これからは毎日、一緒?」

 翔に問いかけると、部活に入らなければ朝も帰りもおおむね一緒だよと言った。

「じゃあ部活は入らない」

「よかった。じゃあ、雫ちゃん。毎日一緒に帰ろうね」

 それから翔が、どっちかが遅くなる時は待ち合いっこをしようと提案した。なんだか響きが好くて、雫が嬉しそうに目を輝かせて「うん!」と笑った。

 翔も雫もお互い図書室が好きだ。そういう時の待ち合わせは図書室だねという話が纏まりかけた時、雫が「あ!」と声をあげた。

「ねえ、翔君」

「なに?」

「あたし、最近いつも同じようでよくわからない夢ばかり見るの」

「いつも同じなのに覚えてないんだ?」

「そうなの。図書室に夢占いの本とかあるかしら?」

「あったとしてもさ、夢の内容が思い出せないんじゃ占えないんじゃないかな」

「ああー! そうよね!」

 そう言って雫が肩を落としたら、翔は繋いでいた手を解いた。自然とふたりの足が止まる。

 なんとなく寂しく思った雫が翔を見上げた。そのさまがとても愛らしくて、翔はひとり優越感に浸ってしまった。

「……翔くん?」

 翔が手を離したのは雫の頭を撫でようとしたからだった。

「大丈夫だよ、雫ちゃん」

 そう言って雫の頭を翔はやっと撫でることができた。

 ぱっと笑顔を咲かせた雫がもっと自分だけのものになればいいのに。

 そんなことを思いながら、翔は再び雫の手を取った。

 翔には、雫のことを誰よりも一番よく理解しているのは自分だという自負があった。物心ついた頃からずっと一緒に居て、幼馴染の中でも一番自分が近くに居ると思っている。しかしそれはただの思い上がりに近かった。

 確かに昔から、ふたりの間ではふたりだけの特別な世界観があった。

 それは翔が作り上げたものだ。

 翔は覚えているのだろうか。

 雫は印象が深過ぎて何よりもはっきりと覚えている。

 どきどきする秘密を翔は雫に与えていた。

 翔が小学校に上がる春、一緒に居られない間のお守りだよと、彼は雫の色んなところにキスを施した。

 最後に唇に軽くキスをして、これは一生雫ちゃんを守るって誓いだよと言った。

 そのお守りと誓いに感化された雫はとにかく翔に従順だ。おてんば変人少女は彼にだけは迷惑をかけまいとしたし、彼の言うことならなんでも素直に聞く。

 ただ問題なのは、翔は可愛さあまって基本的に甘やかすことしかしない。だから彼もおてんば変人少女が誕生してしまった一因いちいんを作ってしまった人間のひとりである。

 翔は閉じ込めておきたいくらい雫のことが大切だ。そんなことできるわけがない。

 雫にとって翔は憧れの存在だが、はたから見ると手懐てなずけられてるだけという感もいなめない。

 そんな翔は、一年しか一緒に居られないという言葉を気に留めなかった雫が一年後どうなってしまうかなど、考えたことすらない。



 これからはまた翔と一緒に学校へ行ける。

 昔のように手を繋いで歩いていると心がふわっとした。

 嬉しくて嬉しくてご機嫌な笑顔を浮かべながら、翔と一緒にまだ慣れない通学路を歩いて行く。

 透子は中学生になった自分には翔と手を繋いではいけないと言っていなかったはずだ。

 翔が雫のそばに居続けることを透子はこころよく思っていない。雫もそれは知っているけれども、どうしてなのかは考えたことがない。

 一緒にいることに理由なんて要らない。だから翔と一緒に居たいと思う気持ちだけで充分で、これからは前よりも少しだけ長く一緒に居られることが嬉しい。

 放課後、翔のところに遊びに行くのは禁止されていた。ここ数年はみんなで遊ぶ時しか一緒に居られなくて、翔の学年が上がるごとにそういう機会すら減っていった。

 ふたりきりで過ごせる時間は朝の一瞬。

 登下校、少しだけふたりきりで過ごせる時間が増えた。

 久しぶりに触れた翔の手は大きくなっていた。毎日頭を撫でられていたのに気付かなかった。変わっていったのは見上げる視線の先の高さだけだと思っていた。

 他愛たあいない話を弾ませながら、そんなことを雫は思った。



「大野! とお前一年か?」

 うっかり手を繋いだまま正門をくぐり、案の定先生に怒られた。そうなることはわかっていたのに、翔も雫ではないが浮かれていて失念しつねんしていた。

「……一年三組です」

「名前は?」

「相田雫です!」

 まるで自分が正義のように名乗った雫に、風紀が乱れてると叱ろうとした先生が腹を抱えて笑いだす。怖いと恐れられている教師の有様ありさまに周囲は絶句ぜっくした。

「中学生は手を繋いだらダメなんですか?」

 真っ直ぐな雫のその質問に、さすがに翔も顔をそむけた。今この先生笑い転げてるけど、確実に自分だけ後で怒られる。

 運悪く見知った顔だらけの野次馬やじうまの口から広まって、噂になることも間違いないだろう。

 ちょうど良いといえばちょうど良い。雫に近寄る悪い虫を追っ払わなくて済む。

 先生が返答に困っている間に翔はそんなことを思い付き、真面目な優等生の顔ではっきりと言ってのけた。

「彼女が中学に上がったのを機に付き合うことにしました」

 言ったもの勝ちだ。

 しかし、翔の刷り込みとは他所よそに、付き合うという言葉に雫の顔が真っ赤に染まった。

 雫にはお嫁さんという将来の夢がある。けれども、現実的に恋人とか付き合うとかそういうことを今まで考えたことはなかった。



 お嫁さんに憧れている雫はいつかお母さんみたいな素敵なお母さんになりたい。ただそれは、特定の誰かに向かった気持ちとはまだ違っていた。

 戸惑とまどった。翔には気付かれないようにしたつもりだけれども、恥ずかしいのではなく戸惑とまどっていた。

 恋人とはどういうものだろう。どういうことだろう。もちろん経験がないから、本の世界でしか知らない。

 憧れはある。ただ、急に現実の自分事として目の前に突然現れたそれに、今どうしたいのかまでたどり着けない。

 翔が好きだから一緒に居たい。しかし翔の恋人になりたいのかと問われれば、それはまだわかりにくい気持ちだった。

 翔はそんな雫の戸惑いには気付かなかった。真っ赤になってうつむいた雫の可愛らしい反応が気持ちよかった。雫は絶対に否定しない、自分を拒絶しないという自信が翔にはある。



 たまたま上級生ばかりだった野次馬の中に、数人の一年生が混じっていた。

「相田ちゃん事件簿、早速更新ねー」

 そう呟いた女子の横で男子がノートになにかメモをしている。




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