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先生




   ◇




 夏の盛りは過ぎつつあり、けれどもいまだ残暑の気配色濃い日々は続いている。

 連日、降り注ぐような陽の光は、燦々と。


「はぁ……」


 しかし空模様とは裏腹に、日の下を歩く暁未の表情はどんよりと、晴れがましくない。

 差している日傘のせいだけでない、陰りの窺える面持ち。

 その浮かない様子の理由は、ひとえに――


(うぅ、また思い出しちゃってる、この間のこと……)


 数日前の勉強会、その最中の出来事に他ならず。

 ふと久坂と目が合って、彼の顔が間近で、

 知らず目を逸らせず、そのまましばらく見つめ合ってしまったこと。

 言葉にしてしまえばそれだけで、そのきっかけもたんなる偶然。

 しかし問題は、その時暁未がつい考えてしまった、

 抱いてしまった願望の方で……


(――ぅああぁ……っ!)


 あらためて思い出すたび、悶えたくなる暁未。

 もしここが自宅の自室であったなら、間違いなく布団をかぶって丸まっていただろう。

 むしろ今もまさに、穴があったら入りたい。


 本当に、あの時の自分はなにを考えていたのか。

 いや、どれだけ考えなしだったのか、の方が的確か。それまで勉強中だったのに、頭はぽーっとしてうまくまわらず、気持ちの赴くままに動きそうになってしまっていた。妹さんの乱入があと少し遅かったら、たぶん目を閉じて明らかな“待ち”の姿勢になっていただろう。本当に、もう少しのところだったのに――


(って違う! がっかりしてどうするのッ? するべきは反省――ッ!)


 また妙な感じになっている頭を、ぶんぶん振って冷まそうとする暁未。

 そもそもあの場には柚もいたのだから、どんな願望であれそれを実行に移すなど、元よりありえない。……むしろ強行してしまえば決定的だったのでは? とまでは、さすがに考えられない。暁未にそこまでの度胸はないというか、度胸以前に恥知らずすぎる。


 しかし恥知らずというのなら、

 なにを隠そう暁未には、前科がある。


 夏旅行、海水浴、その初日の夕暮れ。

 久坂を夕飯に呼びに行く役目を買って出て、寝入る彼を一人訪ねた時。

 普段の、どこか険のある雰囲気が鳴りを潜めた、無防備な寝顔。

 それを見ているうちに、こう、むずむずとしたものがこみ上げ、

 衝動のままに暁未は、彼の口元に吸い寄せられるように……


(――ぁわわあぁぁぁ……っ!)


 悶絶、再び。

 あの時の自分は、間違いなく暴走していた。

 久坂が目を覚ましたので結局は未遂だったが、それで当時の行動、その無節操ぶりがなかったことになるはずもなく。


 ひょっとして私は、自分で思っているよりずっとはしたない子なのでは?

 そう思わざるをえないと同時に、それは否定したくもある暁未。

 少なくとも、彼女がそういう(・・・・)衝動を抱く相手は久坂だけのはず。他の男子には考えもしないというか、そもそも異性はいまだに苦手なのだから。


(こんな、ヘンなこと考えちゃう女子、久坂君はどう思うだろ……? やっぱり引かれるかな……)


 思えば、あの時、

 久坂もまた、暁未から目を逸らそうとはしなかった。

 つまり彼もまた、自分に見入っていたのだろうか。

 あるいは自分と同じような期待を、彼もまた、抱いて……?


 彼の胸の内。

 知りたくてたまらないけれど、

 知れば全部壊れてしまいそうな、

 二つの気持ちが同じ大きさでせめぎ合う。悶々と。


 あれこれもやもやしながら歩く彼女の、

 その前方が、不意に陰る。


 ぼーっとして、電柱にでもぶつかりそうになったのかも。

 そう思い、慌てて日傘を上げて前を見てみれば――


「――ええと、ちょっといいかい? お嬢さん」


 そこにあったのは、否、いたのは電柱などではなく、

 とても背の高い、男の人。


「っ!?」

「ああ、驚かせてすまない。僕は別に、怪しいモンじゃなくてね……」


 思わずびくついてしまった暁未。

 その警戒を解くためか、両手を上げてそう言う男。

 よくよく見れば、彼はただ大柄というだけでなく、

 彫りの深い顔立ち。

 ややくすんだ金の長髪に、同じ色の無精髭。

 つまりどこからどう見ても、外国の人。


「……このあたりで落ち合うはずの知人と、どうもはぐれてしまったみたいでね。どこかで見かけなかったか訊ねたいんだ。かなり目立つ子だから、見かけていたらわかると思うんだけど……」

「ぁ、ぁの、えと……」


 男の口調は穏やかで、その態度もあくまで柔和。

 しかし暁未、くり返すが男性が苦手なのは、依然変わらず。

 あらかじめそれなりに覚悟しないと、見ず知らずの異性と会話することなどとてもできない。

 なのに突如そういう場面になり、加えて相手はいかにも男らしい感じの、外国人。

 どうしようもなく、テンパる。


「ぁ、あああいきゃんとすぴーく、」

「いやあの、別にそのままで通じるんだけど……参ったな」


 ぐるぐる目でぽんこつと化す暁未。

 それを見て頭をかく男。

 そんな二人へ近づいてきたのは、


「――あれ、先生(センセイ)? ……と、喜連川も?」

「おや?」

「!?」


 久坂厳児であった。




   ■




 見知った後ろ姿に声をかければ、その会話相手もまた顔見知りだった。


「なるほど。それで先生は、知り合いを探して喜連川に声をかけた、と」

「そういうこと。……というか君は、やっぱり僕を先生と(そう)呼ぶんだね、ガンジ」

「先生は先生ですので」


 不思議な取り合わせの理由は、訊ねればなんのことはなく。

 納得し頷く俺と、やや困り顔の先生。

 それらを交互に見比べる喜連川が、今度は不思議そうな顔に。


「久坂君の……お知り合い?」

「ああ。こちら、ガル先生(センセイ)。簡単に言えば、俺の恩人」

「恩人……?」


 そんな彼女へ一応、先生のことを軽く紹介しておく。

 俺の言う“恩人”の言葉に、日傘の下の顔がますます不思議そうなものに。

 そのへんの事情に関してはまあ……己の恥を忍んでまで、いちいち語ることもないだろう。


「いやいや、そこは別に“友人”でいいじゃないか、ガンジ」

「先生がそれでいいのなら構いませんが……や、でも畏れ多いです。やっぱ」

「なんでそんなへりくだるんだかね、君は……」


 恐縮気味の俺に、呆れ顔を見せる先生。

 次いでその表情を柔和なものに変え、喜連川の方へと向き直ってあらためて自己紹介。かなり体格の良い彼に若干怯えが入っている喜連川だが、それでもどうにか名乗り返しているのは、ひとえに先生の物腰が紳士だからだろう。


「あの、とてもお上手なんですね。こちらの言葉」

「そうかい? 聞きとりにくかったりしない? さっきはずいぶんと慌ててたけど」

「ぁ、あれはそのっ、すみません……っ」

「ハハ。まあ、こっちでの生活も結構長いから。ともすれば、祖国の言葉の方が忘れがちかもしれないなぁ。……それにしても、」


 会話の途中でふと、喜連川と俺の顔を交互に見やる先生。


「ガンジ、君もなかなか隅に置けないじゃないか」

「?」

「ハッハッ、とぼけなさんな。こんな素敵なガールフレンドがいるなら、学生生活もさぞ楽しいだろうに。ん?」

「ガッ――!?」


 それからそう言って、そばに来て俺の脇を肘で小突く。

 どうもなにか、勘違いをされている様子。ちなみに言うまでもないかもしれないが、驚愕に『ガッ――!?』と声を上げ顔を真っ赤にしているのは、俺ではなく喜連川だ。


「……あれ、二人は恋人同士ではないのかい?」

「女友達という意味ならまあ、仰るとおり。クラスメイトです」

「はあ、それはまた、けど……」


 俺の物言いに若干興をそがれたような、加えてどこか腑に落ちない様子の先生。

 それからまた喜連川と俺を、交互に見比べ。とはいえ喜連川の方は、日傘に隠れるように俯いているせいで、俺からもその表情が窺えなくなっているが。

 俺より頭一つ以上背の高い先生には、なおのこと窺えないはずだが、


「……ま、あまり野暮なことは言わないでおこうか。すまないね、二人とも。歳のせいか、どうも若者の青春には茶々入れたくなっていけない」

「たしかに、ちょっとおっさん臭かったですね」

「ぐっ、言うねぇ……」


 やがてなにかを納得したように、両手を上げて引き下がる意思をしめす。

 そんな彼になんとなく皮肉めいた返しをすれば、存外効いたような顔に。別に年食ってるというほどでもないだろうに。少なくともうちの親よりはずっと年下のはずだが、わりとそのへん気にしている風な先生だった。


 ふと、先生の名前をふくむ呼び声が聞こえ、それが徐々に近づいてくる。

 見れば歩道を駆けてくるのは、二人の女。俺や喜連川と同じくらいの年頃で、片方は赤髪と長身、なによりやたらとでかい胸が目につく。もう一方は対照的に小柄ななりで、全体的に色素が薄く、丸眼鏡と丸っこい髪形が特徴的。


「――おっと。探してるつもりが、逆に探されてしまったらしい」


 先生の呟きからも、やはり彼女らが探し人で間違いないようだ。歳の差が妙な取り合わせだが、彼は外語塾的なのを開いているので、おそらくその関係だろうと思われる。


「んじゃ、僕はこれで。ガンジもたまにはウチに顔出しなよ。家内もきっと喜ぶ」

「はい、近いうちに。そういや本も借りっぱなしですし」


 そんなやりとりののち、喜連川のほうにも軽く会釈してから去っていく先生。

 相変わらず、なにげない所作がいちいち様になる人だ。身なりは多少だらしない時もあるが、それが逆に味になっていたりもするから恐れ入る。




   ◇




「……」


 久坂の知り合いである先生? が去っていくのを、なんとなくぼうっと見送ってしまう暁未。

 やがて自身を呼んでいた女の子たちのもとへ合流する彼。こちらにまで聞こえる賑やかなやりとりを見るに、彼女らにもなかなかに慕われているようだ。


(久坂君もなんだか、敬意を払っているみたいだし……)


 日傘を上げ、ちらりと隣を窺う。

 思えば学校でさえ、久坂のあんな態度は見たことがないような。


 不意に久坂もまたこちらを向いて、ばっちりと目が合ってしまう。

 思わず日傘に隠れる暁未。

 彼とは顔を合わせるのも気まずかったのだったと、遅ればせながら思い返す。


「そういや喜連川は、なんか用事とかあるんじゃねえか?」

「えっ? と、うん。そうだけど……どうしてわかったの?」

「や、でなきゃこんなくそ暑い中、外なんか出ねえだろ」

「あ、そ、そうだよねっ。あはは……」


 質問に質問で返し、さらに返ってきた答えに暁未は苦笑い。そんな単純なことに思い至らないくらい動転していたことに、彼女は我ながら呆れてしまう。


「私はその、おつかいの途中で……あれ? 久坂君もこんな暑いのに外出てるってことは……」

「ああ、まあ俺は別に用事なんかねえんだがな。なんとなく出て来て、正直今後悔してる」

「……」


 あらためて質問に答え直し、その途中でふと気づく。

 気づいたままに呟いてみれば、彼から返ってきたのは、そんなとぼけた答えで。

 ぽかん、と。一時、気まずさも忘れて久坂の顔を見やり、


「――ふふっ」


 それからついつい、吹き出す暁未。

 どんな顔して会えばいいのか、そんな風にもやもやと思い悩んでいたはずなのに、

 顔を合わせて軽口を聞けて、それだけで心が浮き立ち、晴れやかな気持ちになってしまうなんて。

 自分の単純さに少し呆れてしまうような、けどそんな自分も少し嬉しいような。

 ああ、やっぱり私、本当に久坂君に――


「あの、それじゃせっかくだからその……一緒に歩きませんか?」


 弾んだ心のままに、気づけば暁未はそう口にしていて。


「んじゃそうすっか。暇だし」


 久坂もまた、なんでもないように応じてくれて。

 そんな彼の態度がなんだか、やはり暁未には心地のよいものに思えるのだった。

ゲスト出演です。

彼らの出会いについては、たぶん書きません。秘密です。

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