夏がはじまる
■
七月某日。
「あと要るもんは……あったかね?」
自室であぐらをかきながら、一人呟く俺、久坂厳児。
目の前にあるのは大きめの鞄。旅行にでも行くかのような荷物は、そのものずばり、旅支度。
人殺しが露見し、進退これきわまって高跳びしようという準備――では、別にない。
普通に旅行。
といっても、自発的なものではないが。
「――兄キ、ちょっといい?」
「んお」
唐突な呼びかけに、思わず変な声が出る。
ノックもなしに開いた扉。顔を出すと同時に声をかけてきたのは妹、久坂成弥。
歳は俺の二つ下。中二。俺顔負けに変化の乏しい表情と、俺とは対照的な強すぎる眼光を度外視すれば、なかなかの美人だったりする身内である。
兄の贔屓目とかではく、客観的な事実として整った顔立ちであることを、一応しめしておこう。言い寄る男子が多くてうんざりだというのは、小学生の時の本人談。今は女子校通いなので、さすがにそこまでではないとか。
あれ? そこまでではないってことは、女子にももててんのか……?
「兄キ、またぼーっとしてんの?」
屈んで俺の顔を覗き込んでくる成弥。
同時に後ろでくくった髪が綺麗に、さらりと前へ垂れる。
その目はほとんど睨んでいるかのように鋭いが、別に怒っているとかではない……はず。ないよな? 我が妹だけに、表情からはなにを考えているのか読みにくい。もっとも成弥の場合はあまり感情を表に出さない性質というだけで、そこがたんになにも考えていない俺との違いだろうが。
あとは近頃それほど話さなくなった、というのも読みにくさの一因か。
難しいお年頃なのか、日増しに態度がそっけなくなっている気がする。
だからこうして向こうから話しかけてくるのはなかなかに珍しく――
「兄キ?」
「ああわり。なんか用か?」
再度声をかけられ、余計な考えは打ち消し成弥に応じる。
しかし彼女はそれには答えず、その視線はひとまず脇にどかした俺の荷物の方に。
「……友達と旅行、だっけ」
「ん? ああ、明日からな」
「ふうん……」
自分からそちらへ話を振った割に、なんとも気のなさそうな頷きを返す成弥。
ちなみに今日現在、一学期の終業式を終えた午後。つまり旅行は、夏休み初日から。
このなんとも豪儀な日程を決めたのは、言うまでもなく俺ではなくあいつらであり――
以下回想。
『あー……雨ばっかだねぇ……』
さかのぼること梅雨のころ。
例によって集まって昼飯を食う中、なんとも景気の悪い顔でそう呟いたのは古幸だった。
『かび生えそうな顔してんな』
『そこまでヒドくないよぅ! ……や、ヒドくないよね? ないよねっ? あけみんッ』
『大丈夫だからっ。久坂君も、あんまり女の子にそういうこといっちゃダメ』
『そうだな。わりい』
不景気な顔が目の前にある鬱陶しさからつい出た暴言。それを喜連川からたしなめられ、意外だったのもあってか俺は素直に取り下げた。どうも例の実習生の件からこっち、なんとなく俺に対して遠慮がなくなっている気がする彼女だ。
『あー、いーなーカゲト君はー。中部活は休みになんなくって』
『そりゃならないけど……そういいもんでもないぞ? 中は中でじめじめするし』
『だよねぇ、体育の時とかもそうだし。……うぅ、おてんとさんが恋しいよぅ。お外で思いっきり走りたいよぅ……』
『犬か』
『うぅ……わんわんっ』
またついつっこんでしまった俺に、しかし今度は乗ってくる古幸。
その頭を撫でる喜連川からは、とくにおとがめは飛んでこなかった。犬ならいいのか。
『嘆いても吠えても、そういう時期だからな。天気ばかりはどうしようもあるまい』
『まったくもって、スグル君の言うとおり。……なんだけどぉ、嘆かずにはいられないッ! アタシ、この梅雨が明けたら思いっきり外に繰り出すんだ……。――遊びにッ!』
『部活じゃねえのかよ』
三度つっこみ。
……この役割が定着しつつあることを、近頃の俺はほんのりと憂慮している。
『もちろん部活は部活で出たいけどぉ、ほらあれじゃん。梅雨が明けたらもう間近じゃん、夏休みじゃん!』
『だから近えっつうの』
『きゃぁん! それ地味に痛いからやめてぇ!』
寄ってくる古幸の額を指で押し戻す。そういや前も思ったが、なんでこの並び順が定着してんだろうな。俺の周囲の席を、前から左回りに古幸、喜連川、志条、賀集そして大滝。
いやそんな深い理由もないか。たまたま最初そうだったからそのまま、とかだろうたぶん。
『ぅう……と、ともかくね? 梅雨が明ければ、夏! そして夏といえばっ』
『今年もやっぱ猛暑なんかね』
『ノッて?! もっとアタシのフリに興味をしめして久坂君ッ!』
『はあ、夏が、なんだって?』
『そうッ。夏といえばもちろん――海よ!!』
義理で聞き返した俺へ、無駄に表情を決めて古幸はそう言う。
なまじ整ってるから、様にはなるんだよな。いらっとは来るが。
『てことはゆずちゃん、今年も?』
『そそ、出来ればお願いしたいなぁ~って。やぁ、毎度お世話になるのも悪い気はするんだけどぉ……』
『そんなことない。おじさんも、みんなならきっといつでも歓迎』
古幸の海宣言に、志条が反応し短く問う。それだけで通じるようでやりとりは進み、見る限り他の面子もなんの話かわかっている様子。わかっていなかったのは俺だけで、しかし文脈からなんとなく想像はついたのでとくに訊ねたりはせず弁当の残りを片づけていた。
『しおちゃんの叔父さん、旅館を経営してるの』
『そのよしみで、海で遊びたいって時は泊まらせてもらえるんだ、俺たちも』
『代わりに旅館の業務を手伝わねばならないがな。まあそれも、対価にしてはかなりまけてもらっている感じはあるが』
事情を知らないだろう俺を気遣ってか、わざわざ説明してくれる喜連川達。
話しぶりから察するに、要は幼馴染同士の夏の恒例行事、みたいな感じか。
おおいに結構なことだと思った。
自分に関係のない話であれば、とも。
さっそくその叔父とやらにお伺いを立てているのか、しばらく端末を操作していた志条。
『――ん。お部屋大丈夫みたい。夏休み始まったらすぐになっちゃうけど、みんな予定は?』
『私は平気、かな』
『もともと忙しいわけでもないし、今からなら多少は融通が利くだろう』
『たぶん、大丈夫……大丈夫にするッ!』
『俺も顧問に頼めばまぁ、休ませてはくれるかな』
それから問われ、各々がそれに答える。喜連川以外は生徒会に部活にと予定もあろうが、校風が全体的にゆるいこの学校のこと、あまり厳しいことは言われないだろうとは俺にも想像がついた。
そして気づいた、俺へと集まる視線。
『……やっぱ俺も行く流れか』
『当然!! まさか逃げられるとでも……?』
逃げられるかどうかでいえば、逃げられるだろう。今の俺は、そこらの車より断然速い。
そういう話ではないだろうが。そもそも実際、逃げたら逃げたであとあと面倒そうではある。
『久坂君……』
喜連川は懇願するような上目遣いで見てきていたし。俺一人が加わったところで、そう楽しくもならないだろう。むしろ盛り下がる可能性の方が高い。
(……)
少し考えたあと、一つ魔法を行使したその時の俺。
使ったのは前回レベル上昇時に“覚えた”magic――〔示現〕
効果はざっくり言ってしまえば“予言”だ。行使者のこの先にとって有益な情報を、ひとつだけ提示してくれる。ただし他の魔法と違い、この〔示現〕だけは一日に一度しか使えない。たとえどれだけMPが残っていようとも、一度使えばボード上の表示がグレーアウトし、日付が変わるまで発動そのものができなくなる。
ちなみに“予言”はあの音声とテロップ表示で出るので、人前で使っても問題なし。
〔示現〕で提示される“予言”は、基本無作為。ただ、ある程度は行使者の意図を汲んでくれるようで、たとえばこの時なら、行くか否かの判断材料をしめす可能性が高くなる。
そう思い、実行した結果は――
〈 いけ 〉
『……』
至極端的。ああそうかい。
……以前試しに使った時は、もっとまともな文面だったはずだが。
『……わかったよ。予定空けときゃいいんだな?』
『そーこなくっちゃ!』
結局その時の俺が取った行動は、不承不承の了承。〔示現〕の有用性に疑いはないので、とりあえず従っておけば悪いようにはならないだろう、との判断。
以上。ここまで回想。
「というか兄キ、高校に友達いたんだね。それも一緒に旅行に行くような」
「ああ、まあ……」
ややあってからの成弥の指摘。
それについ曖昧な、肯定ともいえないような返しをしてしまう。
この期に及んで、喜連川らを友達でないと切り捨てるのは、
さすがに態度がひねくれ過ぎているだろう。
しかし連中の覚えている好感に見合うほどの好意を、俺が持ちあわせていないのも事実であり。
(本当薄情だな。我ながら)
うしろめたいというか、面目次第もないというか。
いや実際はそこまで切実に考えてはいない。
結局どうでもいい……としか思えないことこそが、本当にどうしようもないところだ。
ふと見れば、成弥がなにやら思案げにしている。
すでに屈んではおらず、直立姿勢でこちらを見下ろしながら、
「――一応聞くけど、男だけだよね」
「ん? いや女子もいる。俺も含めりゃ、半々」
なにげなく投げかけられる問い。
それに俺もまた、なにげなく素直に答える。
「……そ」
「あれ、なんか用事あったんじゃねえのか?」
「いい。たいしたことじゃないし」
それを最後に、踵を返して部屋を出ようとする成弥。
その背に呼びかけるも返ってくるのはそっけない答えだけ。
ぱたん、と戸を閉め出て行く彼女を見送り、知らず首元を掻きながら、思う。
難しいお年頃、だなあ。やっぱ。
◇
「うん……うん、うん。……よし」
開いた旅行鞄を前に、頷きつつ指差し確認している暁未。
自分の部屋で、パジャマ姿の彼女がしているのは、明日の準備の最終チェック。
必要な物はそろっているか、足りない物はないか入念に確認しつつ、
「ふふっ」
知らずゆるむ暁未の表情。
それにはっとして、つい両手で頬をぺちぺちと叩いたりもしつつ。
我ながら、浮かれている。何度目かの、そんな自覚。
いよいよ明日に迫った海旅行。
幼馴染たちとの遠出が楽しみで、その前夜は毎度のようにこうして心が躍る彼女。
わかっている。暁未は今回、いつも以上にそわそわしている。
前日どころか、旅行に行くと決まった梅雨のあの日以来、彼女はそのことに何度も思いを巡らせ、笑みを浮かべそうになった……というか実際、微笑んでいたこともあっただろう。
『喜連川さん、機嫌いいね。なにかいいことでもあった?』
体育で一緒になった他のクラスの子に、そう指摘され赤面したことも記憶に新しい。
たしかに、機嫌がいい。
なぜそうなのかも、やはり自覚していた。
久坂厳児君。
いつもの旅行の、いつもとは違う顔ぶれ。
いつも以上にうきうきとしてしまう理由など、それくらいしか思い当たらない。
(けどこの気持ちって、いったい“どっち”なのかな……?)
お気に入りのクッションを抱き、ベッドに寝転がりながら、
暁未がつい考えてしまうのはそんなこと。
彼に好感を抱いているのは間違いない。
それは自分の窮地を二度も救ってくれたという感謝――だけに留まる感情でもないということも。
しかしその好意は、はたして異性に対するそれなのか。
そう思ってしまう一因として、久坂という存在の特異性が挙がる。
彼は間違いなく、なにか“特別な力”を持っている。
深刻な怪我を負ったようだったのに、起きた時には医者も認める無傷だった栞と景人。
ただの片手の一押しで、すさまじい勢いで吹き飛ばされた大男。
あの日起きた不可思議な出来事。そのインパクト。
それを『黙っていてくれ』と言った彼との、秘密の共有。
それらの要素への気分の高揚と、久坂自身への想いがごっちゃになっていやしないか。
暁未が覚えているのはつまり、そういう懸念。
「うぅん……」
仰向けからころんと転がり、横向きへ。
それから唸りとも吐息ともつかないものをもらし、クッションに顔をうずめる。
自分の気持ちを明確にできず、もどかしいやら、不甲斐ないやらの暁未。
彼女とて歳相応に人並に、色恋沙汰への興味はある。
しかし同時に、そのあたりをいまいち我が事として捉えきれていないのも、また事実。
異性から告白されたことならば、これまで少なくない回数はある。
しかしそれを受け入れつきあうに至ったことは、いまだに一度もない。
そもそも暁未にとって、異性というのは総じて少し恐い存在だ。もともとそんなに気の強くない性格なところに、興味本位の目線や見え透いた下心などを向けられがちとあれば、それも仕方のないかもしれないが。
「――ん! ダメだよね、考え込んでちゃ」
再び仰向けになってから腹筋で身を起こし、暁未は自分に言い聞かせるように呟く。
明日のことを考えよう。
せっかくの海だし、みんなもいるし、きっと楽しくなる。
内心でさらにそう言い聞かせ――と、そこで一つのことに彼女は思い至る。
海で遊ぶとなれば当然水着に着替えるし、現にその用意もしっかり荷物に入れてある。
人前で水着、というのは正直少し恥ずかしい。けど暁未らが向かう先は地元の子供くらいしか泳いだりしない穴場で、一緒に遊ぶのも昔から知っている幼馴染同士だから平気ではあった。
これまでは。
(水着、着るんだよね……当然。久坂君の前で、水着……)
頬が熱いのを自覚する暁未。
いや彼女とて、今までそれにまったく思い至らなかったわけではない。
むしろ旅行が決まったその日から、折に触れて悶々としていたことでさえあった。
加えて先日、柚と栞とで今年の水着を買いに行った時。高校生になったんだし、とか自分に言い聞かせて、少し大人っぽいというか、自分としては少々大胆な感じのものを、知らず選んでしまっていた気もしないでもないような……
(だ、大丈夫っ。さっちゃんもしおちゃんも可愛いって言ってくれたし……そこまで、そんなじゃない、はず……)
また寝転がり、クッションを抱きしめごろごろ悶々としながら、暁未は思う。
やっぱり自分はいろいろと、意識してしまっているかもしれない、と。
また感想をいただいておりました。気づくのが遅れてだらしねぇです。
しかしやはりよいものですね。楽しんでいただけているとわかるのは。




