バックアタック
■
四限、体育の授業が終わり、教室まで戻る途中。
「……」
一人、のんべんだらりと廊下を歩いている俺。
運動して疲れたとかではなく、今日はこれまでずっとこんな調子だ。
それもひとえに、昨夜の一件のせい。
“切り裂きキラー”。希代の殺人鬼の正体は、相手にしても良いこと皆無の変人だった。
それだけでもだいぶげっそりだが、あれがいまだに生きてうろついているという事実もまた、俺を浮かない気分にさせていた。といってもそれは再び起こるかもしれない犯行を憂うがゆえでは、もちろんない。
俺の力を見知ったうえで生きているのは今のところ、奴だけ――その点が、懸念といえば懸念。
これまで人前で力を使った時は、例外なくその場の全員を殺している。だからレベルに関する俺の力が誰かに知れる心配はなかったが、あの白いののせいでそうも言っていられなくなった。
しかし、だ。
(あれがはたして、俺のことを誰かにべらべらと喋るか? いやべらべらとは喋りそうだが、その“話す誰か”が、あれにいるのかどうか……)
そうも思えてしまう。あの白いのに、なんでも話せるような気の置けない相手がいるとは、どうにも考えにくい。むしろあれは、誰かとつるむことなど決して出来ない存在だろう。そこは俺も、似たようなものだが。
よしんばとくにつきあいの深くない人間――たとえば飯屋なんかで偶然隣の席になった相手などでは、俺のことを話したところで冗談としか取られないだろう。存在自体がふざけているような奴の話なら、なおのこと。
そもそも、あの白いのはレベルとは無関係なのだから、俺の力が“人を殺して得た”ものだと知らないはず。たとえ俺が変な力を持つ変人ということが漏れたとしても、それが殺人容疑と結びつくことはない。“変な力”と“殺人”なら、他人に知られたらまずいのはどちらかといえば後者だろう。
要は、なんだ? あんま心配もいらねえのか?
「――久坂君っ」
ふと背後から、遠慮がちな呼び声。
振り返ってみれば、聞き覚えのあるそれは案の定、喜連川のもので。
「なんだ?」
「あ、えっと……」
彼女もまた当然というか、服装は俺と同様学校指定の体操服。ただし上半袖下ジャージの俺に対し、向こうは半袖上着の上にジャージの前を開けて羽織っており、下はハーフパンツ。
俺の問いかけに、若干躊躇いがちに一度視線が逸らされたが、
「その、さっきの体育のとき久坂君、元気なさそうに見えたから……大丈夫かな、って」
「ああ」
ややあって喜連川が問うたのは、俺の体の具合の良し悪しについて。
それを聞いて、曖昧な頷きを返す。傍から見てもわかるほどに昨日のあれを引きずっているらしいと自覚したため、そんな変な反応になってしまった。
当然体調が悪いわけでもないし、くりかえすが肉体的な疲労も皆無だ。それでもげんなりして見えるとなると、どれだけあの白いのに、精神的に疲弊させられたのかという話だ。
「……あの、久坂君?」
「ん、ああ問題無えよ。たぶんあれだ。寝不足」
「そう、なの?」
「そうなの」
いつぞやもしたようなやりとりに、喜連川が少しだけ微笑む。
にしても体調悪そうに見えたから声かけるって、どれだけ人が好いのやら。俺の体の具合など、関心事としては世界一どうでもいい部類ではなかろうか。レベルというおかしな概念のおかげか、現状の俺は体だけはすこぶる快調といっても差し支えないのだし。
(……てかこいつ、男子の方を余所見してたのか。体育ん時)
どんな授業でも真面目に受けそうな印象があるから、少しだけ意外に感じる。先の授業は男子はグラウンド、女子はテニスコートで行われたから、たしかに見ようと思えば双方窺うのは可能ではあるが。
と、
「――あけみん見っけーどーん!」
「ひゃわっ!?」
廊下の角からぬっと現れた古幸が、そのまま流れるように喜連川の背中へ飛びつく。
すると不意打たれ驚いた喜連川は体勢を崩してつんのめり、
「わぷ」
「っと」
俺の胸に両手をついて、もたれかかる形に。
咄嗟に少し後退。そうしないと彼女が鼻を打ちそうだったので。
ちなみに一連の流れの中、【警戒】は仕事せず。敵意も脅威も無かったから、当たり前か。
「あ、あれ? 久坂君もいたんだ。……というかコレもしかしなくてもアタシ、やらかしてる?」
「……」
「~~~っ」
しばし、固まる面々。
というより、三者三様の理由で動けずにいるのだろう。俺と古幸に挟まれる形になっている喜連川は当然として、古幸もまた、意図せず自ら招いた展開への戸惑いで。
二人に寄りかかられている俺もまた、下手に動けない。後ろか左右に引いたら今度こそ本当に喜連川がこけるだろうし、古幸も巻き添えだろう。……ああ押し返しゃいいのか? いやそれよりまず古幸から離れるのが、順序的に自然だろう。
などと考えていると、
「~っ!」
「おおっとぉ?」
意外にも最初に動いたのは、喜連川。
ついた手をぐいっと伸ばし、しかしそれで俺が押し負けるはずもなく、結果古幸ごと押し戻すようにして、彼女は立ち直る形に。
古幸の方はその勢いにやや仰け反りつつも、少しよろけるだけに留まる。
ぐりんと振り向き、
「~~~さっ、さっちゃ、さっちゃんはっ! も、もぉ! もおぉッ!!」
「ご、ゴメンってあけみん! だからちょっとその、いったん落ち着こ? ねっ?」
「もおお……っ!」
親友へと食ってかかる喜連川。
その剣幕に恐縮しきりの古幸。
俺もまた、そんな大声も出せるのかと妙な感心をしてしまっている。
てか喜連川、すっげえ耳赤い。今はこちらから見えないが、あの分だと顔も真っ赤だろう。
あ、こっち向いた。
「ああ、あのっ、ごめんね久坂君ッ。ああのこれはその、べつに久坂君に寄りかかったのが嫌だったからってわけじゃなくてねっ?」
案の定紅顔しきりに、必死で言い募る喜連川。どうもなにやら気を遣われているが、別に嫌なら嫌で構わないというか、仕方ないだろう。体育後の汗臭い野郎に、誰も好き好んで顔を埋めたくはないだろうし。
「というかっ、あの、私まだ着替えてないのに、汗くさかったりしたらそっちもごめんっていうか、そのっ」
「それは別に、」
「――むしろいいにおいだった?」
「さっちゃんは反省! あと久坂君にも謝る!」
「はひッ、以後気をつけまっす。……久坂君も、ゴメンね?」
似たようなことに思い至った喜連川に、気を遣われること再び。
それに応えようとしたところで古幸の茶々が入り、そちらへ叱責も再び。懲りろ。
「まあ、あんま気にしねえように、だな。互いに」
「う、うんっ」
「そー言ってくれると気が楽だよアタシも」
「てめえは自重しろ深く」
「お、おっしゃるとおりに……」
とりあえず適当なまとめで、事態を収める形にしてそれぞれ歩き出す。女子は更衣室があるが、野郎の着替えは基本教室。さっさと戻らないと、着替え中にクラスの銘々が昼飯を食い始めかねない。
「ん?」
途中、ほんの少しだけ【警戒】が発動したような気がしたが、
「? 久坂君?」
「……や、なんでもねえ」
すぐに霧散してしまう。
とはいえ、この程度ならたいした脅威でもなかったのだろうと、その場は捨て置くことに。
◆
そんな三人の南校舎廊下でのやりとりを、向かいの北校舎の窓から見ていた男子生徒が一人。
「――チッ!」
否、見るというよりは睨んでいるといった方が適切か。加えて苛立たしげに舌打ちまでしている彼は名前を青山悠希といい、視線の先のうちの一人、古幸柚の部活の先輩にあたる。
彼の不機嫌の理由は当然、今目にした光景。自分が目をつけていた女子が他の男とじゃれあう様を、なぜ見せつけられねばならないのかと理不尽さすら覚えていた。
正確には二人だけでなくもう一人女子を挟むようにしてだったとか、そもそもが事故のようなものだったなどという事実は、悠希の不機嫌を解消したりはしない。というか前者の場合、その挟まれていた女子が二年にまで評判が届いている美少女だったという点は、むしろ苛立ちを加速させる要素でしかない。
そしてもう一点。――というより、それこそが悠希の腹立たしさの最たる理由で。
(なんなんだあのヤローは! この間のことといい、つくづくオレをムカつかせやがって……!)
記憶にも新しい先日の出来事。
得体の知れない動揺からつい暴力を振るってしまった、その相手がまさに視線の先の男だった。
幸いか、あの件が教師の耳にまで届くようなことはなかった。だがあの場で多くの奇異の視線を浴び、悠希は自身がなによりも尊ぶ面目を潰された。加害者である彼だが、その点のみ挙げればむしろ害を被ったのは自分だと考えている。
柚に関してもそうだ。あの出来事を境に、彼女が自分を見る目に奇異の色が混じりだした。
やや棘のある対応をされるのはまだいい。そんな態度を、悠希は柚なりの照れ隠しと捉えていたから。だが変人を見る目を向けられるのは、プライドの高い悠希にとって看過できない事態だ。
不当なイメージを払拭するためにも、柚へのより積極的なアプローチを必要としている悠希。
だから先程も、彼女の姿を見かけ嬉々として話しかけようとしていた。
しかし柚はこちらに気づかず去っていき、そのうえであんな展開である。
まったく苛立たしい。わからないのは、あの瞬間の柚の表情だ。予想外の事態に呆気に取られ、驚き、そしてその後に見せた、恥ずかしげなはにかみ。あれではまるで……
ありえない、と悠希はその考えを打ち消す。
あれはたんに柚が初心だからで、相手があの野郎だったからというわけではないはずだ、とも。
そう自分に言い聞かせなければいけないという事実がまた、
苛立ちを加速させる要因ではあるのだが。
「――機嫌が悪そうだね。たしか……青山君、だったっけ」
「!」
不意に声をかけられ、悠希は驚きとともにそちらへ目を向ける。
声の主は長身の男。たしか関矢とかいう、先月からこの学校に赴任している教育実習生。
こちらへ歩み寄る関矢へ、つい険しい目を向けてしまう彼。容姿で自分と同レベルにいる同性は、例外なく悠希の矜持に引っかかる存在なのだ。
そもそもこいつは、自分になんの用なのか。
「彼……久坂厳児君のことが気になるかい?」
そう思ったはしから、関矢から投げかけられる図星ともいえる問い。
同時にあの忌々しい男が、たしかに柚に久坂と呼ばれていたことも思い出す。
「だ、だったらなんなんだよ? それがなんか、アンタに関係あるか……?」
動揺から敬語を使うのも忘れ、そう問いかける悠希。
それを気にした風もなく、目の前の相手は真意の掴めぬ薄い笑みを返すだけ。
ややあって、
「ひとつ、いい話があるんだが……どうだろう、乗らないか?」
「……?」
「なに、君にとっても、きっと悪いようにはならないはずさ」
関矢がおもむろに持ちかけてきたのは、そんな奇妙な誘いだった。




