長く暗い夜の果てに
星の王子さまの孤独を、ベッドでぬくぬくした妄想だけを食べている引きこもりに模様替えして書いてみました。
冬の夜明けの冷たさと一緒にファンタジーの温もりを感じていただけたら幸いです。
長く暗い夜が続くのが一年の大半だった。夜ばかりが長いとそれが当たり前となって慣れてくる。むしろ、眩しく辺り一面が白色にしか見えない短い夏よりもサノバビッチはそちらに馴染んでいた。だんだんに明るさが増してくる季節の前はたしかにわくわくはする。が、それが近づてくると、いつもそわそわして、それに纏わるひとつひとつが気にかかる。いらいらが始まっていく。
思っていてもやり場のないことはわかっているのに
それは決まっていて、始まってしまうのに
「あと少し、あと少しで済むから」を言って聞かせてやったり「もう少し、もう少しだから・・・・・辛抱して」と縮こまったりを繰り返してやったり、だんだんと暗さが増して、長い夜の季節をやっと取り戻す。安心した心根に辿着く。すると、ほんとうの住処に戻ったような気がしてきて、「そうだ、やっぱりここ、ここなんだ、ここだけなんだ」と嚙みしめ嚙みしめベッドに入る。いつもよりゆっくりと、おおぎょうに、おおげさに。
それが、サノバビッチの1年だ。
長く暗い夜の間は、家から出ることは減っていく。いや、ほとんどなくなっていると言っていい。ベッドだけが占めている部屋がひとつあるだけのこの家では自ずとベッドに温まるだけの日々が続く。外に出なければ身体が汚れることはないから風呂を立てることも減っていく。ほんとうに指を折って数えるくらいしかない。食べるものはいつも戸棚に入っているから、そうなったときにその扉を開ければいいだけだし、それに戸棚に入ってるものばかりを食べていれば、排泄だって大小全ての時間を足して、ものの10分と掛からない。
おしっこもうんちも、薄いオレンジジュースの色をしていて、多分その中に含まれているフルーツの匂いしかしない。ベッドのぬくぬくに戻ると、食べたものが喉から腹にもぞもぞしながら落ちていく様子を思い描く。何度もあたまにスケッチしているから目を開けても閉じてもスケルトンになった腹の様子は見えてくる。オレンジのかたちは水分が抜けて小さくなっていったけど、それ以外に変化は起こらない。
そのときに思う。
食べてから排泄まで、入り口から出口まで、それなりに細かったり攪拌する溜まり場があったりするけど、「からだって、学校の理科実験室に備わっているチューブやパイプを組み合わせれば簡単に出来るんじゃないか」って。
そこで、一瞬に反転する模様替えの場面展開が入り込む。
サッとテーブルクロスを引くように、エレガントに。
大きなロウソクの明かりを灯したフォークのお化けみたいな蠟燭台と、グラスの口元から細かい泡がシュワシュワたってる足の細いシャンパングラス、それに煮込みを山盛りした下皿付きの重たいシチュー皿がわんさか載ったテーブルは、小刻みの震えも起こさずにトラ杢模様の地肌を見せる。
食道はメスシリンダー
胃ぶくろ胆のう膵ぞうの三すくみには、イチジク浣腸のかたちをした握るたびゴムの匂いを発散させる大小3つの空気ポンプ
小腸は黄色地味のついた細いチューブだし、大腸は実験台のバルブを繋ぐようガムテープでぐるぐる巻きしたマットなヒューム管
たまには空気ポンプが発散するゴムの匂いが近づきすぎて、ゲップのような嗚咽を吐くことだってあるんだから、組み合わせは完成形に近づいてきている。
組み立てが終わったら分解して、ふたたび実験準備室へと戻す。明日のために整理整頓は大切だ。そのままにしておくと、それぞれ番号のついた器具の在りかが分からずに、次の日の組み立て遊びに支障をきたしてしまう。
「次にやってきたぼくに怒られないように、悲しませないように、今のぼくはやるべきことをちゃーんとやっておかないと」
お風呂だけは外に回って、積まれた薪の竃くべから準備しなければならない。風の強い中、マッチの火は一度には付かないし、点いたら着いたで、火の粉が舞い、ほこりが舞い、ゴホんゴホんが続く。白い筒袖服にも煤けたものが着いたり、汚れた色が付いてくる。火が落ち着いて、外を照らす灯りが十分になったら、水を汲んで、白い筒袖服から下着まで脱いで洗濯をする。タライがホコリまみれのときは、掃除から始めなければいけない。洗剤やら洗濯板やらを前もってに家の方から持ち出しておかないと往復が何度も重なって、急がないと風呂が湧いて竃の灯りが消えてしまう。灯りを消さないように薪を余計にくべたら、今度は熱くて入れずにもう一度井戸まで回って、水を足しに行かないといけなくなる。
だから、現実のお風呂を立てる回数は減っていく。長く暗い夜の続く間は起きてするそんなぐるぐるは横においてベッドでぬくぬくしていればいい。
だけど、眩しくて辺り一面が白色しか見えないときは、大勢がやってくる。明るい季節にぴったりなバカンスを過ごしにきたゴージャスな人たちで溢れかえる。ゴージャスな人たちは、好き勝手にサノバビッチの家の周りに豪華な仮住まいを立てたりご馳走を作ったりするけれど、風呂は立てられないから、サノバビッチの家のお風呂を使うから、もともとが親切で働き者の余力を皆んなサノバビッチに注ぎこむ。
だから、夏の季節もサノバビッチは何もやらずにベッドでぬくぬくしていればいい。
「入りたいときはいつでも声を掛けて、サノバビッチ。一番風呂に入れるように井戸から水を汲んで新しいお湯にかえてあげるから」
「お腹が空いたらいつでも声を掛けて、サノバビッチ。料理上手がいっぱいいるから何でも好きなものを声に出して言えばいいよ」
そんな溌剌した声がベッドの上を飛び交う。
はじまりのときはいい気分だ。見たことのない王様になったような気分でワクワクする。それがソワソワに変わり、それから先はずっとイライラが続いていく。
声ばかりで姿を見せない明るく楽しいひとたちは、短い夏のバカンスを楽しむお金持ちの国からやってきた観光客のように、サノバビッチに優しく親切に接してくれるけれど、自分たちの楽しさの輪の中には入れてはくれない。はじめっからサノバビッチを自分たちの範疇とは違うものと決めてかかっている。
もちろんそんなことを尋ねることは叶わない。けど、サノバビッチにはようく分かる。
ー 卵の白みだけでつくったフワっフワっのケーキも、肌に載った雫が離れないトロっトロっのお風呂も
みんなバカンスのために持ち込んだものばかりだ。ぼくがやるように洗濯の手間がでてくるような汗水垂らしてやってくれたものじゃないんだ
ぼくがこんな気持ちでいることを誰も知らない。それなのに、皆んなぼくを高貴なものを見る目で見つめてくれてる。
好奇なものではなく、高貴なものだ。
首を少し上に向けて、尊ぶような強い決意を込めたまなざしでひとり見つめるひと。
お互いを見つめ合う時間ばかりが長くて、忘れてしまいそうなぼくを思い出し、慌てて早口言葉みたいな呪文を唱えるふたり。ときに、意識せずに、ハーモニーに聞こえるふたりの声がぼくは好き。
皆んな、ぼくに贈り物をしたがる。強い決意をこめた眼差しの代償を乞う。
声が聞こえる。もっと望んでください、あなたが望むことでわたしの願いは叶えられるのだから。あなたへの代償がわたしの希望を強くするのですの声が。
ぼくには欲しいものなんてないのに。
外に回らなければ立てられない風呂のついた小さな家。そこには温かなベッドと、いつもオレンジの食べ物を入れておいてくれる戸棚。それ以外のものや、それ以外のものを望むぼくを想像できない。
実験準備室に片づけてある膨大なパーツの整理整頓だけであたまのなかは忙しいのに、これ以上のものの入る場所は生み出せない。
すると、「わたしを拒まないで、サノバビッチ、あなたには痛いおもいはさせていないのだから、あんなにもたくさんの木を切ってひと冬中暮らせるだけの薪を拵さえてあげたのだから」と言う。
そして、「ぼくを叶えて、サノバビッチ、食べたあときみの身体はオレンジ色で潤うのだから、おしっこもうんちも美しいオレンジに繋がるよう拵さえてあげたのだから」の声が聞こえる。
眩しく辺り一面が白色に近づけば近づくほど、そのざわざわした声はひとつひとつに解きほぐされて、贈り物や代償といったものを両脇に抱えてやってくる。
薄っぺらな、透かして見えるくらい薄っぺらな人型のなりなのに、世話を焼こうとする。友達になろうとする。一体になろうとする。
ここを楽園、天国、パラダイスと呼んで、バカンスを過ごす顔に変わっていく。
碧色の海から引き上げたブロンズ像よりも芸術な顔と身体のアマゾネスさんは、力持ちで働き者だ。バカンスシーズンだけでなく長く暗い夜の続くサノバビッチひとりだけのためだけの分の薪を山から切り出し、運んで、割って、大きな山を拵える。サノバビッチひとりの小さな家よりもうず高く薪の山はそびえ立つ。
バカンスにやってきても珠の鋼の筋肉を休ませることはない。身体を休ませることをしらない出来ないアマゾネスだからだ。
ー ゴーン、ゴーン・・・・・ザクザク、ザクザク・・・・・・・カーン、カーン
アマゾネスさんが木を切り出し、枝打ちした丸太を此処の家まで運び、割っている音が家の中にまで響いてくる。ベッドでぬくぬくの湿った布団を通ってきて聞こえる。
アマゾネスさんのブロンズの肌から零れる汗の粒は、硬い。鋼の痛さが伴う。鋼の粒の雨あられが飛び散る。ほかのバカンス客は当たったら最後ひとたまりもないから、てんでバラバラ逃げていく。たまに当たってヒト型の薄い紙の身体が破けたり穴の空いたバカンス客もいるけど、誰一人途中で帰るものはいない。せっかくのバカンスをそんなことで手放して各々を待っている現実や日常に戻るような真似はしない。ぼくの家は安全だ。ぼくのためにしてくれていることだもの。怪我をしたり痛い思いをすることはない。ほかの人がうらやむように、アマゾネスさんはぼくが求める数少ないものを提供する。白くて眩しい季節に皆んなのための毎日立てるお風呂の薪、長く暗い夜の続く間に数えるだけ立てるぼくだけのお風呂の薪。
「砂漠の街の広場に吊るされているアレって、アマゾネスさんじゃない」
白色に包まれた眩しさを、これ以上明るく出来ないところまで近づいて、それを突き破ると雲が晴れたように穏やかな緑と茶色した平らかな風景が垣間見えて、その中でアマゾネスさんが大きく哀しい顔をしてこちらを凝視していた。
「痛い」「いたい」「あいたたぁー」と周りの男たちの叫び声が聞こえる。4メートルの大きな身体を収まる家は見つからないから、場の中央のシンボルのようなかたちでアマゾネスさんは吊るされている。そんなアマゾネスさんの美しさに遠目から見惚れた旅人は、喉の乾きよりも先に、砂漠で見つけた泉よりも先に、首を差し出すように彼女の足、腕、首筋に唇を押し当てる。
触れるか、触れないか。その薄い刹那に打擲は飛んでくる。
ほんとうに、軽く、跳ねよけるつもりだけなのだ。
夏の夜のブーンの音が喧しく、指先ひとつで追い払う夜の虫を追い払う眠りばなの人差し指のように、そぉーっと、軽く。
けれど、男の胸板よりも厚い親指のはらでぶたれた男の首はクルリでんぐりかえりしてしまう。両足の膝小僧が逆さくの字を描いてしまう。腕の動く男はいざっていき、手足とも動かぬ男は仲間におぶされていく。
たまらん たまらん
たまくそ たまくそ
たいさん たいさん
「石畳だけが美しいだけの街の古い小さな食堂でてんてこ舞いになっているアレって、オルペウスさんじゃない」
白色に包まれた眩しさを、これ以上明るく出来ないところまで近づいて、それを突き破ると雲が晴れたように穏やかな緑と茶色した平らかな風景が垣間見えて、その中にオルペウスさんが冴えない顔をしてこちらを凝視していた。
今度は此方のオルペウスさんを覗いてみる。窓の外を覗いてみる。ベッドで座ったまま窓の外の楽しそうなバカンスを覗いてみる。料理上手だと吹聴している背の高いオルペウスさんはいつも2人のガールフレンドを連れてくる。どちらもうっとりするくらいに美しい。白銀のようなブロンドとブルーサファイアの瞳、深海からたったいま上がってきたような黒髪にアオウミガメの緑色の瞳、ほぼほぼ素っ裸の彼女たちの肌はここに来るまでずっと蜂蜜の甕に浸かっていたような茶褐色の肌だ。毎シーズン、その光景は変わらない。彼が親切なのも変わらない。料理の腕を上げて、「子羊を食べるなら、いまはチョコレート仕立てのパイ包みが一番先端をいっている」と誘ってくれる。
オルペウスさんの作る料理はどれも綺麗。美味しいのは当たり前であって、見たら、心臓が、いっぽ前に飛び出す美しさでコーティングする。バカンス用に持ち込んだチョコレートのフルラインナップばかりでなく、サノバビッチが長く暗い夜を過ごす間に食べている戸棚をあけたら出てくる毎日の同じ食べ物も美しさで仕上げる。おしっこやうんちもオレンジの色や匂いをまとって、もともとのフルーツの存在を最後まで発散させているのはそのせいだ。絵描きや歌うたいが求める美しさと同じものをオルペウスさんは欲している。オルペウスさん自身が美しいのもふたりの女の子が美しいのも、「美しさは波のように繋がり形づくられていく」精微な均衡を体現しているからだ。
ふたりの女の子は彼以上にとても親切で、隣にいるオルペウスさんが怒り出すんじゃないかといったことまでしてくれる。
これも精微な均衡の体現だ。
こんなことされたら実験準備室に片づけてある膨大なパーツの整理整頓だけで忙しいサノバビッチの中にも熱くて湿ったものがちゃんと宿っているのを気付かせる。実験準備室の棚に隙間をつくって、温めた蜂蜜かジャムで拵えたようなものを用意しなけりゃと、心配が浮かぶ。
ところが、向こうのオルペウスさんはゴージャスじゃない。サノバビッチの知らない多くの年配のお客たちから注文を言われ続けている。それはオルペウスさんが求めているものとは違う注文だ。
「とにかく、肉よ、肉。どんどん腹いっぱいに溜まっていく肉を早く持って来なさいよ」
「ほら、にいちゃん、皿もビアマグも空っぽになって乾いてきてるじゃないか。代わりのビールとチキンを早くこんもり持って来なよ」
同じくらい綺麗な顔をしているのに、同じくらい気品に溢れたしなやかな身体をしているのに、だれもオルペウスさんの容姿に目をとめない。オルペウスさんは作り笑いしながら、美しさは欠片も混じっていない料理を汚い口をしたお客を黙らせるために作り続ける。
向こうのオルペウスさんは蜂蜜色した女の子やチョコレートが漂う料理に囲まれていない。
向こうのオルペウスさんは現実の美しいものが石畳を除き何ひとつない古くて小さな此処の街から一歩たりと出たことがない。
ここの窓の外で浴びるようなバカンスを楽しんでいる眩しさはひつとも見当たらない。
「今度こそは」と、向こうに見えるオルペウスさんが何か唱え出した。大きな口したおばさんたちの罵声にはチキンとビールで蓋をして、深淵な目をしてこちらを見ている。
「カッコいい最先端の料理を出したいんです。真っ白なテーブルクロスの掛かった大きなテーブルの真ん中に出したいんです。酔っ払いや腹いっぱいになりたいだけ客が店の真ん中でなく、美しい料理が真ん中の憧れのレストランのオーナーシェフになりたいんです。それと・・・・」
すこし小声のひそひそに変わったのでサノバビッチはベッドの上で立ち上がり、すこし広がったその空間の隙間に耳をそばだてた。
「アンナとメアリーふたりの腰を両脇に抱えて・・・・あの眩しいバカンスに繰り出せますように」
深淵なオルペウスさんの目が少しよそ見をすると、店の壁にはいつからかけているのか紙質がもう黄色に変色したキャンペーンポスターが貼ってある。お金持ちの国のバカンス客に向かって、ほぼぼ素っ裸のふたりの女の子がにっこりと微笑んでいる。
けれど、オルペウスさんは本当のことをしっている。アンナとメアリーはオルペウスさんだけに微笑んでいることを。
「出来る事なら叶えてあげたいねぇ」とサノバビッチは窓の外のオルペウスさんに呼びかける。ポスターがあんなにくたびれるほど願っているのだもの、此処で叶えられている一部始終をあそこまで連れて戻って叶えてあげたい。だって、オルペウスさんは美しいのだもの、パンと手をたたけば一瞬で本当のことに気付くはずだ。
アマゾネスにさんだって同じだ。サイズだけの問題じゃないか。彼女が小さくなるか、男たちが倍になるかすればいいだけのことじゃないか。アマゾネスさんは美しい。パンと手をたたけば一瞬で本当のことに気づくはずだ。
ー 高貴な僕になら何かしてあげられることはあるはずだ。
白色に包まれた眩しさを、これ以上明るく出来ないところまで近づいて、それを突き破ると雲が晴れたように穏やかな緑と茶色した平らかな風景は、はっきりしてきた。夏のてっぺんの明るさがようやく終わるのだ。これからはだんだんと暗がりが増して、バカンス客は仮住まいを片づけ、各々の日常に戻っていく。これからは、サノバビッチだけの一年の大半の長く暗い夜の続くのだ。もうそわそわやいらいらから開放される静かな本来の当たり前の場所になる。
ひとりの小さな家
ひとりじめしてるオレンジ色の食べ物
ひとりだけで立てるお風呂。
ひとり・・・・・ひとりじめ・・・・・・・ひとりだけ
ひとりだけがぐるぐる回る。そわそわといらいらは消えたのに、音の無いがらんどうがガラーンガラーンの音ばかり鳴らして、耳に詰めてくる。
「憧れの眩しいバカンスに住んでるのに巣ごもりしている変わり者だ」と、ただただ好奇の目で見られているだけなら、どんなにか気楽なことだろう。
と、サノバビッチは言っても思っても仕方のないことを繰り返す。繰り言は眩しいバカンスも暗い夜も繰り言は一番よくないことは分かっているのに。
ー 願っても叶わず、信じてもくれず、何も出てこずに、捨て置かれる。
そうであれば、そわそわが纏わりついたり、いらいらが膨らんでくることはない。「あと少し、あと少しで済むから」を言って聞かせてやったり「もう少し、もう少しだから・・・・・辛抱して」と縮こまったりを繰り返してやったも起こらないはずだ。
繰り言は、日ごとに長くなる。一言たりと減らず、変わらず、増えていくばかり。
戸棚を開けた食べ物の後ろには小さなオルペウスさんが秘仏のように膝を折り祈る姿勢のままだ。
アマゾネスさんはこの小さな家の倍に積んだ三角の錐の先から、燃えるような赤毛の先をチロチロ蛇の舌のように見え隠れさせている。きっと空気椅子の格好のまま我慢してその大きな身体を隠しているのだ。
ふたりとも帰りたくないんだ。ずっと此処にいたいんだ。ううん、いたいんじゃなく、願いをかなえたいんだ。
「オルペウスさん、アマゾネスさん、高貴な僕に出来ることって、・・・・・・こうして現実のあなたたちふたりの願っている姿を、いつまでもいつまでも見つめ続けることだけなんだ」
サノバビッチは、もう逃げなかった。
夏のてっぺんの明るさから逃げなかった。
自分ひとりだけの長く暗い夜へと逃げなかった。
そわそわやいらいらを理由にして現実を見ないようにしていたサノバビッチへと逃げなかった。
あの星には僕が一生掛かっても数えられないほどの人たちが毎日生きている。
こうして今も僕に向かって願ってる、祈ってる。だけど、ぼくがこうして見つめ続けていられるのはふたりしかいない。
ごめんなさい、オルペウスさん、アマゾネスさん。僕にはあなたたちの現実を見ていてあげることしかできずないんだ。声に出すことも、辛さや哀しさに触れてあげることもできずないんだ。
ごめんなさい、ほかの大勢の人たち。僕にはあなたたたちの現実どころか名前さえ知らないんだ。こうして今も、いまのこの瞬間でさえも、僕に向かって願っている、祈っているのに、知らないんだ。ほんとうにごめんなさい。そして、ありがとう。
僕は、感謝のこころで最期を迎えることにします。
「あっ流れ星、きれい・・・・とても綺麗な流線型の涙した流れ星」
その日、世界中のどこの夜からも、綺麗な流線型の涙したマイナス10等級の流れ星が見えた。その流れ星の名をしっているのは、オルペウスさんとアマゾネスさんのふたりだけだった。