あの笑顔をもう一度
美しいピアノの音。鍵盤を慣れた手つきでたたく軽快な指。
大好きな母の、大好きなピアノの音。
大好きな父の、大好きな優しい笑顔。
何時から変わったのか、その全ては。
知らない間に、僕の幸せのピアノが、
父から笑顔を奪う唯一の原因だった。
暗闇で飛ぶガラスの瓶、煙草の灰皿。
繰り返される、父からの罵倒と暴力。
幸せだったはずのピアノが、僕らの、僕の全てを壊してしまった。
「耳障りなんだよ!」
「ごめんなさい……」
「へたくそ」
「ごめんなさい……」
「邪魔だろ?ピアノなんて」
「……はい…」
もっと上手く弾けたなら……。
もっと上手になれば、また褒めてくれる。
そう信じていたのに。
父さん……。
『ピアノ』
僕、竹中律は、学校が嫌いだ。
クラスは、教室は、息が詰まるような密閉空間。本当に酸素はあるのかと疑えてしまうほど。クラスメイトの目はいつも怖くて、鋭いナイフみたいに見えて、僕は誰の顔も見られなくなっていた。休み時間はやることがないから机に突っ伏して、寝たふりをしてやり過ごす。僕はいわゆる陰キャだ。がり勉っていうほど勉強好きじゃない。それでも一応馬鹿ではないかもしれない。でも僕にははっきり言って何もない。ただ平穏な日を願って、誰にも目を付けられないようにと息をするだけの日々。高校は中三の時の担任の先生からの勧めで、不登校がちな僕にも行きやすいところを見つけてくれた。
入学してから、もう三年目の夏前。僕は未だに進路目標の決定に迷っていた。進学する気にはなれないけれど、就職と言うのも、社会に出てうまくやっていけるかどうかわからない。社会に出たらそんなことは言っていられないだろうか。それでもまだ僕はぎりぎり学生の身分だから、甘えだと言われてもそう言っていたい。僕は酷く、自信がない。
唯一やりかったのはピアノ。でももう鍵盤を目にすることすらできない。やる気がないんじゃない。怖いんだ。
ぐちゃぐちゃ考えているとチャイムが鳴った。時計はもう五限目の時間をさす頃。チャイムは授業開始五分前の予鈴だった。僕は机に預けた上半身をゆっくりと起こして、机の引き出しから五限目の、現代文の教材を引っ張り出して机に置く。まわりの人たちは慌てて教材一式の用意をする。余裕がある僕は半分寝起きで開き切らない目を擦って、あくびをして先生を待つ。ちょうど開始のチャイムが鳴る頃に、先生は教室のドアを開けて現れた。号令係の声掛けで起立、礼、着席をすると、先生は教科書を開きながら指示をする。
「はーい、じゃあ今日は三七ページの第一、第二段落をマル読みして、終わったらそれぞれの個人でプリントを進めていくぞー」
先生の指示で一斉に(ちょっとバラつきあったかも)教科書が開かれて、名前を呼ばれた人から順番に読み進めていく。読み終えたら、事前に配られてあるプリントをそれぞれで終わらせる。来週に提出らしい。今回の範囲はそこまで難しい内容ではない。だからあまり手を止めずにスラスラと解いていける。文字をだらだら書き連ねながら、ふと頭の中をよぎるのは「進路」と言う単語だった。
進路……進路……。
ぐるぐるとまわる思考の中で、荒れ狂う父の顔、進路の話をする先生の顔、亡き母の顔がよぎって、自然と肩に力が入る。
だってどうしたらいいかなんてわからない。わからないから相談することもできない。先生に相談してはいけないような気さえしていた。先生はただ勉強を教えて卒業させるだけの人だと、僕はそう思っているから。考えるほどにシャーペンを握る手の動きが止まっていく。大学進学を押し付ける父の圧力に押されて反論もできない。
僕はやっぱりダメ人間だな……。
落ち込んでいると、授業終了のチャイムが鳴った。
「号令いいから各自で終わらせとけよー」
先生はそういうと教材をまとめてさっさと教室を出ていった。僕はまた机に突っ伏す。次は教室でのロングホームルームになるから、教材は特にロッカーに入れる作業もせずに僕はチャイムが鳴るまでとりあえず目を瞑った。
目は瞑ってもすぐには眠れない。自分の呼吸音と、まわりで賑わうクラスメイトの声がする。あんなに楽しそうに笑っていられるのが僕はただただ羨ましい。見ていると劣等感しかなくて辛いから、僕はいつもとりあえず目を瞑って何も見ないようにしている。目を瞑ってほんの数十秒経った頃だった。誰かが近くすぐそばにいる気配がして、僕はゆっくりと目を開けて体を起こす。目の前には誰か女の子が立っていた。
「居眠り王子おはよう!」
そう言いながら僕の髪をわしゃわしゃと搔き乱す。それが誰なのかは声で分かった。幼馴染の浪川芽衣だ。芽衣は僕の前の席の椅子に座った。僕の方に体が向いているのがわかる。顔は見れなくても。
「相変わらず律は私の顔見てくれないなぁ」
芽衣は優しい声で言う。どこか残念そうに。
「……人の顔苦手なんだよ」
僕は唯一芽衣だけには話ができる。幼馴染だからか?
「そんなに怖がらなくても鬼じゃないよ?私」
「うーん……」
芽衣は、僕がどうしてこうなったのか知っている、と言っても僕の事後報告。芽衣は中学時代、ほとんど学校にはいなかった。なにせプロピアニストだから。この年で。
「……本当に、もう律はピアノやらないの?」
突然芽衣の声はさっきまでの優しくて温かいものから一変、寂しさをまとった声に変わった。僕はうんともすんとも言えず、ただでさえ下を向いている目線を伏せた。
何も言えなくて黙ってしまったけれど、芽衣は何も言わずにそこにいた。こんなままではダメだってわかっていても芽衣のそういう行動は僕にとってとても心強くて、変な言い方になるけれど、ずっとそこにいてほしいと思えてしまう。
二人の間に沈黙が落ちたと思うとチャイムが鳴った。ドアを開けて担任の松井先生が入ってきた。両手にはいくつか束になったプリントをもっていて、教卓の上にそれを少々雑に置くと、「始めるから席つきなさーい」と少し大きめな声で言った。
「変なこと聞いてごめんね」
芽衣はそういうと優しくそう言って自分の席へ戻っていった。僕は何も答えられなかった自分が不甲斐なくて、頬杖をついて窓の外を眺めた。僕の席は窓のすぐ横だから少し目線を外すだけで外が見える。青くて広い果てのない空を自由自在に飛び舞う小さな鳥が、僕にはたまらなく羨ましく思えた。鳥のように飛べたら、きっと楽しいだろうな……。
「今日の六時間目はね、簡単に二者面談するからねー」
「えー!」
「えーじゃないよー、皆の進路はちゃんと把握しておかないとでしょー?」
明るい系の男子と松井先生の会話はいつも楽しそうで、まるで友達のようだ。僕も大人の人とそういう会話をしてみたいと思うけど、思うだけで実行には移せない。恥ずかしいことに人見知りで引っ込み思案だから。
「じゃあ、出席番号順に隣の学習室に来てねー」
そういうと特に持ってきたプリントを配るでもなく、ペンと小さなメモ帳だけをもって教室を出ていった。教室は途端に賑やかになったけれど、自主的に勉強道具を用意して勉強を始める人もいた。僕は特に何も用意することなく机に突っ伏した。突っ伏す僕の後頭部には全開になっている窓からの心地よい風がよく当たる。桜の木の花びらは全て散っていて、もう青々とした葉が沢山ついている。ガサガサと音を立てて風に揺れているけど、まだ夏じゃないからセミの鳴き声はしない。
柔らかいよりは少しかたい印象の、夏が近づく風に吹かれて、僕はゆっくりと眠気に飲み込まれて……。
「居眠り王子ぃ!」
いきなりそんな声がして強引に眠気を払われる。驚いて体を起こして声の方向を振り向くと、椅子の上にあぐらをかいて座った芽衣がいた。
「……そんな座り方してたら、モテないよ?」
思い切って余計なことを言ってみる。。
「うっさいわ!」
あくまでも着座姿勢は変えないつもりのようで、僕はそんな芽衣に笑う。笑わせないとばかりに芽衣は突然話を切り替えた。
「そんなことよりさ、律どうするの?進路」
芽衣はそう切り出す。僕はまた何も言えず口籠ってしまった。こんな僕に芽衣はもううんざりしてるだろうな……。
「……私は、このままピアノ続けて前に言ってたあの音大行くよ」
沈黙を破るように芽衣は自分の進路を先に教えてくれた。それでも僕は、そんな芽衣に向けて自分のことについて何も提示できなかった。高校生でプロとしてコンクールに沢山出て、コンサートも開催して、プロのピアニストが勢揃いの公演会にも参加して。そりゃ当然、かの有名な音大から直々に声をかけられたって別に何も不思議なことじゃない。対して僕は……。
「ピアノ…か……」
そう相槌を打つのが精一杯だった。
「律……律はさ、頭いいんだし、いろんなところに行けるよ」
僕を元気づけようと、芽衣はさっきよりも明るいトーンでそう励ます。
あー、情けないな……。こういう時に自分って人間がどうしようもなく嫌いになる。
僕はいつもこうだ。幼稚園の頃から一緒の芽衣は、僕が何かで落ち込んだり泣いたりしたら、笑わせようとしたり、励ましたりして、元気が出るようにしてくれた。もう高校生男子になった僕がいつまでも幼馴染にお世話になっていてはダメなのは、多分誰よりも分かっている。けれど一歩前に進むのがどうしても怖い。進んだ先で失敗したら?進み方を間違えたら?もしも駄目になってしまったら……考えると怖くて心臓がぎゅっと絞まって苦しくなる。焦れば焦るほど答えが見えなくなる。
楽譜を失い、音が聞こえなくなったあの時のように。
「おーい、竹中次だってよー」
廊下で誰かが呼ぶ声がして僕は席を立ってそのほうへ向かう。一瞬だけ、芽衣が僕を見つめるのが見えた気がした。でも、すぐに目を逸らして、僕は教室を出た。
教室の隣の学習室に入ると真ん中に松井先生が座って待っていた。
「来ないからびっくりしちゃった」
松井先生はそう言って笑った。僕は「すみません」と謝って、先生と対面する位置の席に座った。こういう向かい合いの形式は苦手だ。
「律は、進路どうしたいって思ってる?」
松井先生は基本的に生徒は下の名前で呼ぶ。男子は特に呼び捨てが多い。
ちなみに若い先生じゃない。むしろ僕の代が終わったら定年退職になるらしい。だからどちらかといえばおばさん。でも、僕らの間では「お母さん先生」で有名。だからなのかな。先生の声は、言葉遣いがたまに荒くても、いつもその言葉は温かくて本当にお母さんって感じがする。不思議だ。赤の他人で、今年初めてお世話になるのに。
「やりたいこととかない?」
答えられない僕に松井先生は優しい声色でそう聞く。いつも騒がしい人たちを制止するときの、ちょっとだけ荒い口調とはまるで違う。優しくて、柔らかい声。なのに僕はまた何も言えなくなる。
「律は成績いいから、やりたいことないなら大学に行くっていうのもアリだよ」
優しい声色でそういう。僕は俯いたまま、顔ではなくて机の上の木目を見つめる。
「てか律、私の顔見てよ。律の顔、あんまりちゃんと見たことないなぁ」
松井先生は笑ってそういう。でも怖くて視線を上げることすらできない。本当に情けない。不甲斐ない。劣等感ばかり。ふと頭の上に温かい何かを感じた。それが松井先生の掌だということはすぐに分かった。
「焦らなくてもいいよ。でも何かあったらすぐに言うんだよ?」
温かい手の感覚が、なぜか幼いころの記憶を思い出させる。
良い思い出ばかりじゃないのに。幼い頃は特に。
「はい……」
振り絞って出した声は小さくて、ガサガサしていて、汚くて、聞くに堪えない。
そのあと少し松井先生が大学や専門や就職の話をして、僕の二者面談は終わった。
教室に戻ってきて席に戻りまた突っ伏す。腕で目の前を塞ぎ目を瞑って真っ暗にする。暗い視界に思い出されるのは、嫌で嫌で仕方のない苦しい記憶。
僕には今、母が実態として存在していない。母は僕が小学四年生の頃に他界した。元々病気だった。体が弱くて。僕が生まれて小学二年生になるころに倒れてからずっと、病院から退院することはなくずっと入院していた。
幼い頃、母はいつも僕に言っていた。「あなたのピアノを聞くことが私の生きる意味なのよ」と。両親のことが大好きだった僕は二人のために毎日練習を欠かさなかった。父が僕に買い与えてくれた最初で最後のグランドピアノ。どんなに指が疲弊していても、弾けなくて嫌になりそうでも、二人の笑顔とあの温かい手が大好きで、ずっと、ずっと。
でも僕が小学二年生の頃に、母は持病で倒れて入院することになった。その頃からか。僕らの間に異様な亀裂が生まれてしまったのは。
そして二年後の小学四年生になってすぐの頃、母は僕の演奏を聞くことなくこの世を去った。父はその時、母の最期を看取ることも、僕の演奏を聞きに来ることもしなかった。
父の様子がおかしかったのは、小学生の僕にだって容易に分かることだった。
幼い頃の僕は、自分のする演奏で父に幸せになって欲しかったんだと思う。ただあの頃のように、父に褒めてほしかっただけだったんだ。たったそれだけだったのに……。
とある父とのできごとを境に、僕がピアノに触れることはなくなった。ピアノを目にすることはあっても、鍵盤の前に立つことすらできなくなった。ピアノの伴奏を頼まれることがあっても、僕はそれをすべて断ってきた。
もう、自分が奏でるピアノの音は何もかもわからなくなって、次第にピアノからは遠のいた。この数年の間、鍵盤に触れることはなかった。
唯一無二に等しい「ピアノ」を失ってしまった僕には何もない。何も残ってない。
もう、僕には自分のピアノの音が聞こえない。
僕には何がある……?
ぐるぐると思考が回って苦しいからずっと考えてこなかった。
誰かに「やりたいことはないのか」と聞かれても答えることなんてできなかった。今までずっとそばにいた「やりたい」と思っていたはずのピアノを奪われてしまったから。
僕に「やりたいこと」なんてなくなった。母の死と共に僕の希望は死んだ。
もう僕は死んでるのと同じだ。
僕の人生はずっと真っ暗。だから僕に将来なんてないんだ。
真っ暗な視界に閉ざされたまま六限は終わった。
放課後になって、教室内の清掃を終えて帰りの支度をしている僕の元に、何処から現れたのか芽衣が駆け寄ってきた。
「律!このあとさ、私のピアノ聞いてくれない?」
芽衣は明るい声を弾ませて、机に両手をついて身を乗り出す。
自分の音はどうしようもなく嫌いで聞くのも嫌だけど、誰かの音を聞くことなら好きだから、僕は「うん」と返して支度を急いだ。支度を終えて鞄を肩から下げると、芽衣はまるで僕が異性であることを忘れたかのように手を強く握って、僕の前を大股で歩いて引いていく。そんな芽衣の背中を見て、幼稚園時代を思い出した。懐かしいな。
あ、でもいけない。僕は男の子だ。これじゃあちょっと変じゃないか。
「め、芽衣、一人で歩けるよ」
「へ?…あ」
芽衣は頭の上にはてなマークをうかべたすぐ後に、何かを理解した。
あ、気づいてなかったんだ。
「ごごごご、ごめん!」
芽衣はなにやらものすごくあわえてた様子で、パッとすぐに手を離すと、両手で顔を扇ぎ始めた。なにがなんだかわからないけれど。
ちょっとの沈黙が落ちる。廊下の窓の向こう側で鳥の鳴く声がした。鳥には詳しくないから種類はよくわからないけど。
「い、行こう?」
僕が促すと、恥ずかしそうにしていた芽衣が急に声を上げて、「そうだね!」とやたら明るい声で言って僕の前をさっさと歩いて行った。僕も置いて行かれないように、早歩きになっていく芽衣の背中についていく。
そんなこんなで、大きなピアノが置いてある音楽室にたどり着いた。
僕も何とか追いついて音楽室に一緒に入った。音楽室は床全面にカーペットが敷かれている。中に机はなく、椅子だけが積み上げられて壁際に寄せられている。黒いグランドピアノは黒板側の一角、窓際(僕らが入ってきたドアから左手の奥)に置かれている。
芽衣は中に入るとすぐに、タワーになっている椅子の一番上のやつを持ってきて、そのピアノの前に椅子を一つ置くと、入り口で立ち尽くす僕を手招いた。僕は入り口のスライドドアを静かに閉めて、芽衣の方へ歩いていく。
芽衣はピアノの前の黒い椅子に腰をかけたり立ち上がったりして、ねじで椅子の高さを調節する。その横で僕も椅子を用意して荷物は床に置いて腰かける。少し待ったら芽衣も椅子の調整が終わった。黒い蓋を開け鍵盤にかけられた赤い布を埃を立てないようにそっとめくると、白と黒の見慣れた鍵盤が現れる。よく使われていて、全く人が触れない真新しい鍵盤とは違って年季の入った代物。
不思議と、そんな鍵盤を目にしてもこれといって特別な感情は湧いてこなかった。意欲も嫌悪も無い。なんだか酷く無な感じなんだ。
でもそんな僕を他所に、芽衣は嬉しそうにその鍵盤の前に立つ。別に特別顔がそういう表情は目視していないけれど、なんとなくわかる。目が輝いてることくらいは。
「いやぁ、明後日のコンクール終わったらまたすぐにテスト期間で弾けなくなっちゃうから、今のうちに完璧にしちゃいたいよねぇ」
芽衣はそう言いながら調節した椅子に腰かけて、金色のペダルに足をかけ鍵盤の白い方にそっと両手を置く。横から見るその姿は小学生の頃のコンクール以来だ。白いブラウスは太陽光で白く輝いて、少し目が痛くなるけどその姿は「ピアニスト」って感じが出ていて、まさに「美」そのもので僕は見惚れた。その姿に。
「じゃあ、聞いててね」
そういうと、少しの間が空いてからゆったりと弾き始めた。
芽衣が弾き始めるまでのほんの少しの静寂の時間を、それさえ演出にしてしまいそうなほどに美しいピアノの演奏が、静かにゆったりと過ぎていく時間の中で響き続ける。教室にいるときみたいに、いわゆる「ぼっち」の時間が、誰かの笑い声や叫び声のする状況とはまるで正反対。多分、こういうのを人は「聞いていて心地が良い」と言うんだろう。それは本当にその通りなんだ。音が綺麗で、美しくて。
ピアノを弾いているときの芽衣は、いつどこで見かける芽衣よりも楽しそうで、軽快でそれでいてかつ、綺麗なんだ。
曲がラストまで来た。芽衣の演奏を聴いていると本当に時間の経過が早く感じる。弾き終えてゆっくりと鍵盤から指を離す。
「ふぅー」
息ついてすぐ、開口一番に芽衣は「どう?」と聞いた。
「いいと思うよ」
「そう?」
僕がそういうと、芽衣は頭の後ろで手を組んで背もたれにのけぞる。
僕はこういう時間がちょっと好きだ。家で勉強机に毎日五時間、孤独に押しつぶされそうになりながら過ごすより、こうやって誰かといる方が明らかに気分がいい。生きているって感じがする。また少し沈黙が落ちる。するといきなり芽衣は姿勢を戻した。と思うと僕の方へ体を向けた。
「律、弾く気になった?」
何を思ったのかいきなりそんなことを言う。
「僕は……」
口籠ってしまった。
「やっぱ厳しいかぁ」
芽衣は小さく呟く。僕は黙ったまま何も言えなくなる。
すると芽衣は何も言わずに突然、左手の人差し指で「シ」の音を一度鳴らした。
「……怖い?」
たった一つの音に乗せて、芽衣の優しい声がした。ゆったりとして、柔らかくて。母の奏でる音楽のような声。でもそこにいるのは母ではないうえに、そこにあるのは僕の大好きなあのピアノじゃない。
芽衣の問いに僕はまた黙って頷く。
芽衣の優しい声に絆されて、自然と口が動き出した。
「怖いよ……でも、ピアノの音を聞けば少しは思い出せるのかな……」
誰を?
優しい母を?優しい父を?楽しかったあの日々を?
誇っていたはずの自分の音を?
自分の頭の中で何度も自分に問いかけるだけで、その答えには一向にたどり着けそうになかった。なぜだか、僕の中で少しずつ薄れていくんだ。母が。父が。今まで与えられてきたもの、見てきたもの、見せてきたものの何もかも、すべて。まるで最初からピアノなんか弾いていなかったように、それまでの思い出、思い入れがどうしてかごっそり、まるで穴が開いたように抜け落ちてどこかへ行ってしまっているんだ。
「何も思い出せないんだよ」
そういうと、なんだかさっきとは違う沈黙が落ちる。
何の音もしない。自分の鼓動すらこの耳に聞こえているのか怪しいほど。
茫然と床を見ていると、芽衣の胴体が突然視界に入り込んできた。でも、目線を上げられない僕は思わず、右下の方へ目線を逸らす。
「弾いてみてよ」
芽衣は静かにそういう。さっきよりもっと冷静で、でも言葉の中には優しさを含めて。
「……無理だよ。僕にはできない」
太ももの上に置いた震える両手を強く握りしめる。爪が食い込みそうなほど強く。
「できるよ」
ふと頭上からそんな、自信に満ちた声がして僕は思わず顔を上げかけた。
危なく芽衣の顔が視界に入りそうになって、ぐわんと顔ごと下へ向ける。
「律の音は、律が思ってる以上に素敵で、綺麗で、他の誰にも真似なんてできない強さがあるんだよ」
そういう芽衣の声は、適当なんかじゃないとすぐに分かるほど、確信を持っていて強くはっきりとしていた。
「エチュード第三番、別れの曲、ホ長調」
急に芽衣が楽曲名を言いながらどこかを歩く音をさせる。ゆっくりと視線を戻して、なんとなく上に向けると、芽衣は窓の方へと歩いて行っていた。その後ろを姿を見ながら芽衣の話を聞く。
「今週末のコンクールで弾く予定。律に贈るつもりで選んだんだよ」
「僕に?」
「うん」
さっきまで窓の外を見ていた芽衣はまた僕の方を振り返って頷いた。
「別れ……」
僕はまた顔が見れなくなり、目線を落とす。
「コンクール、見に来てね?」
「うん」
目は合わせられなかった。でも一応、ちゃんと約束はした。
「うん……」
でも、芽衣はどこか寂しげにそう返した。なんだか、とんでもなく申し訳なくなった。
かといって、芽衣の「マイナス」な表情を見るのは怖い。なんだか、悪いことをしてしまった気分になる。いや、「顔を見ない」っていう失礼な、悪いことをしたんだけど。
風が少し強く吹いて、壁際にまとめられたカーテンが大きく揺れた。
ふと空を見た。今日は僕の気持ちに反して快晴だったから、夕暮れも綺麗だ。僕に反して。それはそれは、羨ましいほど。
そんな夕暮れ空を尻目に僕は、帰りたくもないような家へと帰ってきた。でもまだ父は帰っていない。父はとある会社の社長で、残業があるとかないとかはよくわからないけどとりあえずいつも帰りは遅い、というかほとんど帰ってこない。でも、仕事終わりの直帰じゃないことくらいわかる。なぜならいつも、鼻が曲がりそうなほどきつい煙草の匂いに加え、ものすごく甘い匂いをつけて帰ってくる。混じっているせいで本当に臭い。
玄関のかぎを開けて、灯りのともらない玄関に入る。いつものことだ。こんなことにはもう慣れている。携帯の明かりを頼りに二階の自室へ入る。そのまま鞄を床に置いてベッドに倒れこむ。
枕元に置いてあるリモコンで電気をつけようとしてみる。やっぱり電気はつかない。電気代も水道代も諸々、きちんと払っているくせに電球を変えないから未だに電気がつかない。父はほとんど家に帰らないから、家の電球が切れたなんてこと知らないのだろう。
自室に行き、荷物を床に置きベッドに飛び込む。
「……僕には何があるんだ」
小声でそんなことを呟いてみる。言葉はどこにも響かないで消えていく。
嫌になっちゃうな。お先真っ暗だ。消えたい……。なんてね。
前日の僕の願いとは裏腹に、無慈悲にも平日の平静な朝が来てしまった。
「……風呂…」
制服を急いで脱いで、クローゼットから着替えを取り出しお風呂場に急いだ。
ちらっとリビングを見てみたけれど、父の姿はなかった。帰ってすらないのだろう。
ささっとお風呂から上がって、お酒とおつまみ以外には何もない冷蔵庫から牛乳を取り出してコップ一杯分飲む。もう一度部屋に戻って、替えのワイシャツをハンガーから外し制服を着る。なんだろう、寝ていた姿勢の問題なのか、ちょっと体が重い。
時計を見ると時間は七時半。もうそろそろ家を出ないと。朝ごはんはいつも食べない。昼ご飯も食べてない。なんだか食べる気にならないし、昼は食べるより寝ていたい派。最初は小さいパンとか買って食べていたけれど、次第に面倒になってしまって、今では食べないことに慣れた。夜だけ何かしら適当に近くのコンビニで済ませられればそれでいい。
家を出てから学校までの二十分の道のりを歩く。
踏切の前で警音が鳴り始めた。足を止めて携帯をポケットから取り出す。電車が過ぎるまで暇をつぶそうとなんとなくいじっていた携帯画面に不意に広告が現れた。
『公務員になりたい人必見!』なんてキャッチコピーと共に、大きな赤い字で県内の専門学校の名前が、デカデカと書かれていた。不意に考える。僕の進路。
僕の将来像って何なんだろう。未来像ってなんだろうな……。
どうせお先真っ暗なのに、こんな懸命に考えてどうするんだよ。なげやりになって、携帯の画面をとじる。
ふと視界に入った、バーによって隔てられたはずの目の前の線路が、さっきまでは何か遠いものに感じていたのに、急に近いものに感じた。なぜか、その錆びた線路が他のどんなものよりも魅力的なものに見える。でも、その隔てられた空間を押し切ってまで、そうしようは思わない。白線の上に立っても、越えようとは。そんな度胸があるなら、ピアノだって弾けるはずだから。
そんなこんなで学校に着き教室に入ると、朝からなんだか頭が浮ついて、生きている心地のしない僕の元に、生きている心地満載の芽衣が、なにやら企んでいそうなほど軽快なステップで僕の前に現れた。現れたと思うと、一つの半透明のファイルに入った束の書類を渡してきた。渡されたままに中身を見てみると、僕はよりいっそうゲッソリした。なぜなら、中身が全部楽譜だったから。
「え。これ、何?」
「何だと思う?」
「いや、楽譜」
「その通り!」
「うん、だから、何?これ」
「ご存じの通り、ピアノの楽譜でございます」
「そうじゃなくて……」
僕が何度聞こうとしても、芽衣はそんな風に誤魔化して可笑しそうにしている。
僕にとってはかなり笑えない案件。
「えっと……なんで急に?」
「来月開催のちょっとしたコンクールに出てほしいの」
「……え?」
出てほしいって言い方にもひっかかったけれど、それ以上に、コンクールと言う言葉に耳を疑った。
「そう。私出るつもりだったんだけど、その日さ、行きたい音大からミュージックコンサートのお誘い貰っちゃってさー」
「すごいね」
「まぁ嘘なんだけど」
「うん…え?」
「ね!」
「え?」
芽衣は僕の何も理解できていないこの状態に動揺もせず、悪戯に笑ってそういう。でも僕は……。
「でも僕は、音が……。……とにかく、弾けるわけない」
人前での演奏なんて、もうずっとしてない。誰のことも、自分のことすら幸せにできない僕の音には、誰かに聞いてもらうだけの価値なんてないんだ。
「まぁ、理由はそれだけじゃないけど」
芽衣が小声でそうつぶやいたのがほんのわずかに聞こえた。聞き返そうかと思ったけれど、そのあと何も話したりしなかったし、言い方の感じ僕に聞いてほしくて言ったようには思えなかったから、下手に聞き返すのもアレだと思って僕は特に聞き返さなかった。
「考えといて?というか、まぁ、九割くらい決定だけどね!」
「芽衣の中では。ね」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
芽衣は僕の肩を軽く叩いてから、他の友達と楽しそうに教室に入っていった。
僕も教室に入った。前の壁に掛けられた時計を見ると、チャイムが鳴るまであと五分だった。危ない危ない。急いで教室に入って席に着く。いつもなら鞄の中からペンケースとか教科書とかを取り出すけど、時間ないし、もう先生も来る頃だろうから、別にいいや。
ひとまず机の中にいつも入れっぱなしにしている小説を手に取って読み始める。まだ序章をようやく読み終えたところ。早く読み切らないと、これは図書室から借りてきたやつだから、急がないと返却期日を過ぎてしまう。そうはいってもこの本の内容は難しい。どういうわけか僕は今、クラシック音楽について語った本を読んでいる。だからかもしれない。内容が難しいのは。別に今さらそれを知ってどうにかなるわけではないけれど。
見開き数ページ分を読んでいると、その最中で朝読書の時間終了のチャイムが鳴った。前回よりは、少しは読み進められたかな。
「はーい、じゃあ始めるから本閉じてー」
気づかない間に教室に来ていた松井先生にそういわれる前から閉じて机の中にしまっていたけれど、大半の人は松井先生の指示と同時に本を閉じた。ある程度が閉じたのを適当に確認すると、松井先生は手にクリップボードを持ちながら話を進める。そこまで僕に関わる大事な情報はなさそうだった。
ひとまずホームルームが終わって、僕はいつもどおり机に突っ伏す…ことはできず、朝唐突に芽衣から渡された楽譜を見ていた。楽譜を見た瞬間に、何の楽曲のものなのかすぐに分かった。分かったうえで、僕はその楽譜を何度も最初から見直し続けた。ほんの少しだけ、ピアノの鍵盤を弾く真似をしてみる。でも、真似事をしてみたところで音なんて聞こえては来ない。聞こえるのはただ、指の腹が机をたたく僅かな音だけで。
でも、実際のところ僕の耳に聞こえる僕のピアノの音ははっきりいってこんなものとそう変わりない。音なんかしない。ただ指が鍵盤を叩くだけ。なんだか、要らないことまで思い出しそうだから、なんとか芽衣を説得して、エントリーしないってことにできないかな……無理だろうな。
それを確信して僕は一気に体の力が抜けて机に突っ伏した。
「ぐええええええ……」
声には出さなかったけど、心の中はそんな変てこな声でいっぱいになっていた。
「どうしたん律、体調悪いかい?」
ふと聞きなれない声がして、僕は驚いてバッと身を起こす。
顔まではやっぱり視線を上げられない。首元くらいまで視線をもっていって、なんとなく誰だかわかった。ちょっと、失礼かもわからないけれど…。同い年じゃないのは少なくとも確信してわかった。あ、松井先生だ。
「いえ…、大丈夫です」
目を見れない僕は、なんとなく左下に目線を逸らして、なんとなく、そう返す。
「本当に?」
優しい声がまたした。「はい」と返す。すると教室の奥の方から明るい声がした。
「せんせー俺体調悪いから帰りたーい」
「ばーか元気いっぱいのくせに帰すわけねぇだろぉ?」
松井先生の言葉遣いは、やっぱりちょっと雑なところがある。でも声は、他の先生たちよりもずっと温かい。松井先生と話す人からはいつも楽しそうな声がする。本当に「お母さん」って言葉がよく似合う人だ。不意に落とした視線の先に、音符が羅列された楽譜が目に入る。なんだか、急におなかが痛くなってきた。僕はもう松井先生が話を振ってこないだろうとタイミングを見極めて、席から立ち上がってささっとトイレに逃げ込んだ。ほんの一瞬だけ、松井先生からなんとも言い難い雰囲気を感じたけれど、僕は気にしないふりをして逃げた。
適当にトイレに駆け込んで、便器の前になんとなく立ち尽くしてみるけれど、このお腹の痛みは別に、トイレで解消されるような種類の痛みではなかったみたいだ。少しその場で深呼吸をすると、何とも言えない痛みのような違和感は収まり、吐き気とは少し違う、のどの詰まって苦しい感覚も収まった。僕はゆっくりとした足取りでトイレから出る。廊下へ出ると、辺りの教室はそれなりに騒がしくて、僕は重めのため息を吐く。なんだか今空気を吐いた感覚がしない。なんかもっと重たい何かを吐き出した気分だ。
「あっ」
不意にまた声がした。芽衣じゃない。
「逃げられたかと思ったよ」
松井先生だった。また視線を顔まで持っていけない。でも、そんなことに突っかかることもなく優しく僕の肩を二度叩いた。
「何もないならいいけどさ、もし何かあればすぐに言うんだよ?」
優しい声ばかりがする。でも、ところどころ周りの喧騒にもまれて聞こえるけれどどこか濁って鮮明には聞けない。それでも僕は「はい」と小さく返して会釈するように頷く。松井先生は「またね」と言い僕に背を向けて歩いて行った。肩に微かな手の温度が残っていた。でも、なぜ急に松井先生が僕に声をかけてくれたのかは、少し謎だった。
何とも言えない気分のままやっと昼休みになったものの、今日はなんだか長く感じるうえに授業も全部上の空だった。「なんだか」でもないか。なにせいきなり楽譜を渡されて、来月開催のコンクールに出て、なんて。また重い溜息を吐く。
学校の売店に一つ取り残されたシリアルバーを一本買って食べてから、おおよそ十分くらい経った。それでも昼休みはあと三十分はある。暇な僕はとりあえず図書室にでも行こうと、席を立ってから階段を下りて、図書室に通じる職員室前を通る廊下を歩く。
すると職員室から松井先生が出てきた。手に何か書類をもっていて、職員室の一つ奥にある印刷室に向かっていた。変な距離感になりそうだと思い、なんとなく歩くスピードを落とす。が、松井先生が僕の気配とやらに気づいたのか、ゆっくりと振り返った。僕はびっくりして途端に足を止めて、さっきまで後頭部を見ていた目線をグイっと下へ落とす。
「なんだ律かぁ」
優しい声だけは耳にちゃんと届く。
「どうかした?」
少しずつ距離が縮まって、止まった僕の視界に、こっちまで寄ってきてくれた松井先生の足が見えた。
「…図書室に行こうと思って」
「なんだ、てっきり体調悪いのに我慢してたのかと思ったよ、顔色悪いから」
そういうと、松井先生はゆっくりと歩きだす。僕もそれにつられて一緒に歩きだすものの、少し隣を歩いて不思議な時間を数秒味わってから、松井先生はまた「またね」と言って、さっき入ろうとしていた印刷室の中へ入っていった。僕は会釈をして、図書室の方へ向かった。図書室の中に入って、なんとなく奥の方にある「現代文学」と張り紙のされた本棚の前に行って、左から順番に五十音順に並べられた、いろんな作家さんたちのタイトルを眺める。特に大意はないけど、こうやって適当に本棚を眺めて、なんとなく気になるタイトルを見つけ出して図書室の隅っこで読むのが、僕は割と好きだ。
でも、たまにタイトルにピンと来なくて決まらずじまいになる時もある。昼休みはあと二十分。あ、これ今日も決まらない感じかもしれない。そんなことを思いながら十分間粘ってみたけれど、駄目だ。今日は決まらない。次の授業の準備もあるし、僕はここで図書室を出ていくことにしようと、図書室の出口の方へ向かう。すると、来た時には気づかなかったけど、スライド式のドアの内側にポスターが貼られていた。そこには、「プロピアニストコンクールエントリー決定」と赤い太文字で大きく書かれていた。そこには「浪川芽衣」の名前があった。というかよく見るとこれは僕が朝、芽衣に言われたコンクールのものだ。え?何、プロピアニストって。プロ?なんだか話がかなり違う気がする。
「浪川さん凄いよねぇ」
ふと、ポスターを眺め続ける僕を見かねたのか、ずっとカウンターの方で立っていた図書館司書の戸松さんに話しかけられた。僕はへたくそな相槌でなんとか無視してるようにならないように対応してみる。苦手だなぁやっぱり……。それからぎこちない会話をして図書室を出て、五限開始まであと七分くらい。少し急ぎ足で教室へ向かう。一階にある図書館を離れ、二階へと階段を上り教室に近づくと少しずつ騒がしくなりだす。どうしてそこまで元気なのか不思議なくらい、僕のクラスの人たちは騒がしい。
眠気に襲われながらなんとか六限までを耐え抜いて、清掃の時間も終わって、やっと放課後になった。と同時に、芽衣が現れて、僕の机に両手をバーンと勢いよくついた。
「どう!考えてみた?」
朝から何一つとして変わらない声色と、動きの激しさで伝わるそのテンション。できればそのテンションをそのままでいさせたいところだけれど、僕はさっき見たあのポスターの内容が驚愕過ぎたので、とりあえず芽衣に確認を取りたい。
「出る?出るのね??」
色々思うことはあるけど、僕の意思とは正反対に芽衣は声色ごと心を弾ませながら、まるでおやつを待つ子犬のような勢いで迫ってくる。でも。
「……いや、でも、あれプロピアニストのコンクールだよね?」
意を決してそう聞くと、芽衣は急に肩を落とした。
「……誰から、聞いたの?」
この感じは多分、気づいちゃいけないやつだったかも。そうはいっても、あんなドアに普通に貼り付けられてたら誰でも気づいて、内容まで読んじゃうと思う。ましてや、自分のクラスメイトの名前がデカデカと書かれて。
「ポスター貼ってあったんだよ、図書室に」
僕がそういうと、芽衣は「うわぁ」とかなり重めの溜息をついてガクンと首を垂れた。
ふとさっきまで首元を見ていた僕の視界に芽衣の頭が入り込んできて、別に顔を見たわけではないのに僕は無意識に目を逸らす。
「まじかぁぁ」
声色からかなり伝わってくる、諦めとちょっとの期待。こんなにもテンションに差がつくとは思っていなかった。僕も叶うなら意気揚々と「出るよ」なんて言えるけど、「音がわからない」なんてどうしようもない欠点抱えて、どうやって大観衆の前で演奏しろと言うのか。解決策があるのなら知りたいくらいだ。
「あっ!」
ふと間が空いて芽衣が何か閃いたみたいだ。ちょっと、嫌な予感。
「連番だ!」
顔なんて見なくても、今芽衣の目がキラキラ光輝いていることくらいはわかる。もう、声色だけで伝わってくる。本当に。芽衣の声はいつも飛び跳ねている。さっきみたいに、落胆するような場面に出くわしても、どこかで僅かに音が飛び跳ねている。演奏に会置いてもそう。どんな曲調のどんな楽曲も全て「浪川芽衣の曲」にして魅せる。多分それこそが、「プロ」の領域で生きる人の演奏なんだと思う。無価値な僕の演奏とはまるで正反対。まるで正反対だから、同じ鍵盤の上を僕と芽衣で弾くなんて、できっこない。
「決まりだぁ!」
「できっこない」なんて言えずに僕が黙り込んでいると、芽衣は高らかに声を上げて、またいつかの日のように僕の腕を引いて強引に教室から連れ出した。
「え、え、ちょっと……!」
僕が慌てているのを他所に(むしろ嬉しそうに)、芽衣は足を止めることなく僕を引っ張っていく。この前はあんなに恥ずかしそうにしてたのに。
反発する隙も与えないまま、もうそこはこの前も来た音楽室の前だった。
「そうと決まれば特訓だよ!難聴ボーイ!」
芽衣の音は風みたい。僕の不安も全部どこか遠くへ吹き飛ばしてしまう。芽衣といる間は多分、そういう不安で怖い感情も、まだほんの少し遠いものとして考えていられる。
でも、今回ばかりは……。
「…でも、僕には無理だよ……」
もぞもぞと僕は言うと、芽衣は黙って奥にあるピアノのほうまで歩いていく。
その背中を見ていると、芽衣は鍵盤の上にかけられた布をめくってどかした。手元を見ていると、細くて白い右手の指をゆったりと鍵盤の上にのせて、沈黙を破って突然弾き始めた。聞きなじみのあるそれは「きらきら星」の右手だけを、さらに小学生レベルに簡単にしたものだ。傍目には単調なもの。でも、音の感じがどこか一般とは違う。すると急に芽衣は手を止めた。
「音なら作れる。怖がらなくてもなんとかなり!それに律の音は誰よりも繊細で綺麗だよ。だから安心して、私の隣で弾いてほしいの」
その声には本気の思い以外のものは入れ込まれていなかった。純粋無垢に、「一緒に弾きたい」と言う感情かどうなのか。それでもきっと気持ち自体は本物だとわかる。
伝わってくる熱量は、きっと誰よりも。
芽衣が抱き続ける信念も、きっと誰よりも。
それでも一つだけわからないこと。
「なんでそんなに、僕に弾かせたいの?」
音楽室の端っこから端っこへ。届いたかどうか怪しい声。少しの沈黙が落ちてから、芽衣の弾む明るい声色がそれを破る。
「内緒でーっすぅ」
「えええ」
そんな声が反動で口から洩れる。答えてくれると期待していたから、つい。
「律の音が聞きたいってことにしといて!」
最終的に返答が適当になった芽衣に、何とも返答することができずになんとなく自分の掌に目をやる。他の男の子と比べたら明らかに色白な僕の手。一本ずつ指の関節を曲げたり伸ばしたりしてみる。裏返して、血管がうっすらと見える手の甲を見つめる。そこには存在しない鍵盤が、ほんのわずか一瞬だけ見えたような気がした。「ピアノを弾きたい」と言う思いはきっと未だにこの胸のどこかには存在していた。でも、音なんて聞こえないんだ、この耳には。鍵盤の前に立って、ドレミファソラシドのうちどれかひとつでいい。たった一つの音を、たったの一つの音すらも聞こえない。昔の自分よりもずっと、ずーっと酷く醜い音。
ただただ無機質に鍵盤をたたく。ペダルを踏むことですらも……。
大好きだったピアノにすら嫌われてしまった心と、このちっぽけな手で、僕には何が演奏できる?誰に、何を聞かせてあげられる?
「実はね、このコンクールに私のおばあちゃんが来るの。耳聞こえないんだけどね」
沈黙に耐えかねたのか芽衣が口を開いた。僕は自分の手の甲からそっちの方へ視線を送る。芽衣は座っていたピアノの前の椅子から立ち上がって窓を勢いよく開けた。
「耳聞こえないのに?って思うでしょ?……私も思ってた」
少し間が空く。芽衣の背中が一体何を伝えているのかこんな不器用な頭ではわかってあげられなかった。でも、芽衣はお構いなしに話し続ける。
「でも、関係ないんだよ、そういうことは。だって、私小さい頃一緒にかの有名なとある小さなピアニストの演奏を聞いたことあったけど、昔からずっと耳は聞こえないのに、おばあちゃん泣いてたんだよ。なんでだと思う?」
黙って聞く僕に芽衣はそう問いかける。でも、どうしてなんてわからない。わからないから僕は何も答えられずに立ち尽くす。でも芽衣は、答えなんて待っていなかった様子で話し続ける。
「思いだよ。必死に伝えようとする、演奏者の思い……。もう一回聞きたいなぁ」
最後の芽衣の言葉は、どこか何かを懐かしみながら、何かを惜しんでいた。懐かしいのに、もう二度とそうすることができないかのように。
「思い……か」
難しい話だな……。
「そう。思いさえあればいくらでも。今まで苦しかったことも、今の自分のことも、全部音楽にしちゃおうよ。一緒に」
本気なのかどうなのかわからないはずなのに、芽衣の声はいちいち確信を持っていて、自信満々で、なんでもありなんだ。
「一緒に」なんて、僕を足手まといだと思うことくらい普通なのに。それを感じさせないようにするのも厄介に思って、困難に思うところなのに。芽衣は至極当たり前のことのように平然とした顔で言う。本当に不思議だ。芽衣といると、本当に何でもできるような気がしてきてしまう。ピアノの音なんか聞こえはしないのに、聞こえてきてくれそうな予感がする。なんとなく、このままずっとピアノから遠ざかれば、次第にすべて忘れて楽になれるような気がしていた。でもどうだろうか。
「変わりたい」のは事実だ。「変わらなければならない」のは多分、現実。
どういう風の向き回しなのか、僕の心の中で頑なにピアノを拒んでいた気持ちが少しだけ緩んだ気がした。
「……僕も、頑張ってみるよ」
声を振り絞ってそう返した。芽衣は目立って何かを言ったりはしなかった。でも空気感から伝わってくる。悪く思っていないことくらいはこんな僕にも分かった。これで今日の一日は終わり……ってなるはずだったけど、僕の返答で安堵した芽衣は嬉しそうに僕に近寄ってきて、腕を強引に引いたと思うと荷物を置かせる隙も与えないくらいの勢いで、ピアノの前へ僕を連れて行った。
「そうと決まれば特訓あるのみ!私も連番初めてだからさ!」
芽衣は明るい声で笑って言う。冷や汗が止まらない僕の動揺や、不安や、焦りはさておいて、芽衣は楽しそうに言う。僕もその流れに乗って楽しくありたいところだけど、正直言って不安しかない。軽やかなその場凌ぎの嘘もつけないほど、今は余裕がない。
「とりあえず、きらきら星とかどう?右手だけでできるし。律は主旋律でいいよ」
弾けるわけない、そう思ったけれど、着々と準備を進めて弾く気満々の芽衣を見ていたら、今更弾きたくないなんて言えるはずない気がした。
「僕は立つから、芽衣座りなよ」
気持ちを落ち着かせるためか、そんなことを言ってみる。
「ほんと?ジェントルマンだねー」
僕なりの気遣いを、芽衣は可笑しそうに笑ってちょっと茶化す。途端に恥ずかしくなったけど、まぁ、いいや。芽衣が椅子に座り、足元のペダルに足を乗せる音が耳にはっきりと聞こえた。芽衣がセットしたメトロノームの音が淡々と繰り返される。少し震える右手を、ゆっくりと鍵盤の上に乗せる。
きらきら星は何度も聞いたことがある。他の楽曲よりはかなり馴染みのある曲。音が聞こえるかどうかよりは、知ってる音の音階を辿るようにこの白い鍵盤を押せばいい。きっとそう。それだけで、きっと音は鳴ってくれるはず。この耳に届いてくれるはず。
「せーのっ」
メトロノームのカチカチ音に合わせた芽衣の掛け声で、僕は鍵盤を押し込んでみる。
これでも、僕も一度は芽衣と同じような舞台に立ったことがある。だから、今自分が触れている鍵盤が楽譜の中の音階のどれを鳴らすものなのかくらい簡単に分かる。
わかる、はずなのに……。
耳に聞こえてくるのは、芽衣のならす副旋律の音ばかり。僕の音がどこにもいない。掴まえることができない。深い、深い海の中で叫ぶ人の声みたい。水に揉まれて消えていくように、音が何かに飲み込まれて消えてしまう。少しだけ鍵盤を強く叩いてみる。それでもなお、単調な指の動きが視界の中で繰り返される。やっぱり僕には……。
「トゥインクルトゥインクルリールスター……」
諦めかけた瞬間、塞ぎ切ったこの耳に芽衣の歌声がした。
なぜか途端に「絶対に弾けない」と塞ぎ込んでいた心にいた、頑なな思いが緩やかに流れていく感覚がした。実際弾けているのかはわからない。それでも、芽衣が示してくれるその音についていけるようにと指を動かし続けたら、何かが変われる気がした。
「ハウアイワンダーワッチューアー」
歌詞がある部分の最後までを芽衣が歌い切って、僕らはそこで指を止めるはずだった。でも芽衣も僕もその先の旋律を弾き続ける。それは、モーツァルト、きらきら星変奏曲。覚えているその音と、思い出を辿って歩くように指を動かして、白の鍵盤を何度も往復して叩き続ける。音に乗って、思い出が浮き上がってくる。ずっと忘れて……。
『邪魔だろ?ピアノなんて』
『耳障りなんだよ!そのピアノやめろ!!』
『ピアノもあいつもお前も、ずっと大嫌いだった』
真っ暗な視界と意識の中。思い出したい記憶の全てを押しのけて、掻き消して、代わりにこの脳髄に刺したものは、恐ろしい父の顔、酒に狂った父の顔……。
「 」
気づいたら、何も音が聞こえなかった。いや、指が動いてなかった。
二つの手は動きを止めて、音は消えていた。静かに吹く風とメトロームの音がただ寂しげに残っているだけ。なぜか視界がはっきりしない。
「……律?」
芽衣がハンカチをよこしてきて、どうして視界がぼんやりとしているのかわかった。でも、そうさせた原因はわからなかった。知らない間に僕は泣いていた。
『夢』
原因不明の涙のおかげさまで、芽衣とのピアノの練習が何とも言えない空気で終わってしまった日から数日後の放課後。僕は委員会の仕事で先生に手伝いをお願いされて、夕方まで学校に残っていた。僕の委員会担当の中野先生から借りていたハサミを返そうと廊下を歩きまわって探していると、廊下の窓の鍵確認をする松井先生を見つけた。
でも、僕はあまりうまい会話が形成できないから、声をかけようとは思わず、それとなくやり過ごそうとしていたら、松井先生は僕に気づいて「おぉ」と声をかけた。
「どうしたんハサミなんか握りしめて」
急に声をかけられてびっくりしたけれど、せっかく話しかけてくれたんだから頑張って違和感の無いように返す。
「え?あ、中野先生に返そうと思って……」
「あははっそっかそっか。私が返しとくよ」
松井先生は笑い飛ばしてから、右掌を差し出した。松井先生の手は、しっかりしているけど、小さい手。ピアノしかしてない僕みたいな、折れそうな手とは正反対に、お母さんを感じさせるような手。僕はその手のひらに丁寧にハサミを置く。
「あ、そうだ。進路どう?何か悩んでることとかある?」
ハサミを渡されるなり、松井先生は優しい声で聴いた。目を合わせようとしない僕に。
「…えっと……」
「ピアノ、弾かないの?」
途端に、離したことなんてないはずのピアノの話を持ち出されて、僕はたじろぐ。
「芽衣が言ってたよ?律のピアノは人の心を変えるんだって」
「えぇ……」
自分が言ったわけではないのに、顔が熱くなるくらい恥ずかしいのはどういうことなんだろう。
「あ、そういえば昨日音楽室でピアノ弾いてたでしょ」
松井先生の話のテンポに置いて行かれないように、必死にちょうどいい相槌を打つ。
「昨日たまたま廊下歩いてたら聞こえてきてさ、芽衣だと思って音楽室の前まで聞きに行ったら、律だったんだね」
松井先生は何の悪気もなくそう言う。でも、僕の音と芽衣の音は遠くかけ離れた別物。僕みたいなやつの音と一緒にしてしまわないでほしいと、不覚にも思ってしまった。だからか、もう勝手に口が動いていた。
「芽衣の音はもっと綺麗ですよ…僕みたいな、歪な音とは違うんです……」
消え入りそうな声で何とか返す。すると松井先生は笑うことも、言葉詰まることもなく「そんなことはない」とすぐに否定した。
「律の音だって綺麗で素敵だよ?生きた人の声って感じがするの。律の音は」
松井先生はそういう。納得できない僕はまた過小評価をして、自分を貶すようにやんわり反論してみる。
「……醜いですよね。五線譜に沿った演奏こそがクラシックなのに、僕の演奏は自分勝手な音の暴走です…。ピアノを弾く権利なんて…」
言いかけると松井先生がそっと僕の左肩に手を乗せた。
「律、醜くなんかないよ。律は十分素敵なんだよ?音も、律自身も」
温かい声が耳の奥で何度も反響する。こんな温かい言葉、久しぶりに聞く気がする。
ピアノを褒める言葉を、素直に受け取れた相手はこの人生の中で母だけだった。僕のこの醜さはピアノに留まらないらしく、心まで汚れた僕はいつしか、誰かの僕を褒めるような言葉が「慰め」に感じられてきてしまっていた。でもなんで。どうして松井先生の言葉だけは、ねじ曲がることも突き抜けて消えてしまうこともなくこの胸の奥にすっと入り込んできたのか。
「コンクールに出るんだってね」
何で知ってるんですか、なんて聞かなくてもわかる。
「頑張ってよ。聞きに行くからさ」
松井先生はそういう。簡単なことじゃない。聞こえないのだから不安しかない。
また不要なこと思い出して演奏を止めてしまったら?
音が聞こえないせいで音が合わなくて、結果芽衣の顔に泥を塗るなんてことになりかねない。そんな重大過ぎる責任僕には負えない。怖いんだ。押しつぶされそうなんだよ。
「あ、そうだ。松井翔って知ってる?」
黙り込む僕に先生は聞いた。考えることも拒否したのか反射的に首を振っていた。
「いえ……」
「一応プロピアニストだけど、実は私の息子なんだよ」
ある程度の衝撃は走った。いや、割と驚いた。相槌が下手な僕は、言葉に詰まる。でも先生は構わずに話し続ける。
「でも三年前に事故にあってね。その後遺症で手足が痺れてピアノ弾けなくなったの。それからずっとピアノから離れてた」
それまで別段特別な気持ちは抱かずに聞いていたけれど、その言葉を聞いて途端に心臓がドクンと音を立てた。
「小さい頃から沢山の賞を取って、大会とかにも出て期待されて。当時最年少で全国のトップにまでなって。でもたった一度の交通事故で、あの子は夢見たステージから突き落されたの。だから」
それまで特に感情の起伏を感じなかった松井先生の声は、途端に僅かな不安と、大きな後悔を帯びた声色に変わった。そして松井先生はまた僕の肩を軽く叩いた。
「もしまだ弾きたいなら、とことんやるべきだよ。律にはそれをする権利があるの」
だからやめないで。きっとそう言いたかったのだろう、それくらいならこんな僕にも分かった。別に目を見たわけじゃない。でも、そう、そういう空気感。僕はまた何も言えなくなるのが怖かったけれど、その言葉に対して「はい」なんて答えられようもなく、俯いた視線をそのまま上げられなかった。
また何とも言えない空気を作り出した挙句、松井先生に変な気を遣わせてその時間は終わった。そのあとは任された仕事を難なくやり遂げて、疲れた体を早く休ませようと急いで帰ろうとしたところで、運がいいのか悪いのか、僕のことを探していたらしい芽衣につかまって、結局家に帰ったのは夜の七時過ぎだった。
へとへとな体をベッドに倒して、僕は大体の場合寝落ちをする。目が覚めるのは深夜、そこからお風呂に行って、夜ご飯は食べない日が多い。そんな日が何日も続いた。
気づけばもうコンクールまで三日前だった。芽衣は「来月開催」なんてことを、今月の中旬に言っていたから、単純に計算して来月の中旬くらいだと思って安心していた僕の気持ちとは裏腹に、事実は全然そんな猶予なんてなかった。どうりで芽衣が慌てて僕を捕まえて何日も練習させていたわけだ。来月なんて建前で、実際は二週間後だったんだから。僕だって相当焦った。でも、心のどこか諦めていたのも事実。どうせ弾けっこない。
そうは言っても、それを前面に出してしまったら、あんなにもやる気になっている芽衣に失礼だからと、それなりにやる気を出して頑張ってはいた。もうあと三日しかないと言うのはかなりの衝撃だったけれど。
「良い感じになって来たね」
とある日の放課後の練習。今日も聞きに来てくれていた松井先生は、僕と芽衣の演奏を聴くなり拍手で褒めてくれた。その弾む声と拍手の音から、良い印象を持ってくれたことはわかった。経緯は良く知らないけれど、芽衣の声掛けで松井先生が放課後に一緒に残って、僕らの演奏を聴いてはアドバイスをくれたり、褒めてくれたりと、忙しい中練習に付き合ってくれた。芽衣の目論見なのか、松井先生の善意なのかはよくわからないけれど。
「いいんだけど、もっと笑顔で弾いてみたら?楽しそうに」
松井先生は突然そんなことを提案する。
いやまぁ、確かにこの曲はそんな悲壮感満載の顔で演奏するような曲ではない。なんたって「きらきら星」なんだから。でもはっきり言って今の僕にそんな余裕はない。
「え、笑顔……」
「素直に聞く!」
そんなことを考えていたせいか感情が顔に出てしまっていたらしい。僕の顔を横で見ていた芽衣が僕の頭にチョップを一撃食らわせた。
「いてっ」
反射的に声が漏れる。松井先生はそんな僕らを見て笑った。音楽室の壁の方から、楽しそうな声が聞こえたからすぐわかった。
「じゃあ笑顔を意識して明日またやろっか」
松井先生にそういわれ音楽室内の時計を見ると、もう六時だった。
「え!まだまだいけますよー!」
芽衣は椅子から勢いよく立ち上がってそういう。僕は疲れたかな……。
「律がぐったりした顔してるよ」
松井先生は笑いながら言った。諦めるかと思いきや、芽衣は僕の肩に手をポンっと手を置いた。
「いけますよ!いつもこういう顔なんで!」
って律の心が言ってます、と続ける。
このままやらされそうでちょっと嫌な心臓のドキドキを感じたけれど、松井先生のうまい説得で芽衣は何とか折れてくれた。今日はいつもよりほんの少しだけ早く家に帰れそうだ。その後家に帰って自分の部屋に入る前に、僕はあの「嫌な思い出」の詰まった部屋の前に立つ。その部屋は、前に父とあったあの出来事からずっと、ドアノブに触れることすらしてこなかった。別に断固として拒否していたわけでもなかったけれど、部屋を見る度胸が重く苦しくはなった。それが辛くて、無意識にさけていたのかもしれない。
部屋を開けてもあの頃のままである可能性は、もしかしたら無いのかもしれない。知らない間に父が部屋を改造してしまっているかもしれない。でも、僕的にはそうであったとしても好都合だった。過去に縛られないという意味合いでは。
「ふぅー……」
深呼吸をしてゆっくりとドアノブを握る。ずっと握ってこなかった、いわゆる「開かずの間」のドアノブに、久しぶりに触れてはみたけれどやっぱりどこか何とも言えない違和感があった。
ゆっくりとそのドアを開けた。電気のスイッチを押してたけれど、あれ以来立ち入ってもいない部屋の電気はやはりつかない。夕方の薄暗い太陽光でギリギリ見えるその部屋の中は、思ったよりも汚く、でも思ったよりも忠実にあの頃のままだった。さすがに壊されたピアノは片づけてあったけれど、諸々ぐちゃぐちゃになったものは本当に何の片付けもされずに、数年と長い間そのままだったみたいだ。
と思ったら、あのビリビリに裂かれて放られたはずの母との写真は、ベージュの額縁と飛び散ったガラスだけを置いてどこかへ消えてしまっていた。多分、父が燃やしでもしたのかもしれない。でもあの頃ほどまで心を乱されはしなかった。あの頃はきっと、母の死を素直に受け止められていなかったのかもしれない。だから通常よりも派手に心が動揺して乱れていたんだと思う。多分。
「汚いな……」
ぶつぶつ言いながら中に入っていく。ひとまず埃がすごいので、埃を立てないようにゆっくり歩いて窓を静かに開ける。その窓も、もう何年って開けていなかったのか、軽い力では開けられず、少し強引に力を込めて勢いよく明ける。
何年ぶりかな?この部屋に風が吹くのは。
心の中で部屋に向かって話しかけてみる。ピアノを弾いていた頃はよく心の中でピアノと会話をしていた。思い出す。今はなんだか、思い出しても特別嫌な気持ちになったりはしない。芽衣や松井先生のおかげかな。
それでもやっぱり、この部屋は今の僕にはあまり合わない。不意にピアノがあった日を思い出して胸が苦しくなる。あぁ、もう、全部父のせいにしたい。
僕がなんで急にこの部屋に入ろうと思ったのか、それはいたってシンプルな話。
迫るコンクール本番。どうせ弾けっこないと分かっていても、少しくらいは思い出してみたかった。ピアノを弾くあの感覚、感触、感動。この指に触れる鍵盤の懐かしさ。弾けっこないのだから思い出せもしないだろうか。それでもこの身体には刻まれている。母の隣でピアノを弾き続けたあの日々を。病気がちな母の、嫌なこと全て忘れさせるようなあの笑顔。良く褒めてくれていた父の、優しい言葉の数々。
あ、やばい…。
記憶が戻ってくるのと同時に、宛てもない虚無感が胸を這いずり始めた。体に重くのしかかる母がいた日々の過去。こういうのは、思い出すだけ無駄なんだ。過去なんて戻ってこないし、どれだけ神様にお願いしたところで母は帰ってこないし、どれだけ時が経ってもあの頃の父は戻ってこないまま。ピアノが楽しかったはずのあの感覚もあの日々も、全部、何もかも帰ってこないんだから……。
思うだけ虚しくなった。
この部屋で僕は何ができると思ったのか。
帰ってくる父に怯えて、あの日から人の顔を見ることが怖くなって、ピアノの音が聞こえなくなって。何度も自問自答しては自暴自棄になった。
今だって、完全に吹っ切ることができたのかって聞かれたらそれは怪しいところで。
たまに思う。「何やってるんだ」って。ピアノの才能に恵まれたと持て囃されて、乗っかって、幼少期からピアノに取り組んできて、何度もコンクールに出て、コンテストに出ては最優秀賞を取ることが当たり前で。
「プリンス」なんて称号もつけられて。
いつから?いつからその言葉は自分の中でレッテルに変わった?
将来の夢は?やりたいことは?できることは?僕に価値は?
どうしてまたピアノを弾いてる?
思い出すだけ無駄な過去を、どうして今になって掘り起こそうとしてる?
耐えかねた。気づけば僕はその部屋から出てドアを完全に締め切っていた。
別に僕の意思じゃないんだ。芽衣が出てくれって言うから、今回だけと言う約束のもとで一度だけ出るんだ。たったの一度だけ、大衆の前でピアノを弾けばそれだけいいんだ。慣れっこだろ?今までに何回ステージの上に立って、何曲の音楽をホールの中に響かせてきた?
もうこの際自己暗示だ。こんなの、気持ちの持ちようでどうとでもなれる。
そうだろ……?
翌日、僕は完全に寝不足状態で、瞼を擦って眠気に耐え苦しみながら授業を終えた。
放課後になって、僕は完全にスイッチが切れた。
いつもなら音楽室に行かなければならないところ。それなのに恥ずかしながら僕は教室の中で、机に突っ伏して眠りに落ちてしまった。普段はこんなことしない。放課後になればさっさと帰って、自分の部屋っていう完全個室で爆睡する。それなのにもう色々考えたらどうにもめんどうくさくて、一度机に突っ伏してみたらそのまま眠ってしまえそうだったから試しに目を瞑ってみただけ。夢の中まで行くとは思わなかったけれど。
「りーーーーつーーー!!」
廊下から誰かが慌ただしく走ってくる音と、聞きなれた誰かの大声が聞こえて目を開けると、芽衣の姿が見えた。芽衣は息を切らして僕の方へドスドスと大股で寄ってくる。
「さぼり!起きろ!」
大声で言うと、芽衣は昨日よりも強めのチョップを僕の背中に一撃食らわせた。
「いった」
「先生待ってるよ!」
「え、あ、ごめん」
そういわれて慌てて起き上がって鞄の中に持ち物を入れる。
僕が慌ただしく用意していると芽衣は前の席の人の椅子に腰かけて、「ねぇ」と急に真剣な声で僕に一つの問いをした。
「やっぱりピアノ弾くの嫌?」
その問いに一瞬心がギュッと絞まった。手元の動きが鈍ってしまいそうだったので咄嗟にわざと大きめに動き回る。
「…いや?別にそんなことないよ」
僕は極めて普通のトーンで返す。動揺がバレては気を遣わせてしまう。
「本当?ならいいけど……」
落ち込み気味に言うので聞き返してみる。
「急に、どうかしたの?」
問うと、案外芽衣はすぐに答えた。
「んー、だって、律の音、やっぱりどこか悲しげっていうか。前みたいな楽しさを感じないなって」
一瞬答え方に迷って、でもそれらしい言い訳をすぐに思いついた。
「何年も弾いてないからだよ」
「まぁそうだけど……」
答えると芽衣はすぐに納得した反応を返してくれた。
でも、本当にそれだけが僕の醜い音の正体であるはずがない。
「前みたいに」なんていうのが叶わないのはきっと芽衣もわかっているんだ。それでもなおそれを指摘するのは、きっと何か芽衣なりの考えがあるのかもしれない。でも、今の僕にはそれを考えてそこに向けて自分の答えを返すなんて余裕はない。せめてその「悲しげ」な音だけは感じさせないようにしないといけないわけだ。
「お待たせ。用意できたよ」
「よし!行くぞ!」
僕が鞄を持ってそういうと、待ってましたと言わんばかりに勢いよく椅子から立ち上がって他の誰よりも楽しそうに音楽室へ向かって行った。
楽しそうに…か。
音楽室に行くと既に松井先生が椅子に座って僕らを待っていた。
「さぼり犯捕まえてきましたー」
芽衣は中に入るなり開口一番にそういった。松井先生は「ははっ」と笑ったあとで、「お疲れ様」と言った。僕は「すみません」と言いながら会釈をする。松井先生は「大丈夫だよ」と優しい声で言ってくれた。
「ジュース奢り決定ね」
僕がホッとしているこの心の内側でも見抜いたのかのようなタイミングで、芽衣は何げなく当然のように言った。別に「えー」って渋ることもできたけれど、手を煩わせたのは事実だったから、「いいよ」と普通に返す。先生は楽しげに笑っていた。小銭あるか心配だけど、何とかなると思う。
今日も昨日のように何の変りもなく演奏の練習をした。
変わりなく、と言うのは嘘かもしれない。もう少し昨日よりは「楽し気に」というのを意識してみた。笑顔になるほどの余裕はギリギリあるかないかだけど、心の中はいくらか昨日よりも朗らかにいることを意識した。
演奏し終えると、また松井先生は拍手を鳴らして褒めてくれた。
「昨日よりも音が明るく感じるようになったよ」
「やるじゃんさぼりマン!」
芽衣はバシンと僕の背中を叩いた。根に持っているのか、芽衣はこの放課後の時間ずっと奥の名前をそれで呼んでいくつもりらしい。「ありがとうございます」と会釈する。久しぶりにこの高揚感を味わった気がする。
「いよいよ明後日かー」
松井先生は教室の壁際にいたのから動いて、ピアノのほうまで歩み寄った。
「緊張するー!」
「芽衣も緊張とかするんだ」
何気なく放った言葉。芽衣は「あったりまえじゃーん」とまた、鍵盤に目線を落とす僕の背中を叩いて答える。
「ん、律はそんなことないの?」
松井先生にそう聞かれ、顔と体の向きだけそっちに向ける。目線はあげない。
「実感があまりないです……」
僕の声が相当頼りなかったのか、芽衣はもう一発僕の背中を叩く。
さっきのことやっぱり恨まれてるのかも。
「しっかりしてくれよ!サポートならするからさぁ!」
「うん……」
不安しかなかった。自分の音が聞こえもしないピアニストが多くの人の前で、ピンホールライトの照らすステージで、「クラシック」をやろうとしているんだ。よく考えてみたらそれはかなり「邪道」とでも言えそうなくらいとんでもないことなのかもしれない。
例えば、生まれつきの障害とか、事故の後遺症によって、とかだったらむしろ素敵な話に聞こえるかもしれない。でも僕はそんな真っ当な理由じゃない。自分の中に生まれたトラウマに、自分の心も耳も、全て囚われているというどうしようもない、なんとも自分勝手な都合。音の聞こえない僕がたった一人で弾くだけなら、恥をかくのも、嫌な思い出を残すのも僕一人で済む話。でもこのコンクールは…。
「てか先生聴いてくださいよ!律、見に来てって言った私のコンクール見に来なかったんですよ!」
あ。その話は……。
「え!?律それはもてないぞー?」
松井先生から肩に軽いグーパンチを食らった。
「だって父さんが……家にいたから……」
「メールは確かに見たけどぉ……タイミング悪いよねいつも」
「お父さん?」
松井先生のその声の感じで僕は一つミスをした。そういえば松井先生には父や母のことは何も話してなかった。僕はうまい誤魔化し方を考える。
「……言っちゃえばいいのに」
隣に座る芽衣からそう言いたそうな雰囲気を感じ取った。
一丁前にも言うかどうか迷った。でも、コンクール前に変な気分にはしたくない。
「いや……」
僕は首を振る。松井先生には「なんでもないです」と誤魔化しとは言えない誤魔化しをする。想像通りすぐには折れてくれなかったけれど、話したくない僕の気持でも見抜いたのだろうか、深く言及はしないでくれた。
父や母の話をしないのは、最初は何となくそうしていただけだった。お年頃とかいうものだろうか、どことなく家族のことを他人に話すのは、きっともっと僕の家庭が違う形であったとしても躊躇うものである気がする。それだけでなく、話さないようにしていた期間があまりにも長すぎたせいで、相談の仕方を忘れてしまったのかもしれない。僕がそんな暗い話を持ち込んでしまったことで、いつも笑って明るい芽衣の顔や気分を、沈ませたくなかった。いつも楽しそうに過ごす松井先生の気持ちを害したくなかった。きっとこんなの自分の心だけが削られていくのだろう。そうしたって結局何も変わりはしないのだろう。苦しい今の状況も、この心の中も休まることはないのかもしれない。でも、相手の感情=自分の感情な僕には、相手が笑ってくれている方が何倍も自分の心が楽になる。それに僕は、父を悪者にしたくはなかった。
また何とも言えない空気で練習を終えてしまうかもしれないと思ったけれど、芽衣はそんな風にはさせないと言わんばかりに声を張り上げて「まぁ、サボったから今日は時間延長!」と言うと、また僕の背中を叩いた。でも今度は、まるで背中を押すかのような、気合を入れるかのような感じの印象を受けた。僕が勝手にそんな風にとらえてるだけで、本当のところはどうなのかよくわからないけれど。
あの後かなりの回数ピアノを弾いて、帰る頃にはまた七時を回っていた。また寝落ちしそうになったけど、ギリギリで無理やり体を起こしてお風呂には入った。夕飯はなんか適当に帰りに買ってきたやつを、電気の付かない部屋の中で食べた。そのあとはベッドに倒れこんで、携帯をいじる体力の余裕もなくそのまま眠りに落ちた。
その翌日もピアノの練習をした。本番前日だからそれは当たり前なんだけど。この頃になってよくやく、明日が芽衣にとって大切な日なんだと言う自覚のようなものが湧き始めた。とはいっても、まだやっぱり実感がない。聞こえなくなった時点で僕のピアノを弾く未来は途絶えたと思っていたのに。まさか今になって弾いているなんて、誰が思う?僕ですら予測できなかった、こんなことになるなんて。
「いよいよ明日かー」
片付けをしながら芽衣がそんなことを言った。
「……そうだね」
「どうした、不安かい」
不安が伝わってしまったようで、僕のそんな萎れた声を聴くなり松井先生にそう聞かれた。僕は慌てて振り返って「いえ、全然」と返す。でも、そんなの見え透いた嘘だとすぐバレて、僕の下手な誤魔化しではうまく誤魔化されてくれなかった。
「嘘つけ顔が真っ青だぞ」
そう言いながら、松井先生が僕の視界に入るように顔を覗かせた。咄嗟に顔を背けてしまった。失礼な行為をしたのはわかっている。でも松井先生は何も言わず、何も問わずだった。でもちょっと気まずい。
「緊張すんなって!」
そんな空気を察しでもしたのか、黙り込む僕の背中を芽衣がまた強く叩いた。なんか、慣れてきた。背中が赤くなってそうだけど。
「まぁ、今日は早く帰って、ちゃんと寝なさいね」
僕に反して元気な芽衣に心のどこか感心していると、松井先生がまた僕の肩をポンと叩いてそう言った。その時の声はやっぱりいつも通り優しくて、そのおかげでほんの少しだけ、この張り詰めた気持ちが緩んだ。
家に帰ってから僕は、自分の部屋の物入れの中にしまい込んでいた、数々のトロフィーを見つめていた。暗闇の中から引っ張り出されたそれらは、僕の携帯の明かりで極端に照らされ、その光は目に眩しく反射する。金色のトロフィーの下の方に刻まれた僕の名前。
『最優秀賞 竹中律』
刻まれた文字を指でなぞる。
もう、この多くのトロフィーたちをいつ頃獲ったのかなんて詳しくは覚えていない。ただ、母が亡くなった日のトロフィーだけは今でも見られずにいた。
でも別に、今こうやってトロフィーを取り出して眺めるのは、別にあの頃のピアノへの熱意とか、思い出とかそういうのを思い出そうとしているわけではない。そんなもの思い出そうとしなくたって勝手に頭に浮かんできて僕を苦しめるんだから、あえて思い出そうとする必要性は無いんだ。そうじゃなくて……。いや…思い出したいのかもしれない、あの頃の「楽しかったピアノ」を。別に今が苦しいとか、辛いとか、嫌とかそういうことではなくって。
あぁなんか、余計なこと考えると明日に影響が出そう。悪い方で。
僕の中の良くない感情を察知して、さっさとトロフィーをまた真っ暗な闇の中にしまい込んだ。もうそろそろこの辺り掃除しないとだ。今日は少し早めにお風呂も済ませて、夜ご飯は近くのコンビニに買いに行った。バイトもしていない、お小遣いもない僕にはもうそろそろ金銭的な面でピンチだ。
ベッドに入ると案外すぐに眠りにつけそうだった。明日のこと考えたら、芽衣ならきっと眠れないと言って騒ぐだろう。想像がつく。僕はなんというか……未だにちゃんとした実感がない。なんとなく本気で弾くって思ってないのかもしれない。どうせあれだ、本番直前に緊張してパニックになるやつだ。事前に対処できるならしたいところだけど、こういうのって、事前対処とかあるんだろうか?あれやこれや考えていると少しずつ本気で眠くなってきたので、目を瞑るとすぐに夢の中におちた。
『挑戦』
軽快なピアノの音、弾む足元のペダル、喜び手を叩く観衆、耳響く賞賛の声。
軽やかで、爽やかで、でも「譜面通り」のクラシックを忠実に守り抜くその音色。
『りっちゃん!今日も上手ね!』
『律君はきっと素晴らしいピアニストになるよ』
『僕もピアノ弾きたい!』
ステージのピンホールライトに照らされて、黒い髪色と対比する白いスーツがよく映える。ピアノの椅子に座る小さな男の子。それはとても見覚えのある姿。
目の前のステージの上で、それは……。
『……テ』
え?
息が詰まる感覚がして目が覚めた。太陽の光がカーテンの隙間から抜けて部屋に刺しこむ。時間は朝の八時。会場へは十時までについていればいいので、とりあえず身支度を済ませる。芽衣が家近くのコンビニまで迎えに八時半過ぎに来てくれると言うので、それに間に合うように支度をする。色々と用意をして八時十五分。朝ごはんは家にないので買うつもりで家を出た。コンビニに着いたけどまだ芽衣の姿はなかった。丁度いいので適当に朝ごはんでパン一つとお茶を一本買った。買い物も数分で済んだのでコンビニの外のベンチに腰かけて、買ってきたパンを食べていた。すると時間にして八時三十五分。芽衣が手を振りながら来た。
「デートで先に着く男子はモテるぞー」
「え、いや、デートじゃ……」
「レッツゴー!バスに遅れるぞー」
僕の訂正も遮って、芽衣は拳を空に突き上げて僕の前を歩いていく。食べ終えたパンのゴミを外に設置してあるゴミ箱に入れて芽衣に追いつこうと歩く。
「どうよ、緊張してるの?」
バスに乗るなり芽衣は僕にそう聞く。バスに揺られながら僕は何とも言い難いこの気持ちをどう表現しようかと迷って、僕は何となくあの変な夢のことを話してみる。
「昨日、夢を見たんだ」
「ん?何の?」
芽衣は僕が突然切り出した話を普通に聞いてくれる。
「小さい頃の僕が、ピアノを弾いてる夢」
「そう、か…なんか、嫌な夢だった?」
芽衣は少し遠慮気味に聞く。
「うーん……」
あの夢のせいで、大切な日である今日の目覚めはかなり悪い。
背中に嫌な汗をかいた。ステージにいる僕を周囲の人は称賛してた。でも、でも……。
ステージにいる僕は泣きながら僕を見て何かを言っていたのに、何を言っていたのかがわからないまま……。
「あ、次で降りるよ」
答えあぐねていると、不意に芽衣が立ち上がってオレンジ色の降車ボタンを押した。
ボタンを押して数十秒程度で次の停車場所に着いた。料金を払ってからバスを降りる。そこは会場前のバス停なので、バスから降りればすぐそこは僕らの会場だった。
「いよいよだね」
気まずい雰囲気を作り出してしまった罪悪感からなのか、会場の外観を見るなり口が勝手に動き出して芽衣にそんな風に語りかけていた。でもそれに対する芽衣の返答は予想外の者だった。いつもこういう言葉には悪ノリしてもっと緊張させようとしてくるのに、芽衣のトーンは少し申し訳なさを含んでいた。
「そうだね」
それに少し気づいたけれど、そこには触れない方がいいのは大体わかる。
会場に入ることもせず二人で呆然と立ち尽くしていると、見覚えのあるシルエットが見えてそれが振り返る瞬間に僕は咄嗟その後頭部から視線をずらした。芽衣も気づいたみたいで「せんせー!」と声を張り上げた。
「二人とも間に合ってよかったぁ姿がないから心配したよ」
松井先生の声を平日の学校の時間以外に耳にするのはなんだか新鮮だった。
「本番頑張れよ!律!」
目線を落とす僕が自信なさげに見えてしまったのだろう、実際自信は無いのだけれど。松井先生はいつもの調子で僕の肩をポンポンと叩いて励ましてくれた。
「とりあえず、受付してくるか!」
芽衣はわざとらしく松井先生とテンションを合わせて言った。その声は完全に悪戯心万歳だった。
会場入ってすぐのカウンターで出場者の受付を済ませて、案内してくれるスタッフと共に楽屋へ向かう。その道中、他の出場者がいる廊下を歩いていると、小さな男の人の囁き声が聞こえた。
「なぁ、知ってるか?今回のコンクールに、あの浪川芽衣が出るんだって」
「知ってる知ってる!あと、あれもだろ?」
「え?誰か他にいるっけ」
嫌味な会話だ。
「全コンクール、コンテストの覇者。クラシックピアノの王子って言われてたやつ」
「あぁー、名前なんだっけ」
「竹中律。小学生にして、ピアニストの登竜門って言われてたコンテストで最優秀賞獲ったんだって」
耳を塞ぎたくなるほど、今の僕にはそれらの「栄光」もただのレッテルに過ぎない。
「へぇ、今は?」
「さぁ?全然名前も姿も見てない。噂じゃ、ピアノ弾けなくなったらしいぜ」
「え?」
「音が全部聞こえねぇらしい」
「なんで?」
「え?あぁー、なんか」
「すみませんが」
廊下を塞いで話す二人のうち、片方の男の人がその先を言おうとした途端、僕らを案内してくれているスーツの男性が声を控えめに張り上げた。
「そこを通していただけますか?」
びっくりした様子のその人たちはたじろいで、「す、すみません」と言いながらどこかへ去っていった。急に声をかけられて驚いたのと、きっと僕の姿でも見たのだろう。気まずそうに声を震わせて去っていった。
「すみませんね、噂好きの人もいるんです。あまり緊張なさらないで頑張ってくださいね」
楽屋のドアを開けながらその人は優しい声色でそう言ってくれる。
「気にし過ぎは良くないぞっ!」
芽衣はそう言いながら僕の背中を軽く叩く。
僕は少しだけ目線を上げて小さくお辞儀をしながら「ありがとうございます」と返して楽屋の中に入っていく。中に入るとそこは白を基調とした清潔な部屋で、二人分の部屋にしては広く感じた。
「はぁ」
部屋の中にあるソファーに座った途端、胸の内に留めていたはずのため息が溢れ出た。
「気にすんなってーあんなの」
「うん……」
そんなに気にならないと思っていた。周りも、僕自身も。
でも意外と世間は狭くて、かつ意地悪なのだと思った。そんないつか思い出すことも躊躇いそうなくらい前の話、今もまさか武勇伝みたいに語り継がれてるとは誰も思わないじゃないか。本番前の集中が必要なこの時になって、狙ったかのように冷やかすその言葉の数々が、僕にとっては抜けない棘みたいに変な痛みを生んで、ずっと居残り続ける。
改めて思う、僕は本当にピアノが弾けるのか、と。
思った途端口が開いた。でも、「ごめん」の「ご」を言いかけて、僕はその言葉をどうしてか喉の奥の方へとしまい込んだ。怖くて言えなかったというか、その言葉こそ芽衣のやる気とか、そういう熱意を冷やかしてしまう気がしたから。
「そんなことより、衣装に着替えないと」
ポンと芽衣が両手を叩く。
「じゃああっちで着替えてくるから、律はあっちね」
そういうと、芽衣はグレーのポーチを一つ鞄の中から取り出して、右側にあるピンク色のカーテンの中へ入って行った。芽衣が行ったのを見てから、僕もソファーから立ち上がる。薄緑色のカーテンを開けると、その先は三畳くらいの空間に、鏡が貼り付けて壁に設置されてあり、鏡の目の前に横長のテーブルが置かれていた。テーブルの上には名前が印刷された、クリップで衣装に固定する名札と、僕の名前の書かれた紙と一緒に、誰が用意したのかわからない白いスーツが置かれていた。
「白……」
ボソボソ独り言を言いながらそのスーツに触れた瞬間、見覚えなんてない衣装なのに、どこか懐かしく感じて、まるで何度も着たことのあるものに思えた。昨日の夢のあの光景が脳裏をよぎった。ステージの上にいるあの小さい僕の顔は、いつもよりいっそう青白くて、その瞳は輝かずに、暗くて、遠くて。でも、その目が訴える心の内側をわかってあげることはできなかった、というよりは、わかりたくなくて夢が覚めることを祈った。要するには、変な夢だったんだ。
「きらきら星……」
今日弾く楽曲。結局久しぶりに鍵盤に触れたあの日のあの後、楽曲決めを改めてするのかと思ったけど、そんなことは一切なく、次の日になればきらきら星変奏曲の楽譜を渡された。それはそれは何事もなかったように。
溜息を吐きながら、目の前の白いスーツに着替えて、とりあえずカーテンを開ける。丁度そのタイミングでドアをノックする音が聞こえて、まだ芽衣は出てきていなかったけれど、僕がそっとドアを開けて出てみる。そこには何やらバッグを持った女の人が四人立っていた。
「あ、メイク担当です。お着替えは済んでますか?」
一番手前にいた女の人の柔らかな声がした。相変わらず顔が見れないので、逸らすように芽衣の入っていったカーテンへ振り向く。まだ出てくる感じがしない。
「ちょ、ちょっと待っててください」
声を震わせながら答えて、足元のドアストッパーでドアが閉じないようにする。振り返ってカーテンの方へ歩み寄り声をかける。
「芽衣、メイクの人来たけど……」
「あー!おっけー、大丈夫でーす!」
中から元気な声が聞こえた。多分ドアのほうまで聞こえていたような気がするけど一応言いに行く。
「あ、大丈夫です、どうぞ」
慣れない他人とのやりとりも、やらなければならない時くらいは頑張ってこなす。中に人を案内するくらいは僕にもできた。
本番前のメイクの時間。ピアノを人前で聴くことも久しぶりだけれど、この時間も久しぶりで、どこか懐かしく感じた。化粧品の独特な香り、美容師さんが使うワックスはいつもいい香りで、小さい頃はそれを嗅いで気持ちを落ち着かせていたけど、多分それが習慣化でもしてしまったのだろう、今もワックスの匂いを嗅ぐだけで少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
鏡を見てしまうと、そこに反射する美容師さんの顔が見えてしまうので、目線を手前の机に落としたまま一通りメイクが済むのを待った。終わると鏡を見るよう言われた。恐る恐る目線を上げて自分の顔を見る。鏡に映る自分の顔は何とも言えない顔をしていた。あまり、というか全くしたことのない髪型になっていて、似合っているどうこうと言うより鏡に映るのが本当に自分なのかと驚愕して茫然をしていると、二人いるうちの片方の美容師さんが楽しそうに声を弾ませながら色々教えてくれる。
「かっこよくなりましたね!これ、カタログで言うとかきあげマッシュで、今流行りなんですよー!とっても似合ってます!」
そう言いながら人一倍楽しそうに言う。ちなみにこの髪の毛のくねくねは髪の毛の巻き方で「スパイラル」とかいうらしい。無頓着と言うか、髪型にこだわりも知識もない僕には新鮮なことだった。そもそも顔を見られるのも見るのも苦手な僕がおでこを半分とは言えがっつり出して、なんて。恥ずかしくて俯きたくなる。
「かっこいいですから堂々となさってくださいね!」
「本番頑張ってください」
そう言い机の上のブラシなど道具を片付けるとカーテンを開けて、そのままドアを開けて楽屋から出る音がした。凄く、対照的な印象の二人だった気がする。片方の人は落ち着いていて、もう片方の人は弾けてる感じ。机の上に置いておいた携帯で時間を確認する。時間は本番の十五分前。とりあえず着替え室から出ようとカーテンを開けて、楽屋の真ん中にある椅子の方へ行くともうそこには芽衣がいた。
僕の足音に気づいて芽衣が僕の方を向く。また僕は目を逸らす。
多分、僕の姿は見たと思う。でも、芽衣が何も言わない。ちょっと不安になる。実はこのスーツも髪型も似合ってないのでは……。
「かっこいいね」
その言葉の後で芽衣が何かを言おうとしたけれど、言わないまま芽衣はその何かを飲み込んだ。
「似合ってるじゃーん、でどうよ、私は」
そういわれて、逸らした目線をなんとか首元まで持っていく。
視界に入る芽衣の姿はいつになく綺麗で、薄い水色のドレス、首元で光るネックレス、いつもポニーテールの髪の毛はおろされて肩に乗っている。一目できっと誰もが言うだろう、「美しい」と。僕もそう思う。
「似合ってるよ」
「そう?ありがと」
顔も見てないくせにそういう僕を、責めるでもちょっかいを出すでもなく、珍しく芽衣は素直に聞き入れて喜んでくれた。
「もうすぐだね。緊張はどう?」
「和らいだかな、いろんな匂い嗅いでたら」
「匂い?」
芽衣は笑いながら僕に聞く。あ、いけない変なこと言った。
「まぁ、よかったよ」
何か察したように芽衣はそう言った。もしかしたら、芽衣だけにはこの感覚がわかるのかもしれない。
そんな会話をしていると、またドアをノックする音がした。今度は芽衣が出た。
「そろそろお時間になります」
そんな声がしたので、僕はもう一度、部屋の壁際に置かれた大きな鏡の前で服装の確認する。携帯は電源を切って鞄の中に入れ、芽衣の次に楽屋から出た。
その廊下はさっきとは打って変わって静まり返っていて、なんなら殺伐としている。
案内されるまま歩いていくと真っ暗なところへ入った。そこは舞台袖らしく、たった今ステージ上で行われている誰かの演奏が、色んな所で跳ね返って僕の耳に響く。木製の床を履き替えた革靴で歩くコツコツと小気味いい音がする。
「そのスーツね、私と松井先生で決めたんだよ。律は黒髪だから服は白にしようって」
小声で芽衣が話す。僕は多分、緊張して余裕がなく、立てる物音を最小限に抑えることに集中しすぎてうまい応答できなかった。それでも芽衣はずっと話し続ける。
「思ったより似合っててびっくりしたよ」
僕らを案内していた女性がゆっくりと歩く速度を落として足を止める。それに従って僕らも足を止める。ここでようやく芽衣と会話をする余裕ができた。
「ありがとう」
声を抑えつつ、でもちゃんと芽衣の耳に聞こえるように言った。
芽衣は僕を見ずに背中を向けたまま話を続けた。
「ありがとう、わがまま聞いてくれて。おばあちゃんも、喜んでくれるよ」
芽衣がそれを言った途端、さっきまで響いていたピアノの音が止んだ。その直後に沢山の拍手の音が耳に響く。今になってこの心臓はバクバクと音を大きく立てる。響き渡って周りに聞こえていないか心配になるほど。
「大丈夫だよ。律は出来る」
芽衣はそういうと僕らの登場を促すアナウンスがした。芽衣は肩まで使って深呼吸をして僕をステージ上へ導くように先を歩いていく。その背中は凛としていて、僕は一瞬、その背中に目を奪われた。
「……芽衣はすごいね…」
ピンホールライトが照らすステージへ向かう。黒い鍵盤の、黒い椅子。
大丈夫、大丈夫。緊張しなくて大丈夫……。
何度も言い聞かせたおかげか、直前まであった指の震えはかなりマシになった。
芽衣と何度も練習した、鍵盤に指を置くタイミングを同時にする、というところはうまくいった。さて、問題はこの演奏。白黒の鍵盤の上。緊張しないわけない。客席に座る人の目、ピンホールライトのせいで隔離されるステージと観客。
芽衣が息を吸うときにわざと大きく立てる「すーっ」という呼吸音が合図。
耳でその音を聞いてから、僕がまず指を動かす。
最初の数小節は主旋律の僕のソロ。クラシック、楽譜通り。楽譜通りの演奏……だけど僕には音なんか聞こえはしない。この最初のところは芽衣の音がないから余計にテンポがつかめない。「大丈夫だろう」とはさすがに思っていなかったけれど、内心どこかで「どうにかなる」とは思っていた。でも、どうだろうか。何ともならない気しかしていない。
「ん?あれって……」
「あぁ思い出した、あれ、あの子だろ、クラシックの王者って言われてた」
演奏に集中したいはずなのに、不意に耳に聞こえた煩わしいその会話。廊下でも聞かされた、忌々しいその会話。嫌味な会話が耳を劈くころ、やっと芽衣の音が耳に響く。その音に合わせて僕の音のペースを調節する。音は聞こえないから、聞こえてくる芽衣の音の大きさに合うように弾く。こんな弾き方でよくもまぁステージに立てたものだと我ながら思う。
でも、芽衣の音に交じって、また嫌な会話が耳に刺さる。
「でもなんか、様子がおかしくないか」
うるさい。精一杯なんだよこれが。
「クラシックっての忘れたのか?ブランクあったにしては酷すぎるな」
僕だって必死なんだ。音が聞こえるあなたには絶対に分からない。
「下が頑張ってるけど、主旋律が暴走してるな」
うるさい、うるさい。
消したい、消したい、嫌な会話全部。
僕だってわからないんだよ、自分の演奏する音がそどれほどのものかなんて。聞こえてこないんだから!音、音、もっと、もっと音響けよ!なんで、なんで……。
なんで聞こえないんだよ……。
心ばかり焦って、手先は慌てて、芽衣の音もわからなくなって、次の音、次の音を求めて、鍵盤を強く叩く。僕のパートが高速の連弾になればなるほど、それは荒れて、乱れていく。おかしい、練習の時はこうはならなかったのに。
「汚い音だ」
『―汚い音』
僕の中で何かがプツンと切れて、途端に音を忘れた。さっきまで聞こえていた芽衣の音は何も聞こえなくなっていた。
初の連弾でのコンテストは、優勝なんてできなくても、せめてもう少しくらいはいい思い出になって終えられると思っていた。でも……。
全てを見ている大衆のせいにしてしまおうか。そんな余計なことを言うせいで、僕の演奏が乱れてこの有様なのだと、全部何もかも知らない誰かのせいにしてしまおうか。この指が譜面に従ってくれないのは……。
全てにおいて一心不乱だった。弾き続ければ嫌な声たちはかき消えてくれた。弾くことに夢中になれば、その音がどんなに荒れようとも意識を逸らすことが出来た。
何も聞こえなくなった僕の耳には、戸惑いを含んだ拍手の音がちらほらと小さく聞こえた。でもその中で誰かが、明らかにそれらの音とは異なり、温かい気持ちを含んだ大きな拍手の音が一つだけ聞こえた。
誰……?
頭にそんな疑問が浮かんだその直後、それが誰なのかすぐに分かって、心の底から羞恥心が沸き上がってきた。芽衣に小さく声をかけられ、椅子に張り付くように固まった体を無理やり動かして椅子から立ち上がり、不本意な意識を混ぜ込んだ拍手の鳴る中で客席へ礼をして舞台袖へ歩いていく。
暗闇に近づく度に心がざわつく。
自分が、とかじゃない。このステージの上で、僕一人が恥をかくならそれでよかった。それなのに、これじゃ僕は、芽衣の面汚しをしに来ただけじゃないか……。
謝っても、どれだけ悔いても仕方ないと分かっていても、胸いっぱいに申し訳ない気持ちを抱えたまま客席からは見えない暗闇へ入るなり、僕が謝ろうと小さく「ごめん」と言うとそれを掻き消すように芽衣は噴き出して爆笑した。
「あー!弾いててびっくりするくらいグダグダになっちゃったぁ」
芽衣は両手の指を絡ませてグーっと上へ伸ばす。その明るさが、芽衣なりの優しさなんだと言うことくらいはわかっていた。それでもその明るさに同じ明るさで子たるなんてできない。芽衣の態度とは相反するように、僕は暗く重めの雰囲気とトーンのままもう一度謝る。
「なんで謝るのさ。もともと私の我儘だったし」
今度はちゃんと聞き取れたらしく、芽衣は歩きながら僕の方へ振り返る。あんなことをしておいて、僕は相も変わらず芽衣の目を見れなかった。
「人前で逃げずに弾けた。それでいいんだよ」
芽衣は続ける。「私の方こそごめんね」と。僕はどうして芽衣が謝るのかわからなくて、それを考えても口から出る言葉は依然として「ごめん」の三文字だけだった。
「本当は、もうおばあちゃん死んじゃったの」
僕に向けていた体をもう一度正面へ戻して芽衣が歩き続ける。僕らのいた暗闇が明ける頃、芽衣は悲しげな声で話し始めた。
「せめて、もう一度律の音を聞いてほしくて」
もう一度という言葉にひっかかって僕が訊ねようとすると、芽衣はそれをわかっていたように追加で説明を入れる。
「この前あんな言い方したせいで分からなかったんだと思うけど、おばあちゃんが泣いたあの日に聞きに行ってたの、律の演奏だったんだよ」
特にこれと言って衝撃を受けたわけでなかった。それでも、心はどこか漫ろだった。
多分、この前って言うのは、「かの有名な、小さなピアニスト」って芽衣が言った時のことだと思うけど……。まぁ、そんな大層な言い方をされては誰も自分だなんて思えない。
「なんか、嘘ついて、騙して出場させてごめん。ただ、律にピアノを嫌いになって欲しくなかったの。だって、律の音からはまだ、ピアノを弾きたいって声がするから……」
芽衣は急に足を止めて、華奢な肩にぐっと力を入れてそういった。返答に迷っていると僕らの背中の方から聞きなれた声がした。一瞬判別できなかったけれど、その一瞬の後、瞬きくらいの刹那の間にそれが誰なのかすぐにわかった。
「お疲れー!」
やっぱり。松井先生だ。
振り返るけれど目線はあちこちへ散らす。顔が視界に映らないように。
「よかったよ!」
松井先生は芽衣と僕の肩を叩きながらそういった。
芽衣は反射的に、慣れた態度で「ありがとうございますぅ!」と返していたけれど、僕は素直にその言葉に「ありがとうございます」なんて出てこなかった。芽衣自身の演奏は誰が聞いても「良い演奏だった」と言える。僕の横暴が過ぎるような演奏に嫌にならずについてきて支えていてくれたから。確かにステージ上じゃ僕は僕の音に必死になってしまっていたけれど、途中までなら聞こえていた。その聞こえてきた音が暖かな包容力なるものを持ち合わせたものだったことは、ステージ上で心慌意乱だった僕にもそれなりにわかっていた。
だからだろうか、より一層褒めの言葉が素直に聞き入れられない。
「律は納得いかなかったらしいですけどね」
芽衣は僕の背中を優しく叩く。それでもなお、下げた目線はあげられないし(いつも上げてないけど)、落ちた気分を嘘でも引き上げることさえできそうになかった。別に演奏中の野次のせいとかじゃなくて、ただ、僕の演奏のせいで芽衣の今後に少しでも悪い方向へ影響が出てしまいそうで不安だった。
「じゃあ女子は着替えに時間かかるから、先着替えてるねー」
一緒に行こうって言ってくれればいいのに、芽衣は何か企んでいるかのような怪しい声色でそんなことを言って、そそくさと楽屋の方向へと歩いて行ってしまった。
本番前よりも少しだけ、ほんの少しだけ賑やかな廊下に担任の先生と二人きりで無言。生徒として、何か話題を作った方がいいのだろうかと考えていると、そんな僕を見た松井先生は口を開いた。
「納得いかない?」
僕の暗い顔を見ての判断で、きっと松井先生はそう聞いたのだろう。実際間違ってはいないし、心があんな演奏でスッキリできているはずはない。
「……そうですね」
「私は良かったと思うけどなぁ」
不思議だ。その声からは、言葉からは、嫌味も下手な励ましの気遣いも感じない。ただ本気でそう思っているかのような言いぶりだった。でも『先生』だもんな。実際悪く思っていても本当に口に出して「悪かった」なんて言えるわけない。そうだ。きっと建前だってことがバレないように隠すのがうまいだけなんだ。
「今絶対嘘だって思っただろ?」
グサッと心臓をピンポイントに射抜かれた気分だった。まるで心の中でも見透かすように松井先生は笑いながら、でも確信を持ってそういう。頷きかけてギリギリ首を止めて、「そんなことないですよ」と首を振る。
「今ちょっと首動いたけど?」
大笑いして、松井先生は可笑しそうに言う。つられて僕も小さく笑った。
「いや、本当に。音が綺麗とかそういうことだけじゃないと思うんだよ」
それは、どういう意味だろうか。頭の中に反射的にそんな問いが浮かんだ。
「どんな音が綺麗に感じるかってその人次第だからさ。今日の律の演奏は今までで一番良かった。やっと自分出してくれたって感じがしたんだよ」
そう言いながら最後に「私はね」なんてつけたして強調していたけれど。でも、なぜだかそういわれてみると、ただの『お褒めの言葉』なんかよりもどこか説得力を感じて、すんなりと心の中にその言葉は入っていってくれた。
「……自分……ですか」
小さく返すと先生は「うん」と自信満々気に返した。
「まぁひとまずお疲れ!早く着替えてきちゃいな」
何とも言えない気持ちのままどうにでもできない僕を見かねて、松井先生はまた僕の肩をポンと叩いて促した。返事を返して振り返って楽屋へ急ぐ。
道中自分の手を見ると、久しぶりに本番のステージで鍵盤に触れ続けた指先は未だに震えていた。はっきり言って気持ち悪い。でも、久しぶりに引いたせいなのか、もともと隠れていた感情なのか、本番中に溢れ出たアドレナリンとかいうものだろうか、もう少しだけ、弾きたい、弾いていたいと思えるような気がした。
『過去』
凄惨な演奏で幕を閉じたあのコンテストから一週間後の今日、僕は松井先生から呼び出しをされていた。と言っても、断じて問題行動をしたとか、そういうことじゃない。僕はそんな人目に付くようなことはしない。
「お待たせ」
松井先生に待っていてと言われていた、相談室なる部屋の椅子に腰かけて足をブラブラと力なく揺らしていると、思ったよりもにこやかな表情で松井先生が来た。
「急に呼び出しでごめんね」
椅子に座るなり松井先生はそういうけれど、僕は小さく首を横に振りながら「大丈夫です」と返す。それから少しの間この前のコンテストの話をした。今となっては笑い話だけれど、あの時はそんな余裕なかったし、泣いてそのままステージから逃げ去りたい気持ちでいっぱいだった。色々話をしてひと段落着くと、松井先生は弾む声を真剣な声色に切り替えて話題を変えた。
「そういえばさ、この前話してたことなんだけど、あの時家族のこと隠そうとしてたから気になって」
机の上で松井先生は両手の指を絡ませて少し体重をかける。ギィっと小さく机が鳴る。
「何か、話してくれないかなって」
松井先生の優しさはとてもありがたかった。それはこの上ないほど。でも、僕はそれに答えることが出来なかった。母がいないのはもうずっと前から当たり前みたいになっていたことで、父があんななのも、もうずっと前からのことだった。
父があんななのは嫌だし、辛い。でも、それを誰かに話してみたところでどうにかできるわけじゃないことはわかっている。先生、担任って言ったって、ただの赤の他人に過ぎない。それなのに、「救いたい」と思うことも、「解決させたい」と思うことも、僕には不自然で、不気味で、理解も示せない。
優しさに触れるのは怖かった。
それが嘘になってしまうことを知っていた。
信じるなんてもってのほかだ。
意味がないのはわかっているのに、あえて縋りつくのはなんだか気持ちが悪い。
考えたら言葉なんてどこか遠くへ消えてしまって、結局息ができなくなりそうなくらいに重たい沈黙を落っことして、僕はいたたまれない気持ちになった。
「……いや、その……」
別にこれと言って、特別話したくないわけではない。ただ話そうにもどこから、なにから、どれくらいの話をすればいいのか。どんな話をすれば信じてくれるのか。どのくらいの話であれば聞き入れてくれるのか。どんな話し方をすればいい?何の話をすればいい?
ぐるぐると思考回路の中で言葉が旋回を続けるせいで、口から出さなければならない言葉も声も出なくなって、破れたと思ったはずの重たい沈黙は再び僕と松井先生の間に作られた。
「ゆっくりでいいよ?」
先の言葉を選び過ぎて何も言えない僕に、松井先生はまた優しい声で言う。教室での口調の荒さとはまるで反転するその声に、ほんの少しだけ目が潤んで、でも結局言い出すことは怖くて口は動いてくれなかった。しかし当然そのままではこの胸の奥の何とも言えない気持ちが解消されないのはわかっていた。だから僕は、大きく深呼吸をしてからゆっくりと話し始める。
「父は、良い人でしたよ……」
口から出た言葉は空気に溶けるように弱くて、小さくて、薄っぺらい。
「……僕が変えてしまったんです」
先生は黙ったまま僕の話を聞く。
なんだか急に嫌気がさしてきた。自分の不幸話なんて、人にするものじゃない。
「……大丈夫です。いいんですもう」
失礼なのはわかっていた。それでもやっぱりこの場にはいられない気がした。吐き捨ててさっさといなくなってしまいたかった。だからわざとうるさく椅子の音を立てて勢いよく立ち上がる。多分、話したくなかったのかもしれない。思い出してしまうから。全ての嫌なものを。今までの過去を思い出してしまうのは、怖くて、嫌で、辛いことだから。
意識的に避けていた。逃げてきたんだ。その方がずっと楽だったから。
だからそれでよかった。
「律、辛いことをため込むのは良くないよ」
また優しい声がした。
辛いこと……と言えば確かにこれは辛いことだ。
でも、今までさして悩み苦しまずに済んだのは、忘れることが少しは出来ていたからじゃないのか。今更むし返して思い出してみたって、この問題が解決できるわけじゃない。これは、松井先生の関与でどうにかなる問題とは言い難い。ただ僕が……。
「律は何も悪くないんだよ?」
心の中でも見抜いたのだろうか。少しずつ松井先生の組む指の力が強くなっていっているように見えた。知らない間に、膝の上にある僕の握り拳はより握りしめる力を強めていた。それは、爪が手の平に食い込んでしまいそうなほど。
どうしてか。こういうタイミングで叱られたり、あまり良くない言い方をされたりすることなら慣れていたのに、それとは正反対にこんなにも優しくされてしまうと、慣れていないせいなのか、心臓がわかりやすくギュッと音を立てて締め付けられて、目からは熱いものが流れ出そうだった。
別にこれと言って、毎日毎日自責の念に囚われていたわけじゃない。ただ、誰のせいにもしては来なかった。父が問題なのは傍から見ればわかり切った話かもしれない。それでもそれを利用して今自分が辛いだなんて言いたくなかった。なんならこの頭の中からその存在を消していたかった。家に帰ったところで別に会うわけじゃない。たまたま気まぐれに家に立ち入っては文字通りの一呼吸で家を出て行くから、何もお互いに顔を合わせたり目を合わせたりしない限りは、コミュニケーションなんか取らない。父も、僕とは会いたくないのだろうし。だから別にいい。別に解決なんかしてくれようとしなくていい。僕の家庭の話に、関係のない人を巻き込みたくはない。
「……先生には、関係ないです」
それだけを言い残して、僕は逃げるようにその部屋から出て行った。
不敬な発言や行動だと言うことは分かっていた。それでもそれくらい最低なことを言わないと、松井先生の優しすぎる声からは逃れられないような気がした。逃げなければ、余計なことを話してしまいそうだった。
いっそ嫌われてしまえばいいと思った。
あんなにお世話になっておいて言うことではないだろうか。
でもそれこそ「だからこそ」と言う言葉がよく似合うのではないか。
嫌われてしまえば、自ずと僕から離れて行ってくれる。
これでいいと思った。
その放課後僕は何となく、本当にただ何となく音楽室のピアノの前にいた。
鍵盤とみると思い出す、あの悲惨なコンクール。もちろん、芽衣の演奏は素晴らしかった。途中で僕自身パニックになってしまっていたけれど、それまでの間はきちんとこの耳に芽衣の音がしていて、僕の暴走にもギリギリ合わせてくれていたと思う。何せ音が聞こえなくなっていたから事実のところはわかっていないけれど。
でもこういう時に思う。本当に僕はピアノに助けられてきたんだと。
「悔いがおありですか?」
不意に声が聞こえて、びっくりしてその方を見ると、音楽室のドア近くに芽衣の足が見えた。どんな表情なのかはわからないけれど、その変な話し方と声から察するに、にやにやはしていそうだ。
「悔い……なのかな、でも申し訳ないとは思ってる」
鍵盤を見つめながら答える。触れようと手を伸ばすも、音を鳴らす勇気はなかった。
「何かあった?」
声がさっきよりも近い。芽衣は知らぬ間にピアノのそばに来ていた。
「……いや、特には」
「嘘だね」
言い切らないうちに芽衣が割り込んで僕の発言を遮断した。
こういう真剣な話をしているときの芽衣は恐ろしいくらいに僕を見透かしていて、「お見通し」とでも言いたげに僕の本心を突いてくる。余計なことを話す要因になりかねないから、こういうタイミングの芽衣は、ありがたいのに少し苦手な気もする。ずっと、ずっと無邪気に笑って、ふざけて、盛り上げてくれていたらいいのに……。今このタイミングに、真面目な話は似合わない。
「言っておくけど、その辺の人より少しくらいは律のこと知ってるんだからね?嘘ついて誤魔化しがきくのは、せいぜい先生とか他のクラスメイトくらいだと思うけどなー?」
自信満々な芽衣の声に、なぜか僕の心は安堵した。さっきの松井先生の優しい声には動揺して、隠そうと必死になっていたのに。「芽衣の声なら」というよりは、たださっきよりも気持ちが落ち着いたというだけなのかもしれないけれど。
かなり長めの沈黙が落ちた。別に話す気がなくて、というわけじゃない。ただどこから何をどのように話せば伝わるのか考えていたら、数分間の完全な沈黙になってしまっただけで。
父の話……。どこから話せばいい?
暴力的なところ?それともそうなる前から?
母とのこと?母の病気のこと?
そもそも僕がピアノを弾くわけ?
ダメだ、話が脱線する。
でも本当に話してもいいのだろうか。
いつも楽しそうにする芽衣や松井先生が、僕の暗い話を聞いていつも通りのテンションで話を聞いていてくれる確率はどれほどなものか。考えるまでもない。僕のつまらない話のせいで相手の気分を底下げしたくない。つまらない事情はつまらない僕自身が一人で解決させればいいものなのに。
「わかったぞ!今この瞬間に律が考えてること!」
急に芽衣がそんなことを声を張り上げて言うものだから、僕はびっくりして肩がビクンと跳ね上がった。
「どうせ、こんな話をして芽衣の気分を害したら、とか考えてるんでしょ」
ほら言った通り。こういう時の芽衣は本当に恐ろしい。心の中を透視しているのかってくらい、芽衣の予測と僕の本音は一致する。もはや予測とかの次元じゃない。
とはいえ、うんともすんとも答えにくく、僕は黙ったまま膠着する。
「いいんだよ。聞きたいから聞くし、仮にそれで私の気分が沈んでもそれは律のせいにはならないし。相手の感情まで律が背負う必要ないよ」
相手の感情まで、背負う必要……。
頭の中で芽衣の言葉を反芻させた。
なんだか僕の欠陥部分が美談になってしまった気がする。でもそういうことなのだろうか。僕がこうして色々考えるのは、相手の感情を自分が背負おうとしたことによるからなのだろうか。もちろんそういうことは何も意識していない。
かといって、「じゃあいっか」なんて開き直りをすることもちょっと僕には無理難題で。
やっぱり考えてしまうものはあるし、自分のせいで相手に不快な思いをさせた、という責任感のようなものは常に持っていて損は無いのだろうし。そう考えれば結局のところ僕自体が間違っているのかどうかですら、判断できかねるような気がする。
「それに私もう、律の悲しい顔見たくない。笑顔で楽しそうにピアノを弾く律を私は知ってる。あの時は怖くて逃げたけど今なら律を助けてあげられる…って、思うんだよ」
芽衣は声を震わせてそう言った。さっきまでの陽気と勢いはどこへいったのかというくらいに優しくて、でもちゃんと芯は強く持っていた。
別に芽衣を恨む気持なんか一つもなかったけれど、芽衣の言う「あの時」っていうのがどの時のことなのかはなんとなく察しがついた。
でも別にあの時の僕は誰にも助けてほしくなかった。巻き込みたくなかったし、何よりも楽しそうにする人の顔を曇らせるような悪趣味、僕は持ち合わせていなかった。
それでもこのまま話さなかったとして、芽衣は僕に対して笑っていてくれるだろうか。こんな変な空気を自ら作り出しておいて、「なんでもない」なんて言ったところで、芽衣はうまいこと騙されてくれるだろうか。その方が、芽衣から、松井先生から笑顔を奪うだろうか。
「……父さんのこと、先生に聞かれたんだ」
少しだけ話してみようか。母と僕のピアノ、変わってしまった父のこと。
僕がピアノを始めたのは、幼稚園生の頃。五歳とか、六歳くらい。
初めは小さな電子ピアノから始まった。楽譜、音符の読み方、鍵盤の位置、音階、ピアノを演奏する上でのあらゆることは母から教わった。ピアノの英才教育って、大概両親がとんでもなく厳しいイメージがあると思うけど、僕の両親はそれとは正反対だった。二人とも優しくて、間違えたりしても怒らず一から丁寧に教えてくれて。コンテストなんかで賞を受賞すれば毎回のように祝ってくれて。だから僕はピアノを弾くことが楽しかった。
両親だけじゃない。観客席にいる人たちも、僕の演奏を聴く度に幸せそうな顔をしてくれた。だから、ピアノはみんなを幸せにする道具なのだと思っていた。
最初に母に教わったのは、パッヘルベル、カノン。
曲名だけじゃ想像つかないかもしれないけれど、聞いてみるとわかる。きっと誰もが一度は聞いたことのある馴染深い曲。僕も幼稚園生ながらにそれを一度くらいは聞いたことがあって、そのおかげもあってかその曲は僕の中でお気に入りの曲だった。
その曲で初コンテストの金賞を獲得してから、大事なことがある前や気持ちを整えたい時は必ずその曲を聴いたり自分で弾いたりしていた。
母は僕の演奏を「自分の生きる意味だ」と言ってくれていたけれど、父も同様に僕の音が大好きだと言ってくれていた。
毎年、毎度毎度出場するコンテストは必ず金賞。トロフィーと賞状を持って帰らない日は無かった。その界隈の中で僕の名前は「クラシックピアノの王子」あるいは、「ピアノ界のプリンス」。傍からすればそれは「栄冠」であって、きっと誇らしい呼び名に違いは無かった。僕も当時はきっと、その名前に嫌な気持ちや変な気持ちが湧くことはなかったように思う。けれどその感覚はいつしか狂っていってしまった。
僕が小学二年生の頃、元々体の弱かった母は突然家で倒れて病院に搬送された。
僕が知ったのは担任の先生の伝手だったけれど、小学二年生の僕の幼い頭でも、それがどういうことで、母がその時どんな状態なのかくらいはわかった。
それでもそのことは、僕がピアノをやめる理由にはならなかった。もちろん、母の危機が僕にとって辛くないわけなかった。でも、今ここで、僕がピアノから離れず依然変わらないままコンテストに出続けた理由を明かしても、それでは母のせいにしてしまう気がするから、あまり安易には口に出せない。
そして、ここで父に少しずつ異変が起こり始めた。
父は大手企業の会社の社長で、「切れ者」と評価は高かった。僕にグランドピアノを買ってくれたのは父で、体調を崩しがちであまり長く僕の練習に付き合えない母の代わりに、僕の練習に付き合ってくれていたのは父だった。仕事で忙しいはずなのに、嫌な顔一つせず、むしろ僕の成長を誰よりも喜んでくれた。
「もっと律の音が聞いていたい」と、父は言ってくれていた。
でも、母が倒れて入院するようになってからというもの、父が母のお見舞いに行く姿を僕はほとんど見かけたことがなかった。僕は別で母方の祖母や芽衣と行くなどしていたから何度も母の顔を見ていたけれど、その度に父のことを聞いてくる母の顔は悲しそうで、寂しそうで、見ているのが苦しかった。でも母は一度も、父に対して「会いたい」とは言わなかった。それだけは僕の中でも少し不思議なところだった。
そして僕は父の異変に気付いていた。
母が長いこと不在の間に、お酒を大量に買うようになった。極稀に家へ帰ってくるときも、独特な香水と煙草の匂いを身に纏わせるようになった。最初はその程度だった。けれど、僕がコンテストに出て賞を取る度に、父の様子は変貌していった。
父は僕の十回目の金賞受賞のあとから、僕の顔を見るなり舌打ちをして、僕に色々と命令をするようになった。早々に従わないと父は僕を殴るなどもした。
そして、母が亡くなって数年後のことだった。
ある日、僕は父が遅く帰ってくるのを知っていて、それをいいことに早く帰ってピアノを弾こうと急いで家に帰った。でも……。
ベートーヴェンピアノソナタ第八番ハ短調「悲愴」第二楽章。
父が好きだと言っていた楽曲。その楽譜の焼けて焦げた一片が家の玄関前に転がっていた。僕は我に返り家の駐車場を見た。急いでいた上にその日は雨で、傘をさしていたせいで気づかなかったけれど、確かにそこには白いセダン、父の車が止まっていた。すると突然家の中から、何か重たいものが壊れたような、煩くて重たい「良くない」音がした。とてつもなく嫌な予感がして急いで家へ入った。
そこには父の黒い革靴が乱雑に脱がれていて、リビングからは酷く酒の匂いがした。靴を脱いで上がり、中を覗き見ると五本程度のビールの空き缶が床に散在し、日本酒の瓶も開けられたままテーブルの上に放置されていた。その光景に茫然としていると、二階の方からまた何かを壊す音がした。僕は息を殺して、足音をあまり立てないように階段を上って部屋へ向かう。階段を上がり切り三畳ほどの踊場へ出る。踊場へ出てすぐ右手が僕の部屋で、奥が僕のピアノが置かれている部屋。視線をやると、ピアノのある部屋のドアが全開になっていた。さっきよりも大きく何かを壊す音がして、僕はびっくりして肩がビクンとあがる。
ゆっくりとそのほうへ行き開け放たれたドアの向こうを見た。そこにはどこから持ってきたのか、銀色の金属バッドを振りかぶる父の姿。その奥には、ズタズタに破壊されて崩れ落ちたグランドピアノがあった。中学一年生の僕は、そのとき何が起こっていたのかすぐに理解できた。絶望に加えその光景に落胆して肩の力が抜け落ちた。それと同時に、肩から下げていた手提げカバンが床に落ちた。
「ん?」
父はその音にすぐに気が付いて、悪びれる様子もなしに振り返った。
「おぉ、帰ってたか」
僕は何も答えられずただその光景に茫然とするばかりだった。けれど父は笑っていた。
「なんだ?殺人犯じゃねぇんだぞ?」
「……なに、してるの?」
やっと出てきた言葉はそれだった。幼いころによく見ていた優しい笑顔とは全く違っていて、いつも見せる恐ろしく怖い顔とも違う、あたかも当然のことをしたかのような「いつも通り」のいで立ちでいる父に、僕はただそう問いかけることしかできなかった。
「あ?あぁ、もう必要ないだろ。ピアノなんか」
その先の言葉はあまり良く覚えていない。ぐちゃぐちゃになってしまったピアノを目の前にして、それが自分の物であることを認めたくない思いがずっと頭の中でぐるぐると回っていた。父の言葉は何一つ理解できなかった。
「何より勉強。そのために、邪魔になるやつ皆消してやったよ」
父は自慢げな顔でそう言って、僕の方へ歩いてきてから肩を軽く叩くと、ポケットからたばことライターを取り出して、僕の横でタバコをふかし始めた。一息「ふぅーっ」と白い煙を漂わせると何も言わずにその場を後にして家を出ていった。
父が出て行って車が発進したエンジン音が遠のくと、僕は一気に体全身の力が抜け落ちて、床に両膝をつきへたりと座り込んだ。
何が父をそうさせたのか、僕にはわからなかった。父だって母と同様にピアノを愛していたはずで、僕の演奏だって何度も何度も褒めてくれた。父は言ってくれたことがあったんだ。「律の音が大好きだ」と。弾き続けて僕の演奏がもっと綺麗になれば、きっとあの頃の父はまた戻ってきて、僕の頭を撫でてたくさん褒めてくれるのだと思っていた。
自分の音がわからないのは、練習不足だったから。
自分の音をもう一度掴んだら、父はまた認めてくれると信じていた。それなのに……。
見渡す限り部屋の中は何もかもがぐちゃぐちゃになっていた。楽譜も、ピアノも。トロフィーだけは僕の部屋に置いてあったから多分無事だと思う。けれど何よりも大切な母と父と僕の三人が移った写真は、額のガラスが割られ中の写真はビリビリに裂かれていた。中でも父の顔だけは跡形もなく破り裂かれていた。力が抜けて動かない体を無理やり動かし四つん這いになる。ゆっくりと這いながら壊れたピアノの前まで行ってまた座り込む。
たたき割られた白と黒の鍵盤に手を伸ばした。押せばいつもの音が鳴る。また優しい母と優しい父が隣に来てくれる……。でもそんな願いは一瞬にして崩れ落ちた。
力なく伸ばした指先が白の鍵盤に触れて、僕はその鍵盤をゆっくりと押し込んだ。けれど音なんて鳴らなかった。「鍵盤を押した」という感覚ですらあったかどうか危ういほど。
ふと視界に入ったビリビリに裂かれた僕ら三人の写真。そばにいたはずの母は、いくら鍵盤を押しても現れない。その刹那、僕は唐突に何もかも理解した。僕は全てを失ってしまったのだと。僕の音楽は死んでしまったと。母は死んだ、もうこの世にはいないんだ。
その瞬間、僕が、僕の中の何かが死んだ。
荒れ果て酒に取り憑かれたように寄り縋り、暴力をふるう行為に対して躊躇しなくなった父は、母のピアノを嫌い、母の顔を忘れたがった。僕の奏でる音を母と重ねた挙句、父は僕ごと、ピアノも全てを嫌った。
僕の、僕だけの宝物を、父は恣に壊し、奪い、消し去った。
何もない僕はもう満身創痍だった。
それともそれは、父だったか?
そうだったとしても、僕の中で父のしたことを許してやることは出来そうになかった。
心の唯一の居場所が、母がくれたあのピアノだったから。学校で変な目で見られても、父に罵倒されても、殴られても、孤独を感じても、あのピアノと楽譜があれば僕は何でもよかったから。恨む気持ちは誰よりも強いはずなのに、すべてを失った僕にはもう、父を恨むほどの気持ちの余力は残っていなかった。
すべてを失ってその瞬間、僕の中でプツンと何かが切れる音がした。まるで鳴らしてはいけないものを鳴らしてしまった時のような、圧倒的な違和感。不穏な感覚。それが、ピアノに対する気持ちだったのか、それ以来僕がピアノに触れることは一切なくなった。学校へも行けなくなっていた。中学三年間の思い出なんて皆無だった。
それでも父の話を誰かにする気にはなれなかった。
きっと父なりに何かがあったのだと信じていたから。
あんなことがあっても、優しかったころの父を覚えていたから。
優しい父に、帰ってきて欲しかったから。
今ここですべて話したら、父はもう戻ってこないような気がしてしまったから。
もう一度だけ、父に褒めてほしかった。だから、父を悪者にしたくなかったんだ。
ただその一心で……。
「だから話せなかったってわけね」
僕の長ったらしい話を聞いた後で、芽衣はいつもと変わらない調子でそう返した。
あまりにもいつもと変わらないので、本当に話を聞いていたのか不安になったけれど、聞いていなければ出ない言葉だったから信じてみる。
「逆に、それだけの話を聞いてニコニコしてる方が怖くない?」
何も言えない僕に芽衣は続ける。
「律のなんでもないは大体なんでもなくないからね。なんとなく何かありそうだとは思ってたけど。お父さん……か。だから私の演奏会も来れなかったってことね」
「あれは本当にごめん、怖かったんだ。今もまだピアノをやってると知られたら……」
知られたら……何だって言うんだろう。芽衣を巻き込んでしまう?僕がまだ殴られる?
その先の言葉が出てこなかった。
「全然気にしてないからいいけどさ」
芽衣は笑ってそういうと、僕の肩を叩いた。
「あっ」
小さくそんな声がした。目線を声のする方へ少し向けると、見覚えのある上靴が見えて咄嗟に目線を手元の鍵盤まで戻した。
「あ!せんせーい!」
芽衣もその声に気づいて反応する。そこにいるのが誰かなんてすぐに分かった。
「まだいたんかい?」
その口調からもわかる。そこにいるのはつい今日の昼間気まずい空気を作り出してしまった相手。松井先生だった。
「えへへー」
いつもなら何かと僕の名前を出す芽衣が、この時だけは変な笑い方をして誤魔化そうとしていた。
「先生どうかしたんですか?」
芽衣が切り出すと松井先生は「日直だからさ」と答えた。
不覚にもその瞬間、良かったと思ってしまった。僕を追って、とかそういう理由じゃなくて良かったと。
「……」
芽衣には、松井先生にその話を聞かれたことを話した。だから僕と松井先生の間にある気まずい空気感はきっと感じ取ってくれているはず。僕が何も言葉を発せずにいると、芽衣は僕の背中を叩いた。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
芽衣はわざと僕に向かってそう言い残し音楽室を出て行った。
えぇ、このタイミングで?と思ったけれど、話を聞いてくれた芽衣にそんなことは言えないので我慢する。
芽衣がいなくなるとより一層気まずくなったけれど、何の異変も感じさせないかのように、松井先生は黙って窓の鍵の施錠を確認する。全て確認し終える頃に、僕は今世紀最大レベルの勇気を振り絞った。
「あのっ……」
勇気を振り絞って声をかけるも松井先生の応答がなく、ちょっと声が掠れてしまったせいで耳にちゃんと届いていなかったかもしれない。「失敗したか……」と思った。けれど、そう思った矢先、松井先生はいつもの優しい声で答えてくれた。
「どうした?」
松井先生はあえてなのかずっと背を向けたままだった。
「……その、すみませんでした、今日のこと……。ちょっと、自分の中で先生にお話をすることに抵抗があって……」
タジタジになりながらも、きちんと全部伝えたくて、声を振り絞って出し続ける。
「嫌とか、そういうことではなくて……。怖かったんです……。僕のつまらない話を聞いて、先生から笑顔を奪ってしまうのが……本当に失礼な事を」
言いかけて、頭に温かな感覚を覚えた。それが松井先生の手の平だと言うことは割とすぐにわかった。なにせその感覚には何度も覚えがあったから。どういうわけなのか、目から熱いものが溢れる感覚がして、でもなんか情けなさも感じたので、無理やり押し込めようと瞬きの回数を無理やり減らしてみる。
「律は優しすぎるんだよ。そんなこと一ミリだって気にすることないの。律は何も悪くないし、生徒の悩みを聞くのは教師の仕事なの。もっと甘えたって許されるんだよ」
何も返せなくなる僕に松井先生は優しい声で続けた。
「律はきっと、ずっと誰にも甘えられなかったんだよ。色んなことを求められて生きてきたんだよね。甘え方を知らないまま大きくなっちゃっただけ。いいの。今まで出来なかったんだから」
辛かったね。苦しかったね。そんな、松井先生の声がずっと頭の中で響き続ける。溢れかけたものが収まってくれるはずなんてなかった。
「今私が願うことはー、そうだなぁ、私の顔を見られるようになってほしいってことくらいかな」
ずっと俯く僕を松井先生はそんな優しい言葉で語りかけ、責めもしなかった。
ここにきて初めて、赤の他人なのに、まるで本当の母親であるかのような雰囲気を感じて、且つ、包み込まれるような温もりに、僕はまたボロボロと、まるで小さな子供の様に大粒の涙をこぼした。
久しぶりに大人の優しさに触れた。
無意識のうちに、大人に対する苦手意識のようなものがあったから。明らかに自分よりも長く生きる大人は、はっきり言って僕みたいな子供を相手にしたときに、何を考えているのかっていうのがわかりにくいところがあるように感じていた。先生とかになると特にそういうのはあるのかもしれない。沢山の生徒を相手にしてきているのは十分に知っているからこそ余計に、何を考えているのかわからなくて、ただ漠然と「怖い」と思ってしまっていた。先生と言う存在はみんな冷たい人だって。先生なんて授業をするだけの人たちで、「親身に」なんてそんなことは、ドラマやアニメの中だけの話なんだって、勝手にそう思っていたから、僕の中でそれとなく先生と言う存在を嫌煙していた。
ただ名前と顔を知っただけの仲でいればいいと思っていたから。
でも、それも覆ってしまうのだろうか。不覚にも松井先生の優しさは偽ったものを感じなかった。それはとても不思議なくらい。
「どうだい?話せそうかい?」
僕が涙をふき取るのを終えてから、松井先生はまた優しい声で話しかける。
「……はい、大丈夫です」
震える声を無理やりいつもの調子に直してそのまま話し続けた。
母親を幼い頃に亡くしたこと。
母親の病気発覚からの父の異変。
父の横暴。
父の功績、人物像、父がこれまで僕にしてくれた沢山のこと。
ピアノの話。
抱えてきた僕のずっと話したかった話を。ずっと、誰かに聞いて欲しかった話を。
「大変だったね」
すべて話して、最後まで「うん、うん」と相槌を打って話を聞いてくれていた松井先生は、僕の話が終えるとすぐに僕の頭を撫でてそう言った。
「もう疲れちゃったんだよ、律。いっぱい我慢してきたから」
そういうと、一呼吸おいて松井先生は続ける。
「誰かを気遣って自分が辛いのを我慢する必要はないよ。私に対してのことだって、そんなの律が気にすることじゃない。私がどんなことを思って、どんな顔をするかなんて律が背負う必要ないの。何がどうなっても、それは絶対に律のせいになんかならないし、私だって律のせいにはしないよ」
優しい中に力強さを含めてそう言う。そしてまた続ける。
「律がこんなに心をボロボロにして生きてきたのは、私たち大人の責任だから」
いえいえ、そんなことは。なんて言葉すら、どういうわけか僕の口から出せなくなっていた。優しい言葉が心に沁みて、まるで傷口に水をかけてしまったみたいに沁みて痛い。優しい言葉がずっと欲しくて、今やっと貰えて、それはとても嬉しいことのはずなのに、抑えたはずだと思った涙がまた溢れてきてしまっていた。
もちろん、さっきから泣きすぎてそろそろ恥ずかしいと思う気持ちもあったけれど、もうなんだかそんな気持ちで抑えることが容易でないほど胸が苦しかった。
自分自身を不幸だと思ったことはないけれど、特別これと言って幸せだと思ったこともなかった。そんなことを言っていたら嫌われてしまうのかもわからないけれど。
「むしろごめんね。ずっと気づいてあげられなくて」
そう謝る松井先生に、僕はせめてもの否定で首を振った。
気づくも何も、僕がずっと何も言わなかっただけなんだ。何も知らないのに、松井先生のことを勝手に決めつけて、怖がって、距離を置いて。「先生の笑顔を奪いたくない」なんて、響きがいいだけの都合の良すぎる言い訳でしかない。
そのあとも松井先生と話をして時間は過ぎていった。結局あの後芽衣は戻ってこなかった。どことなく、作戦にかけられたのは僕の方だったのだろう。おかげで、もやもやしていた気持ちが少し晴れたから、僕としてはありがたかった。だから結果オーライにしてしまおう。
その後松井先生に見送られて学校を出た。決して家に帰ることに対して渋りはしなかったけれど、松井先生は学校を出るその直前まで一緒にいてくれて、最中に松井先生は家での面白い話を聞かせてくれた。手を振る松井先生に一礼をして帰る。暗がりの道を歩きながら僕はしっかりと心の中で、松井先生の優しさを噛み締めた。帰りながら脳内で何度も再生される優しい言葉の数々に、自然と心が軽やかになっていく。
以前よりも少しだけ、松井先生のことを信じて頼ってみてもいいのだと思えた。
他人の大人相手にこんな感覚になるのは初めてのことかもしれないと思った。
翌日も普通に学校はあった。
松井先生は担任の先生だから当然顔は合わせたけれど、松井先生が昨日の放課後の後のことを心配して声をかけてくれたこと以外には、特に変化はなく普通で、当たり障りのない朝のホームルームを終えた。
「すっかり仲直り出来たね」
芽衣は軽やかな声でそう言った。僕は「うん」と返して、その直後にちゃんと「ありがとう」とも伝えた。
「ふふっ、さぁてなんのことやら」
芽衣はわざとらしく笑って誤魔化した。けれどそれすらおかしくて僕も自然と笑えて来た。なんだか、どことなく気持ちが自分の中で軽くなっていくのがわかった。
「今日の放課後も御呼ばれしてるの?」
芽衣はそんな言い方をするけれど、別にただ相談に乗ってくれると言うだけの話だ。
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、生きていてこの人生で初めて、誰かに僕の話をするような気がする。前はピアノで解消できていたけれど、今はその頃のようにはいかない。あまりこういう話を自分からするのは、その過去をひけらかして、周囲から同情を買う行為のような気がして苦手だけれど、そういう思考の中に松井先生の優しい言葉を思い出すと、なんだか歯がゆい。
ああだこうだ考えて結局茫然としたまま約束の放課後を迎えた。迎えたのはいいけど、松井先生に何を話そうかうやむや過ぎて何も決まっていないのに、時間と体は無常にも動いていくから、心と頭の中の整理がついていない状態で、もう職員室の前に来てしまっていた。ドアの正方形の窓から中を覗くと、自分の机で作業をする松井先生が見えた。顔までしっかり見るような勇気はなくて、姿を見るなり咄嗟に目線を背けてしまったけれど、目線を戻して他の先生たちに視線を戻すと、気づいた先生が松井先生に呼びかけている姿が見えた。それで初めて気づいた松井先生が僕の方へ顔を向けるのがわかって、また反射的に目線を逸らす。そんなことをして間もなく松井先生がドアを開けて迎えてくれた。
「待ってたよ」
怖くて職員室に入れない僕を気遣って、きっと他の先生たちに根回ししてくれていたのかと思うと、ありがたいと思う半面情けないとも思えてしまうけれど、それでも優しい松井先生の声に、僕の心はまた緩んだ。
松井先生に導かれて相談室に入り、また昨日のように話をする。
ピアノの話をしていた時だった。松井先生はそれまで明るく軽やかな声色だったのに、突然悲しそうな声で話し始めた。
「そういえば、私の息子、翔っていうんだけど、前に翔がプロのピアニストだったって話をしたでしょ?」
僕は「はい」と返す。
「事故に遭って、後遺症で思うようにピアノが弾けないって話はした?」
「聞きました」
「リハビリ頑張って毎日一生懸命やって、なんとかしてピアノを弾けるようになりたいって、もう一回ステージに立ちたいって何度も私にそう話してくれるの。自分の音を届けたいって」
自分の音……。
それを聞いた瞬間に、心がどうしてか委縮した。
「……すごいですね」
なにがどうしてすごいと思ったのかわからないけれど、口から出たのはたったそれだけだった。自分の音……。自分の音があることがすごいのか、届けたいと言う意思がすごいと思ったのか、そもそも「すごい」ってなんだ。その人にとってそれは当然のことに過ぎないのではないか。考えるだけ無駄なのか。そういえば、音が聞こえない話はまだ松井先生にしていなかったんだっけ。
「この前のコンクール……どう思いましたか」
考えるより先に口走っていた。
少しの間が空いた。きっと言葉を選んでいるのだと思った。当然酷評なのは目に見えていた。それでも松井先生はきっとなんとかして言葉を取り繕うって褒めようとしてくれるような気もしていた。あの場での拍手はきっと何かしらの気遣いに過ぎないと。
「この前の演奏?別に変な演奏じゃなかったと思うよ」
思った通り、松井先生はやんわりと慰めた。
「急に演奏止まった時は何かあったのかと思って焦ったけど、芽衣が何とか引っ張ってくれてたし」
確かにあの演奏は完全に芽衣のおかげで最後まで行けただけに過ぎない。芽衣にとっては大切なステージの一つなのに、僕の自己中心的な思考のせいで台無しにして……。他にどれだけの迷惑をかければ僕の気は済むのか。
「気持ちのこもった音だったよ。俺の音を聞けって感じがした」
一人称が「俺」じゃないのに松井先生が「俺」なんて言うからか、ものすごい違和感を感じたけれど、それが逆に面白く思えて「ふっ」と心の中で笑う。
「……でも先生が聞いたことのあるプロの演奏とは、きっとかけ離れてますよ」
きっと、というより絶対。
「比べる必要ないんじゃない?私は確かに翔の演奏を誇りに思ってる。でも、律の演奏だって好きだよ」
松井先生は優しくも確かな声でそういう。こんな僕の演奏が好きだなんて言ってくれる人は僕にはもう芽衣しかいなかったから、その言葉が例え気遣いの現れだとしても、胸の奥からなんだか不思議なものが湧き出てきて、素直にこの心は嬉しさを感じていた。
「今度また聞かせてね。この前みたいにさ。律一人の演奏で」
そう言われると少しだけプレッシャーも多少感じるけれど。急かすような意識で言ったのではないことくらいわかる。
「よし!それじゃあ帰るか!」
キリのいいところで松井先生はそう言った。まぁ、話の終わり方としては綺麗な形だったし、それに今日はこれ以外に話したいようなことは思いつかない。
「明日はどうする?」
座っていた椅子から立ち上がって鞄を取ろうとすると、松井先生は僕にそう聞いた。少し迷った。でも、松井先生と話をしていたいと思う気持ちは少なからずあった。だけど、松井先生の迷惑になってしまうのかもしれないのなら、あまりお願いをするのは避けた方がいいのかもしれないとも思った。うだうだと決めあぐねていると、松井先生は俯く僕の視界にわざと入るように顔を覗かせた。
その瞬間、本当に一瞬だけ視界に顔が映った。でもびっくりしたのと恐怖心が相まって咄嗟に目線を逸らしてしまった。
「今ちょっとだけ目合ったね」
松井先生は面白おかしくそう言うけれど、僕には愛想笑いを返そうとすることに精いっぱいだった。そんな僕を見て何を察したのか、松井先生はそっと僕の右肩に手を置いた。
「律、私は律とちゃんと目を合わせて話がしたいよ。俯いたままだと律の表情がわかりきらないからたまに心配になるんだよね」
松井先生はさっきの様子から一変して真剣な声でそう言った。それでもまだ顔を上げる気が湧いてこない自分に、我ながら失望して落胆する。
「ね?律こっち見て」
両耳に劈く松井先生の声が、僕に自然とそうさせないはずはなかった。ただ相手が先生だったからというのもあるかもしれないけれど、気づけば僕の目は自然と少しずつうえへと動いていく。しなければ無視したということになってしまうからだろうか?
そもそもどうして僕は人の顔を見れないんだ?
自問してその答えを自らが出す前に、僕の視界は確かに松井先生の顔を捉えていた。
初めて見た、なんて言い方は間違っているだろうか。でも、事実だった。人の顔を見れなくなって数年以来初めて、ちゃんとこうして、この目でその人の顔を見ている。
目が合ったのがわかった。分かった瞬間どうしようもなく目線を逸らしたくなったけれど、その目の動きすら相手に見えてしまっていると考えたら、どうしてか気まずくて目を逸らせずにじっと見つめてしまっていた。
目が合うと、松井先生は特に何か言葉を発することはなく、ただ優しく微笑んだ。初めて松井先生の顔を見たのだから見覚えなんてあるはずがないのに、なぜかその笑顔はどこか見覚えがあって温かく、心が何か温かいものに包まれるような感覚がした。人の顔を見て初めて、こんなにも温かな気持ちになった。
「明日また話すか」
松井先生はそういうと置いていた手で僕の肩を軽く叩くと「じゃあ、気を付けて!」と言いながら手を振って職員室のある方へと少し小走りで去っていった。少し時間を使い過ぎてしまったかと心配になったけれど、とりあえず帰るために玄関へ向かった。
玄関に向かって歩いていると、どこからともなく聞きなれた美しいピアノの音がした。その音を奏でているのが芽衣だということはすぐにわかった。もうすぐで生徒玄関の鍵が閉まってしまう時間になる。心配だから、芽衣の様子を見に行くことにした。
音楽室までの階段を上がっていく。その最中も音は止むことなく聞こえていた。人気が一切ない廊下だからこそ、ピアノの音が響いて聞こえてくる。
音楽室の前まできたけれど、まだ音は止まない。聞こえないかもしれないけれど、とりあえずノックして静かにドアを開けて中に入ってみる。ノックの段階で気づいたのか、僕が入ると徐々に音が小さくなって次第に止まった。
「あれ?律、帰ってなかったの?」
「うん。先生と話してたから」
「そっか。もう帰ってると思ってた」
そう言いながら芽衣は椅子から立ち上がり、周辺の片づけと帰る支度をし始めた。
「練習?」
僕が何となく聞いてみると、芽衣はいそいそ動きながら返答する。
「そうなんだよー。またすぐにコンテストあるからさぁ?」
芽衣は努めて明るい声を出しているようだった。「プロ」として活躍して注目されると言うのは、人並み大抵の努力じゃ務まらない。それは、こんな僕でも幼い頃に経験していたことだった。「気持ちがわかる」なんてことは当然言えないけれど、あっちへこっちへ引っ張られる芽衣の苦労や苦悩は、計り知れないものだということくらいならわかる。
「なんか、律の音聞いてたらさ」
黙ってしまった僕に、芽衣はそう話を切り出した。
「自分の音って、なんだろうって思ったよ」
そういう芽衣の声はどこか暗かった。
「私の演奏を褒めてくれるのはとても嬉しいことだよ?でもそればっかり。聞く人たちは一体、私とピアノの何を求めているのかなって考えるの。私は何のためにピアノを弾いて、あのステージに立って、光に照らされているのかなって」
その言葉が、いつかの自分を見ているような気がして、まるでコンクール前の夜に見たあの夢、ステージの上で光に照らされた幼い自分の姿。暗がりに立つ僕に微笑むその顔を思い出した。
「律は、どうして自分の音が聞こえないの?」
芽衣の声色とその言葉の先で、一体何に恐れを感じているのかが見えてしまったような気がした。もともと芽衣を見ていなかった僕の視線は余計に下がっていく。何も言えずに立ち尽くしていると、校内放送が流れた。
「校舎内の鍵は施錠しました。これから帰宅する生徒は、北校舎一階職員玄関より帰宅してください」
誰かのアナウンスの声が止むと、芽衣はさっきまでの話を全て嘘にしてしまうような明るく弾けた声で「帰ろっか」と切り出した。僕もそれに賛成して、僕らは一緒に校舎から出た。
芽衣を学校近くの駅前まで送ってから、僕も家に向かって歩いて行った。
家についてから、また誰もいない家の中に入りそそくさと自分の部屋に籠る。ベッドに横たわり、携帯のアプリで洋楽を流してただなんとなく、特に意味も込めずに天井を見つめる。電気の付かない暗がりの部屋。電球の交換すらしないから、僕の部屋は四六時中暗いまま。夜は月が明るければまだいいけれど、そうでもない日だと部屋は本当に真っ暗になる。
高校生なんだしバイトをすればいいとかって思ったりもしたけれど、それをすることができない最大の理由こそ父だ。どういう理念なのか勉強ばかりを押し付けてくる。自分はあれだけ飲んだくれて、甘い香水の香りを身に纏わせて帰ってくるくせに、僕にはその自由を認めてはくれないらしい。
逆らったって良かった。
それができないのは、殴られるのが怖いからだろうか。あるいは、こうして縛られているのをいいことに、希望や目標もなく生きることを僕自身で正当化して、周囲に肯定されたいからだろうか。
「可哀想な子」になりたいのだろうか。
なんだか、よくわからないな……。
その後寝落ちをして朝を迎え、お風呂に入ってから何も口にせず支度をして家を出る。小腹はコンビニのおにぎり一つで埋められる。
学校へ着くと、騒がしい教室の中で一際大人しく席に座って、一人悶々と精神統一する芽衣の姿があった。珍しいその様子に驚いて、でも特に声はかけずに席に着く。斜め後ろから、目を瞑り何かに集中する芽衣の様子をチラチラと気にかけてみる。昨日の放課後から、芽衣はどこかいつもと様子が違う感じがする。
―「自分の音って、なんだろう」
不意に昨日の芽衣の悲しげな声を思い出した。
その背中がどこかいつも以上にか細く感じて、少し怖くなった。しかし、考えるより、思うよりも先に口は動いていた。
「芽衣」
僕が呼びかけると、芽衣は肩をビクッとさせて僕の方を振り向いた。咄嗟に視線をずらして、照れ隠すように後頭部あたりに手をやって話を切り出してみる。
「ごめん、急に話しかけて」
「いーよそんなこと!それよりどうかした?」
昨日と違う。でもそれがより一層心配な気持ちに拍車をかける。
「何かあった?」
「え?」
僕がそう聞きだすと、それが意外だったのか芽衣は拍子抜けした声を出した。
「何かがあったんじゃなくて、何かがあるんだよ」
芽衣は回りくどくそんな言い方をする。
僕がまた返答に困ると、芽衣は可笑しそうに笑った。
「こう見えても緊張してんだって!一応これでもクイーンだからさ?」
「そっか」
元気そうな芽衣の声に、心のどこか芽衣の無邪気な明るさに安堵していた。
「律、あれからどう?ピアノのこと」
芽衣のその問いに、僕はなぜか前向きな返事ができるような気がした。なぜかはわからない。けれど、「無理」とか「できない」なんて言葉がなぜか口から出てくる気配がなかったのは確かだった。
「あのコンクール、悔しくない?」
あぁ、またなにか企んでいそうな予感。
「まぁ、良くはなかったけど」
「だよね!?」
「まさか……」
「あ、でも今回は安心して?小さい規模だから」
芽衣は僕が会場の大きさによってプレッシャーをコントロールできる人間だと思っているのだろうか?
でもなぜか芽衣のこのテンションのせいで(おかげで?)、その誘いを断る勇気は絞り出そうにも絞り出せなかった。
「え、でも……」
「今回はちゃんと期間長いし、もっと余裕持って練習して、気持ちを整える練習もしていこう?」
芽衣はそう言いながら意気揚々と鞄の中からなにやら白いファイルを取り出して、僕の机の上にそっと置いた。
「え?」
楽譜を警戒したけれど、そのファイルの中には一枚のパンフレットが入っていた。それを見るとそこには、芽衣の名前がフルネームで少しだけ大きめに印刷された、とある演奏会のものだった。そしてそこには、以前に聞いたことのある名前「松井翔」、松井先生の息子さんの名前もあった。
「今度こそ!律に私の本気の演奏を聴いてほしいの」
芽衣はやたら「今度こそ」を強調していった。そりゃ、前回はばっくれてしまったのだから当然なのだろう。とはいえ、もちろん前回のあれに関しては、悪気なんて欠片もなかったけど。
「それにね、ぜひ律に会いたいって言ってる人がいるの」
「え?」
予想外の発言に、そんな間抜けな声以外出せなかった。
「会ってからのお楽しみだけど」
芽衣は悪戯にそういう。まぁ、こんな僕に今時憧れの気持ちなんて持っている人はいないだろうし、「これ見よがし」というか、落ちぶれた奴がどんな面なのか見たいっていうだけかもしれない。なぜこんな卑屈なことばかり言うのかは、芽衣の知り合いだからと言う理由以外にあるだろうか。別に、芽衣に関わる人が良くない人だと言いたいわけじゃなくて、芽衣の知り合いと言うことは必然的にピアノに携わる人。もっと詳細に言えばクラシックの演奏に直結するような人。要するに、プロばかりって話。
プロとなればきっと、過去の僕の成績も知っていて、「竹中律」が確かにピアノの世界にいたことも知っている。でもそれは同時に今の僕がピアノから遠ざかっていることを知っているということ。それなのに「ぜひ会いたい」なんて、そんな話があるはずがない。だから、こうして卑屈に考えていないとまた嫌味を言われたときに想定外の精神的ダメージに対応しきれない。
「そ、そう……」
嫌な予感はするけれど嫌な顔は出来ない。極めて普通の返答をして済ませると、松井先生が「席についてー」と言いながら教室に入ってきた。気づけばホームルームの時間になっていた。
「じゃあ、これ今週の日曜日なんだけど、ぜったいに来てね!」
芽衣は念を押すようにそう言って椅子の向きを直して正面を向いた。
ホームルームはいつもの感じで終えた。そのあと松井先生が僕のそばまで来て、今日は放課後に予定が入ってしまったから話が出来そうにないと言い僕に謝った。僕は慌てて身振り手振りをしながら「大丈夫です」を繰り返した。忙しいのに無理言ってすみません、の一言くらい付け足せたらよかったのに、心の中で言うだけ言って、それが伝わることなんてないまま松井先生は教室を出てしまった。
今日の一日も特に当たり障りなく終えた。放課後に話ができないのはどこか心細いような気がしたけれど、毎日話を聞いてもらっていたおかげで前よりも心に余裕が出来てはいた。ピアノを弾くかどうかの話は置いておくとしても。
帰りの支度を済ませてから、少し前に借りていた図書室の本を返しに一冊の本を片手に図書室へ向かった。図書室のドアにはこの前のようにデカデカと、朝芽衣に見せてもらったパンフレットと同じもののポスター版が貼られていた。今回芽衣が立つステージは別にコンテストやコンクールなどとは違って、プロピアニストたちの公演会らしい。チケット代は一席四千円……高いけれど、前回のこともある。父に隠してたお年玉貯金の中から崩そうかな。
とりあえず本を返却して、そのまま次の本は借りずに図書室を出た。すると、僅かに遠くから昨日と同じピアノの音が聞こえた。土曜日に向けて練習をしているのだろう……。芽衣曰く、学校でやる方がリラックスできるらしい。部屋でもやるけれど、部屋でやるとどうしても重苦しくなってしまうそうで。あまりにも演奏が美しすぎてもう少し近くで聞きたいと思ったけれど、本番前の大事な時期だから邪魔しないためにも今日は帰ろう。
家に帰ってから、クローゼットの服の中にわざと埋もれさせておいたダイアル式の鍵ロックをつけておいた箱を取り出して、ロック解除、蓋を開けてその中から六千円を取り出して財布の中に入れる。そして箱の蓋を閉めてもう一度施錠してまた適当に服の山の中へ埋もれさせる。こうでもしないと、なんだか勝手に使われてしまいそうで怖い。もちろん父は僕よりもずっとお金があるわけで、僕のお金なんか必要となんかしないだろうとは思うけれど、酒に酔った父は何をするかわからない。警戒しておいて損はないと思う。
ベッドに横たわり、ピアノのことを考える。
弾くか、弾かないか。
きっと、弾くと言う選択も、弾かないと言う選択も、どちらも僕の中でベストの選択だったと言い切ることは出来ないような気がする。弾くとは言っても、第一音の聞こえないこの耳でこれから先何を演奏するの、どうやって演奏するの、そんなことを考えたらどうしてもその選択肢を取ることが怖い。けれど、弾かないという選択肢をとることもまた同様に僕の中では怖いことだった。
今の僕からそれを取ったら一体何が残るのか。
今だってまともに弾けてすらいないくせに僕は一丁前にそんなことを悩んだ。けれど、僕の中でピアノと言うものの存在が、確かに僕を体現するには十分すぎるものだと言うことは、良くも悪くもよく理解していた。
だから、だからこそ……。
僕にピアノを弾く資格はあるだろうか……。
うだうだと考えながら数日を過ごし、そんなこんなで今日は芽衣の公演会の日だ。公演会は午後の三時から始まるからそこに間に合うようにバスに乗って会場へ行く。会場へ着き中に入る。事前の予約でチケットは既に購入してあったので、受付をすぐに済ませてチケット購入時に予約した席に座る。本番まではあと三十分ほど時間があるので、貴重品以外の荷物を座席の上に置いて一旦トイレの方へ向かった。トイレまでの少し長い廊下を歩いていると、向かい側から華やかなドレスに身を包んだ女性が歩いてきた。
「今度は来てくれたんだね」
その声でそれが芽衣だとちゃんと認識した。学校での様子とは打って変わって、かなり落ち着いている様子だった。
「約束したからね」
そう返すと、芽衣は大層嬉しそうに「えへへっ」と笑った。
「あ、公演会終わったらまたここに来てくれる?」
「うん、わかった」
なぜかはわからないけれど、とりあえず承諾しておく。それからほんの少し他愛のない話をして、芽衣は準備のために楽屋に戻り、僕はトイレを済ませてから座席へ戻った。
それからあまり長く待たないうちに司会の人が挨拶やら、曲、演奏者の紹介やらをし、ほどなくして演奏が始まった。ソロ、セッション、それから連番。やはりプロの演奏は音もさることながら弾いている人の魅せ方も美しかった。それは性別に関わりなく、そのステージの上で、ピンポールライトに照らされる姿は誰もが美しく、かっこよく、うっとりと目を、耳を、心を奪われた。
ソロの演奏者。僕の中では一番の見どころ。そう、ようやく芽衣のお出ましだ。
会場内の拍手は明らかに音色を変え、ライトでより一層美しさを増すドレスは芽衣の姿をより輝かせた。
ゆったりと芽衣の演奏は静けさを纏って始まり、会場内に響くその音は音楽室で聞いたものとは比べ物にならないほど美しく、透き通って僕の耳へ入り込み心へと流れ込んだ。これがプロの見せる世界……。
芽衣の演奏が終わると、たちまちに拍手は盛大になり、気づけは自分も含め観客は皆立ち上がって拍手をしていた。丁度僕の席が少し後ろ目立ったおかげで、その均整の保たれたスタンディングオベーションが視界にバーッと広がった。そしてこれがプロの見る世界であり、僕が見ていたかもしれない景色なのだと知った。
どういう風の吹き回しだろうか。知らない間にこの心がうずいているのがわかった。
もしももう一度あのステージに立てたなら。
もしももう一度ピアノに触れることが出来るのなら。
もしももう一度演奏することが叶うのなら……。
それはほとんど無意識に湧いてきた言葉だった。頭に次々とそういう言葉ばかりが浮かんできて、果てにはピアノを弾く僕の姿まで想像していた。
人の演奏は、ここまで誰かの想いを変えてしまえるものなのだろうか。
暗くなったホール、他のお客さんたちが帰っていく中で一人、明かりの消えたステージを見つめていた。センターに置かれた黒いグランドピアノは真っ暗な中でも異様な存在感を放ち、僕はそれに見惚れてしまっていた。よく見えないはずなのに、その存在をくっきりとこの目は、心は感じ取っていた。しばらく見惚れていると、係の人がステージの袖から出てきて、大きなグランドピアノを丁寧に清掃し始めた。
僕はそれを見て、今ホールの中は自分だけだと気づき慌てて身の回りの整理をする。忘れ物がないか確認してから荷物をもって座席から離れ、芽衣に言われていた廊下で壁に寄り掛かって待つ。準備に時間がかかる芽衣をボケっとしながら待っていると、不意に横から話しかけられた。
「あの!もしかして!!」
その声に驚いて声のする方へ目は合わせず顔を向けると、青い男性用スーツに身を包んだ車いすに座る男性がいた。
「もしかして、竹中律くん?」
まるで有名人でも見たかのようなそんな態度に僕が驚いてしまって、たじろぎながら返答する。
「え、あ、は、はい」
「本当に!?よかった!やっと会えた!」
男性は飛び跳ねるような声色で喜んでいるけれど、僕には何のことかよくわからない。同姓同名の誰かと間違えているのではないかと思えてしまうほど。
「母から話は聞いていたんだ。凄く会ってみたかったんだ」
相手の人のテンションが高すぎて、僕の頭は混乱したままついていけていなかった。けれど、相手が大層嬉しそうなのだけは伝わってきた。こんな僕に会ってみたいとは一体どういう種類の好奇心なのかと疑ったけれど。
「あぁそうだ名前言わないとだね。僕は松井翔。松井って名字に覚えない?」
名前を聞いたその一瞬、何のことを言っているのかわからなかったけれど、頭にクエスチョンマークが浮かんだ直後に、ハッと気づいた。
「え?……松井先生の……?」
なんとなくその名前を出してみると、「そうです!」と爽やかな返事が返ってきて改めて確信した。今僕の目の前にいるのは、とてつもないピアノの実力者だと。
「えっと……」
会話が進まないのでなんとなく口を開くと、それを察したのか翔さんの方から話をしてくれた。
「僕、君の幼いころからずっと君の演奏を聴いていたんだ。その頃の僕はまだピアノを弾くことが出来ていたから、君の演奏には色々と思わされることが多くてね」
そんな過去の話を、翔さんはまるで昨日のことのように輝かせて話す。
「率直に言えば君の演奏が好きだった。でも君が大きくなるにつれて君の演奏をこの耳で聞ける回数が減って……。今ではもうピアノはやっていないらしいね」
「……はい…」
何を言われるのか怖かったけれど、ピアノから遠のいているこの現状については事実だから否定できない。
「そっか……僕と同じだね」
少しの沈黙の後で、さっきよりも落ち着いた静かな声で翔さんはそう言った。そうだ、翔さんは確か事故に遭った後遺症のせいでピアノが満足に弾ける状態じゃないんだった。今も車いすなしでどこかへ行くことは出来ないと見える。
すると翔さんは震える両手を自分の前へ出し僕へと見せた。
「ごめんね、見苦しいもの見せて。でも、僕もピアノが弾けなくなってしまった人間なんだ。君の話を母から聞いてから、何か通じるものがあるかもしれないって思ったんだ」
悲しげな声でそう言いながら、翔さんは力強く自分の左手を右手で握りしめ腿の上へゆっくりと置いた。
「君は、ピアノが嫌い?」
―……本当に、もう律はピアノやらないの?
翔さんの声に交じって、芽衣のそんな悲しげな声が脳裏を過った。
嫌い、じゃなかった。
やらない、わけでもなかった。
逃げたい、のは事実だった。
怖かった。何かが。そう、何かが。
「もし嫌いじゃないなら、まだ弾きたいかもしれないなら、諦めないでほしい」
今度の翔さんの声はどこか力強さを感じた。何か、僕を説得するような。
「君の音は、きっと誰かの心を動かす原動力になる。自分の音は、自分が思っている以上に他人に色々なものを伝えてしまう。それは良くも悪くもね……」
「良くも悪くも……」
翔さんの言葉には、どことなく重みを感じた。その語り口はやっぱり松井先生に似ていて、その言葉に含められた意味がとても深くて、優しい眼差しは想像できるのに、その顔が決して恐れる必要のあるものではないと言うことも理解しているはずなのに、目線を上げて翔さんの顔をしっかりと見ることがずっとできなかった。
「……僕は……」
言いかけた途端に、廊下の奥から翔さんを探す声が聞こえた。声のする方をちらりとみると、知らない顔の女性が小走りでこちらに向かってきていた。サッと目線を逸らして、翔さんの手元まで戻す。
「ん?」
そんな僕の様子に気づいたのか、体をゆっくりと捻って振り返ると、駆け寄ってきていた女性は安堵したような声で「ここにいたんですか」と言った。
「皆さん待ってますから、帰りましょう?」
女性は翔さんに優しくそう語りかけた。
「あぁ、うん。ごめんねいつも」
翔さんは女性に優しくそう返した。
「それじゃまたね、律くん」
女性に車いすの向きを調節されながら、翔さんは最後にそう僕に話しかける。
「急にこんな話をしてごめん。なんだか今の君はあの頃の僕に見えて苦しかったから、つい。それじゃあね」
それだけを言い残して僕を背にカラカラとタイヤの音を鳴らせて翔さんは廊下の奥の方へと姿を消した。僕も小さく「はい。また……」と返したけれど、ギリギリ、翔さんの後ろを歩く女性に聞こえていたかどうか。
翔さんが見えなくなったあとで、なぜか僕の頭の中で翔さんの震える両手が浮かんだ。なぜかその姿が、今の僕の状態を表しているような気がした。震える両手はふさがった僕の耳の投影だろうか。「心を動かす原動力」なんて翔さんは言うけれど、僕自身自分の音がそんな風に思えたことも、思えるための経験もない。
―「あなたの音が、私の生きる意味なの」
不意に母の声が耳の奥から聞こえた。幸せそうな笑顔まで頭の中で蘇ってきた。もう何年、人のそんな幸せな笑顔を見ていないのだろう……?
僕の音なんかじゃ、誰のことも笑顔にはしてやれない。原動力になんてなれない。
「お待たせー」
俯き考える僕の横から聞きなれた声がした。反応して振り返るとそれはやはり、ドレス姿から着替えた芽衣だった。
「お疲れ様」
「どうだった!?」
僕がお疲れ様と労うとやけに食い気味で芽衣は聞いてきた。
「すごくよかったよ。かっこよかった」
「そう?よかった」
安堵に溢れた声だった。それほど緊張していたということだろうか。
「あ、そういえば会えた?」
「え?」
「律に会いたがってる人にさ」
「あー」
ここにきてようやく芽衣の言っていたその人が翔さんだと理解した。
「うん。会えたよ」
「何話した?」
「ピアノの話」
いや、ピアノの話と言うよりはもうちょっと違う話をした気がするけど、まあ、結論的にはピアノに関わる話だったし、まぁ、許容範囲。
「へぇー」
「うん」
なんてそんな他愛のない話をして、僕と芽衣はバス停を前に別れた。
バスの中で、僕はあの芽衣の演奏を思い出した。ステージに立つ芽衣は学校にいる「浪川芽衣」とは全く違う人物のように感じた。華やかなドレスに身を包んで、でもそんな見た目には全く負けない、華やかでありながら繊細さも同時に持つピアノの音色は、本当に芽衣にしかできないことだと僕は思っている。
僕は芽衣の音が好きだ。……僕も、あんな風に弾けるようになりたい。
ふと、演奏後に感じたあの気持ちを思い出した。
弾けるようになりたい。芽衣と同じ光景を見ていたい。
もう一度誰かの心を動かすような演奏がしたい。
僕の音で、誰かを幸せにしてみたい。
そんな風なことを思うだけなら一丁前なのに、実際に行動に移すのはどうしたって怖くて、しり込みして、何もできないのが現状だ。
それでももう少しくらい、頑張ってみたいと思った。
……父の好きなあの曲を、もっと上手に弾くことが出来たら、父はもう一度僕のことをちゃんと見たうえで、褒めてくれるのかな。
揺れるバスの中そんなことを考えていると、あっという間に家近くの降車場所近くまで来ていた。ボタンを押して、料金を払って降りる。そこから少し歩いて家に着いた。
相も変わらず電気のつかない家に入る……と思ったら、ずっとついていなかったはずのリビングの電気はついていた。
びくびくしながらリビングのドアの前に立ってみたけれど、中から人のいる音も気配もしなかった。そっとドアを開けて中に入ると、そこは以前の汚く荒れ果てたリビングとは全く違うものだった。床に飛散していたはずのガラス瓶欠片も、転がっていた沢山のビール缶も全てなくなっていて、それ以上に綺麗にされたリビングが広がっていた。
でもこの異様ともとれる情景に、胸騒ぎがした。
久しぶりに灯りの灯ったリビングを見て、本来なら安堵するはずなのに、なぜか胸が変にドキドキして、嫌な、不穏な予感が胸を這った。
動揺して辺りを見回していると、ダイニングテーブルの上にある一枚の紙と一封の白い封筒が目に留まった。近寄ってみてみると、紙にはたった一言、『こんな父親でごめん』とだけ書かれていた。そのメッセージは、安心させるどころか余計に僕の不安を助長した。
恐る恐る手紙に触れて少し押してみると、何かが入っているような分厚さを感じた。裏返すと「律へ」と右下に小さく書かれていた。
テープでとじられた封筒を丁寧に切ってあけると、そこにはカードが三種類と番号が書かれた小さな紙、そして三つ折りにされた便箋のようなものが入っていた。
一つずつ取り出してテーブルの上に並べる。
小さな紙には『カードの番号』と書かれてあり、カード会社の名前とその番号など重要な内容が書かれていた。そして、三つ折りにされた便箋を開くとそこには、間違いなく父の文字で、便箋いっぱいに文字が書き連ねてあった。
律へ、と書き出されるその文章を、僕は一人黙々と読み進めた。