推しの推し
俺は母さんの声ではなく目覚ましの音で起きた。いつまでも親頼みになっていてはいけないと一念発起したのだ。部屋の扉を開けると母さんが朝食を作っていた「あら、今日は早いのね」なんて言いながら目玉焼きを器用に皿に移している。
「…母さん、俺もう大丈夫そうだから。一人で生活していくよ」
俺が決心を述べると母さんは眉を八の字に下げて大袈裟に悲しんだ。
「そんなのまだ無理よ心配だわ〜」
「いやでも生活のことはだいたい分かったし…」誓う
「まだ退院してから三日しか経ってないのよ?」
もう三日も経ったとも思えるしまだ三日なのかとも思えた。それほどまでに入れ替わってから色々あったから…。しかし恭弥としての記憶はないにしろ、生活の基本的な情報や社会のルールなどは覚えている(むしろ恭弥より長く生きてる分俺の方が詳しい部分もある)のだから、いつまでも母さんの手を煩わせる訳にはいかない。というのは建前で、一人きりになって楽なりたかったのだ。俺の気持ちとは裏腹に母さんはどうしても側に居たいらしく粘ってくる。
「大丈夫?ご飯はちゃんと食べれる?」
「平気だってば」
「お掃除もお洗濯もしなきゃいけないのよ?」
「今までも平気だったんだから」
「でも…」
「もう俺のことは放っておいてくれよ!」
自分でも驚くほどに声を荒げてしまった。今までの自分なら親にすらこんな風に怒鳴ったりしないのに、何故か母さんに苛立って仕方なかった。
「…やっぱり記憶がなくなっても恭弥は恭弥よね。お母さん今日帰ることにするわ…」
落ち込む母さんの姿に罪悪感が募るのに、ごめんの一言が言えなかった…。こんな自分は知らない、それとも恭弥になって少なからず影響されているのだろうか。気まずい空気の中で朝食を取った。母さんは身支度を整え部屋から出て行こうとする。
「…さっきは、ごめん」
俺はなんとか勇気を振り絞り母さんに声を掛けた。母さんは一瞬目を丸くした後にいつものように微笑んだ。
「何があったって、私は貴方の母親よ。いつでも頼りなさい」
母さんの一言に涙が込み上げてきた。こんなにも思ってくれている母さんにあんな事を言った自分を恥じた。母さんはじゃあねと言い残し部屋から出て行った。俺は母さんがいなくなってから一筋だけ涙を流した。
今日もレッスンがあるので準備をして時間が来ると出掛けた。不安に怯えていた昨日と違い今日はレッスンが楽しみで仕方ない。こんなにも楽しいと思えることがあっただろうか。俺は軽い足取りでレッスン場へと向かった。
レッスン場の扉を開けるとまだ早かったらしく誰も来ていなかった。場所を間違えてないか確認してから中に入る。端に荷物を置いてレッスンのために準備運動をした。ダンスのレッスン場は壁の一面が全て鏡になっており、自分のことが全身くまなく見える。改めて恭弥の体を見るが、身長は高いし足が長いしスラリと細身で程良く筋肉が付いていて、何より顔が良い。これはアイドルにスカウトされるよなぁ、モデルでも良かったんじゃないかとも思えてきた。そうやってじっと自分を見つめているとレッスン場の扉が開いた。慌てて扉の方に視線を向けるとそこには玲斗がいた。
「お、おはよう玲斗」
「…おはよう」
挨拶だけは返してくれるようだ。昨日無視されたことは忘れないけどな。玲斗は荷物を置くと俺と同じように準備運動をしだした。せっかくの機会なので親睦を深めたいのだが、糸口が見いだせない。昨日他のメンバーから何か情報を得れば良かった…。後悔も虚しくレッスン場は二人の男が黙々と準備運動をする場になってしまった。気まずい沈黙が続く中、それを破るように元気良く現れたのは武だった。
「おっはよさーん!」
「おはよう!武!」
まともに話せる相手がやって来てくれて俺は嬉しくてつい大声を出してしまった。
「どうした恭弥…なんか泣きそうだぞ」
「いや、ちょっとあって…」
何はともかくこれ以上の沈黙がなくなって俺はほっとした。数分もしないうちに健太と冬紀もやって来て、レッスン場は一気に賑わった。人との会話ってこんなに安心出来るんだと思い知った。しばらくするとトレーナーもやって来てレッスンが開始される。
「恭弥くんの復帰ライブが一週間後に決まりました!期間は短いけど、観客の皆さんに完璧なライブを見せるためにも頑張りましょう!」
「はい!」
俺達は一週間後のライブのために猛特訓した。特に俺は今までの分を取り戻そうと躍起になった。いくら恭弥の元の才能があると言っても、俺自身は何もやったことのない状態なので皆に追いつくように必死で頑張った。
レッスンに集中しているとあっという間に時が過ぎ、レッスンが終わったのは日も暮れた頃だった。メンバーに別れを告げてレッスン場を後にする。そういえば今日は自分で夕飯を作らなといけない事を思い出してスーパーへと寄った。26歳の一人暮らしの経験を活かしてお得なものを買い漁っていく。無事に買い物を終えて家に着くと、見計ったように美優から電話が来た。
「もしもし?」
「もしもし恭弥?レッスン終わった?」
「終わったよ、今ちょうど家に着いたとこ」
「よかった!今日の女子会について報告したくてさぁ」
そうだ、今日美優は千恵莉と会ったんだった。俺は心臓を落ち着かせながら美優の報告を聞いた。美優は千恵莉に千恵莉のことを覚えていない旨を伝えたそうだが千恵莉は気にしていないらしい。幼馴染だから何かあったら助けるとまで言ってくれたそうだ。俺は千恵莉の優しさに感動する胸を抑え本題を尋ねる。
「で、千恵莉の推しは誰なんだ…」
「千恵莉ちゃんの推しはね…」
一瞬の間だったが俺にとっては地獄のように長く感じられた。美優の次の言葉を恐る恐る待っていると…
「箱推しなんだって」
「ハコオシ?」
俺は美優の口から出た聞いたことない単語に混乱した。
「つまり、誰か一人が好きなんじゃなくてグループ全体として好きってこと」
グループとして好き?つまり俺も好きの内に入ってる?俺は安堵から力なくよかったぁと項垂れながら呟いた。
「てことはまだ脈はあるってことでいいんだよな?」
「まぁあるんじゃない?個人としては別として」
そうだ、アイドルとして好かれているからって俺を一人の男として見ている訳じゃない…そもそもアイドルをやるなら千恵莉とは付き合えない。俺はまた違う現実を突きつけられさらに深く項垂れた…。そんな俺の状況も知らず美優は語る。
「千恵莉ちゃんが私達の、恭弥のグループを好きになってくれたきっかけがね。公園でライブしてる時に迷子の女の子が泣きながら観客席に来たんだ。で、それをみんなで助けたの。女の子に話しかけて慰めたり、マイクでお母さんに呼びかけたり…そしたら女の子とお母さんは無事に再会出来たんだ。あの時のこと見てたみたいで、それからライブ見てくれて曲も好きになってくれてファンになったんだって。嬉しいよね、ちゃんと見てくれてる人が居たんだって」
美優はかつての自分の行いを褒められ喜んでいた。俺もメンバーの優しい一面を知れて心が温かくなった。
「千恵莉ちゃんは良い子だね。恭弥が好きになるのも分かる」
「うん、あの子は本当に良い子なんだ…」
好きな人が認められて自分のことのように誇らしくなる。昔から他人の事を自分の事のように気遣える優しい子だった。だからグループの行いにも惹かれたんだろう。
「千恵莉ちゃんとライブ行く約束したから頑張ってね」
「おう、任せとけ」
俺は改めてライブを成功させようと意気込んだ。