アイドル始めます
千恵莉との件はともかく、俺はかつての部屋から持ってきたパソコンと共に家に戻ってきた。家にはすでに母さんが帰ってきており夕食を作っている。俺は一旦自分の部屋に入りパソコンを机の上に置く。これから新しくネット環境整えないとな…なんて考えていると壁に貼られたポスターと目が合った。まさか千恵莉の好きなアイドルグループが俺のグループとは…。最近始まったばかりの駆け出しのアイドルだと聞いたが、もうすでにファンがついているようで。母さん曰く、俺はグループの中でも人気があるそうだ言っていた。本当かどうかはともかく、好きな人間が好きなグループからメンバーが抜けたら悲しむよなぁと悩んでいる。そういえば千恵莉の推しは誰なんだろう。男の事を楽しそうに話す姿が気に食わなくて話半分しか聞いていなかった。こんな事なら聞いておけばよかった。たぶんその辺は美優が何とかしてくれるだろう、というか黙っておく訳がない。美優のあの興奮度から見て何かしらをやってくれるに決まってる。女っていうのはどうして色恋になるとはしゃぎ出すんだ。自分もかつては女だった事を棚に上げて憂鬱に浸った。
しかし男になったのだから堂々と付き合えるのでは?と期待している自分もいた。千恵莉と結婚してゆくゆくは…なんて考えると表情筋が緩くなってしまう。いやそもそも付き合えるかさえ分からないのに。しかもアイドルなんて不安定な職業で養えるのか?やはりアイドルは辞めて定職に付くべきだ。俺は断固と決めて母さんにも話そうと意を決して部屋を出た。
「そぉんな事言わないでよぅ」
食事の最中にアイドルを辞めると母さんに話すと、案の定必死に止めてきた。
「みんなが貴方の事待ってるのよ?何が不満なの?」
「アイドルって不安定すぎるから、ちゃんとした職に着きたいんだよ」
「お金の事ならお母さんに任せてちゃんとサポートしてあげるから」
「そういう問題じゃないんだってば」
何度言っても悲し気な表情で訴えかけてくる。それに負けじと突っぱねるが中々引き下がってくれない。
「ねぇ見てよ。こんなに貴方のファンがいるのよ!」
母さんが見せてきたのは、俺の所属するアイドルグループのツイッターだった。フォロワー数は五千人だそうだが多いのか少ないのか分からない。そのツイッターには俺の記憶喪失の事が書かれておりリプライには恭弥を心配するコメントが繋がっていた。
「恭弥くん大丈夫!?早く良くなりますように…」
「恭弥くんー!心配だよぅ( ; ; )元気なとこ見たいです」
「恭弥が事故ったなんて…マジショック…」
「私たちの事もメンバーの事も忘れちゃったのかな??つらい…」
「事故って聞いてビックリ!お大事にしてね」
そこには多数のコメントがあり、いかに恭弥が愛されていたかが分かる。
「ね?この子たちのためにも続けましょうよ?」
「う…」
俺はこういうのに弱い、そのせいで会社でも仕事を押し付けられがちだった。人の情を踏み砕くのは心苦しい。しかし彼女たちが求めているのは昔の恭弥であり今の俺ではないのではという気がする。恭弥はどうにもドライな気質だし、こんなヘタレになって戻ってきたところで彼女達は喜ぶのだろうか。
「…もう少し考えさせて」
結局この日も断れずにいた。
風呂に入りベッドに身を投げる。アイドルの事をどうしようかと思案しているとスマホが鳴った。スマホも入れ替えようか悩んだが、そのままお互いのスマホを持つことになった。プライベートで見られて困ることはないが、やり込んでたゲームがあったのでそれだけが心残りだ。スマホの画面を見るとラインからの通知だった。美優とのライン以外見ていなかったが、どうやらグループのラインがあったらしくそっちに大量に俺を心配するメッセージがあった。
「恭弥大丈夫かー!?」
「キョンキョン生きてるー!!?」
「お大事に、ゆっくり休んでください」
などなどひっきりなしにメッセージを送ってくれていた。気づかなかった申し訳なさに謝罪と無事でいる旨を伝えた。すると瞬時にメッセージが返ってきた。
「良かったー!心配したぞ!」
「キョンキョン早く帰ってきてね!(╹◡╹)」
「無理はなさらずに、元気な姿待ってます」
こんなにも想っていてくれているメンバーを思うとなおさら辞めづらくなってきた…。壁のポスターに目をやりメンバーの事を想像する。誰がどれか分からないけどありがとう…そんな感謝の気持ちを持っていると、ラインのメッセージとメンバーの数が合わないことに気付く。ラインから送られてくるメッセージは三人、こっちのポスターには五人写っている。俺を抜かして四人だから一人足りない…。まぁ全員が全員返してくれるものでもないかとあまり気にせずにいた。俺はメンバーにメッセージを返してベッドに倒れこんで寝た。俺の横にあるスマホにラインの通知が来ていることも知らずに。
「恭弥ー!実は折り入って頼みたいことがあるの!」
朝起きてスマホを見ると、どうやら深夜に美優からメッセージが来ていた。美優の頼み事なんてロクでもないんじゃないかとこの数日で分かるほどに俺達はお互いを知っていた。これはラインで返すより電話した方が早いだろうと踏んで美優に電話する。すると美優は起きていたらしく素早く電話に出た。
「恭弥おはよー!昨日ライン返さなかったでしょー!」
「いや寝てたからさ…」
「もう男はすぐライン返さない!」
お前も男だっただろ…というのは止めて、ラインの件について聞く。
「何だよ頼み事って」
「えっとねー話すと長くなるから例の喫茶店に集合しよう!」
「分かったすぐ行く」
「ちょっと!こっちは着る服も決まってないんだからすぐには無理!一時間後にしよう」
「分かった…」
勢いよく捲し立てられて俺はなす術もなく従うしかなかった。朝食を食べながら母さんに出かける旨を伝えるとまたしても目がギラギラと輝いた。彼女かしらねぇなんて楽しそうに呟いている。
一時間後、二人で初めて会った喫茶店に行く。カランとドアのベルを鳴らしながら入り、辺りを見回すが美優はまだ来ていないようだ。最初と同じ奥の席を確保してメニューを見ながら待っていると、美優が飛び込んできた。こちらに気付いて手を振りながら歩いてくる。
「ごめん待った?」
「別に」
「髪の毛編み込むのに手間が掛っちゃって…」
美優はしきりに髪の毛を気にしている。だが俺にはいつものと違いが分からない。だから女友達の中でも孤立するのだろうと思った。二人でメニューを決めて店員を呼ぶ。男性の店員が注文を取りに来た。俺がアイスコーヒー、美優がアイスティーを頼む。店員は畏まりましたと一礼して帰る瞬間に美優の顔をじっと見つめていた。美優はそれには全く気付いていないようだ。
「さっきの店員美優の事見てたぞ」
「えー本当に?やったー」
「嬉しいのか?」
「だって女性として魅力的って事でしょ?あんまり近寄られたりしたら怖いけどチラ見くらいならねぇ」
「俺が女だった時は嫌だったよ」
「そりゃそうだよね、中身男だし。しかも恭弥っておっぱい大きいからよく見られたでしょ」
「うん…まぁ」
自分を性の対象として見てくる異性の視線が怖くて仕方がなかった。そんな風に見ている人ばかりじゃないと頭で分かっても恐怖は消えなかった。
「私もおっぱいだけ見てくる人は嫌だよ。声掛けられたりすのも面倒だし」
自分の顔で声を掛けられる事が不思議で仕方がなかった。
「声掛けられるの?」
「今日来る時もだよ。女ってメイクと服と髪の毛で変わるんだから」
確かに昔の自分の面影はほとんどないように感じた。今の美優は美優が好きなように着飾っており美優そのものだ。
「ま、私が男だった時も女の子に見られるのちょっとやだったな」
「女の子も見るのか…」
「そりゃ見るよ、見た目の良さは男女問わず惹きつけるんだから」
そういえばここに初めて来た時、女性の店員にまじまじと見られたのを思い出す。あの時は悪い気はしなかったが、ずっとあの調子なら疲れるだろう。
「そんなことより!ねぇ聞いてよー」
「はいはい、どうしたの」
「ほらこの間恭弥の恋愛相談乗ったじゃん?実は私にも好きな人がいてね…」
「へぇそうなの、誰?」
「同じグループのメンバー」
同じグループのメンバー?まさか。
「男が好きなの?」
「そうだよ、恭弥が女の子好きなように私は男の子が好きなの!」
ぷくっと頬を膨らませて抗議する美優。自分の例があるとはいえ意外だった。
「で、メンバーの誰が好きなの?」
「この人!一宮玲斗!カッコいいでしょ〜」
美優がスマホをかざして見せてきたのは思い人の写真だった。写真を見てみると確かにポスターの中でも見た顔だ。鼻筋が通っていて涼し気な目をしている。しかし昨日のラインメンバーの中では見なった名前だ。
「他のみんなからはライン来たけど、コイツからはライン来なかったぞ」
「あー…玲斗はクールであんまり群れたがらないから」
群れたがらないのに何故アイドルをしている?素朴な疑問が立ちはだかったが隅に置いておくことにした。
「アイドルやってる時に一目惚れして…玲斗のためにアイドルやってたようなもんだから」
「ファンが聞いたら泣くぞ」
「もうアイドルじゃないもん」
「じゃあ会えないだろ」
「だから協力しろって言ってるのー!」
ムキになった美優に頬をつねられる。女は恋をすると獣になるらしい。
「前はアイドル辞めてもいいって言ったのに…」
「私も最初は諦めようと思ってた…でも恭弥と千恵莉ちゃんのこと見てたらもう少し頑張ってみようって思ったの…」
そんな心境の変化があったのか。俺は美優の一途な想いに応えるべくある決断をする。
「分かった、このままアイドル続ける」
「えっいいの?本当に?」
「ファンのみんなもいるし、いけるとこまでいってみるよ」
今の自分でどこまで出来るか分からないけど、応援してくれる皆がいて、美優のためにもなるならば出来るような気がしてきた。
「ありがとー恭弥!」
「抱きしめなくていいって…」
両手で抱きつこうとする美優を制してこれからの事について会議を始めた。
「まず俺がアイドルに復帰するだろ?メンバーとも打ちあけてきた頃に友達だって美優を紹介する」
「でも女の子紹介するのはマズいよ…恋愛ご法度だもん」
「そうか…じゃあ従姉妹ってことにして…」
「それより事故に合わせた子ですって言っちゃった方が警戒しなくない?」
「事故に合わせた被害者連れて来てどうするんだよ…」
「うーん…」
「そういえば、あの事故って一応恭弥が加害者になるけど慰謝料とか何も聞いてないけど」
「あぁ、うちの親が一括で払ったよ」
「払った?」
「前にも言ったと思うけどうちお金持ちだから」
確かに最初に出会った時に家が裕福そう?だとは聞いていたし、母さんがやたらお金の事を気にするなって言っていたのはそういうことか…。
「本当に金持ちなんだな」
「そうだよ、だからお金の心配はしなくていいよ」
「そういう問題か…?」
もう自分の家の事とはいえ、他人様の金を使うことには抵抗がわく。
「なんか自然に出会える方法ないかなー…」
「難しいな…」
会議はいい案も出ないまま難航してしまった。アイドルと出会うことって難しいことだったんだな。
「とりあえずライブには行こうと思うんだよね」
「まぁそれなら見ることは出来るな」
「うん、で新しい私を見てもらうの!」
楽しそうにはしゃぐ美優の姿は見ていて微笑ましい。中身の年齢は向こうが下だからか弟、いや妹のように思えてしまう。
「それとライブに千恵莉ちゃんも誘おうと思って」
「なんだって!?」
突然の宣言に思わず叫んでしまった。店内にいる他の客からの視線が痛い。
「だって千恵莉ちゃん好きなんでしょ」
「そうだけどそうだけど、千恵莉にアイドルの格好を見られる…?」
キラキラした衣装を纏い歌い踊る自分(と言っても外見は恭弥なのだが)を想像して羞恥でどうにかなってしまいそうだった。
「出来るのか俺…やるのか俺…」
「私のためにも頑張ってよね!」
美優の励ましなど届かないほどに俺は恥ずかしさでいっぱいだった。