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さよなら私


「恭弥、起きなさい」


聞き慣れない声で眠りから目が覚める。目を開けるとそこには恭弥の母親がいた。


「恭弥、朝ごはん出来てるから早く起きなさいね」


そうだ、俺はもう恭弥なんだ。昨日かつての恭弥と入れ替わったままで人生を送ろうと決めたんだ。一朝一夕で慣れるものではないと思っていたが、やはり違和感は強いままだ。俺は着替えて顔を洗い朝食の用意されたテーブルへと向かう。どうやら中井家は朝はパン派のようで、ずっとご飯派だった自分には新鮮に映った。いただきますと呟いてパンを齧る。その様子を恭弥の母親は嬉し気に見守っている。


「どうしたの母さん」

「あら、母さんってやっと呼んでくれたのね!」


昨日かつての恭弥、もとい美優に母親のことは「母さん」と呼ぶように教わった。自分の母親ではない女性を母と呼ぶことに抵抗があり、昨日は呼べなかったが今はすんなりと言えた。


「母さんは母さんでしょ」

「まぁ嬉しい!ほらもっと食べなさい」


母さんと呼ばれることがよほど嬉しい事だったらしい。そして自分の子供に大量に飯を与えようとするのはどこの母親も共通なようだ。朝食を食べていると母が質問してきた。


「アイドル活動、どれくらいで復帰出来そう?」


そうだ、恭弥はアイドルをしていたんだ。しかし今の自分ではアイドルなんて輝かしいものは出来そうになかった。美優も無理はしなくていいと言ってくれた。


「アイドル…辞めようかなって」

「えぇ!?そうなの?」


母は大層驚いている。よほどアイドル活動のことを応援していたのだろう。美優曰く、ミーハーなだけだと言っていたが。元々美優がアイドルをしていた理由もたまたまスカウトされてその流れでやることになったらしく、本人もあまり乗り気ではなさそうだった。


「勿体ないわぁせっかく事務所に入ったのに…」

「でもアイドル時代のこと覚えてないし…みんなに迷惑かけるよ」

「そんなことないわよ!事務所の方はいつでも戻ってきてくれって言ってたもの」

「いやでも…」

「こんなにカッコよく産んであげたんだから、貴方は絶対に売れるわよ」


ギラギラと眩しい瞳で母が見つめてくる。確かに美優が言うように、息子の夢を応援するというよりも自分の見栄のためな感じが受け取れる。


「…もうちょっと考えさせて」


逃げるようにベランダへと避難した。ちゃんと断ればいいのに、押しに弱いところは男になっても変わらないらしい。はぁと溜息を着きながら空を見上げる。いい天気だ、洗濯物が良く乾きそうだなんて考えていると、スマホのラインが鳴った。見てみると美優からのラインだった。「一度部屋に戻って私物を取りに行きたい」とのことだった。大丈夫だと打ち込むとすぐに「10時にそっちに向かう」と返ってきた。美優とはあれからラインもして、何だか昔からの知り合いのように気が合った。ふと美優が来るなら母はいない方がいいだろうか、昨日は母に見られたくないものがあると言っていたし。ベランダから部屋に戻ると母は食器を洗っていた。


「母さん」

「何?」

「今日友達が来るから出掛けて欲しいんだけど…」

「あら、お友達が来るなら歓迎しないと!」

「いやでも二人で話したいことがあって…」

「なぁに?もしかして彼女?」

「違うって!」


相手が女性な事は確かだが恋人では絶対にない。しかし母は勘違いしたままご挨拶した方がいいわよなどと言って居座る気でいて俺は途方に暮れた。こんな時美優ならどうしてるだろうか…ラインで助けを求めてみた。すると「彼女とセックスするのに邪魔だからって言えば?」と返ってきた。恐ろしい…美優はこんな毒を持っていたのか。何だか中井恭弥として生きていく自信がなくなってきた。俺はそんなこと言えるはずもなくただひたすらに頭を下げて出ていくように嘆願した。そこまで言うなら…と了承を得て一安心だ。


「それにしてもそんな弱気な恭弥初めてだわ。頭を打って性格も変わったのかしら」


前は強気で冷たくてお母さん悲しかった、と以前の恭弥のことを語った。実は全然違う人物が入ってるんです、なんて言えるはずもなく、ただ突っ立てるしかなかった。


美優が来ると言った10時がもうすぐというところで母は名残惜しそうに部屋を出て行った。やっと一人になれてホッとする。改めて部屋の中をぐるりと見回してみた。壁に大きく貼られたポスターに写っている恭弥は輝いていた。彼女の思惑とは違うかもしれないが恭弥はアイドルが合ってると思う。見た目だけならの話だが。しかしこのポスターを見ていると何か引っかかる…じっと見てみるが何が気になるのか思い起こせずモヤモヤした。しばらく考えてやっと思い出した。そうだこのアイドルのマーク…


ピンポーン


頭がスッキリしたところでチャイムの音が鳴り響いた。足早にドアに向かい扉を開けると美優がいた。


「やっほー」

「昨日ぶり」


笑い合いながら美優を部屋へと招き入れた。


「…すんごく懐かしく感じる」

「三日くらいいなかったからな」

「なんかもっとずっと前からいなかった気がする」


まるで博物館の珍しい物でも見るように美優はかつての自分の部屋を凝視している。


「母さん追い出せたんだね」

「必死に頭下げてたら珍しがられたよ」

「はは、俺はやったことないもん」


気楽な会話をしながら美優はあるところへと歩いて行った。そこはクローゼットであり、俺はまだ自分の着替えを取る以外では使っておらず美優の私物を見ていない。美優はクローゼットを開けると座り込んで奥から箱を出してきた。箱は通常の段ボールほどの大きさだった。美優がその箱を開けると中にはメイク道具や女物の服などが入っていた。


「見せたくなかったものってこれのこと?」

「そ、たまにこっそりね女装してたんだ…」


美優の横顔はどこか悲し気だった。彼女にとってはごく自然なことなのに、世間では異常とされ、こうして家族からも隠していなければいけない事が腹立たしいと共に悲しくもなった。ただ自分でいたいだけなのに…。


「これからは女装じゃないな」

「そうだね、もう女の子だもん」


嬉しそうに微笑む美優を見て安堵した。同じ境遇として彼女には幸せになってほしい、そう強く望む自分がいた。


「それにしてもたくさんあるな」

「うん、すごい集めたもん。流行りの奴なら何でも試すし」


そう言いながら美優が手にしたメイク道具は手に持っただけでも自分が持っていたメイク道具の数を超えていた。


「これだけはどうしても持って帰りたかったの」

「俺もあんまり持ってないしな」

「そうだよ!まぁ仕方ないけど…」


口を尖らせながら美優は箱の中を出していく。


「箱ごと持っていけば?」

「やだよ重いもん」

「俺が持ってってやるよ」

「本当に!?」


ぱあっと美優の顔がこれでもかと明るくなった。楽が出来て嬉しいのがあからさまに分かる。今の男の体の自分ならこれぐらい楽に持てるだろうからいいけれど。


「それに俺も一回家に帰りたいし」

「よしじゃあ白浜家に戻ろう!」


テンションの上がった美優を先頭に俺は箱を持ちながらかつての自分の家へと向かった。


恭弥の家と美優の家はそう離れていなかったようで、歩いて10分程で着いた。美優が鍵を開けてただいまーっと部屋へ入っていくのに着いていき懐かしい我が家に入る。そこでまず現れたのが俺の母親だった。


「お帰りなさい、あらお客さん?」

「あ、こ、こんにちは…」


この姿で会うのが初めてで緊張してしどろもどろになってしまった。久しぶりに見たお母さんは元気そうで安心した。


「もしかして彼氏さん?」

「違うよ、学校の後輩だった子。この子の事は覚えてたの」


最も容易く嘘を並べられる美優に唖然としながら部屋へ上がっていく。1LDKの自分の部屋は以前のままだった。もう戻る事はないが、懐かしさでいっぱいになった。


「私達部屋に居るから」

「はいはい」


まるで本当の親子のような会話に少しだけ寂しさを覚えながら部屋へと入る。当然だが自分が使っていたもので溢れている部屋に感動すらした。


「ヤバい…泣きそう」

「やっぱ自分の物の方がいい?」

「というか、美優はよく切り替えられるな」

「だって自分に未練ないもん」


さらっと言った美優の心境は俺には測れなかった。俺が思うよりももっと、美優は自分に絶望していたのかもしれない。


「お母さんに会いたいって思わない?」

「思わなくはないけど…良い思い出があんまりないからね」


あんなに優しそうな母親なのに、そう思えるのはやはり他人だからだろうか。


「そっか…でもお母さんの事は大事にするから」

「恭弥は優しいね」

「だから、私のお母さんの事もお願い」

「分かってるよ」


お互いの人生を生きていくと選んだが、やはり家族の事は名残惜しい。

俺は美優の持ち物である段ボールを部屋に置き、かつての自分の私物の中から無いと困るものを物色していった。


「服はもういらないとして…あっパソコン!触ってないよね!?」

「触らないよ人のだもん」

「良かった…これないと仕事が…」


そこでハタともう仕事に行く事がないことに気付く。改めて自分の生活が変わる事に突然不安が押し寄せてきた。


「もう同僚とも会えないんだ…昔の友達も…お母さんも」

「恭弥…」

「生きていけるのかな…昔の自分を捨てて…」

「…美優、無理なら今からでも遅くないよ?」

「でも元に戻らないと意味が…」

「お医者さんに言ってみようよ、何か変わるかも!」

「でもでも…」


私は思わず涙を溢してしまった。昔の自分を捨てられるのか?今まで自分が培ってきたものを手放せる?体が入れ替わってるなんて言っても信用されなかった…。ようやっと自分の置かれた現状の異常さに目眩を起こしながら俯いてしまう。恭弥はそんな自分を優しく宥めてくれた。

いつまでそうしていただろう、涙と鼻水を受け止めていたティッシュが辺りに錯乱してティッシュ箱が空になるまで泣いていた。悲しさは消え、ただ呆然とする私に恭弥は飲み物を用意すると言って部屋を出た。私は散らばったティッシュをゴミ箱に入れていく。泣いたって何も変わらない。むしろ変わることを望んだ自分がいたはずなのに…最後の最後で怯えてしまい恭弥にまで迷惑をかけてしまった。自分の事が情けなくて恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちでいっぱいになった。しばらくして恭弥がお茶を持って戻ってきた。


「はい、お母さんが淹れてくれた紅茶」

「うん…ありがとう」


お母さんが淹れてくれたのは私が好きなアールグレイの紅茶だった。良い香りが鼻を掠めて気持ちが落ち着く。一口飲むと紅茶の豊かな味わいが口に広がった。しかし…


「前みたいに美味しくない」

「え?」

「前はすごく好きだったのに…」


いつもなら美味しく感じるあの味も、この体では味わいが違ってきた。

自分なのに自分じゃない感覚に動揺した。体が変わると心まで変わってしまいそうで恐かった。枯れたはずの涙が一筋頬を伝った。


「美優…正直俺も違う誰かとして生きていくのが怖くない訳じゃない。でもこの体は自分がずっと夢見てたものなんだ」


恭弥は真摯に私の目を見て訴えた。


「今まで周りに嘘をついて偽りの自分を演じてきた…でもこの体なら本当の自分として生きていける。人生をやり直せるんだ。それに、体が変わっても自分は自分だろ?」


そうだ、私はずっと自分の体に違和感を覚えていた。世間の求めるものと自分の本質の狭間で葛藤していた。男になれたら…どれだけ素晴らしいだろうかと何度も夢見た。その奇跡が今起こっている。戻れないことを悔やむよりこの恩恵を受けよう…!


「ごめん美優、俺やっぱり中井恭弥として生きるよ」

「ありがとう恭弥…」


美優がそっと優しく抱きしめてくれた。まるで母に抱かれているようで心が穏やかになる。


「じゃあパソコン以外は持っていかないの?」

「うん、もう使えないしな…新しく恭弥のものとして買うよ」


俺は自分の部屋をあらかた物色した結果、パソコンだけを持っていくことにした。


「後の物は使ってくれていいし、捨ててもいいよ」

「じゃあお言葉に甘えて使おうかな、趣味は悪くないし」


美優の冗談混じりな言葉に笑って返していると、扉がノックされる音がした。


「美優、貴方にお客様よ。千恵莉ちゃん覚えてる?」

「千恵莉!?」


母からの思いもかけない人物の名前に慌てふためく。


「誰、千恵莉って」

「幼馴染!昔からの親友!」

「えっ私どう対応すればいい?」

「えっと…今日は帰ってもらおう!」

「そうしよう、恭弥いるし」


二人は合点して美優が部屋から出て千恵莉に帰ってもらうよう母に伝えた。何か話しているのか美優はすぐに帰って来ず、俺はそわそわしながら部屋の外を伺っていた。しばらくして部屋の扉が開き美優が何かを手にしながら帰ってきた。


「どうしたんだよそれ」

「千恵莉ちゃんから貰ったの、お見舞いだってさ」


美優の手には可愛らしい包装に包まれたクッキーがあった。


「私の好きなとこのやつだ…」

「千恵莉ちゃんすごく心配してたよ。また来るって」

「そ、そうか…」


千恵莉の突然の来訪に胸が痛いほど高鳴っている。心臓を落ち着かせようとクッキーに手をつけ齧る。やはり味覚が変わるのか以前のようには美味しく感じないが、それでも美味しかった。何より千恵莉からの贈り物ということで舞い上がっている。


「…なんか、様子おかしくない?」

「へっあっ、何がだよ」

「恭弥緊張してる」

「いやだって突然来たから…」

「それだけ?」

「それだけ…」


何故か怪しんだ目でこちらを見てくる美優。


「ところでさ、恭弥の恋愛対象って女の子?」

「はっ!ば、バカ!…女の子だよ」


美優のいきなりの質問に慌てる。俺は女の頃から女性が恋愛対象で、そのせいもあって自分の性別が嫌だった。好きになる子は必ず男子に取られていった。でも千恵莉だけはそばに居てくれる、何があってもいつも一緒だった。


「恭弥さぁ、千恵莉ちゃんのこと好きでしょ?」

「ゲホッゲホッ!」


美優に確信を突かれて飲み込もうとしていたクッキーが気管に入った。咳き込む俺を美優はにやりと笑いながら見てくる。


「ふーんただの幼馴染じゃないって訳だ」

「うるさいな!」

「でも尚更私の対応難しくない?昔からの親友なら何でも知ってそうだし」

「あぁまぁそうか…」

「記憶喪失とはいえ言動とか好みとかまるっきり変わってたらおかしいよね…よし作戦会議だ!」

「…美優ってこういう時やたら張り切るよな」


俺と美優は千恵莉への対応について話し合った。当面は記憶喪失で誤魔化し、俺が美優に昔の情報を教え親友らしく振る舞う事になった。


「頼むから千恵莉に変なことすんなよ」

「分かってるって!あ、でもその体だと千恵莉ちゃんに会えなくなるね」

「あっ…」

「大丈夫!三人で遊ぼうとか言って口実作るから。私の顔イケメンだから千恵莉ちゃんも惚れてくれるって!」

「その事何だけど…」


俺はずっと引っかかっていたことを美優に伝えた。


「たぶん千恵莉が好きなアイドルグループって恭弥のグループだと思う…」


以前千恵莉と遊んだ際、彼女が最近ハマったアイドルの写真やグッズを見せてくれた事があり、そのグッズのロゴが恭弥のグループのものだとポスターを見て思い出した(あいにく男に興味はないので顔は覚えていなかった)。


「え、何その偶然…奇跡じゃん!!」

「いやいやアイドルとファンって付き合っちゃダメ何だろ!?」

「アイドルは辞めるんでしょ?」

「そんなことしたら千恵莉が悲しまないか…」

「一人くらい減っても平気でしょ」


俺の不安を他所に美優は目をギラギラ輝かせて俺と千恵莉をくっつける事を考えだしていた。その瞳は恭弥の母親そっくりで遺伝子の力を感じた。


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