美優と恭弥
後に先生に診てもらったところ、軽い記憶障害ではないかと診断された。階段を落ち頭を打った衝撃で脳が混乱しているのだろうと。私は何度も自分は違う人間だと訴えたが聞く耳を持ってもらえるはずがなく、記憶障害によるものだとしか取り合ってもらえなかった。しかし鏡に映った顔は自分ではない知らない誰かだ。トイレの鏡を凝視しても知らない男がうな垂れているだけ。頬をつねっても現実は変わらず、夢ではない事しか確認出来なかった。例の知らない女性は私が中に入ってしまっている男性の母親だそうで、私が彼女のことを分からなかった事に大変落ち込んでしまい、居た堪れない気持ちになった。
どうやら彼の名前は中井恭弥というらしい。年齢は21歳、なんでもアイドル(と言ってもまだデビューまもないそうだ)をやっているらしく、彼の写真も見せてもらえた。彼の情報を知れば知るほど分からない事だらけで混乱する。これから別人として生きて行かねばならないのだろうか…何より自分側はどうなっているのだろうか。自分が彼の体にいるという事は、自分の中に彼がいる事にもなるはず…。想像すると頭が痛くて仕方がない。しかし私の胸の内は今の状況が夢であって欲しいと願う反面、念願の男の体を手に入れて興奮する自分もいた。
特に異常はないと診断され、念の為に一日入院し翌日に退院の目処となり病院を後にした。退院してタクシーで彼の家であるマンションに着くも、やはり見覚えがない。母親に手を引かれながら部屋へと歩いていく。母親が鍵を開けると部屋の中へと足を踏み入れた。部屋は1DKで全体はモノトーンで彩られ、壁には彼の所属しているであろうアイドルグループのメンバーの揃った写真が貼ってある。目立つ物と言ったらそれしかなく、若い男性にしては整理整頓されており、彼は真面目な人間なのだろうと伺えた。
「どう?何か思い出した?」
「いや、まだちょっと…」
部屋の光景を見ても何も出てこない。体は彼の物なのだから少しは記憶があっても良さそうなのだがそうでもないようだ。
「お母さん心配だからもう少し付いてるわ」
「あ、うん…」
母親は慣れた手付きでお茶を入れてくれた。正直何も分からない事だらけなので側にいてもらえると有り難いが、知らない人間と始終いるのも気を使う。母親の入れてくれた茶を飲みながらこれからどうするか考えた。母親からはレッスンはまだ出来ないよね、本当に思い出せない?など色々と話しかけられたがどう答えていいのか分からなくて短い相槌しか打てなかった。ふと、当たり前に疑問に思うはずのことを思い出した。私はこの疑問を解決すべく母親に電話をしてくると言いスマホを持ってベランダへと出た。スマホにはロックが掛かっていたが顔認証で開けることが出来た。そしてとても馴染みのある番号を打っていく。私がこの男性になっているならば、向こうの私の中身はこの男性のはずだ。呼び出し音が鳴る度に緊張が増していく。四回ほど呼び出し音が鳴った時、相手側が電話に出た。
「…はい」
短いが確かに紛れもなく私の声だった。他者から聞く声は自分で聞くより少し低く感じた。
「もしもし、私、白浜美優って言います。貴方は中井恭弥さんですよね?」
男性の声で女性を名乗るのはとても違和感があったが仕方がない。相手は少し間を空けて静かに答えた。
「はい…やっぱり入れ替わってるんですね…」
「そう、みたいですね…」
私達は入れ替わった事実を確認したが、どうしていいものか分からず固まってしまう。
「どうしましょうか…」
「とりあえず…一度会いませんか?お互いの状況を確認したいので」
今私の中にいる恭弥は顔合わせの提案をしてきた。それが最もだろうと私も思い、賛同した。恭弥は馴染みのある喫茶店を指定してきた。それと念のために帽子とマスクをして欲しいと伝えられる(そうだ彼は一応芸能人だった)。
「じゃあ今すぐに会いましょう、喫茶店で待ってます」
「あ、俺の方は準備に時間掛かると思うので一時間後でも大丈夫ですか?」
準備とは何だろう。しかし人には事情があるだろうからそれを了承した。スマホを切って部屋に戻り友達の所に行くと母親に知らせると記憶が戻ったのではと大喜びした。まだ記憶は戻っていないが思い出す為に会いに行くのだと諭し落ち着かせた。私は母親と少しでも早く別々になりたかったので早めに指定された喫茶店へと向かった。
男の体で歩いていると世界がいつもと違って見えた。女の頃よりも身長が高く地面が遠く感じる。そして街を歩く男性が怖くないと思った。女の頃は胸が大きいせいもあって男性から見られることが多かった。女だというレッテルを貼られているようで嫌で仕方がなかった。しかし今は男性が近くにいてもこちらを意識することはないし、何だか対等な存在になれた気がした。気分良く歩いて行くとすぐに喫茶店へと着いた。クラシックな雰囲気が落ち着いていて席の間の距離も開いており、奥になると照明が当たらず密会にはピッタリだと思った。なるべく会話が聞こえないような奥の席を確保する。さすがに大丈夫だろうと帽子とマスクを外してメニューを見る。いらっしゃいませと女性店員が水とおしぼりを持ってきてくれた。ありがとうございますと店員の顔を見て軽く会釈すると、目が合った店員は目を丸くさせしどろもどろになりながら戻っていった。店員の態度を不思議に思い何かしてしまったのだろうかと不安になるも、戻った店員が他の女性店員に嬉し気に何か報告しながらこちらを見てくる様を見て、これがイケメンの力というやつかと知った。顔が良いだけでこんなにも喜ばれるとは、自分の顔でないのに優越に浸ってしまう。私は恋愛の対象は女性であるため尚のこと嬉しくて仕方がなかった。私はニヤついた顔を抑えながら飲み物を注文した。店員は私の所に来る度に接客業としての笑顔以上の微笑みを携えてくれた。私がにこりと微笑み返すと照れながら俯いたりして、とても可愛いと思った。そこでふと、目立たない為に奥の席まで来たのに意味を成さないことに気付き反省した。人の体で遊ぶのは慎もうと思う。
私が頼んだアイスコーヒーを半分ほど飲んだ頃、カランと店の扉が開く音がした。聞き耳を立てると待ち合わせをしている…と聞こえたのでもしやと思い入り口のある方を見てみると、そこには意外な光景があった。髪を緩く巻き、化粧もマスカラに口紅と完璧で、今流行りのロングコートにシフォンのスカートを履いている自分がいたのだ。今までの自分ならば長い髪は一つに縛り、化粧もファンデとコンシーラーと最低限のもの、下はズボンといつも決まっていた。それなのにやって来た私はこんなにも女性らしくなっていることに驚きを隠せない。目を丸くしているとあちらがこちらに気付き歩いてくる。
「お待たせしました」
「あぁ、うん…」
女性(と言っても自分なのだが)は私の反対側の席に座った。あまりの変貌ぶりにまじまじと見つめてしまう。
「どうかしました?」
「いや、ずいぶん可愛い格好だなって…」
「苦労しましたよ、アイロンは奥に放置されたままだし、メイク用品も少ないし、スカートなんて一着しかなくて…」
なるほどそれで準備がいったのか。それは申し訳ないことをしたと自分の女の部分が恥じている。
「でもそんなに気張らなくても…」
「何言ってるんですか、外に出るならこれくらい最低限でしょ!」
女性の強い訴えに思わず仰け反る。私は一瞬この中身は本当に男性なのか疑ってしまった。
「あ、すみません自己紹介がまだでしたね。この姿で言うのも何ですけど、中井恭弥って言います」
「私は白浜美優です。よろしくお願いします」
男性の体で女性を名乗るのも違和感だし、女性の体で男性を名乗られるのも不思議な感じだ。私達は記憶を擦り合わせようと話した。
「すみません、あの時俺がぶつかったせいですよね…ごめんなさい」
「いえいえ、こっちも前方確認してなくて…まさか入れ替わるなんて」
恭弥は申し訳なさそうに頭を下げてきた。確かに彼がぶつかったせいではあるけれども、入れ替わることまでは誰も予測しなかっただろう。
「それにしても、恭弥くんは」
「恭弥でいいですよ、敬語も必要ないです」
「じゃあ私にも敬語禁止ね。恭弥はアイドルなんだね」
「はい、まだ駆け出しで知名度ゼロなんだけど」
「お母さん自慢気に話してたよ」
恭弥の母親は彼がアイドルになることを応援しているらしく、病室から家までもアイドルの時の話をたくさん聞いていた。
「そうですか…母は慌ててるでしょ」
「うん、まあ心配で家まで着いてきてくれたよ」
「家か…」
恭弥は何か思い詰めた表情で黙った。
「あの、クローゼットの奥なんだけど」
「うん」
「母には絶対に見せないでください」
とても真剣な眼差しで訴える恭弥には死期迫るものを感じた。
「…分かった、見せないから。私も見ない方がいいよね?」
「いえ、美優さんには見られても平気です」
あっさりと引き下がる彼の調子にすかしを食らう。
「逆に美優さんが見られたら嫌なものとかあります?」
「いま実家に戻ってるの?」
「いえ美優さんが一人で住んでる部屋にいます」
私の家の場合だから実家にでも戻ってるかと思ったが、どうやら私の部屋にいるらしい。恭弥も私と同じように母親が付き添ってくれているそうだ。
「私は特に何も…部屋が汚いのだけがネックかな」
「それはもう一目見て分かったんで大丈夫です」
冗談気味に言った私の言葉を恭弥は笑顔でバッサリと切った。
「…そうだ、会社の方ってどうなってる?」
「会社にはお母さんから連絡したみたいです。でも状況によっては復帰は難しいかもって…」
「そっか…」
私が一番気がかりだったのは会社のことだった。私が抜けたことで業務に支障がないか、何より職を失うことで収入を得られないのではという不安があった。しかし今の状態で恭弥に仕事をしろとも言えない。かと言って中身が元に戻れる算段もなく…そんな絶望の中で私は唯一の希望を呟いた。
「…でも、私は男の人になれて嬉しかったんだ」
「えっ」
「実は、昔からずっと男の人になりたかったんだ。男の人の格好して街を歩いている時すごく楽しかった」
私は自分の正直な気持ちを打ち明けた。彼にとっては女の体になったことは障害以外の何ものでもないだろうが、何故だか打ち明けたい気持ちになったのだ。
「…私も、女になりたかったんだ」
恭弥の思いもしない返答に耳を疑った。彼は至って真面目な顔で話し続けた。
「小さい頃から女の子の遊びが好きで、お人形さんとかで遊びたかった。でも男の子らしくないって買ってもらえなくて…服もズボンじゃなくて本当はスカートが履きたかった。だから今日こうしてスカートが履けて女の子らしい格好が出来て嬉しかった」
恭弥は最後に幸せそうに微笑んだ。彼が身だしなみを整えていたのは女性としての義務からではなく自分の喜びのためだったのだ。彼も、いや彼女もまた自分と同じ悲しみを胸の内に持っていたことに感動した。
「ねぇ…なぁ、俺たちこのままで生きていかないか?」
「俺も…私もそう思います」
きっと私達が入れ替わったことは運命だ。やっと自分が思い描いていた理想の姿になれるんだと喜びを噛み締めた。
理想の性別になれたものの、他人の人生を生きていくのは難しい。記憶喪失ということで多少の補正は効くだろうが、家族や身近な人間と付き合うには記憶があった方が生きやすいだろうと考え、俺達は自分自身について語り合った。そしてこれからどうするかを話し合った。
「恭弥には申し訳ないけど、新しい職場を探した方がいいと思う」
「そうだね、仕事覚えてないんじゃ出来ないし。一度リセットした方が都合がいいかも。美優はどうする?」
「俺も、アイドルなんて恥ずかしいし…辞めようかなって」
自分がアイドルをするなんて恐れ多いので辞退することにした。
「せっかくのイケメンなのに申し訳ない…」
「あはは、顔の使い道なんて他にもあるよ」
恭弥はカラリと笑った。彼女はたまに毒を放つことを学んだ。
「俺はイケメンだからいいけどさ、恭弥は俺の顔で残念じゃない?」
「んー?美優は元は悪くないよ、おっぱい大きいし」
そう言うと恭弥は元俺の胸を触った。自分の胸だったせいか恥ずかしくなってきた。
「おっぱいのことはいいでしょ…」
「まぁ化粧次第で何とでもなるよ」
確かに今日の俺はいつもしないマスカラやチークのおかげか割増で顔が良く見えた。自分贔屓な部分はあるものの普通以上の顔なのではと思える。
「そうだ、これからさお互いを呼ぶのに名前も交換しようよ」
「えっあっそうか…」
これから中井恭弥で生きるということは、もう白浜美優ではなくなるのか。一抹の寂しさを覚えながら、新しい道に期待もしている。
「じゃあ美優」
「うん、恭弥」
「…なんか恥ずかしいなコレ」
「もう照れないの!慣れないといけないんだから」
照れる俺とは反対に美優は早々に白浜美優に馴染んできている。俺達はこれからの事も兼ね合って連絡先を交換し、一度別れた。一人で歩く道は何だか頼りなかった。さっきまでは美優がいてくれたから心強かったが、この先無事に生きていけるのだろうか…俺は不安を振り切るように足早に自宅へと帰った。