処女
部屋が明るくなり、私は目を開いた。
窓から差す光は弱々しいが、夜が明けたことを伝えてくれた。
私は過去について回想し筆を執った。壮絶な過去について振り返るために。
それはもう壮絶であった。
小学生の頃ひどいいじめにあった。
みんな私のことを陰で笑い、バカにされていた。
直接聞いたことも、他人からそれを暴露されたこともない。
しかし、確かにそうであったと確信している。なぜなら私のことを誰一人構ってくれなかったからだ。
休み時間に遊びに誘ってくれる人はいない。
私は嫌われ、誰も私と一緒に遊んでくれなかった。遊ぼうと言ったことは一度もないが、そういう人でもきっと友達はいるに違いない。なんて理不尽なんだろう。今でもそう思う。
中学に上がっても変わらなかった。
公立の学校であったため小学校から顔ぶれはほとんど変わらない。そこでも私はいじめを受けた。私は無口でほとんど、いや全く人と話さなかった。そのためか今度は無視されるようになった。私があの子と話したいと思っても、彼女は私と話をしようとしてくれなかった。初めて人を好きになったのもこの時期だが、彼は私が好きだということを知ってはいなかったが、私の好意を無視して違う女の子と付き合いだした。私はとても悔しく、毎晩のように涙を流した。
中学生になると林間学校や、修学旅行といった宿泊行事がある。班行動になるため六人ずつのグループを作るのだが、メンバーは生徒が好きなように決めていいとのことだった。きっとあの子やこの子は私と一緒の班になりたいはずだと、声を掛けられるのを待ったが、誰一人私を班に入れようとしてくれなかった。結局じゃんけんによって私は四班に割り当てられることとなった。宿泊行事ではみんなについていき、みんながトランプをしたり、恋の話をして盛り上がっている横で本を読んでいた。誰も私に話を振ってくれなかった。誰もトランプに誘ってくれなかった。今でもこのことを思い出すたびに、悲しい気持ちで一杯になる。誰も私を救ってはくれなかった。
高校に上がるにあたって、誰も私のことを知らない、地元から離れた高校を選んで受験した。壮絶ないじめに耐え抜き、やっと解放されると信じた。しかし、状況は全く好転せずまたしてもいじめられた。
高校になると他のクラスメイト達も知らない人がほとんどのため、みんな積極的に会話をしなければならない。席の近い子が私に話しかけたが、私は一言も発しなかった。すると彼女は別の席が近い子と話し始めた。もう友達を裏切るひどい女だ。私は益々心を閉ざした。
高校生になると給食がなく、お弁当を持参するか購買で購入しなくてはならない。更に中学までは席順で班が割り当てられ、同じ班の子と給食を一緒に食べるのだが、高校からは仲のいい子達が集まってご飯を食べる。私は誰からも誘ってもらえなかった。所謂「ボッチ」というやつだ。私はクラスの中で唯一、一人だけでご飯を食べる少女だった。こんな理不尽なことはない。私が人見知りで話をするのが苦手だからといって除け者にするなんて。私は毎日泣きながら昼食を食べていた。周りは訝しげな目で私を見ていたが、誰一人私に声をかける人はいなかった。
このいじめによって私は勉強が手につかなくなり、大学受験に失敗した。大学に進学することもできず、自暴自棄になった。こうなったのも親が私をしっかり教育しなかったせいである。私は両親に責任を取らせるために殴ることにした。幸い両親は高齢であったため体力的に私の方が上だった。両親はやめてくれと懇願したが、私はやめなかった。
ある日父が入院した。顔の痣について医者に聞かれたが、階段から落ちたんだと母が説明した。父が入院したせいで生活が困窮した。母が働きに出るようになった。私は家でゲームをして過ごした。私は自分が引きこもってゲームをする生活をしなければならなくなったのは親のせいだと、母を殴り続けた。たまに蹴ったりもした。母は見る見るうちに老け出し、パートも休みがちになっていった。間もなく父が死んだ。
父の葬儀が終わってから数日後、私は母に呼ばれた。母から「家を出て行け」と言われた。この親はまだ自分が悪いということに気づいていないのか。呆れ返り顔が腫れ上がるくらい殴打した。母はそのまま寝てしまった。イビキがうるさいのでうつ伏せにして脇腹を蹴り、私も就寝した。
次の日になっても母は寝ていた。私はまた脇腹を蹴り朝食を作るよう命じたが、母は起き上がらない。それどころか排泄物を垂れ流していることに気付き、漸く母が死んでいることに気づいた。私は救急車を呼んだ。
救急隊が駆けつけると、何故かすぐに警察を呼び始め、私は取調室まで連れてこられた。何を聞かれても私は黙っていた。私はそのまま拘置所で生活することを余儀なくされた。
数日後私は拘置所から刑務所に移送された。裁判に出廷しろと言われたが、私は人前に出たくなかったので断った。後日、私は死刑を宣告された。
なんて理不尽な世の中であろうか。私が一体何をしたというのか。私が受けてきた仕打ちを、親であり責任者でもある両親に償わさせることの何がいけないのか。この国は間違っている。私は今までの経緯を手記にし世に公開した。初めて他人に意思を示したのだ。しかし世の中はやはり腐っていた。私の意思は誰にも理解されず支援者は一人も現れなかった。私は獄中でただ死を待つのみとなった。
生まれてこなければよかったと強く思う。
足音が聞こえる。食べたいものがあるかと聞かれたので、私は食べたいものを頭に浮かべた。刑務官がその場を去る。
数時間後また足音が聞こえた。質素な食事が差し出された。なぜ食べたいものを聞かれたかわからない。私の望む料理は一つも皿にのせられていなかった。しかし空腹だったためそれを平らげた。
また足音が聞こえた。今度は言い残すことはないかと聞かれた。私は頭の中で怨みの言葉を並べた。彼は何も言わず去っていった。何しに来たのかわからない。
また足音が聞こえる。今日はやたらと私の独房に刑務官が訪れる。あ
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受刑者が扉の向こうに消えた。刑務官が部屋の整理に入ると赤い表紙のノートを見つけた。
刑務官はそれを拾い上げると、処刑された女の独房を跡にした。