乾いた酔いでも恋と笑って
本作は、私の拙作「この恋だけは終わらせない」(https://ncode.syosetu.com/n9337fz/)の続編となっております。本作のみでもお楽しみいただけると思いますが、両方併せてお読みいただけるとより楽しめるかと思います。
また、本作は少々狂気的な成分が多めです。脳の破壊にお気をつけください。それでは、少しでもお楽しみいただけると幸いです。
「ふんふふーん♪」
思わず鼻歌が漏れてしまうほどの天気だ。空には雲さえあれど、燦々と輝く太陽が私に微笑んでいる。少し長めの髪をすり抜ける心地よい風。あぁ、絶好のデート日和だ。思えば、最近は彼とのデートがあまりできていなかったように感じる。その分、今日は思い切り楽しめたらいいな。
そんな私の想いは、まさに一瞬で掻き消されることになる。待ち合わせ場所に視線を運んだ矢先に、私の目に飛び込んできたのは。何故か神妙そうに佇む彼の姿と。
「あっ!おーい!お待た……せ」
――微笑みながら彼に肩を寄せる、知らない女の姿だったのだから。
*****
「……まぁ、座ってくれ」
彼はなんとも気まずそうにそう言った。えぇ、言われなくても座りますけども。てか、なんで私はこんなカフェの中にいるんだ。今日はショッピングデートのはずだったのに。……いや、それよりもなんでこの女もここにいるんだ。しかもしれっと彼の隣に座ってんじゃねぇよ。そこは私が座る場所だろ。ていうか、お前誰だよ。
「まずは、初めまして。えーっと、」
「あ、申し遅れました!私、美咲と申します〜!よろしくお願いします〜!」
いや、別にお前の名前なんて訊いてないから。興味ないし。その間延びした声、何なんだよ。可愛こぶりやがって、雌猫が。……ふぅ、落ち着け。どうやら私の方が歳上らしい。ここで取り乱したら負けだ。飽くまで大人な対応を。まだ、わからないだろう。もしかしたら、私の思い違いかもしれないんだから。
「初めまして、春香といいます。よろしくね」
くそ、なんだか口が上手く回ってくれない。少しぶっきら棒な言い方になってしまった。まぁまずは、何か頼もう。口も喉もカラカラだ。
「とりあえず、何か頼みましょうか。美咲さんはどうしますか?」
「あ、私はオレンジジュースで!」
なんだそのセレクションは。それが可愛いとでも思ってんのかこのガキは。男に媚び売りまくりじゃねえか。……っと、いけないいけない。冷静さを失ったらダメだ。……チッ、可愛い笑顔で言いやがって。雌豚が。
適当なものを頼んで、さぁ。勝負といこうじゃないか。まぁ、勝負というよりも答え合わせだ。いざ、尋常に。
「単刀直入に訊くわ。ねぇ、これ、どういう状況?」
私たちに、まどろっこしいやり取りなんていらない。今までもそうだったし、これからもきっとそうだと、思っていた。だから。始まりも終わりも、全てシンプルでいいんだ。
「あ、それはですね〜」
「――いや、ここは俺が説明するよ」
そうだ。私が話したいのは彼だけ。邪魔をしないでくれ、女。そう、実にシンプル。私の勝利か、敗北か。ただ、それだけ。
「……ごめん。この女性のことが好きになってしまったんだ。俺と、別れて欲しい」
―――勝った。
あはははは!なんだ!全て私の杞憂だったんだ!あぁ、本当にバカな人。私の方が先に浮気をしていたことに気づきもしないなんて!ふぅ、安心した。もしも私の二股がバレてて、もう一人の彼に根回しされたりしてたらどうしようかと思ったよ。まぁ結局、ざまぁ展開とかが存在するのなんて、小説の中だけ。現実にあり得ないことだからこそ、小説で描かれるのだから。
「……そっ、か」
だから、私の最後の役目は、ちょっとした悲劇のヒロインを演じることだけ。これで私は、何も罪はないのに振られた可哀想な女になるのだ。ついでに、この男に罪悪感でも植えつけておこう。この私を差し置いて、よりにもよってこんなぶりっこ女を選んだのも、少しイラつくし。
「……それなら、私は身を引くしか、ないね。きちんと言ってくれて、ありがとう」
「本当に、ごめん。……君ともっと長く、一緒にいたかった」
は?何を今更言っているのだろう。あなた自身が浮気をしてたのに、そんなことよく言えるな。……はぁ、思っていたよりも、この男はバカだったのかもしれない。二股かけておいてよかったー……なんて。
「申し訳ありません、春香さん。こんな形になってしまって」
「……いいのよ。もう、どうしようもないことだもの。……私の代わりに、この人を幸せにしてあげてね」
「……ええ、必ず」
あはは、完璧でしょう!この引き方こそが負けヒロインというものですよ!あは、まぁ、私の一人勝ちなんですけどねー!さてさて、もうそろそろお暇しようかな。ボロが出ても嫌だし。彼も、もう充分に罪悪感を持った頃だろう。
「……じゃあ、私はこの辺りで失礼しようかな。お二人とも、お幸せに」
テーブルの上に千円札を一枚置いて、静かに彼らに背を向ける。二人の顔なんて、見てやらない。バカと雌豚の顔なんて興味はないし、なにより――
――顔のニヤケが、バレないように。
二人が何かを言ったようだが、私の耳はそんな雑音を捉えることはなかった。
カランコロン、と。ドアが鳴らす軽快な音が心地よい。このお店は好きになれそうだった。いずれ、また来よう。今度は彼と一緒に。
むわっ、と。夏特有の蒸し暑い空気が身体を包む。雲から顔を出す太陽は、未だに元気いっぱいだ。普段なら嫌気が差すこんな夏も、今は抱きしめることができそうだった。
先ほどよりも人気がなくなった広場を一人、悠々と歩く。まるで勝者の凱旋だ。こんな日には美酒が似合う。
「……あ、もしもし?今から逢えない?……やった!じゃあ、駅前で待ってるから!」
あぁ、本当に気持ちがいい日だ。これからの彼とのデートに胸が高鳴る。……でも。
もし、彼も、バカな男であったらどうしようか。
そんな疑念が、私の頭を駆け巡る。バカか否かというのは、化けの皮が剥がれてみないとわからないものである。そして、その剥がれる時というのは、ほとんど手遅れの状況なのだ。
……それなら。
もう、答えは出ていた。
――大丈夫。
私の演技は完璧だから。いくらでも騙し続けてやろう。隠し続けてやろう。私が幸せを掴むまで。
びゅうっ、と。少し強い風が吹いた。文字通りそれは追い風だ。気づけば、私の口角は上がりきっていた。
春香が去った店内には、二人の男女が並んで座っていた。静まりかえった店内に、女の声が響く。
「……ふぅ。お疲れ、お兄ぃ」
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「ねぇ、本当によかったの?」
報酬のスペシャルパフェをつつきながら、彼女――実妹の美咲はそう言った。
「何がだ」
「何って……言わなくてもわかるでしょ。いつからそんな鈍感系男子になったの?ラブコメの主人公にでもなったつもりか?」
「はっ!それならお前はブラコンの義妹か?」
「は?キモ」
「おっと、ツンデレ系義妹だったか」
「……あ、すみませーん、イチゴパフェ追加でー!」
「ふざけんじゃねぇぞお前ぇ……」
美咲とは久しぶりに会ったが、こいつは全然変わっていないようだ。食い意地が張っているところも、生意気なところも、不利になると逃げるところも。あぁ、可愛らしい妹だ。
そんな物思いに耽っていたら、いつのまにかイチゴパフェと紅茶を追加されてしまっていた。くそ、どうしてこういう店は値が張るんだ。別にめちゃくちゃに美味いってわけでもないだろうに……。無限に金が吸い込まれていくぞ….…。
「そういえば、なんでオレンジジュース飲んでたんだ?別に好きじゃなかっただろ、お前」
「ん?あの場面で最適な彼女を装うためだけど?男の人って、そういうの好きなんでしょ?小動物みたい、とかで」
「どこ情報だ、それ。そう思う奴もいるとは思うけど、男性全般じゃないんじゃない?いや、わからんけど」
「えー、ネットに書いてあったんだけどなー」
友達にも教えちゃったよ、と。悪びれる様子もなくケタケタと笑う。こいつ、こういうところも変わってねぇな。まぁ、昔から変わってないなら、これで―――
「――ん、なんか、話題変えようとしてない?そんなのどーでもよくて!……もうちょっと、やりようあったんじゃないの?」
……うーむ。まぁ、流石にちょっと強引だったかな。昔は上手くいったんだけどなぁ。ここは、誤魔化さない方が得策か。
「……俺が思いつく中では、これが最善だったんだ」
やりよう、やりようか。まぁ、他にも山ほど選択肢はあった。でも、そのどれもが。
「ふぅん。……まぁ、お兄ぃがそれでいいなら私は何も言わないけどさ」
「……あぁ、すまん、な」
「でもさー、やっぱこう、もっとギャフンと言わせてやりたくなかった?」
「何も言わないって何だっけ……?」
「だってさ、お兄ぃは浮気の証拠もバッチリ掴んでたわけでしょ?」
あ、無視ですか。そうですか。こういう強引なやり取りも、なかなか懐かしい。
「まぁ、そりゃな」
「それならさー、もっとド派手に糾弾してみたりさ、嘘じゃなくて本当にこっちも浮気してみたりさ、色々出来たじゃん!」
「……あのな、美咲。相手が酷いことをしたからって、こっちが何をしてもいいわけじゃないだろ」
「でも、そう思っちゃう心理を、あの人に利用したんだよね?」
「……ぐぅ」
「あ、ぐぅの音は出るんだ」
くそ、全くもって美咲の言う通りだ。なんだこいつ、暫く見ない内に口達者になったものだな。
「……じゃあ、本音を言うから。まぁ聞けよ」
「お、期待」
「……小説とかではさ、そういうざまぁ系?とかの展開になることが多いじゃん?でもさ、あれって結局自己満足でしかないわけ。別に結婚してるわけじゃないから慰謝料も取れないし、ただ自分が少しスカッとして、終わり」
「……その爽快感が欲しくて、みんなはやるんじゃないの?」
「まぁそうなんだろうな。それ自体は別に、好きにしてもらっていいと思うよ?ただ、俺はやりたくないってだけ」
「……どうして?」
「どうしても何も、それがただの自己満足なら、彼女を傷つけるだけ無駄じゃん?さっき美咲が言った、そのどれもが、彼女を傷つける結果になるんだよ」
「……お兄ぃの気持ちは、晴れないままじゃん」
「別に俺はそれでいい。というか、俺の気持ちなんてどうでもいい」
「……ふぅん。やっぱり、お兄ぃは昔から変わってないね」
「そうか?いろいろと変わった気もするが」
「ううん、変わってないよ。お兄ぃはさ、ずっと昔から―――」
「ーーー嘘を吐くのが上手だったもんね」
カランコロン、と。店のドアが開く。そこから入り込んだ涼しげな風が、俺の頬を撫でた。いや、実際は生温いのだ、その風は。それを冷たく、涼しげに感じてしまうほどに、俺の身体は火照っていた。
「……美咲」
「気づいてるに決まってるじゃん。何年お兄ぃの妹やってると思ってんの?昔こそ、私も騙されたけどさぁ。―――いつまでも子どもだと思ってたら、痛い目みるよ?」
「……」
はは、どうやら、今回ばかりは美咲の方が一枚上手だったらしい。はぁ、全く。兄の優しい嘘を暴いてしまうなんて、なんて面倒で、なんて可愛くないんだろうか。……でも。
「……いい、女になったな、美咲」
「……何、また嘘?それとも皮肉?」
「いや。これは、心の底からの本心さ」
「……ふぅん。シスコンじゃん」
「まぁ、そうだな、シスコンになったわ、今。実妹じゃなければ好きになってたな」
「うわ、キモー」
「流石に嘘」
でも、まぁ。この妹に免じて今回は、本当のことを言ってやってもいいかもしれない。あぁ、そうだな。それが嘘を暴いた者の権利だろう。
「まぁ、つまり、だ。彼女のためには、何もしてやらないことにしたんだ」
「うん」
俺があそこで糾弾でもすれば、きっと彼女はそれなりには懲りただろう。そして、浮気に手を出すのは控えるようになったはずだ。
でも、そんなことは、してやらない。
「……彼女に、俺の存在を刻み付けるのも面白いかな、と思った。絶対に忘れることなんて出来なくしてやろうか、とも思った。その方法も思いついてはいた」
「……へぇ」
「でも、やっぱり、どうも性に合わないんだ。彼女には、俺程度の人間なんて忘れていてほしい。俺を適当な虫のように遇らってほしい」
「……」
そうだ。俺のことなんて忘れて、男を取っ替え引っ替えしていればいい。浮気の罪悪感なんてものも忘れて、二股、三股が普通になっていればいいんだ。そのための種火に、俺がなってあげるから。
そして、そうなったときには。もう、彼女に幸せなんてものは掴めない。
「そして、彼女が本当に幸せになろうとするときに、死んでほしいんだ。俺が置いておいた刃物に、自分から刺さりに行って、死んでほしいんだ」
「……」
自分が何を掴んでいるのかも忘れた彼女に、幸せなんてものが掴めるものか。きっと彼女は繰り返す。自分がまだ、幸せを掴んでいないと思い込んで。
「な?気持ち悪いだろ?」
「うん。とっても」
「やかましいわ」
気持ち悪くて、狂っているのなんて、もうとっくの昔に知っている。そんな自分が、救いたいほどに憎くて、殺したいほどに愛おしかった。
「でも、彼女はきっと、俺の運命の人だったんだと思う。そして、俺もまた、彼女の運命の人だったんだよ」
「……え?」
「本来、彼女は浮気なんてする女性じゃなかったんだ。俺は彼女を愛していたし、彼女は俺を一途に愛してくれていた」
「……」
頭に過ぎるのは、彼女の裏切りの瞬間。でも、ダメだ。そんなことを思い出したって、何の意味もない。無意味なものには、蓋をしよう。今の俺には、関係ない。そのはずだ。
「そんな関係に、満足できなかったのは、俺の方だ。ただ相手を思いやるだけじゃ、物足りなかった。互いをいつでも喰らおうとするような、そんな関係で、いたかったんだ」
もしかしたら、そう思い込みたいだけなのかもしれない。彼女が浮気するだなんてことを、単に信じられなくて。俺に全ての原因があるような、そんな気がしているだけなのかもしれなかった。
「だから、か細く脆いその糸を、俺が千切った……いや、解いただけ。」
でも、それが思い込みでも、何でもいいんだ、別に。いつだって、こうしてきた。思いつく何十、何百の選択肢の中から、どんなときだって、これを選んできたんだ。これしか、選べなかったんだ。それなら。これをどう呼ぶかなんて関係ない。興味がない。
でも、どうしても名前をつけるなら。この行為に意味をつけるなら。俺が絶対に行わないことの、その逆が、きっと一番似合うはずだ。
「こんなくだらない恋を、終わらせるために」
あぁ、本当に、救えない。バカな男だ。
「……ッ!」
「なんてね。ただの戯言さ。ただそう思い込みたいだけの狂った妄言だから。適当に聞き流せよ」
さて、と。もう雑談は充分だろう。もうこいつも食べ終わりそうだ。
それなのに、美咲は急にスプーンから手を離す。カラン、と。小気味よい音が響いた。その音にハッとして、美咲の方へ顔を向ける。俺を見つめるその瞳は、今までで一番真剣で。それでいて、俺に誰かを重ねているようだった。
「……やっぱり、あの子とは違うね、お兄ぃは。違うようで、とっても似ていて、でもやっぱり、正反対だ」
「あの子?」
「私の親友の子のことだよ」
「……へぇ。正反対、か。興味あるなぁ。今度紹介してくれない?」
「親友をクソ兄に紹介するとか。罰ゲームでも拒否するわ」
「辛辣ぅ!」
正反対、ねぇ。今度は、そんな女の子もいいかもしれない。自分と似たような女の子は、今回失敗してしまったし。でも、そうか。その子との出会いが、我が純真たる妹を、ここまで歪ませたのか。
「じゃあ、そうか。お前が変わったのは、その子が原因か」
「……まぁ、一因ではあるかもね。あの子も大概頭おかしいし」
「頭が、おかしい?」
「うん。お兄ぃみたいにね」
「俺と同じくらいにか?」
「んー、まぁ、潜在的にはそうかも。案外、気は合うかもね」
「正反対なのに?」
「正反対だからだよ」
そう言って、美咲は残りの一口を口に運んだ。名残惜しそうな顔をしながら、それでもその甘さに頬を緩めている。
――そんな、美咲の恍惚とした表情に、彼女の姿が重なる。
知らない男と手を繋いでいる彼女。
俺といる時と同じくらい、いや、もしくはそれ以上に楽しそうな彼女。
男に唇を奪われて驚いている彼女。
それを受け入れて、頬を染める彼女。
キスが終わったあとに、惚けている彼女。
「彼女は、酔っているんだ」
気がつけば、そんな言葉を口走っていた。美咲が少し驚いた顔をしている。それもそのはずだ。誰がどう見ても、もうその話は終わったはずだったから。あぁ、もうめちゃくちゃだ。この会話も、俺の頭も、彼女との関係も。
「……彼女は、酔っているだけなんだよ。浮気という名の極上の美酒に」
それはきっと、甘い甘い蜜だろう。こんなパフェよりもずっと甘くて、それなのに後味は紅茶なんかよりも酷く苦い。そんな不思議な味に包まれて。ふとした瞬間にクラッとくる。一口飲めば、もうやめられない。あの感覚が、忘れられなくなってしまうんだ。
「そんな、不健全で背徳的な酔いでも。それでも彼女は笑うんだ。これは浮気なんかじゃない。私はこれを恋と呼ぶんだ。それの何が悪い、ってね」
でも。それは、酔っている内だからこそできるんだ。世の中が輝いて見えて、自分があたかも主人公だと思い込む。どんな人間だって所詮、登場人物の一人でしかないというのに。
「でも。そんな酔いから覚めたときに、彼女は同じように笑っていられるのかな。……はは、うん。願ってるよ」
彼女が幸せを掴もうとする、その瞬間に。
「乾いた酔いでも、恋と笑っていることを」
笑うことしか、できないことを。
「……」
美咲は黙り込んでしまった。あぁ、こんなことまで言うつもりなんてなかったのに。どうも、妹の前では口が滑りがちだ。……彼女の前でも、こんな風に話せていたなら、何か変わっていたのかな。……そんなことは考えるだけ無駄か。
「ん、ごめんな。変なこと言って。……もう、帰ろうか」
「……うん」
黙り込んでいるというよりも、何か考え込んでいるような美咲を連れて、店を出る。財布は軽くなったが、俺の心はあの時から変わっていない。しばらく変わることもないだろう。
「……それじゃあな。今日は本当に助かった。ありがと」
「……うん、ご馳走さま。じゃあね」
未だに難しい顔をしている美咲に背を向けて、歩き出す。帰りに、酒でも買おうか。うん、それがいい。こんな日には、安い酒を潰れるまで呑むに限る。
「お兄ぃ」
ふと、小さな声が耳に届いた。振り返れば、すぐそこには愛しい妹の姿が見えた。何か覚悟を決めた顔で、口を開く。
「……今度、お酒の呑み方、教えてよ」
……?
「……え?」
「……だ、だから!お酒!呑んだことないから、さっきの話、よくわかんなかったし……」
「……はは、あははは!」
「わ、笑わないでよ!」
あははは!なんか深刻な顔してると思ったら、そんなことだったのか!まるで昔の妹みたいだ。なるほどなるほど、人間、そう簡単には変わらないってことだな!それなら、俺の心の重さが変わらないのも、当たり前か!
「っはは、数年早えーよ、バーカ」
「なっ!う、うるさいっ!」
それだけ言って、美咲は背を向けて走っていってしまった。あぁ、なんだか久しぶりに笑えた気がするよ。笑うって、こんなに気持ちのいいことだったんだな。なるほど、人間、笑える時に笑うのは当たり前というものだ。それなら、彼女が笑うのも、きっと当たり前のことなんだろう。
あぁ、今ならなんだか、過去の自分とも、あの時の彼女とも、自然に笑い合える気がする。こんな気持ちに俺をするために、もしかしたら美咲はあんな事を言ったのかもしれないな。……考えすぎかな。
彼女を、本当は救いたかった。
俺が言えることではないのは、充分にわかっているつもりだ。だからせめて、祈らせてくれ。何の意味もない、元彼氏の遠吠えかもしれないけど。それでも、彼女には、幸せでいてほしい。こんな矛盾しためちゃくちゃな人間で、ごめん。でも、たった一つだけ、祈らせてくれよ。これが、これだけがきっと、彼女のためにできる、唯一のことだから。
どうか。どうか。
「彼女の酔いが、覚めませんように」