三編・宵影病棟
ここは宵影病棟。現代医学では解明できない、治癒できない「奇病」を患った患者が収容され、最期の時を待つ病棟。
今日もまた、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「エイルちゃん、三〇八号室、行ってくれる?」
「はい。行ってきますね」
彼女はエイル。本名はエイリーン・ミノン。この病棟の天使だ。天使と呼ばれるのには明確な理由がある。それはただ単に、十四歳の少女で、とても可愛らしいからではない。
「カイルさん、どうかなさいましたか?」
「ああ、エイル。少し頭痛がするんだ」
「わかりました。すぐに薬を手配しますね」
病室の入り口近くで深い眠りに落ち、倒れている数人の看護師の横を通り抜け、エイルは患者の手に触れた。すると、眠っていた看護師が目を覚ます。
「頭痛がするみたいなの。薬をお願いできる?」
「わかりました」
彼女が天使と呼ばれる所以。それは、患者の持つ「奇病」の影響を一切受けないのだ。それどころか、彼女が患者に触れている間、その患者の「奇病」の症状は一切なくなってしまう。
この患者は、「伝睡病」という「奇病」を患っていた。「伝睡病」を患った患者が寝ているときはなんともないが、患者が起きている間は、周囲にいる人間は眠りに落ちてしまうのだ。だからこうして、エイルがいないと患者の要望を聞くことは出来ない。
「薬、持ってきました」
「ありがとう。カイルさん、自分で飲めますか?」
「ああ、大丈夫だよ」
エイルが患者の手を触れているので、他の看護師もこうして動くことが出来る。患者が薬を飲んでいる間も、エイルは患者の手に触れていた。
「ありがとう。もう大丈夫だと思うよ」
「そうですか。皆さんももう大丈夫ですので、戻っていいですよ」
そう看護師に声をかけると、エイルは再び患者に向き直った。
「どうしたんだい? 俺はもう大丈夫だけど……」
「起きている間ずっと一人は寂しいでしょう? 眠れるまで隣にいてあげますよ」
「……優しいんだね、エイルは」
「天使って呼ばれちゃってますし」
そう言うとエイルはにっこりと笑った。
深夜二時、宵影病棟の屋上。エイルが夜風に当たりながら町を眺めていると、突然首筋に冷たい感触が伝わった。
「ひゃっ?!」
「そんなに驚かないでよー、私だよ」
「ああ、シールさん」
エイルが振り返ると、綺麗な女性が手にペットボトルを持って立っていた。彼女の名前はシール・ユノア。この宵影病棟の管理者の娘で、エイルと仲の良い看護師だ。
「今日もお疲れ様。よく頑張ってるね」
「いえ、私にしか出来ないことですから」
「そうかもしれないけどさぁ」
そう言いながらシールが差し出したペットボトルを、エイルは受け取った。エイルの大好きなオレンジジュースだ。
「もう少しエイルちゃんは休んでいいと思うよ? ずっと泊り込みだし、エイルちゃんにもプライベートとかあるでしょ?」
エイルはジュースを一口飲むと答えた。
「無くもないですけど、それでも私がしなきゃいけないことですから」
「うーん」
「さ、そろそろ戻りましょう。夜中に目を覚ます患者様もいらっしゃいますから」
「あ、うん、そうだね」
足早に中に戻っていったエイルの背を見つめながら、シールは呟いた。
「優しいんだか馬鹿なんだか。まだ十四歳なんだし、こんなところにずっといたいはずもないのにね……。本当、強い子」
深夜四時。カルテを整理していたエイルの元に、焦りの混じった声が届いた。
「エイルちゃん、五一三号室の患者さんが!」
「五一三号室……「星涙病」のルシエさんだね。わかった」
エイルはカルテを机の上に置くと、駆け出した。
エイルが病室に着くと、患者は上体を起こし、蹲っていた。
「ルシエさん、どうかしたの? 大丈夫?」
「エイルさん……」
顔を上げた患者の頬には、星のような光が灯っている。「星涙病」は、涙を流すとその涙が星のように光って消え、視力を奪っていくという「奇病」だ。頬に光が灯っているのは、泣いてしまったのだろう。
「ルシエさん、私のことが見える?」
「見え……はしてるけど……」
そう言うと患者の目元が潤んだ。これ以上はまずいと思ったエイルは、慌てて患者の手を握った。
「もう大丈夫だよ。私がいるからね」
「ありがとう……」
「何があったの?」
エイルは出来るだけ優しい口調で問いかけた。患者はエイルよりも年下の女の子だ。
「あのね、本当に私の目が見えなくなる夢を見て……いつか本当にそうなるんだって思うと怖くて……」
「そっかそっか、怖かったね。よしよし」
エイルは患者の頭を撫でた。そして手を握ったまま、患者と雑談をし始めた。きっと、また患者が眠れるまで傍らに居続けるつもりなのだろう。その様子を病室の外から見ていたシールは、少し悲しげな顔をした。
ある日の昼下がり、事務室に入ってきたエイルを見て、看護師達は驚いた。
「え、エイルさん、どうしたんですか?」
「休暇とったの?」
「ううん、違うんです。少し個人的な理由があって」
エイルはいつもとは違い、看護服ではなく私服を着ていた。
「へえ、似合ってるじゃん。いい感じだよ」
「そうですかね? ありがとうございます」
そう言い残すと、エイルは二階へ向かった。階段でシールと鉢合わせ、シールも例に漏れず驚いた表情をした。
「あれ、私服でどこいくの?」
「三〇五号室です」
「三〇五……そっか」
エイルの返答を聞いて、シールは納得するとともに寂しげな表情をした。
「公私混同……かもしれませんが、これが私にとって唯一のプライベートであり、仕事の一環です」
「そっか……」
明らかに肩を落としたシールに、エイルは笑いかけた。
「大丈夫ですよ。心配しなくても」
「そう……ね。行ってらっしゃい」
「はい」
シールはすれ違いざまにエイルの背中を軽くポンと押すと、事務室へ戻っていった。エイルはそのまま階段を上っていった。
三〇五号室。そのドアを開くと、窓の外を眺めていた少年がエイルのほうを振り向いた。
「来たよ、リオン。気分はどう?」
「ぼちぼちかな。私服、似合ってるよ」
「ありがと」
エイルはベッドの横に腰掛けると、リオンの手を取った。リオンはエイルの幼馴染で、「雪花病」を患っていた。「雪花病」は、患者の感情に大きな変化があると、患者の体の周囲に幸のように白い花が咲くという「奇病」だ。その花は、咲く瞬間と、咲いてから持続的に患者の生命力を奪っていってしまう。
エイルがリオンの手に触れたことで、咲いていた二輪の花が綺麗に散った。白い花びらが宙に舞う。
「久々だね、こうして幼馴染として話すのは」
「うん。本当に久々」
前日、三〇五号室を訪れたエイルにリオンは、「明日、二人で話がしたい」と言ってきた。エイルには、リオンが自分を呼んだ理由がわかっていた。リオンだけじゃない、一部の患者がこうしてエイルを呼び出すときは、大体決まっている。
それでも、リオンはエイルにとって特別だった。だからこそ、幼馴染として会いに来たのだ。患者と看護師としてではなく。
「エイルには色々迷惑かけたね」
「ほんとにその通りだよ。いつも私が後始末担当じゃん」
「あはは、反省はしてるよ」
「別にそこまで気にしてないけどね」
エイルの脚に花びらが乗った。これまでに比べて、大きな花びら。「雪花病」の花の大きさは、感情の大きさに比例する。
「なんでこんなに大きいのを咲かせたの?」
「そうだね……後悔、かな」
「……そっか」
彼女に多大な迷惑をかけたという後悔。もっと一緒にいたかったという後悔。本心を伝えればよかったという後悔。色々な後悔が募って、大きな花を咲かせた。
「全く、悟った後に後悔で時期を早めるなんてどれだけ馬鹿なの?」
「返す言葉もございませんね」
リオンは起こしていた上体を倒すと、エイルの方へ顔を傾けた。
「ねえエイル。僕は、患者の一人かい?」
「どうだろうね。少なくとも、〝普通の″患者の一人だったら、こんなことしないよ」
そう言うと、エイルはそっとリオンに口づけをした。
「ありがとう、エイル」
「こちらこそ、ありがとう。リオン」
リオンの目は閉じ、手はエイルの手の中から抜け落ちた。
「奇病」を患った患者が、普通の人としての最期を迎えられるように、その瞬間に傍にいて、触れていてやること。それが、エイルの仕事の一つだった。
これまでにも何人かを送り出してきた。さすがに今回も同じだとは思っていなかったが、それでも、予想をはるかに上回る悲しみと喪失感が、エイルを包んだ。
「……」
エイルは立ち上がり、いつの間にか頬に流れていた涙を拭うと、リオンに向かって微笑みかけた。
「おやすみなさい、リオン」
ここは宵影病棟。現代医学では解明できない、治癒できない「奇病」を患った患者が収容され、〝普通の人としての″最期の時を待つ病棟。
今日もまた、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「エイルちゃん、一一四号室、行ってくれる?」
「一一四……「失情病」のアランさんですね。行ってきます」
今日も、天使は病棟を駆け回る。