一編・終わりの国のありす
九月の昼下がり。御鏡ありすは、家の近くの川のほとりを散歩していた。ふと立ち止まり、ポケットの中から懐中時計を取出し、眺める。
「アリス、元気にしてるかなぁ」
この懐中時計は、小学生の頃に旅行先で出会った少女、アリスから貰ったものだった。決して高価なものではないだろうが、とても綺麗で、ありすの宝物だった。
懐中時計を手に持ったまま歩き出したその時、ありすは石に躓いて転んでしまった。その拍子に手から離れた懐中時計が、コロコロと転がって、川の中に落ちて行った。
「あっ、待って!」
ありすは咄嗟に飛び込み、何とか懐中時計を掴んだ。しかし、その体は浮くことなく、ゆっくりと、川底へ沈んでいく。
「!?」
そしてそのまま、ありすは意識を手放した。
目を覚ますと、見たことのない景色が広がっていた。地はひび割れ、建物は倒壊した、この世の終わりのような場所だった。
「ここは……」
「まさか客人がくるなんてね……って、アリス!?」
声がしたほうを向くと、頭から猫耳を生やした、男とも女ともわからないような人が立っていた。
「ああ、やっぱり人違いか。ごめんね、知人によく似てたから」
「あの、わたしもありすって言うんです」
「本当かい!? こりゃあすごい偶然だよ」
「あなたは?」
「ボクはチェシャ猫。チェシャって呼んでくれていいよ」
「チェシャ猫……」
ありすは、その名前に聞き覚えがあった。
「ここは不思議の国。とはいっても、もうボク以外誰もいないけどね」
「ここが、不思議の国……?」
不思議の国とチェシャ猫。この二つの言葉が示しだすのは、『不思議の国のアリス』だ。名前が同じということもあり、ありすのお気に入りの童話でもあった。
しかし、この世界は、ありすの知る不思議の国とは似ても似つかない。
「滅んだのさ、少し前にね」
「滅んだ……?」
「そう。アリスが来なくなった途端、ここは滅び始めた。なんとはボクは生き延びて一人で生きているけど、これほどつまんないことはないね」
「アリスが来なくなった?」
「そうさ。アリスはここを出た後も、夢を伝って何度もここに来てた」
ありすは驚いた。『不思議の国のアリス』では、アリスは不思議の国から出た後、もう一度戻ったなどという展開は存在しない。ここは、ありすの知っている不思議の国とは少し違うのかもしれないと思った。
それでも、ありすは何故か放っておけなかった。
「……探そう」
「探すって何を?」
「不思議の国がこんなことになってしまった原因を探すの。きっとどこかに手がかりがあるはずだよ」
「そんなこと言ったって、途方もない時間がかかるし、何も見つけられないかもしれないよ?」
「いいの、それでも。何となく、そうしなきゃいけない気がするから」
昔出会って、懐中時計をくれたアリス。不思議の国からいなくなった主人公のアリス。そして何故か不思議の国にたどり着いてしまったありす。ありすには、この三人が全くの無関係ではないように思えた。
「まったく、アリスもありすもむちゃくちゃだねえ。まあいいや、ボクも手伝うよ」
「本当!? ありがとうチェシャ!」
チェシャは、やれやれという風に首を振った。
二人はあてもなく崩れ去った不思議の国を歩き回った。帽子屋たちの家やハートの女王の城まで、色々なところを回ったが、チェシャの言うとおり何もめぼしいものは見つからなかった。
「うーん……」
「だから言ったろう? 何も見つからないかもしれないって」
「でもどこか……どこかに何かあるはず……」
「はあ、懲りないねえ」
地面に積もった瓦礫の山を掘り返すありすを見ながら、チェシャはため息をついた。
(にしても、本当に似てるなぁ……)
チェシャにはその後姿がアリスに重なって見えた。
「あ、これなんだろう」
「何か見つかったかい?」
「うん。これ、剣かな……?」
「剣だって?」
ありすが引っ張り出したそれは、紛れも無く剣だった。その形を見て、チェシャは目を見開いた。
「それ、ヴォーパルの剣じゃないか! なんでこんなところに」
「ヴォーパルの剣って、あの?」
ヴォーパルの剣といえば、『鏡の国のアリス』にて、ジャバヲックの詩の中で、ジャバヲックを倒したとされる剣の名前だ。アリスを題材にしたいくつかの物語では、アリスとジャバヲックが出会うものがあるが、ジャバヲックもヴォーパルの剣も『鏡の国のアリス』本編には実物として存在しないことをありすは知っていた。
「まあでも、それが見つかったことでどうにもならないけどね」
「うーん、まあそうだけど……」
ありすは不思議に思いながら、ヴォーパルの剣をその場に置いた。
「さあ、次は向こうの方へ行ってみようか」
ふと思いついたありすは、チェシャに問いかけた。
「そういえば、チェシャの家だけ唯一残ってるんだよね?」
「うん、そうだけど」
「中には何か無いの? 唯一残ってるなら何か秘密があるんじゃ……」
チェシャは何かに驚いた様なそぶりを一瞬見せたが、すぐにこう返した。
「何も無いよ? ただボクの生活用具があるだけさ」
その返答に不信感を覚えたありすは、こう返す。
「本当に?」
「本当さ」
「ねえチェシャ、何か隠してるでしょ」
「なんでそう思うんだい?」
「何も見つからないことに確信を持っているように見える。だからさっきヴォーパルの剣が見つかったときにあんなに驚いてたんだよね」
「なんのデタラメさ。そんなことないよ」
「チェシャがさっきから行き先決めてるけど、わざと自分の家から離れたところに行かせようとしてるよね?」
「そんなこと」
「ないとは言わせない。最初から不思議に思ってたの。なんであなたとあなたの家だけ残っているのか」
そう言うとありすは、チェシャの首もとに何かを突きつけた。
「ヴォーパルの剣……?」
「何か隠しているのなら教えて。私には聞く義務がある」
「何故?」
「わからない。けど、聞かなきゃならない気がするの」
チェシャはありすの瞳をじっと見つめた後、諦めたようにうなだれた。
「わかったよ。でも、聞いて後悔しないかい?」
「しない」
「そうかい。じゃあついておいで」
ゆっくりと歩き出したチェシャの後ろを、ありすは剣を引き摺りながら歩いた。
自分の家の前までたどり着くと、チェシャは後ろを振り返った。
「開けるけど、覚悟はいいかい?」
「覚悟?」
「君はきっと、この中の光景に絶望するだろうけど、それでもいいかい?」
「今更何が出てきたって大丈夫」
「そうかい。じゃあ、開けるよ」
チェシャは、ゆっくりとドアを開いた。そこにあった光景に、ありすは目を疑った。
「え……どういうこと?」
「これが君の探していた、不思議の国の真実さ」
チェシャは後ろ手にドアを閉めながら言った。二人の視線の先には、家の雰囲気にそぐわない大きな機械と、その中に繋がれた一人の少女があった。
「そんな、アリス……どうして……」
機械の中でコードに繫がれ、謎の液体の中をふわふわと漂う少女は、ありすが幼少期に出会い、懐中時計をくれた、あのアリスだった。
ありすは機械に駆け寄ると、その硝子を叩いた。
「無駄だよ。それはその程度じゃ壊れはしない」
「何が、どうなってるの」
チェシャは遠い目をしながら、淡々と言った。
「ボクたちはアリスと楽しい日々を過ごしていた。だけどある日、突然、アリスが死んでしまったのさ。理由は単純。暗い夜中に川の中へ脚を滑らせたのさ。真っ暗だったから、誰も気づけなかった。代用ウミガメが見つけたときにはもう、手遅れだったよ」
「そんな……」
「ここ、不思議の国は、アリスの想像があってこそ成り立っていた。アリスが死んでしまって、ここは崩れ始めた。ボクは何とかしようと、その機械を造り上げ、アリスを無理矢理生き返らせた。生き返ったといっても、しゃべったり歩き回ったりするわけじゃない。いわゆる植物人間状態ってやつさ。だからボクはこうして、その機械の中で無理矢理アリスを生かし、この世界の夢を見続けさせることでこの世界を維持するしかなかったのさ」
「そういう……ことだったんだ……」
「今のアリスに新しい物語を想像することはできない。だからこの世界は崩れたままで、生き残っているのもボクだけ」
チェシャはありすに歩み寄って、さらに続けた。
「だけど、アリスの役目も終わろうとしている。不思議の国は、「新しいアリス」を見つけたのさ。この世界は、その新しいアリスを主人公として迎え入れることで、新しい物語を始めようとしている」
「それが、私だったんだね」
チェシャはにっこりと笑って頷いた。ありすはさびしげな表情で、一枚の硝子の向こう側に儚げに漂う少女を見つめた。
「この世界の運命は君にゆだねられた。この世界を手放して滅ぼすも、自分のものにするも君の自由だ。ボクとしては、何も知らずに選んで欲しかったけどね」
ありすは少し俯いて考えた後、小さく呟いた。
「私は……」
「どうする?」
そして次の瞬間、手に握っていたヴォーパルの剣を振り上げ、一気に機械めがけて振り下ろした。鋭い刃が機械を切り裂き、中からアリスが零れ落ちる。
「!?」
「不思議の国は、もうおしまい」
ありすはアリスを抱えあげると、ぎゅっと抱きしめた。
「だって、私が「アリス」になれば、ここはアリスの夢見た不思議の国とは別のものになってしまう。そんなの、私にとってもアリスにとっても、不思議の国じゃないから」
「それが君の選択なんだね」
「うん」
ありすは冷たい少女にそっと口付けをして、呟いた。
「ああ、アリス。私達はきっと、出会うべきじゃなかった」
チェシャは何も言わず、ただ二人を見つめていたが、ついに口を開いた。
「さあ、もう行くといい。君まで巻き込まれちゃ、おしまいだ」
「どうやって?」
「ボクの家のドアを外の世界と繋いでおいたよ。そこから出られる」
チェシャは玄関のドアを指差して言った。
「そっか、ありがとう。チェシャ」
「どういたしまして。なんとなく、こうなる気はしてたけどね」
「あ、そうだ。チェシャ、これあげる」
ありすは思い出したように、ポケットから懐中時計を取り出してチェシャに渡した。
「これは……」
「アリスからもらった、私の大切な宝物。あなたにあげる」
「でも、どうして」
「なんとなく、そうした方がいい気がするから」
アリスはドアの方へ歩いていき、ドアノブに手をかけて、振り返った。
「さよなら、チェシャ」
「うん、さよなら」
そしてありすは、ドアを開けて抜けていった。
崩れていく世界に一人残ったチェシャは、手の中にある懐中時計を見つめた。
「これは確か、アリスが縁を伝ってここに来られるようにと、時計ウサギがアリスに渡した懐中時計……」
実際、アリスは最初の方は、これの縁によってここへ来ることができていた。
その時、チェシャの頭の中に、一つの仮説が立った。
「まさか、全部わかっていたのかい?」
アリスの亡骸を見て、チェシャは言葉を零した。
もしもアリスが、自分がこうなることも、ありすが代役に選ばれることもわかっていて、ありすがここに来てこの世界を終わらせられるようにこの懐中時計を渡していたのだとしたら。主人公としての自分の終わりをわかっていたとしたら。
「なんて、冗談だよね?」
少女の亡骸は、何も語らない。
チェシャは、自分の仮説を一蹴して、呟いた。
「全く。ナンセンスだよ」