新種?
夜中の研究所は暗くて、静かだ。
職員の殆どは、5時半のベルと共に帰宅する。
残されたものは、研究職のものだけだ。
建物は古く、明治の後期に建てられたものだ。
最近では、明治に建てられたものが、文化遺産に登録されるケースがよくあるが、
どうもこの建物は文化的な価値がないと判断されているのか、どうもそういった話は聞かない。
そもそも、この研究所は、生物研究所で経営陣は400人ほどの研究員からの互選で決められる。職員は1000人ほどだが、たいして利益を生む組織ではない。
国からの補助で成り立っており、それもいつ補助が打ち切られるか、経営側に選ばれた研究員は戦々恐々としている。
そのため、出来るだけ目立たずに、地味に研究を続けるというのが、この研究所のもっとーであった。
古い建物であるが、敷地は広く様々な動物が飼われている。
窓を開くと、動物の匂いが漂ってくる。
効きの悪いクーラーより外気を取り入れようと部屋中にその匂いが充満する。
食事時はかなり悲惨な状況になる。
この研究所には、古い建物にありがちの噂が絶えない。
幽霊が出ただの、人がいないのに声が聞こえただの、夜中に廊下を走る音がするだのという噂だ。
特に、人がいないのに声が聞こえたというのは、海洋微生物科からのようだ。
この研究所で、夜中まで研究をする研究員は少ない。
灯りはまばらで、論文提出間際の駆け込み研究をするものと超オタク的な研究員が残っているのみだ。
その中でも、生活の基盤にしている研究員もいるようで、生活品を持ち込むケースもよくあるようだ。
織下は、この研究所に入所して10年になる。
まあ、オタク的な研究員の一人でもある。
海洋微生物科の研究員は10名ほどだが、未知の生物に特化して研究しているのは織下だけだ。
研究室には、水槽が数多く置かれ、サーモスタットと海水の循環装置が取り付けられていた。
新種のプランクトンが織下の元に搬送されてくるのは、よくあることだ。
基本、その生態調査を大学や企業に情報を提供するのが主な仕事である。
そのプランクトンが運び込まれてきたのは、一週間程前のことだ。
大きさは、1ミリほどの個体が3体。
一番小さな水槽に入れて、机の上に置く。
水槽を漂うその生き物は、プランクトンでありながら、ネクトンのような動きをしていた。
形状は、丸いコロニーの左右に羽のような襞があり、それを上に下に波打たせながら、水槽を動き回る。
波打たすのは常に一定方向だけのようだ。
襞の上に目のような黒い点があり、その脇に髭のような2ミリ程の触手が出ていた。
その触手の利用方法は、わからなかった。
単に、浮遊の邪魔になっているとしか思えなかった。
確かに、これまでプランクトンを見てきたが、生まれて初めてみる個体だ。
発見場所は、海が陸に取り残された海水湖だった。
プランクトン採取は、製薬会社の社員が見つけて、持ち込まれたものだ。
製薬会社の社員は、顕微鏡で見ているうちに、多くのプランクトンの中で、一風変わったものを見つけ出した。
翌日、更に見つけようと同じ場所でプランクトンを採取したが、再び見つけることが出来なかった。
織下は、机の水槽を眺めた。
不思議な生き物だ。
餌はどうやら珪藻のようだ。
珪藻をスポイトに入れ、水槽に垂らすと、面白いように寄って来ては、小さな体の中に取り込んでいく。透明な体の中で珪藻が消化されていくのが見える。
まるで、魚のようだ。
小さい水槽とはいえ、この3個体には海のように広い世界だ。
循環する水に流されないように、一生懸命泳ぐ姿は、蟹や海老の幼生を思い起こす。
もしかして、この姿が幼生だとしたときに、成体を想像することは出来なかった。
まあ、強いていうなら、クリオネの小っちゃい版のような感じだ。
記録紙に時間毎の活動状況を記録していく。
それにしても夜の研究所は本当に薄気味悪い。
幽霊の存在は実は信じていなかったのだが、信じざる得ない事があった。
学生時代にアルバイトで、大学病院の検査室に居た時である。
剖検室にご遺体が搬入された。
丁度、剖検室は当直室の下の階にあった。
検体を取りに病棟に夜中行くときに、階段を降りようとしていた時に、天井付近に人の気配を感じた。
思わず、「なんだそれ」と大声を出してしまった。
その瞬間に人の気配は消えたが、ものすごい不気味な感覚を覚えた。
その話は、誰にも言えなかったが、検査室の技師が翌日同じような話をしてきた。
自分も同じ感覚を持ったことを話たが、どうやら見た場所は、同じ場所であった。
幽霊は、たぶんそんな感覚で存在しているのではと思うようになった。
時折、この静かな夜にあの感覚がよみがえってくることを恐れていた。
今この生物には名前はない。
そのためには情報の記録と論文化しなければならない。
これまで見たプランクトンとは、全く違う種類のようだ。
そうして水槽とにらめっこしていると、その3個の個体は、それぞれ近寄りはじめ、目らしき横に突き出た触手同士でくっつき始め、まるで一つの個体のようになった。
動きは、協調し水槽の中を力強く泳ぎ始めた。
よく見ると、それまで3個体だったものが、一つ増え4個体となっていた。
じっと見ていたのだが、いつ一つ増えたのかわからなかった。
触角の連結によって、そのプランクトンは、まるで一つの生物のようなに思われた。
一度、つながった個体は、離れないようだ。
今日はこれまでと思い、水槽に「おやすみ」といい、帰宅した。
それからビデオ撮影や、様々な刺激を与えたが、わかったことは、一日一個体が増えて連結していくようだ。ようは個体一つで一つ増えるので、日ごとに倍になっていく。
寿命は、どうやら1か月程である。
死んだ個体は、水槽の下に落ちて動かなくなる。
少し、増え始めたので、水槽を大きなものへと変える。
一度、連結がほどけると、再び連携するまで子は生まれないようだ。
これまでの10倍ほどの水槽だ。
連携は、移してから3日ほどで始まるようだ。
その間に、古い世代は、死んでいき半分ほどになってしまったが、連結が完了すると又増え始めていく。
大きくなるほど、躍動感が出てくる。
およそその団子状の連携した生命体が、5センチに達したころ、植物性も動物性も餌として食べ始める。
研究のしがいのある面白い生命体だ。
いつもの、帰る時間だ。
「おやすみ」と声をかけ、灯りを消すと、ドアノブを回した。
暗闇の中で、「おやすみ」という声をきいた。
織下は、驚いて振り返り水槽を見た。水槽が一瞬灯りの光のように明るくなった。