#4 翁と童子
「な……、葛葉、それはまことか!」
「……はい」
呼ばれざる来訪者が加茂家の門を叩いてから半月後、陰陽寮に出仕していた保名の帰りを待った葛葉が、思い切った様に口を開いた。
葛葉の体内には新しい生命が宿っていた。
保名は着替えもせずにそのまま中庭に躍り出て、寝殿造りの池にかかる赤い太鼓橋の上で三日月に向かって叫ぶ。
保名の叫び声に驚いて部屋から出てくる保憲と国成。彼らが見たものは中庭で月に向かって叫ぶ保名と、頬を赤らめて恥ずかしそうに横に立つ葛葉の姿であった。
「あなた、恥ずかしゅうございます」
「何を言う葛葉、これ程の吉事を喜ばずしてなんとする! あっ義父殿!」
「婿殿どうした、この様な夜半に」
満面の笑顔で葛葉の懐妊を告げる保名。驚きとともに葛葉を祝う保憲。国成などは保名とともに三日月に向かって叫びだす始末であった。
加茂家は貴族とはいえ、基本的に粗食で、普段は麦や粟などの雑穀と干し魚等を食していた。しかし今夜に限っては保憲秘蔵の清酒”南都諸白”が振舞われ、ささやかではあったが祝いの席がもうけられた。
◇ ◇ ◇
夜半過ぎ。
ささやかな祝いの席も散会し、保憲は自室に戻っていった。飲み足りない国成は自前のどぶろく片手に、しきりに保名を誘ったが、保名は明日も早朝から陰陽寮に出仕する用事の準備が有り、笑顔で謝辞されていた。葛葉は身重の体を休めるため、散会した後は一人寝室で休んでいた。
「ふうむ……、お主、死相が出ておるな」
寝室で休む葛葉の横にいつの間にか白い豊かなあごひげを蓄えた翁が、あぐらをかいて座っていた。
翁は赤の頭巾に行者服を纏い、手には錫杖と呼ばれる杖を持っていた。翁に殺気などの悪意は感じないが、陰陽師が二人も住むこの屋敷に気配も悟られずに忍び込んだこの翁が、常ならぬ者である事は明白であった。
「どうやら事象の因果に捉われておるおるようじゃな。お主、もしや……」
「翁殿、お赦し下さい。私はどうなっても構いません、お腹の中のこの子だけは!」
全てを見透かすかの様な翁の眼に、葛葉はその場にひれ伏した。
「後童子や、この者の選択肢を消せるかのう」
困った様に翁がそう言うと、翁の影から”後童子”と呼ばれた年の頃十二、三の、一人の童女が姿を現した。淡い透き通る様な朱色の水干を纏い、浅黒い肌に少し赤みがかったおかっぱの髪型が特徴的であった。
葛葉に歩み寄り瞳を覗きこむ後童子の虹彩が黄色がかる。そして頭を一つ振り、翁に耳打ちした。
「この者が棲む”根”は太く、選択肢を消せば必ず”理”の察知するところとなりましょう。ただ消す事は叶いませぬが、少しだけ先延ばしにする事は出来ようかと。危うき事ではありますが」
童女とは思えぬ言葉使いが印象的であったが、そもそも雰囲気が異形で有り、見た目通りの歳ではない事も十分に考えられた。
”根”とは事象の因果の集合体の事である。観察しうる全ての出来事の原因と結果が”事象の因果”と呼ばれるものである。
例えば、人が石を持ち大地に立つとする。その手を開けば石は重力という”理”によって大地に落下するという因果が生じる。因果とは原因と結果の事であり、この場合でいえば、”手を離した事”が原因で”石が地面に落下する”という結果を生じせしめた事である。そして事象とはそれら一連の事柄を指す。
つまり翁が葛葉に視た”事象の因果に捉われている”というのは、葛葉しか知らぬ原因によって死相という結果が生じている事を指していた。
因果の主体となりうるものは自ら選択肢を選ぶものである。
それは人に限らず、その選択結果が他に影響を与えるものは全て因果の主体になりえた。特に影響力が強く大きい事象の因果には、必然的にそれに付き従う様に小さな事象の因果が集まる。そうして大小が集まった事象の因果が”根”を形成して大きなうねりを造り、それが他の”根”にも影響を及ぼし、更なる潮流を生み出す。そして”理”が”根”の主流たる大きな事象の因果を整合させて、時の流れを作り上げていくのである。それは過去に向かって”歴史”とよばれ、未来に向かって”選択肢”とよばれるものであった。
時とは大河の流れ様なものかもしれない。大河は”理”に従い、高きから低きに流れる。人がその流れに逆らうというのは、魚が川面を跳ねる様なものである。ほんの一瞬であっても、生まれた波紋は確かに流れに逆らう。しかしそれは大河の流れを逆流させる事は無い。
翁は時の大河で波紋を起こす人々の水先案内人であった。そして”理”が整合させる大きな流れの中で抗う者達を、ある理由で導いてきた。
「むむむ……、前童子や、お主はどう視る?」
「親父何言ってんだ? こいつに選択肢なんてありゃしねぇ。いや、こいつ自身が選択する訳ねぇよ。親父のお人好しもいい加減、度が過ぎるってもんだ」
再び翁の影から”前童子”と呼ばれた童子が姿を現し、手を頭の後ろで組みながら、ませた口調で翁に言い放った。前童子も後童子と同様に、浅黒い肌に淡い蒼色の水干を纏っていた。
翁は二人の言に困った様に、豊かなあごひげをしごき葛葉を見つめる。
「困ったのう、だがお腹の子が生まれるまではなんとかするとしよう」
「おい、親父! 人の話聞いてんのか? そいつには……痛て!」
翁に歯向かおうとする前童子の足を、後童子が強かに踏みつける。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
ひれ伏したまま何度も翁に礼を繰り返す葛葉。前童子は何やら言いたげであったが、ひれ伏す葛葉を見て「勝手にしろ」と小さく呟いて翁の影に消えていった。それが合図の様に、翁が手にもった錫杖を一つ鳴らすと、翁と後童子も蜃気楼の様に霞み、やがて完全に消え去った。