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#3 来訪者

 卯月(四月) 中午の日 


 保憲より皆伝を許されて二ヶ月後、保名は葛葉と祝言をあげた。


 葛葉は容姿だけではなく、実に夫の保名に尽くした。かつては病弱で三日に一度は寝込む程であったが、保名と出会ってからは寝込む事も無くなった。

葛葉は、当時隆盛を誇った藤原家の様な高貴さはないが、それでも貴族の娘とは思えない程の家事上手さで、自ら動く事を厭わなかった。都でも評判の美人が祝言は、当時の独身の男達を悲嘆させるに十分であったが、保名ほどの才知を持つ自信を持つ者も又、居なかったであろう。

陰陽五行の奥義を習得すべく修練に励む保名、それを支える葛葉。二人は幸せであった。


ある訪問者が訪れるまでは。


 水無月(六月) 上酉の日  


ドンドン、ドンドン!


 加茂家の門を叩く音がする。未明より降る霧雨も上がり、寝殿造りにある中庭の池で、雨恋しさに鳴く蛙が驚いた様に池に飛び込む。

加茂家は、前日より保憲が体調を崩して寝込んでおり、保憲の名代として保名と葛葉が加茂家と懇意にしている貴族の卜占ぼくせんの為、早朝から出かけ留守にしていた。


 訪問者はたちばな 元方もとかたという貴族とその従者達であった。

橘家といえば、かつては皇室とも深い繋がりが有り、現在は藤原家の隆盛により影は薄れているものの、公卿に名を連ねる、押しも押されもせぬ大貴族であった。

家人の国成くになりが慌てふためいた様子で、保憲に橘家の従者の来訪を告げる。


「はて?」と国成とは対象的に、おっとりと何やら思案する保憲。


「これはこれは中納言殿。遠路のお運び、まこと恐縮にござりまする。本日は如何様な御用でござりまするか?」


 初代・神武天皇より欠史八代を経て、時は第六十代・醍醐天皇の治世。

元号は”延喜”と呼ばれ、摂政・関白を置かず、醍醐天皇の手による親政が広く布かれていた。

醍醐天皇はかつて右大臣・菅原 道真と供に律令制への回帰を強く志向した、五十九代・宇多天皇の”寛平の治(かんぴょうのち”を引継ぎ、左大臣・藤原 時平らによる荘園整理令など改革を推し進めた。 

また文化面では、きの 貫之つらゆきらの古今和歌集の勅撰など、和歌の振興にも努め、その治世は後に言う”延喜の治えんきのち”と謳われる事になる。

しかし醍醐天皇を補佐した左右の大臣も今はなく、時代は藤原 時平の弟である藤原ふじわらの 忠平ただひらが右大臣として政治の実権を握っていた。


 元方はかつて権勢を欲しい侭にしていた橘家が、現在は藤原家におされ一公卿として扱われる事に安んじてはいなかった。彼もまた若くして公卿に名を連ねる程、その才知は非凡なものを有しており、野望もあった。

しかし藤原家の影響は強く、いかに才知に優れた元方といえど容易にその立場を覆す事はかなわなかった。故に醍醐天皇の皇子である成明親王に、京でも評判の美人と噂される葛葉を献上する事で成明親王の関心をかおうとしていたのだった。これは己の才知による昇進という正攻法を諦めた元方の知的衰弱を端的に示したものかもしれない。


「迷惑ですな」


 これ以上ないくらいに、はっきりと保憲は拒絶の言を放った。

”ぽかん”と口を開けた元方は何が起きたか理解出来ていない様であった。無論言葉の意味が理解出来なかったのでは無く、”自分の提案が拒絶された”という状況が理解できなかった様である。

葛葉は保名の妻であり、それを例え皇族にとは言え”差し出せ”という元方の方がお門違いなのだが、彼は骨の髄まで貴族ゆえに自分より格下の者が、まさか自分に拒否の言をむけるなど想像だにしていかなかったのである。


「これは失礼、加茂殿の言葉を聞き違えた様にある」

「左様にござりまするか」


 保憲は元方に柔らかく微笑む。それはまるで春の陽だまりの様な、屈託の無い微笑みであった。その笑顔を見た元方も表情を崩し、保憲に微笑みかけながら葛葉を成明親王へ献上する様に再度伝えた。


「お断り致しまする」


 言葉使いと物腰は至極丁寧であるが、表情一つ崩さず保憲も繰り返しはっきりと断った。この返答には元方よりも、むしろ家人の国成と元方の従者の表情がひきつった。


 この時代、個人の自由や思想など羽毛ごときの重さももたない。自分より格上の者に、まして貴族に歯向かうなど想像もできない時代である。権威を否定する事は自らの滅亡を意味した。

二度に渡り完全に拒否された元方は、しかし笑顔を崩さなかった。彼もまた権謀術数が跋扈ばっこする政治の中枢を知る者として、自らを律する方法はわきまえていた。


 「無礼な!」元方の従者が保憲の非礼を正そうと、刀の柄に手をかけ一歩前に進みでるが、元方が右手に持つしゃくでそれを制する。相手は名を知られた陰陽術の使い手であり、ここで下手に騒ぎを起こせば、元方の名前にも傷がつく事は明白であった。


「加茂殿、お時間を取らせましたな。お体を労わりなされ」


 微笑みをたたえてそう告げると、元方は表の通りに待たせてあった牛車で帰っていった。保憲は元方の微笑の奥に秘められた、氷つく様な眼光の閃きを見逃してはいなかった。


「国成、今あった事は他言無用ぞ。よいな?」


 静かに国成に告げると保憲は自室に戻って行った。それを見送る国成が頭を深く下げた時、中庭の池に小さな波紋が立ち始めた。中天に昇ったはずの太陽は曇天の雲に遮られ、降り止んだはずの霧雨が再び降り始めた様である。それは未だ帰らぬ保名と葛葉夫婦の前途を象徴している様でもあった。



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