#10 崩御
京の都
「ほんに雨が降らんね〜」
「道真公が怒っとられるがね」
「しっ! 滅多な事をお言いじゃないよ、どこで役人達が聞いてるか、わかりゃしないんだから」
今日も変わらず朝から照りつける強烈な日差しに辟易した様に、都の人々の噂も自然と恨みがましいものになる。この年、京周辺は近年稀にみる干害に見舞われ、天文師達による雨乞いの儀式が行われるも、目立った効果は無いように見えた。そんな人々の気持ちを知ってか知らずか、昼過ぎから京の町を見下ろす愛宕山の上空を覆い尽くす様に雨雲が現れ、ポツリポツリと小雨が降り出した。人々が喜んだのも束の間、小雨は瞬く間に風雨になり、やがて雷雨に変わった。昼過ぎであるというのに辺りは暗闇に覆われ、時折轟く雷の音は時を経るに連れて激しくなる一方であった。
ドーン!
耳をつんざく様な轟音と共に稲妻が醍醐天皇の居殿である清涼殿に落雷したのは、雨が降り始めて半刻も経たぬ頃であった。雷は平安京の清涼殿の南西にある第一柱に落ち、付近に居た大納言民部卿・藤原 清貫が即死する。更に清涼殿の隣にある紫宸殿にも落雷し、右兵衛佐・美努 忠包らも落雷に巻き込まれて死亡した。
よりにもよって醍醐天皇御殿の清涼殿に落雷したとあって、公卿達の混乱と狼狽も極まった。
それでも醍醐天皇は右近衛大将・藤原 定方ら数名の近衛達に守られながら、落雷の延焼が広がる清涼殿から、後宮の常寧殿になんとか避難した。
危ういところで命拾いをした醍醐天皇はこの惨状に心を痛めて体調を崩し、しばしば寝込む様になった。
最初の落雷で命を落とした大納言民部卿の藤原 清貫は、かつて藤原 時平に、道真の動向監視を命じられた人物である。後日、清涼殿の一連の騒ぎは、道真公の怒りであると巷ではまことしやかに噂される様になる。
長月九月
三ヶ月前の落雷の爪痕を残す清涼殿が、にわかに騒がしくなる。あの落雷以降、しばしば寝込む様になった醍醐天皇の病もいよいよ篤きにより、今際の時を迎えようとしていた。
第十一皇子・寛明親王が御前に呼ばれ、醍醐天皇より攘夷の詔書を授けられる。大任を終えた醍醐天皇は、肩の荷を降ろしたかの様に一時意識を失う。典医の必死の看病により一両日で再び目を覚ました醍醐天皇は、悲嘆に暮れる近習を見まわして静かに宣下する。
「皆の者、皇子を頼む……、朕は幸せであった。……ゴホッゴホッ」
寛明親王が父親の側で額ずき、嗚咽をあげる。醍醐天皇は微かに微笑み、弱々しく皇子の頭を撫でる。
「右府よ……、朕を許せ……」
それが醍醐天皇最後のお言葉であった。
右府とは右大臣・菅原 道真の事であり、”聖代の瑕”と呼ばれた、道真の太宰員外師の左遷を回顧していたのかもしれない。醍醐天皇は道真の死後、自らの詔を悔いて、右大臣に復した上で正二位を贈り、せめてもの御霊の慰めとしていた。
醍醐天皇と右大臣・菅原 道真、左大臣・藤原 時平。
後世に”延喜帝”と呼ばれた名君と、律令制が弛緩したこの時代に現れた卓越した政治手腕を持つ左右の大臣。この三者がうまくかみ合えば理想的な親政が布かれたであろう。
しかし事象の因果は、その選択肢を選ぶ事は無かった。歴史に残る痛恨の選択は、道真の太宰員外師の左遷を”昌泰の変”として、その名を残すのみとなる。
それでも時の大河が、流れを止める事は無い。人々が大河の行き先を知る事も無い。それは保憲ですら同様であった。たとえそれが奈落に落ちる流れだとしても。
歴史を俯瞰し、事象の因果を操る”理”の存在に気付き、時の大河の行き先を危惧し得たのは唯一、役行者と呼ばれた小角だけであった。
◇ ◇ ◇
晩秋の京の都には藤袴と柊が咲き、大極殿には金木犀の微かな残り香が漂う。しかし左近の桜と右近の橘に花は無く、いささか寂しげでもある事も否めなかった。
若き帝が大極殿の高御座に座し、朝臣一同が一斉に拝を行う。
この日、第六十代・醍醐天皇が崩御してから二ヶ月後。寛明親王が第六十一代・天皇として即位する。
後に朱雀天皇と呼ばれる、齢八歳という幼さ残る若き帝であった。