黒字なのに危ない?――詰まってるのは数字と道
机の上に並ぶ、分厚い帳簿の束。
インクの匂い。
ぎっしりと書き込まれた数字。
「これがここ十年の記録だ」
兄ライナルトは落ち着いた声で言った。
「領地は回ってる。
軍備も維持できる。
俺は健全だと思っている」
それは、疑っていない声音だった。
財務担当家臣グレンが胸を張る。
「王国でも有数の良好財政、と評されております」
――数字だけ見れば。
俺は帳簿を捲り、静かに口を開いた。
「“収入と支出”を見るなら、確かに悪くないです」
二人が頷く。
「ただ――兄さん」
俺は、別のページをトントン叩いた。
「“お金がちゃんと巡ってるか”、見ています?」
兄が眉を寄せる。
「巡る……?」
「はい。
入って、使って、回って、また戻ってくる。
本当は、そうならないといけない」
「でも今の領は――」
俺は紙を捲りながら指で示す。
「荷馬車の修理費、増え続けてます。
事故補償も増えてる。
それなのに倉庫費用も膨らんでる」
グレンが慌てる。
「そ、それは必要経費で――」
「“必要だから払ってる”のは分かってます」
俺は静かに遮った。
「でも、“必要になってる理由”は、見てますか?」
兄はまだピンと来ていない顔だ。
当然だ。
“今まで困ってこなかった”のだから。
だから俺は言った。
「――現場を見に行きましょう」
◆ ◇ ◆
翌朝。
俺たちは馬車で領の主要物流路を走っていた。
ガタ、ガタガタガタ――ッ!!
車輪が跳ねるたび、体が上下に弾む。
背骨に振動が突き刺さる。
(……これは、ひどいな)
土の道。
穴。
えぐれた跡。
雨で削られ、砂が吹き込み、踏み固められた“繰り返しの傷”。
(石造りの建物はある。
鉄器も普及してる。
でも蒸気も電気もない。
水は井戸と水路。
街の衛生も――正直不安)
(この世界、この国だけなのかはわからないが――
文明レベルは中世ヨーロッパ前後)
だから道が悪いのは“普通”。
だが兄は肩をすくめて言った。
「レオン。
辺境は、どこもこんなものだ」
“当たり前”。
この世界の常識。
少し進むと広場に出た。
荷の集積地――のはず。
だが現実は。
「……詰まってるな」
兄の言う通り、完全に渋滞していた。
馬車が列をなし、動けず、怒号が飛ぶ。
さらに先へ。
「坊ちゃま! あれを!」
グレンが指差した先――
横倒しの荷車。
割れた荷台。
脇で座り込む農夫。
(直す金がない。
戻す余裕もない。
だから――“置いていく”)
俺は静かに、紙にメモを取った。
“馬車破損 多発”
“渋滞 慢性化”
“放棄荷車 常態化”
「レオン。
こんな景色は、珍しくない」
兄は事実として言う。
咎めるような声ではない。
ただ、本当に――ただの現実。
「だからこそ」
俺はペンを止める。
「“見直す理由”になるんです」
兄は少しだけ、黙った。
◆ ◇ ◆
次は倉庫。
扉が開いた瞬間、
兄とグレンが同時に固まった。
積み上げられた木箱。
乱雑。
重複。
順番不明。
どこに何があるのか、誰も即答できない。
「……ひどいな」
兄が低く言う。
グレンは蒼白だった。
「管理がされていると……私は、報告を……」
「入荷と出荷の記録、あります?」
俺は倉庫係に尋ねる。
「は、はい! 紙束ですが!」
「全部ください。
できれば一年分」
またメモを取る。
(順番がない。
“必要な時に取り出せない”。
同じものを“二重で買ってる”可能性が高い)
(これは倉庫の問題じゃない)
(領全体の“物流の流れ”が――
崩れてる)
「レオン」
兄が問う。
「これは、どれくらい悪い?」
「まだ正確には言えません」
俺は正直に言った。
「だから――計算します。
“どれだけお金が止まってるか”。
“どれだけ無駄に払ってるか”」
兄は完全には理解していない顔。
でも、“良くない”ことだけは理解した顔。
◆ ◇ ◆
――それから、一週間。
まずは最低限の道路整備。
全部は無理。
だから“事故が多いところだけ”優先して埋める。均す。補強。
そして――
「先生から聞いたんです。
西の砂漠の岩場から、黒い粘ついた液体が出てるって」
俺は兄に言った。
「船の防水とか、建築の隙間止めに使ってるって」
兄が頷く。
「ああ。厄介だ。
夏は柔らかく、冬は固い」
「厄介じゃないです」
俺は微笑む。
「“宝”です」
大鍋に入れて加熱。
不純物を除き、砕いた石と砂を混ぜる。
粘る黒い塊。
屋敷の敷地の空き地に広げ――
固める。
「兄さん、試してみましょう」
馬車が進む。
――スッ。
ほとんど揺れない。
兄が、息を止めた。
「……嘘だろ」
グレンは完全に固まる。
御者が叫ぶ。
「荷が崩れねえ!!
輪が取られねえ!!」
俺は静かに言う。
「“良い道”って、こういうことです」
◆ ◇ ◆
倉庫整理も同時に始めた。
棚番号。
同じものは同じ場所。
順番がわかる札。
すると――
「坊ちゃま!!」
グレンが帳簿を持って駆けてきた。
「倉庫を整理した結果――
“買わなくていい物資”が山ほど見つかりました!!」
兄が目を見開く。
「戦の備えの見積もりは?」
「削れます!
しかも安全は落ちません!」
兵士からの声も届く。
『荷が前より早い!』
『道が楽になった!』
兄は深く息を吐いた。
「……一週間で、ここまで変わるのか」
俺は肩をすくめる。
「まだ“良くした”わけじゃありません」
静かに言う。
「“壊れてるところを、普通に戻しただけ”です」
兄が、俺を見る目を変えた。
今までと、決定的に違う目で。
「レオン」
その声は、少しだけ震えていた。
「お前に――
この領の“流れ”を任せたい」
兄はグレンに振り返り、命じた。
「レオンに必要な記録と権限を渡せ。
誰も無駄に邪魔をするな。
ただ――徹底的に支えろ」
「はっ!!」
兄は俺の肩に手を置いた。
「……レオン。
お前の目で、この領を整えてくれ」
胸の奥が熱くなる。
この瞬間、俺は――
ただの次男坊ではなくなった。




