File4:男子学生連続失踪事件(捌) 202X年7月18日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
202X年7月18日 午後10時40分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
扉は鍵が死んでいて、押せば軋んだ音だけ残して開いた。湿った空気が頬に貼りつく。中は真っ暗――のはずが、天井にぽっかり口を開けた穴から月光が斜めに落ち、埃の粒を銀色に浮かび上がらせていた。
スクリーンはまだ掛かったまま、白とも灰ともつかない色で沈黙している。息を殺し身をかがめ、客席の合間に隠れる。座席は裂け目こそ少ないが、座面の布が汗と油で鈍く光っていた。
通路の床には、つぶれたポップコーンの殻、ベタつくエナジードリンクの空き缶、散らばった吸い殻、ビニールの切れ端――そして、薄く乾いた輪ゴムと透明のフィルムが絡まった夥しい数の“それ”が、無造作に床に張り付いている。踏めば、べたりと嫌な音が靴裏に残りそうで、足を置く場所を選ぶたび、喉がわずかに鳴った。
席の隙間から覗き込んだ前方。スクリーンの手前で、白が月明かりに縁どられて静止している。
白石彩花。
駅前で見たあのワンピースの白は、月光に冷やされ、紙のように薄い。肩から落ちる布が、彼女の細すぎる骨格を縁取る。横顔は彫り物のように動かない。
黒髪が肩から腰へと流れ、光を吸って闇へ溶ける。胸元の影だけが、顔立ちの幼さと噛み合わない不協和音を奏でていた。
呼吸の上下ですら微か。生きているのに、輪郭だけがこの場所に置き去りにされたような気配。
廃墟の映画館。スクリーンの前に立つ彼女だけを見れば、それは儚げだが美しい絵画のように見えた。
そこへ、通路の影から足音が響く。靴底がガムを拾っては剥がすみたいに、ぺち、と粘る。鼻につく香水。
滝口海斗。
月光に照らされると、茶に染めた髪が錆色に光り、片耳のフープが猫の目のように瞬いた。肩で息をしながら、口元だけ笑っている。笑っているのは口だけで、目は乾いていた。
「……やっぱ、ここだろ」
囁くように言って、顎をしゃくる。白石は反応しない。滝口は間を詰める。
片手をポケットに、もう片方はぶらりと下げたまま。だが、指先は落ち着きなく跳ね、手の甲の筋が浮いていた。
「なぁ、動画よりいいじゃん。夜のほうが、顔、綺麗」
彼は笑い、舌で歯の裏を押し上げるような癖を見せた。通路の中ほどまで来ると、床の残骸を爪先で押しのけ、空き缶を雑に蹴る。
ころころ転がった缶が座席の脚に当たり、かすれた音を立てた。
俺は三列目の端に沈み、背もたれに体を溶かすようにして息を殺す。膝の裏にじっとり汗。喉が乾くたび、嚥下の音がやけに大きく響く気がして、奥歯で舌を抑え込む。
「会いたかったぜアナカァ」
呼ばれたその名に、白石の肩がほんの少しだけ動いた。首が、半刻み分だけ傾く。
「来てくれると思ってた」
白石の声は、紙をめくるように薄かった。滝口はそれを合図と受け取ったのか、肩をすくめて笑う。
「だろ? お前、ここ好きだもんな。……てか、よー、こんなとこでじっとしてんの、似合うよ。“お化け屋敷の姫”って感じ。な?」
白石は沈黙した。月光が彼女の頬を斜めに削り、目の下の影を濃くする。
滝口は一歩、二歩。つま先立ちで舞台に上がる子供みたいに軽い足取りだが、膝のバネに抑えきれない高揚が滲んでいる。
「なぁ、ちょっと、話そうぜ。聞きたいことあるんだよ。つか、お前さぁ、さっきから逃げねぇじゃん。……期待してんの?」
白石は、視線だけを微かに彼へ寄せた。その黒目の奥は、凪いだ湖の底のように暗い。
滝口はその空虚を“合図”に誤読する。鼻で笑い、白石の正面、腕一本ぶんの距離まで踏み込んだ。
香水の甘さがさらに濃くなる。皮膚が粟立つ。俺の背骨の中で、何かがざわりと動いた。
「聞きたいこと?」
白石は小さく言った。
滝口の足が、一瞬止まる。だが止まったのは靴だけで、上半身は前へ滑っていく。肩が片方、彼女の肩にかすめる距離。滝口は喉の奥で笑い、白石の髪へ顔を寄せた。
滝口の黄ばんだ視線がワンピースの膨らみを舐めまわす。
「いや、久々にお前の身体見たらさ、話なんかあとでいいわ。我慢できねえ。さきヤることヤろう。さ、サービスしてよ。ほら」
手が伸びる。まずは前髪を払うみたいに軽く頬を撫で、そのまま耳の下へ。
白石の身体がわずかに強張る。ワンピースの薄布が月光の筋でわずかに透け、肩の骨のラインと、そこから先のやせた鎖骨が浮かぶ。
「やめて」
白石は言った。紙片のような声。
滝口の手は止まらない。指の腹が素肌に触れ、その温度に、彼の呼吸が鼻にかかって重くなる。
「やめてはないだろ? お前は俺らの穴なんだから」
言いながら、滝口はもう片方の手でワンピースの裾へ指を差し込んだ。布がきしむ。吸い付いた静電気がぱち、と鳴ったような気がした。
白石は一歩、後ずさる。が、背はスクリーン下の壁に触れていた。逃げ場はない配置。
滝口の唇が、白石の首筋へ落ちる。湿った音が、ありありと耳朶を打った。
俺の胃が反転する。
――あの娘、助けないと。
恐怖はなかった俺の腰が勝手に浮き、もはや飛び出すしかないと、足裏が床を勢いよく蹴った。
白石の白い肌に貪りつく滝口に、背後から、思い切り速度と体重を乗せた蹴りを見舞おうとする。
――その刹那。
白石の右手が、滝口の手首を掴んだ。パンッ──とシアターに肌と肌が触れた音が響く。
震えのない、真っ直ぐな握り。薄い掌のどこにも迷いがない。
白石の口元がわずかに歪む。
「……エヒッ」
その笑みは、月光に磨かれたガラスのように冷たく、ひび割れた狂気を透かしていた。
滝口の顔から笑いが剥がれる。振り払おうと腕に力を込めるが、感覚は指先から消えていく。
掴まれた手の甲に、ボコンッと一つ目の穴が咲いた。皮膚も肉も骨も、「消しゴムで擦られた跡」のように消える。
「……な、ンだこれ、痛ッ!」
穴は増殖する。手の甲から前腕へ、黒い斑点がじわじわと駆け上がり、蜂の巣のように空洞を広げていく。 その様は、顕微鏡で見る細胞分裂、いや、伝染病の病原菌の増殖を思わせた。
月光が滝口に空いた穴を素通りし、背後のスクリーンに滲む。
「やめろっ! 彩花、やめ……!」
二段階目。肩口までが一息に侵食された。
掴まれていない側の手で彼女の肩に縋ろうとするが、指は空を掴む。
体の重みを支えきれず、踵が通路を探して空を踏んだ。
白石は何も言わない。表情すら変わらない。
ただ、手首を掴み続けているだけ。
「やめろ、痛い、やめろって! 彩花、なぁって、や――」
三段階目。胸に穴が芽吹いた。
黒い虚が心臓をなぞるように走り、肉も骨も一瞬で“なかったこと”にされる。
滝口の口から絞り出された悲鳴は、舌が消え、喉が抜け落ちると同時に途切れた。
最後に顔。
頬から顎、口元から眼窩へと、虚が広がる。
目は恐怖に見開かれたまま、白く擦れた紙のように消えていった。
――そして、滝口海斗は完全に“無くなった”。
音もなく。匂いもなく。
ただ、埃と夜風だけがその場に残った。
俺は白石に欲情する滝口へ飛びかかる直前で、足を止めていた。
距離にすれば、あと二歩。あと二歩踏み込めば滝口の背に手が届いたはずだ。
――だが、出せなかった。動けなかった。
恐怖だった。
滝口の身体に空いていく無数の穴。肉も骨も、声すらも「なかったこと」にされていく光景に、膝から下の力が奪われた。
踏み出そうとした足が、石のように重く固まっていた。
理性は耳元で囁く。「もっと早く動いていれば止められたかもしれない」と。
だがそれは言い訳のように響き、胸を締めつけるだけだった。
本能はその上から怒鳴っていた。「早く逃げろ」と。
――けれど、逃げるための足すら動かない。
白石は、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。
その瞳は深く、底が見えない。覗かれた瞬間、胸の奥を直接えぐられたように呼吸が止まった。
沈黙を破ったのは、あまりに静かな声だった。
「……助けようとしてくれたんですよね」
喉が勝手に鳴った。声は出ない。
白石は一瞬だけ伏し目になり、また真っ直ぐに俺を見据えた。
「ありがとうございます。でも……もう遅いんです」
そして。
「あなたも……ハコに呪われた祈る者なんですね」
彼女の言葉は淡々としていた。
息が詰まる。心臓がひとつ、強く跳ねた。
【2025/09/18追記】
ご覧いただきありがとうございます。
まさかの公開から1日と13時間で、日間ランキング ローファンタジー連載中部門65位にランクインすることができました。
これもひとえに、拙作をご覧いただいた皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。
この作品は13年ぶりの復帰作で、皆様からの評価や感想が何よりの執筆モチベーションとなります。
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次回の更新もお楽しみに。