File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(陸) 202X年8月17日
──Side 富ノ森署 刑事課 警部補(謹慎中) 森崎 達也──
◆202X年8月17日 午後9時27分
富ノ森市内 森崎自宅
スマホの通知が一つ、狭い部屋の空気を裂いた。
机の上の液晶が青白く光る。部屋の照明は落としてある。カーテンの隙間から入る街灯が、画面に反射してゆらいだ。
手を伸ばすと、指先が汗ばんでいた。風はない。冷房の送風口が唸っているだけだ。
通知の発信元を見た瞬間、喉の奥がひくついた。
──青木葵のアカウントから新規ポスト。
日常の投稿なら、珍しくもない。
香水、景色、空の色、色とりどりの食事に午後のお茶。どれも奴の日常を演じるための舞台装置だ。
だが自身の勘が、よくない話が来た、と告げている。
画面を開く前から、胸の奥に小さな石が転がったような感触があった。
『こんばんは、森の人。夏の桜が、まだ咲いているわね。
枯らせたくないので──舞台裏で続けましょう。DMで』
仕掛けてきやがった。想定よりもはるかに速いタイミングで。
「……バレやがったな、あのバカ野郎」
呟いた声が、壁に吸い込まれる。
相川桜の顔が浮かぶ。警戒を解くなと何度も釘を刺したのに、どうせ余計な動きをしたんだろう。
舌打ちを押し殺し、相川へ向けメッセージアプリを開く。
指先が冷えていく。
『おい、生きてるか。返せ。それだけでいい』
送信。三秒。既読。
返ってきたのは、たった一文。
『はい』
息を吐き、背中の筋肉がひとつ緩んだ。
助かった。──いや、まだだ。
助かったと思うのが早い。こういう油断で、死ぬ。
「……わかってんのか、お前……」
ぬるい缶コーヒーを一口。金属の味が舌に残る。
画面を再び見つめる。
“森の人”という呼びかけ。
明らかに俺に向けた公開ポスト。
いや、すでに青木と俺はDMのやり取りをしている。にもかかわらず公開ポストで呼びかける理由。
簡単だ。奴は俺と、相川桜、その両方との接触を望んでいる。だからこその公開ポスト。
どちらかの目に触れればいいという魂胆。
そして奴の本命は──相川桜。
『夏の桜が咲いている』は、ストレートに相川桜の生存が青木にバレたと取っていいだろう。
『動くな。お前に釣り針が向いてる。俺が受け持つ』
相川に向け短く返信。
画面の光が肌を舐める。
外では、救急車のサイレンが遠ざかっていく。
この街の夜は、静かでうるさい。
スチール机に肘をつき、投稿を再読する。
「枯らせたくはない」──花の比喩。女が好む言い回しだが、青木にとっては自分の異能のメタファーでもある。
青木にとって相川桜は叶匣の遊戯──たった一人の勝者だけが願いを叶えられる所謂”デスゲーム”の競争相手だ。
そして青木は自身の異能の発動条件──呪う対象の名前と顔について、既に相川を殺す条件が整っている。
にもかかわらず、枯らせたくない。
人道的な理由からなら人間味もあるものだが、すでに奴は同じ叶匣の祈る者、月曜日の通り魔──藤田直哉を殺害している。
科学的に青木を重要参考人とできる現行法がない以上、今更殺しを躊躇するタイプとは思えない。
──これ以上、頭の中で組み立てても埒が明かない。
奴の思考を読むなんて、泥の中で影を掴むようなもんだ。
なら、聞くしかない。直接。
指先が動く。
青木のアカウントを開く。
画面の向こうで、あの女の笑みが浮かぶ気がした。
『ポストは俺に向けたものか? 何の用だ』
送信。
送信音が鳴り終わるより早く、既読。
速すぎる。貼り付いて見てやがる。
数秒後、返信が落ちた。
『森の人、見てくれました? 夏の桜、きれいでしたね』
息を止めた。
“夏の桜”。やはり、気づいている。
生存を掴まれた。
顔と名前、両方そろってる以上、奴の気分一つで相川を消せる。
返さずに画面を閉じた。
その瞬間、既読表示が点く。
次の通知。
『無視? それとも怖いんですか?』
喉の奥で笑いが漏れた。
挑発のつもりか。
怖がる暇があったら、理由を聞き出す。
『お前の狙いは何だ。誰に向けて芝居してる』
送信。
音も風もない。呼吸だけが、耳の中で鳴る。
数秒の間。
通話リクエストのアイコンが画面に浮かんだ。
「……直接、話したいってことか」
独り言が、無音の部屋に沈んだ。
通話がつながると、向こうの空気が先に入ってきた。
広告のナレーションみたいに整った声。声帯の抑揚が“売り込む”ことに最適化されている。
「こんばんは、刑事さん。最近、眠れてないんでしょう?」
明るい。けれど温度は薄い。笑っているようで、笑っていない。
「……何のつもりだ」
喉の奥に熱がこもる。怒鳴りたくなる衝動を、歯の裏で押し殺す。
青木の声を測る。どの音に笑いが混じるか。台詞のどの音節に力が入るか。間合い。呼吸の置き方。どこで人間をやめているか。全部が設計されている。
「今夜も私の監視? ほんと熱心ね。……それより、『彼を殺したのはお前か?』だったかしら。私をだまそうとするなんて、人が悪いわ、刑事さん」
言葉の端に笑みが混じる。
柔らかく、冷たい。
「……何のつもりだ」
声が低く出る。
意図的に怒気を混ぜず、ただ相手の反応を観察する。
「つもり? うーん、そうね。舞台の確認かしら。桜くんがまだ“生きてる”として、出演者が一人足りないでしょ?」
脈が一拍遅れる。
相手のほうが一枚上手だと自覚した瞬間、頭の中の温度が冷える。
「どういうことだ。俺を巻き込んで、何がしたい」
「巻き込む? 違うわ。あなたが自分から入ってきたのよ。……私、ずっと待ってたの」
息をひとつ整えた。
水の底のような沈黙が通話の向こうで揺れている。
「交渉がしたいの」
「交渉?」
一瞬、沈黙。
通話の向こうで、水音が一つ。
息を吸うような、笑うような音。
「ええ。拒むなら、今すぐ“夏の桜”の名前を呼ぶけど?」
声が柔らかく沈んだ。
冷気が背骨を駆け上がった。
「やめろ」
「あらあ、うふふ。本当に生きているんだ。彼」
モニターの向こうで、水音が一度だけ弾けたように聞こえた。
しまった、とは考えられない。確かめるためだけに名前を呼ばれるだけでも、相川の若い命は、青木の異能に沈む。
「私ね、相川くんと話がしたいの。
彼の行き先を決めるのは、正直簡単だわ。でもね、別に最悪の形しかないわけじゃないのよ」
声は、淡々と続く。
「私が満足するくらいに彼が踊るなら、最悪は避けられると思ってちょうだい。
それでも、あなたが拒むなら──彼の名前を、フルネームで呼ぶわ」
声の端に、微かな笑い。水面が泡立つような小さな音。
頭の中で、カフェで自身の息が詰まった光景がフラッシュした。あのとき、青木が口にした「名字と名前」の発声。喉が押さえつけられるような感触。口が泡を吐いた空気の味。全部、瞬間的に重なった。
青木の言葉は、そのまま喉元に巻かれた絞首台の縄だ。奴が相川の名を呼んだ瞬間に何が起きるか、俺は知っている。知ってしまっている。
理性が計算する。
法律なんて、とうの昔にこの件には追いついていない。
奴を逮捕できる条文も、罪に問える証拠もない。
だが──青木葵が藤田直哉を殺した。青木葵は殺人犯だ。その事実だけは、揺るぎようがない。
俺は腐っても刑事だ。殺人犯の要求をおいそれと飲むことなどできない。
応じれば、殺人犯の言葉に従うことになる。
だが拒めば、相川が殺される。
その確率は、ほぼ一〇〇%。
冷たい理性が「助けようがない」と囁く。
けれど、胸の奥のどこかが、まだ抗っている。
泡を吐きながらも必死に呼吸を取り戻した青年の顔が、瞼の裏に浮かんで消えない。
“刑事”として見捨てられるのか。
“人間”として見殺しにできるのか。
どっちが正義だ。
その問いが、内側で軋んだ。
通話の向こうで、青木が静かに笑った。
「刑事さん。あなたって、ほんと優しい」
吐息に似た声。
皮肉でも賞賛でもなく、ただ観察結果を述べているような響き。
「……条件を言え」
「あなたと彼が一緒にいるその場で、私に音声通話をしてちょうだい。守らなければ、彼の名前をフルネームで呼んでおしまい」
胸の奥で、何かが静かに折れた。
正義を掲げても、救えない命がある。
なら、救える命から先に拾うしかない。
肺に溜まった息を吐く。
指先が戦慄いた。
声は平坦で、しかし一切の迷いを残さない。
「……わかった。条件を飲む」
声を出した瞬間、自分の中で何かが割れた。
刑事として守ってきた線が、音を立てて沈んでいく。
秤はもうない。ただ沈む方に手を伸ばした。
血の味がした。
通話の向こうで、青木がひとつ息を吐いた気配がした。
「良いお返事。そういう人、嫌いじゃないわ」
それきり、音は途切れた。
手の中のスマホが、まだ熱をもっていた。
画面の光が指先を白く照らす。その白が、血の色を奪っていく。
殺人犯と交わした約束。
刑事として口にしてはいけないはずの言葉を、自分の舌が選んだ。
それでも胸の奥で、誰かの息がまだ続いている。
それだけが、理由になった。
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
カーテンの隙間からのぞく街灯の光が、心臓の鼓動に合わせてゆらめく。
音は、どこにも落ちていない。皮膚の上を静けさが這う。
──釣りに乗った。
これで、舞台の幕は下りない。まだ続く。
相川の命を、そして自分の命を繋ぐための、綱渡りが始まる。
息を吸う。
冷たさが喉を焼いた。
──正義はもう、息をしていない。
それでも、この肺は動く。まだ終われない。
体の奥、あの夜の水の中で、決意が水面を叩く音を立てた。
明日も22:30更新予定です




