File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(壹) 202X年8月12日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月12日 午後0時13分
富ノ森市立病院 305号室
瞼を開けると、白が満ちていた。
カーテンの隙間から夏が差し、布越しでも肌を焼く。
消毒液と花の匂い。遠くの笑い声が、現実を呼び戻した。
呼吸のたび、喉に甘い冷たさが残る。
何が、あった──?
断片が遅れて戻る。
あの夜、自分を抱きかかえた腕。
息が詰まり、肺が裂け、世界が暗く沈んだ。
耳の奥で誰かが名を呼ぶ。
柔らかな唇。吹き込まれた息が体内を駆け、全身に熱を戻した。
──風吹。
その名を思い出した瞬間、鼓動が跳ねた。
点滴の滴が光を弾く。
指先に熱。──病院か。
横に倒れる。
カーテンが揺れた。冷房の吐息だけが空気を撫でる。
その向こうから紙をめくる音。わずかに咳き込み、掠れた声が続く。
「起きたか、相川桜」
低い声。肺の奥を擦るような響き。
「……森崎刑事」
「あれだけ派手に押し掛けたんだ、忘れられんか」
声の奥に、冗談より先に疲労が滲んでいた。
森崎の頬のテープが光を返す。鼻には酸素チューブ。
「ここは富ノ森市立病院だ。お前も、俺も二日前に運ばれた。……どこまで覚えてる?」
痛みが走り、視界の白がまた揺れた。
「あの……息ができなくなって、それから──」
そこで喉が詰まり、咳がこみ上げた。
森崎が立ち上がり、水差しを差し出す。
「焦らんでいい。少しずつ話せ」
水を含む。喉を通る冷たさで意識が戻っていく。
今の森崎の言葉。
お前も、俺も──運ばれた。
遅れて、その意味が脳に沈んだ。
隣を見ると、森崎は入院着のまま点滴の管を指で押さえていた。
「刑事さんも……襲われたんですか」
「まあな。二日前の昼だ。お前より先にやられた。俺も一度、呼吸が止まった」
森崎は、短く息を洩らした。
「意識が戻ったのは昨日の朝だ」
淡々と告げながら、喉に指を添え、軽く咳をした。
「あの女の匂いが、まだ肺の奥に残ってる」
森崎は言った。
「茶髪で、三十前後。近づいた瞬間、空気が甘く変わった。名前は、青木葵。聞き覚えは?」
知らない名。
「……誰ですか、それ」
「知らないか」
「ええ。まったく」
一拍の沈黙。
「おそらく、お前をやったのもこの青木葵だ。そして──藤田を殺したのもな」
「藤田……を」
声が自然に掠れた。
森崎は頷きもせず、視線を落としたまま言葉を続ける。
「……ひとつ詫びておきたい」
森崎は点滴の管を軽く弾いた。
「お前がやられたのは、俺のせいだ。すまない」
「……え?」
「カフェ・リュミエールで青木にやられたとき、あいつは俺の胸ポケットを漁った。入っていたメモに、お前と瀬川の名前があった」
「名前……?」
「俺は、青木に名前を呼ばれただけで、息ができなくなったんだ」
胸の奥が冷たくなる。
「名を呼ばれて息を奪われたあと。奴は『顔と名前、揃えば完璧だったのに』とつぶやいてた。
俺とお前がやられた時間がずれたのはつまり、条件が欠けてたんだ。
両方が揃えば奴の“魔法”は完成する。お前は、藤田の次だった」
息を呑む。──それができること自体、奇跡だった。
あの夜。事務所に行ったとき、青木はどこかから俺を見ていた。
立ち昇る靄を見て、舌なめずりし、俺の名を呼んだ。
たったそれだけの動作で、俺の息は止まった。
──黙り込んでいたことに気づく。
森崎は腕を組み、反応を測るように見ていた。
「……やっぱりな」
静かな声が落ちる。
「普通の人間なら“魔法”なんて言葉を聞いた瞬間に噴き出すか、頭がおかしくなったと思う。けど、お前は笑わなかった。むしろ、考え込んだ」
唇を結んだまま、言葉が出ない。
「つまり、知ってる。そういう“説明のつかない力”が実際にあるってことを」
「……違います。そんなつも」「違わねえよ」
低い声が遮った。
「俺もお前も味わった。息が止まった理由は、頭のどこかで分かってるはずだ」
森崎の目は真っ直ぐだった。
「だから教えろ。相川桜。あの女の“魔法”をどう理解してる。なぜ奴はお前を狙った」
病室の空気が止まった。
冷房の風が一定の音を立て、点滴の滴がその隙間を縫う。
「……一つ、お願いがあります」
「なんだ」
「俊兄──瀬川俊二に、連絡してもいいですか」
森崎がわずかに眉を上げた。
「瀬川、ね。あの堅物に指示を仰ぐつもりか」
「はい。どこまで話していいのか、確認したくて」
「律儀なこった。構わん、やれ」
森崎はそう言いながらも、視線を逸らさなかった。
スマホを取り出す。
メッセージを送ったが、既読はつかない。
仕方なく重い指で通話ボタンを押す。
通話も、自動音声だけが返った。
「……出ません」
「らしくねぇな」
森崎はぼそりと呟いた。
「嫌な匂いがしてきた」
胸の奥に、氷の欠片のような不安が沈んだ。
「俊兄──いえ瀬川さん、無事でしょうか」
「瀬川は頭がいい。簡単に死ぬ男じゃねぇ」
沈黙。
スマホをなぞり、呼吸を整えた。鈍痛が胸に広がる。
いっそ黙っていたい──けれど、森崎の視線がそれを許さない。
腕を組み、森崎が言った。
「で、どうする」
「……どう、とは」
「刑事の俺と、朝まで我慢比べするか?」
森崎は笑う。その目は笑っていない。
「幸い、入院中は時間は有り余るほどある」
心臓がひとつ鳴る。
この男は、逃げ道を塞ぎに来ている。
──もう、隠し通せない。
「……分かりました。話します。信じてもらえるかわかりませんが、できる限り」
視界の端で、森崎の表情が静かに緩んだ。
言葉を選ぶ余裕は、もうなかった。
肺の奥でまだ熱がくすぶっている。あの夜の息苦しさが、ほんの少しだけ蘇る。
「……俺たちが関わっているのは、普通の事件じゃありません」
口にした瞬間、森崎の目がわずかに細まった。
「“叶匣”というものがあるんです。言葉にすれば……呪い、みたいなものです」
そこから先は、思考の惰性だった。
口が勝手に動く。肺が動く。息があるうちに、言わなきゃいけない気がした。
それは、人の“願い”を叶える超常の存在。叶匣は選んだ八人に、命がけの遊戯を強いる。
選ばれた八人──“祈る者”。
八人はそれぞれ異なる超常の力を持ち、最後まで生き残った者だけが“どんな願いでも叶う”権利を得る。
そして、俺もその一人。
言葉を紡ぎながら、自分でも現実感が薄れていく。
病室の冷気が、話すたびに口の奥で白く溶けた。
「信じてもらえないとは思います。でも、俺が見たのは現実です」
「続けろ」
森崎は短く促した。
“祈る者”の中で、藤田直哉は既に死んだ。白石彩花も、佐伯充も。
生きているのは、俺を含めてあと五人。
そして青木葵も、その一人。彼女の力は“名前と顔を揃える”ことで発動可能になる異能だと推測できる。
喉が乾く。肺が軋む。
「俺も……おそらく青木の力で死にかけました。息ができなくなって、たぶん心肺が止まった」
「じゃあ、なぜ生きてる」
その問いが来ることは、わかっていた。
ほんの一瞬、息を止めてから答える。
「……誰かが、助けてくれたんだと思います。どうやってかは……分かりません」
──本当は、分かっている。
あのとき吹き込まれた温もり、声、唇。
けれどそれを口にすれば、風吹が巻き込まれる。
だから、首を横に振った。
「奇跡みたいなものです」
森崎は、無言でその言葉を飲み込んだ。
静けさの中で、点滴の滴だけが律儀に時間を刻んでいた。
森崎は、長い沈黙のあとで息をついた。
「……なるほどな」
その声は、驚きよりも納得の色を帯びていた。
「お前の話が本当なら、富ノ森で起きた一連の事件も……全部、一本の線で繋がる」
視線が窓のほうへ滑る。真昼の光がカーテンの縁を透かして、淡く滲んだ。
「あのカフェでの怪死、透明人間、廃墟の崩落、溺死、衝突死。どれも現実ではあり得ねぇと思ってたが……“祈る者”とやらの異能が本当なら、説明が──ついちまう」
「信じてくれるんですか」
森崎は沈黙したまま、自分の胸を押さえた。
「息が止まった瞬間のことを、いまだに思い出せる。体が死んで、意識だけが残る感覚。科学でも理屈でもねぇ。──この身でそれを味わった」
「だから信じる。魔法でも、呪いでもな」
胸に当てられた手が微かに震えていた。
「そして、お前も青木にやられた」
森崎は、短く息を吐いた。
「つまり、あの女はもうお前を殺したつもりでいるってことだ」
「え?」
「考えてみろ。俺もお前も、条件は揃ってた。だから青木の異能は、“発動”したんだ」
森崎の言葉に頷く。
「違うのは、そのあとだ。俺は、あの女が自分で異能を解いてみせた。『貴方には、まだお仕事を頑張ってほしい』って言ってな。俺を泳がせるつもりだったんだろう」
「? ……いや、そうか。利用するために」
「お前頭いいな。そうだ。刑事の俺が捜査を続ければ、何かしら“祈る者”の手掛かりをつかめる可能性がある。そして、おそらくあの女はそれを狙って……今も俺を監視してるだろう。だが──お前のほうは違う」
森崎の眼が鋭くなる。
「俺と違ってお前は祈る者だ。たった一つの勝者の椅子を競い合う敵だ。一度かけた異能を解く理由が思い当たらん」
唇を噛んだ。
「……俺にも、わかりません」
「だろうな」
森崎はゆっくりと頷いた。
「ならこういう仮定が立つ。あの女はお前を“殺した”と思ってる。だから今、お前は青木の中で“死んだ人間”として生きてる」
その言葉に、呼吸が浅くなった。
「……つまり」
「青木に“生きてる”と知られた瞬間、お前は死ぬ。逃げ場はねぇ」
「藤田は青木がその場でいない状況で死んだ。最悪。射程を無限だと仮定すると、なんなら青木が、何気なくお前の名前を口にしただけで終わる」
病室の空気が一瞬で凍りついた気がした。
無限の射程。既に整った条件。生きているとばれた瞬間に死。
無意識に胸元を押さえた。そこを見えない手に握られているようだった。
「……じゃあ、俺はいったい、どうすれば」
「簡単だ。青木に生きてることを知られるな。家に隠れて何もするな」
言われて、黙って、眼を閉じる。
瞼の裏に、風吹が出ていった夜の沈黙が浮かぶ。
問いかけられても、何も言えなかった。
あの瞬間、俺は彼女をひとりにした。
苦しそうに笑っていた顔が離れない。
もう一度、彼女に会う。詫びる。話す。彼女を見る。
そのためなら、呪いでも地獄でも構わない。──今度こそ、背を向けない。
「……俺は行かないといけない場所がある」
「どこだ」
「……衝突死事件の現場です。あれは──青木とは別の祈る者だ」
「心当たりが?」
「……分かりません。でも、このままだと」
風吹がまた誰かを、という思考が形になりかけて、死にたくなった。
疑うくらいなら、地獄にでも堕ちると、そう誓ったはずなのに。
「とにかく、俺は行かなきゃいけないんです。確かめないといけない──」
「行ってどうする。お前、外へ出た瞬間に死ぬかもしれねぇんだぞ」
「でも、行かなきゃ何も変わらない!」
声が病室を裂き、カーテンが波打った。
森崎は、静かにその怒気を受け止めた。
「……お前の、さっきの話に嘘はなかったと俺は思う」
低い声が落ちる。
「ただ、お前は誰かを庇ってる。ひとりは瀬川──もうひとりは……女だろ」
「だったらどうだっていうんですか」
「どうもしねぇよ。ただ、このままじゃお前が死ぬだけだ」
「放っておけません」
「放っておけ。死ぬよりマシだ」
森崎の言葉が胸を抉る。
そうかもしれない。けれど──。
一度、言葉を飲み込んで、息を吸った。
「あの夜、彼女に聞かれたんです。“私を通して、誰を見てるの”って何も答えられなかった」
「……あれが、彼女を一人にした。だから今度は、逃げずに答えます。俺が見てるのは、お前だって」
胸の奥で、熱が弾けた。
「森崎さん、もし今動かなかったら、俺は一生後悔する」
会わなきゃ。風吹に。
そして、彼女が人を殺すなんて、ありえない──それだけは、俺が証明する。
「だがお前が動けば、お前が死ぬ」
「……っ!」
森崎の言葉が突き刺さる。沈黙が、銃声より重かった。
彼は腕を組み、視線を落としたまま言った。
「……お前が必死なのは分かった。だが首にはもう縄がかかってる。青木に生存を知られた瞬間、終わりだ」
そう、やりたいことは明確。
第一に風吹に会う。
第二に風吹が衝突死事件の犯人じゃないと証明する。
そしてそれを実現するためには、青木に自分の生存がばれてはいけないという大きな障害。
次の瞬間、森崎の声がわずかに和らぐ。
「俺に考えがある」
森崎の言に、顔を上げる。
「考え……?」
森崎の目が光を弾いた。
「危険は減らせねぇが、勝ち筋は──ある」




