File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(Cadenza) 202X年8月10日
──Side 水瀬 風吹──
◆202X年8月10日 午後8時32分
富ノ森駅前通り
雨が街を打ち据えていた。
皮膚の上で音が弾け、粒は重く、耳の奥で白い雑音を孕んで跳ね返る。
肩が誰かにぶつかった。布と骨の硬さが、互いの皮膚に残る。
相手は小さく首をかしげ、私を通り過ぎる。視線が触れない。
呼び止めようとして喉がひゅうと鳴り、代わりに唇から白い靄が漏れた。
街のざわめきがガラスの向こうへ離れていく。
言葉が、形を作れない。
濡れたアスファルトは黒い湖みたいで、行き交う車のライトから赤と金を滲ませている。
雨粒の動きがゆっくりに見える。
傘の群れが色の波を作り、誰も私を見なかった。
胸の奥に微かな音がした。
心臓の拍ではなく、何かが静かに軋む音。
名を呼ぼうとして、声は雨に散った。
舌に触れた味は、錆びた鍵。世界の扉を開ける金属の味。
鍵穴は、私のかたちとは合わない。回らない。音だけがある。
◆202X年8月10日 午後8時38分
駅前スーパーフードオオサワ前
雨宿りを、しようとした。
軒下の明かりが、雨を裂いて落ちていた。
震える光が、閉じた扉の上で薄く跳ねる。
自動ドアの前に立つ。中では人が行き交い、レジの音が水音みたいに響く。
足を踏み出す。──ドアは動かず、喋らない。
通り過ぎた男の肩がかすめ、軽い風が頬を打った。彼が歩みを進めると、ドアはあっさり開いた。
私は、ただ見ている。
ガラスの表面に、私の姿が映っている。
濡れた髪、肌、光の縁。確かにそこにある。
けれど、扉は沈黙している。
世界は私を映しはするのに、受け入れない。
指先でガラスをなぞる。
冷たい。触れているのに、体温のほうが消えていく。
指の下で、自分の輪郭がわずかに震えた。
息を吸うと、反射の中の私がほんの少し遅れて息をした。
雨粒が背をなぞり、冷たさが骨の奥へ染みていく。
店内の明るさが遠く、薄い膜の向こうで光っている。
その光を見つめるたびに、胸の中で軋む音がする。
◆202X年8月10日 午後8時46分
富ノ森市内 川沿いの遊歩道
意識はしていないのに、足だけが動いていた。
傘のない人波の隙間を縫い、誰の肩にも触れずに。
アスファルトがゆるく下っていく。排水口から溢れる水の音が、心臓の鼓動みたいに続いていた。
どこへ行くつもりだったのか、思い出せない。
でも足だけは、まるで水に引かれるみたいに進んでいく。
街灯が並ぶ。光の粒が雨粒に砕けて、ひとつずつ川面へ沈んだ。
橋が見える。
雨を飲んだ鉄骨が、青く滲んで光っている。
掌を開いてみる。水の重さが指に絡まる。
その感触だけが、まだ確かなものとして残っていた。
吐いた息が白く散る。
光も、音も、すべてが先に行ってしまう。
それでも歩みは止まらない。
誰かが呼んでいるような気がして、顔を上げる。
──夜の向こうで、声がした。
◆202X年8月10日 午後8時52分
富ノ森市内二級河川真名川 鏡見橋
橋の上に出た途端、世界が一段深く沈んだ。
途切れない雨は、粒が重く地面を圧し、川面にぶつかっては白い泡を散らした。
轟音の奥で、街の気配が遠くに薄れていく。
雨音がすべてを塗りつぶしているのに、不思議と静かだった。
橋の中央、濡れた舗装の上。
薄青色のワンピースが、雨を吸い込みながら形を変えた。
裾が水を飲み、貼りついた布の下で脚の線が揺れる。
それでも、生地は濡れない。
光が輪郭をなぞり、空気に溶けて消えていく。
その身体だけが、水の法則を拒んでいる。
澪が、雨の幕の向こうから私を見ていた。
「おかえりなさい──風吹」
澪の声が、雨の間をすり抜ける。
激しく叩きつける粒の奥から、真っすぐこちらへ届く。
轟音にかき消されることなく、その音だけが耳の奥で浮かび上がる。
喉が震えた。
声を返そうとしたのに、音が出ない。
舌が宙で迷って、唇の裏を冷たく撫でただけだった。
澪は微笑んでいた。
土砂降りの幕の中で、ただそこに溶けていた。
瞳の奥で光が砕け、波紋のように広がっている。
「……あんた結局、なんなの?」
やっとそれだけが、喉から零れた。
声が震えるのを止められない。
澪の輪郭が、雨粒といっしょに滲む。
彼女は少し首を傾けて、目を細めた。
「聞きたいことは、本当にそれ?」
◆
橋の上に、再び雨の音が戻ってくる。
風が二人の間を抜け、雫が私の頬を避けて落ちていった。
息を吸うと、喉の奥で水が鳴った。冷たいという感覚がない。
澪の問いが、夜の上を滑って届く。
聞きたいことは、本当にそれ?
──違う。
違うとわかっているのに、言葉が動かない。
胸の奥に、もっと別の形をした問いがあった。
それを出した瞬間、何かが壊れる気がして、喉が閉じる。
「私は──」
そこで声が止まった。
舌の裏に溜まった言葉が砂の味を帯びていく。
喉の奥が焼けるように熱い。
「……私は、叶匣の祈る者なの?」
自分の声が、雨の中で割れた。
それはまるで、他人が喋っているみたいだった。
澪の瞳が静かに細まる。
「それも、本当に聞きたいことじゃない」
返された声が、雨を一瞬止めたように感じた。
私は視線を落とした。
靴の縁に沿って流れる水が、足跡をすぐに消していく。
冷たい川の匂い。
自分がどこまでこの世界に立っているのか、輪郭が掴めない。
喉の奥で、言葉のかけらが泡のように弾けては消える。
澪が一歩、近づいた。
その距離が恐ろしくて、私は動けなかった。
沈黙が、雨よりも重く落ちてくる。
澪はそのまま、私を見ていた。
雨の粒が二人のあいだで弾け、光を散らす。
言葉も動きもなく、ただ視線だけが絡み合う。
彼女の唇がゆっくりと動いた。
「でもまあ、教えてあげるわ」
世界が息を止めた。音も、風も──私の心臓さえも。
澪の髪が濡れた空気の中で浮いた。
光の加減で青く見える瞳の奥。何かが沈んでいく。
彼女はひと呼吸のあいだをあけて、雨を飲み込むように、唇を動かした。
「答えは──」
音が出る前に、世界の色が変わった。
轟音が一気に戻り、雨が叩きつける。
冷たい水が頬を打つのに、感触がない。
私は息をすることを忘れていた。
澪は笑っていた。
その笑みは痛いほど穏やかで、夜よりも深かった。
「──いいえ」
その一言が、胸の奥で割れた。
骨の内側まで雨が沁みてくる。
私は唇を開く。
言葉が、声にならない。
ただ、喉の奥で雨の音だけが鳴っていた。
◆
世界の縁が、少しずつほどけていく。
視界の端が白く滲み、雨粒が遅れて落ちてくる。
澪の姿も、光も、音も、水の膜の向こうに押しやられたみたいだった。
呼吸をしても、肺が動いている感覚がない。
胸の奥が空洞になり、そこに冷たい空気だけが溜まっていく。
手を握る。動く。
でも、手のひらの感触が自分のものじゃない。
「……やだ」
声にならない声が、喉の奥で途切れた。
口の中に鉄の味が広がる。
血の味じゃない。
もっと遠い、胸の底から染み出した錆びの味。
ふと、音が変わった。
叩きつけていた雨の粒が、ひとつ、またひとつ、途切れていく。
空のどこかで、雲の裂け目が開く。
湿った空気が薄れ、橋の上の景色がゆっくりと息を吹き返していく。
濡れたはずの髪も、服も、もう冷たくなかった。
世界が乾いていくほどに、私の体温が消えていく。
雨が止む音が、心臓の鼓動を奪っていくようだった。
──いや。
確かに、私の鼓動は脈打っている。
けれど、それは生の音じゃない。
ただ、贋作の鼓動が、形だけをなぞっている。
そのことを、今ようやく知っただけだ。
◆
雲が裂け、空の奥から光が滲み出て、世界の輪郭をそっと磨いた。
叩きつけていた雨が、名残の音だけを残して遠のいた。
濡れた欄干に星の破片が散り、川面がかすかに呼吸した。
土と草の匂いが夜気を満たす。
静けさの底で、草むらが息を吹き返した。
雨を吸った葉の隙間から、虫たちの声が洩れる。
それに応えるように、遠くで別の音が震えた。
乾ききらぬ風がその響きを拾い上げ、夜全体がひとつの楽曲を奏でる。
夏の夜は、息を吹き返したばかりの生き物みたいに静かで、冷たかった。
「行きなさい、死ぬことすらできない呪いの子。あなたの役は、まだ終わっていないの」
澪の声が風に乗って届く。
その響きが胸を貫いたとき、頭上の雲が裂けた。
──夜の空はコバルト色だ。
群青でも藍でもない。
雨の名残をわずかに抱きながら、熱と光の境目で静かに揺れている。
雲の裂け目からひとつの星がこぼれ落ちる。
その光が濡れた空気に触れ、静かな熱を孕んで滲んだ。
まるで夜そのものがゆっくりと呼吸しているようだった。
星々が揺れるたびに、川面が光を返し、風が冷たく頬を撫でる。
光は澄んでいるのに、胸の奥では痛いほど熱い。
背後で、乾いた足音が近づいてくる。
規則正しく、背筋の伸びた足音だった。
誰のものか、聞き覚えがある気がした。
私は、振り向くことができない。
澪の姿はもうどこにもない。
ただ、空を見上げていた。
指先まで透明になったように、体の輪郭が薄れていく気がした。
世界は、救いようもなく完璧で美しかった。
あまりに澄み切って、傷ひとつ許されないほどに。
その完璧の外側に、私はいた。
この息を呑むような美しさの中に、私の居場所はどこにもなかった。
それでも、私は確かにここで──コバルトの夜の底で、息をしてしまっていた。
【相川 桜の独白】
──その夜を境に、風吹は俺の目の前から姿を消した。
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作者からのお知らせ
第參章;『コバルトの夜の底』がこれにて完結です!
この作品は私にとって13年ぶりの復帰作で、皆様からの評価や感想が何よりの執筆モチベーションとなります。
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