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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第參章;コバルトの夜の底──

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File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(漆)  202X年8月10日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月10日午前4時46分

富ノ森市 相川宅 居間


 夜が終わりきらなかった。

 冷蔵庫の唸りだけが、時間をこの部屋に縫いとめていた。

 生きているのは、音だけだった。


 ソファに身体を沈めたまま、背中が痛い。

 一晩中、目を閉じられなかった。

 眠った瞬間、誰かが消える気がした。

 それが馬鹿げているとわかっても、まぶたが怖かった。


 テレビもつけず、携帯の画面も黒いまま。

 テーブルの上には、昨夜使ったマグカップがそのまま残っている。

 底には乾いたコーヒーが輪を残して、時間が固まったみたいに動かない。


 玄関を見た。

 靴が一足分だけ並んでいる。

 いつもは並んでいるもう一足分の隙間が、やけに大きく見えた。

 時間だけが歩いていく音を立てて、俺の前を通り過ぎる。


 あの夜、言葉を選んだつもりで、自分だけを守っていた。

 “優しさ”なんて、結局は自分だけを守る盾だった。

 その裏に隠れて、風吹を見捨てた。


 呼吸をひとつ。

 吐くたびに胸の奥が冷える。

 その冷たさが、誰かを失った実感よりも現実的だった。



 窓から差し込む明かりが遠くで(にじ)んで、光がじわじわ角度を変えていく。


 台所の明かりが、やけに白かった。

 鍋を開けると、昨日の匂いがまだ生きている。


 味噌汁の表面が、風もないのに微かに揺れた。

 自分の息のせいだと気づいた瞬間、胸が縮んだ。

 光が差し込むテーブルの上、もうひとつの影だけが帰ってこなかった。



 カーテンの隙間から、薄い光が斜めに差し込んでいた。

 机の上の書類にその筋が落ちて、紙の端だけが白く焼けている。

 部屋の空気は重たく、昼なのに夜の匂いがした。

 誰もいない空間は、時間よりも静かだ。


 スマホが震えた。

 ベッドの上に放り出したままだった。

 画面に映る名前は瀬川俊二。

 短いメッセージが三行だけ並んでいる。


『森崎刑事が昨日事務所に行ったらしいな』

『甘い匂いの女、気をつけろ』

『しばらく事務所には近づくな』


 それだけだった。句読点すらない。

 返信欄を開いたまま、何も書けずに閉じる。

 液晶が暗くなると、自分の顔が映り込んだ。

 その顔を、他人のように見ていた。



 あの夜のことが、胸の奥でひっかかる。

「私を通して、誰を見てるの」

 その言葉を受けたとき、何も言えなかった。

 頭が真っ白になって、呼吸の仕方さえわからなくなった。

 自分が何をしてきたのかを、あの瞬間やっと理解した。


 彼女を、彼女として見ていなかった。

 それがどれほど残酷だったのか、今さら思い知る。


 あのときの彼女は、怒っていた。悲しんでいた。


 涙はなかった。

 怒りと悲しみが、涙の形をとることすらできないほど、心が(あかぎれ)ていた。

 それを前にして、俺は何もできなかった。


 あの沈黙を思い出すたび、胸の奥がきしむ。


 机の脇、棚の隙間から濃紺が覗いていた。

 そっと取り出すと、きちんと畳まれたマフラー。

 端には、白い毛糸で縫われた雪の結晶の刺繍。

 指でなぞると、繊維の奥に沈んだ熱がゆっくり滲み出す。


 その感触が、記憶の残り火みたいだった。

 思い出そうとすると、映像の輪郭が崩れていく。

 笑っていた横顔。手を振る仕草。名前を呼ぶ声。

 どれも途中で止まり、再生されない。


 ノートパソコンの画面が勝手に光った。

 開いたままだったニュースサイトの見出しが、視界を刺す。

 《富ノ森市 再び衝突死事件》

 その文字が目に入った瞬間、手が勝手に閉じた。


 画面が暗くなる。

 天井の隅で、エアコンが低い息を吐いている。

 その音さえ、すぐに耳から遠のいた。


◆202X年8月10日午後7時41分

富ノ森市 相川宅 居間


 暗い部屋を、歩く。


 窓の外では、近所の家々が順に灯りをつけていく。

 (だいだい)の光がカーテンの隙間を抜け、床に細い線を描いていた。

 静かな部屋の中で、時折、外を走る車のタイヤが水を弾く音がする。


 ポットに湯を注ぐ。

 コーヒーを淹れようとして、いつもの癖で二人分のカップを並べてしまう。

 気づいて、ひとつを下げる。

 苦味の匂いだけが残り、薄暗い空気の中でゆっくりと広がった。


 テレビをつける。

 青白い光が壁をなぞり、影がいくつも生まれては消えていく。


「──本日午前五時ごろ、富ノ森市の住宅街で複数の衝突死事件が発生しました──」


 アナウンサーの声が淡々と流れ、映像に切り替わる。

 パトカーの列。赤い光。

 雨上がりの路面が、それを何度も反射していた。

 赤と黒が交互に閃き、部屋の空気が一瞬ごとに染まる。

 手の中でリモコンが冷たく固まる。


 画面を見ながら、ふと玄関に視線を向けた。

 靴が一足だけ、きれいに並んでいる。

 もう一足分の隙間は、朝と同じままだ。


 胸の奥がざわついた。

 八月四日。最初の衝突死事件。


 思い出した瞬間、心臓が一拍遅れた。

 頭が“違う”と叫ぶ前に、体が知っていた。


 心のどこかが冷静に計算を始めていた。


 八月四日の夜。風吹はいなかった。

 戻ってきた時、何も言わずに部屋に入っていった。

 目が合わなかった。

 空気の温度が、少し違っていた。


 そのとき、胸の奥がざわついたのを覚えている。

 けれど理由を考えるのが怖くて、忘れたふりをした。


 今になって、あの違和感が蘇る。

 思い出したくもないのに、手の中の温度が冷えていく。


 テレビの音が遠のく。

 赤い光がまた壁を染め、心臓の鼓動と同じ間隔で明滅した。


 光のたびに、頭の中の映像が切り替わる。


 夜の住宅街。


 一瞬で距離を詰める影。


 その動きは、人の眼が追えないほど速かった。

 空気が破裂した。

 鉄が悲鳴を上げ、人の骨が後から折れた。

 音が遅れてやってきて、世界の輪郭をひとつずつ壊していった。


 返り血もなく、ただ衝撃だけが残る。

 倒れる人。ねじれる体。

 花弁が砕けたような静けさの中、それらを見下ろすように、藍の瞳が揺れている。


 そんな光景を、脳が勝手に再現していた。

 頭の奥で、理解がゆっくり形を取り始める。

 その速さも、その力も──説明がついてしまう。


 心臓が跳ねた。

 映像を振り払おうとしても、目の奥に焼きついて離れなかった。


 だが、違う。

 そんなはず、ない。

 あの声を、あの笑い方を知っている。

 あの手が、人を殺せるわけがない。


 けれど心が否定を叫ぶほど、理屈が形を持って迫ってくる。

 頭と胸が逆方向に引っ張られて、息が割れた。

 体の奥で、何かがきしむ。


 理屈が冷たく告げる。

 彼女なら、できる。


 心が否定する。違う。違う。そんなはず、ない。


 頭が勝手に計算する。心がそれを蹴り壊す。

 どうでもいい──そう思うほどに、彼女を()()()()自分が浮き彫りになっていく。

 目の奥で何かが焼ける音がした。


 泣きもできなかった彼女を前に、俺は立ち尽くしていた。

 風吹を見ながら、その顔に重なる別の誰か(もう一人の風吹)を見ていた。

 その眼差しで、彼女の居場所を壊した。

 息が途切れて、視界がぶれて、世界が二重に割れた。


 気づけば、自室に走り込み、部屋の隅に置いたリュックを手に取っていた。

 無意識に、棚から濃紺のマフラーを取り出す。

 端に小さく縫われた雪の結晶の刺繍が、指先に触れた。


 その感触が、凍った心臓の奥でまだ“誰かを守る”という記憶を思い出させる。

 マフラーをリュックに詰め、ファスナーを閉じた。


 そのまま玄関へ向かう。

 ドアノブの冷たさが、皮膚の奥まで刺さる。

「帰ってくるから」──その声が耳の奥で鳴り、鎖みたいに足首を掴んだ。


 もし俺がここを離れたら、その言葉が行き場を失う気がした。

 この場所を空にしてしまったら、彼女が帰る場所を奪ってしまう。


 それでも、頭の奥で声が喧嘩を始める。

 ──今すぐ行け。手遅れになる。

 ──待て。あいつは帰ると言った。

 どっちを選んでも、どこかで取り返しがつかなくなる。


 息が浅くなる。

 立ち上がろうとして、足が動かない。

 指先だけが震えて、ドアノブを掴んだまま離せなかった。


 胸の奥で、もう一つの声が囁く。

 ──今度すれ違ったら、二度と会えない。


 外でサイレンが遠ざかる。

 風のない夜なのに、どこかで窓が鳴った気がした。

 それが錯覚なのか、合図なのかもわからない。


 動かない足の中に、熱だけが溜まっていく。


 探しに行けば、すれ違う。

 ここにいれば、時間だけが腐っていく。


 両方の考えが心の中で引きちぎり合って、

 見えない針で身体を床に縫いとめられたよう。


 息を殺すたび、胸の奥で何かが軋んだ。

 外では、パトライトの赤が再び窓を染める。


 光が消えた。

 目の奥に、藍の瞳が焼きついたまま離れない。


 いつかの夜の笑い声が、胸の奥でかすかに跳ねた。

 その響きが、まだ俺の中に残っている。

 あんな笑い方をする風吹が、人を殺せるはずがない。

 そう思わないと、呼吸ができなかった。


 気づけば、手がドアノブを(まわ)していた。

 血の音だけで、体が動いていた。


 疑うくらいなら、喉を裂かれた方がましだ。


 風吹を疑うくらいなら、地獄にでも堕ちる。


 もう一度、あの瞳を見て確かめる。

 それで、世界が終わっても構わなかった。


 世界が壊れてもいい。

 壊れた世界でいい。

 許されなくてもいい。


 それでも、風吹を“彼女として”迎えに行く。

 俺が壊したのは、彼女の居場所だ。

 なら──もう一度、彼女の隣で始めればいい。

 何も覚えていないなら、最初から一緒に覚えていけばいい。

 名前も、笑い方も、これからの人生も。


 夜はまだ終わらない。

 それなら、この夜の底から始めればいい。

 彼女が包まれた夜を抱いて、俺はその闇の中へ踏み出した。

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