File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(漆) 202X年8月10日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月10日午前4時46分
富ノ森市 相川宅 居間
夜が終わりきらなかった。
冷蔵庫の唸りだけが、時間をこの部屋に縫いとめていた。
生きているのは、音だけだった。
ソファに身体を沈めたまま、背中が痛い。
一晩中、目を閉じられなかった。
眠った瞬間、誰かが消える気がした。
それが馬鹿げているとわかっても、まぶたが怖かった。
テレビもつけず、携帯の画面も黒いまま。
テーブルの上には、昨夜使ったマグカップがそのまま残っている。
底には乾いたコーヒーが輪を残して、時間が固まったみたいに動かない。
玄関を見た。
靴が一足分だけ並んでいる。
いつもは並んでいるもう一足分の隙間が、やけに大きく見えた。
時間だけが歩いていく音を立てて、俺の前を通り過ぎる。
あの夜、言葉を選んだつもりで、自分だけを守っていた。
“優しさ”なんて、結局は自分だけを守る盾だった。
その裏に隠れて、風吹を見捨てた。
呼吸をひとつ。
吐くたびに胸の奥が冷える。
その冷たさが、誰かを失った実感よりも現実的だった。
◆
窓から差し込む明かりが遠くで滲んで、光がじわじわ角度を変えていく。
台所の明かりが、やけに白かった。
鍋を開けると、昨日の匂いがまだ生きている。
味噌汁の表面が、風もないのに微かに揺れた。
自分の息のせいだと気づいた瞬間、胸が縮んだ。
光が差し込むテーブルの上、もうひとつの影だけが帰ってこなかった。
◆
カーテンの隙間から、薄い光が斜めに差し込んでいた。
机の上の書類にその筋が落ちて、紙の端だけが白く焼けている。
部屋の空気は重たく、昼なのに夜の匂いがした。
誰もいない空間は、時間よりも静かだ。
スマホが震えた。
ベッドの上に放り出したままだった。
画面に映る名前は瀬川俊二。
短いメッセージが三行だけ並んでいる。
『森崎刑事が昨日事務所に行ったらしいな』
『甘い匂いの女、気をつけろ』
『しばらく事務所には近づくな』
それだけだった。句読点すらない。
返信欄を開いたまま、何も書けずに閉じる。
液晶が暗くなると、自分の顔が映り込んだ。
その顔を、他人のように見ていた。
◆
あの夜のことが、胸の奥でひっかかる。
「私を通して、誰を見てるの」
その言葉を受けたとき、何も言えなかった。
頭が真っ白になって、呼吸の仕方さえわからなくなった。
自分が何をしてきたのかを、あの瞬間やっと理解した。
彼女を、彼女として見ていなかった。
それがどれほど残酷だったのか、今さら思い知る。
あのときの彼女は、怒っていた。悲しんでいた。
涙はなかった。
怒りと悲しみが、涙の形をとることすらできないほど、心が皸ていた。
それを前にして、俺は何もできなかった。
あの沈黙を思い出すたび、胸の奥がきしむ。
机の脇、棚の隙間から濃紺が覗いていた。
そっと取り出すと、きちんと畳まれたマフラー。
端には、白い毛糸で縫われた雪の結晶の刺繍。
指でなぞると、繊維の奥に沈んだ熱がゆっくり滲み出す。
その感触が、記憶の残り火みたいだった。
思い出そうとすると、映像の輪郭が崩れていく。
笑っていた横顔。手を振る仕草。名前を呼ぶ声。
どれも途中で止まり、再生されない。
ノートパソコンの画面が勝手に光った。
開いたままだったニュースサイトの見出しが、視界を刺す。
《富ノ森市 再び衝突死事件》
その文字が目に入った瞬間、手が勝手に閉じた。
画面が暗くなる。
天井の隅で、エアコンが低い息を吐いている。
その音さえ、すぐに耳から遠のいた。
◆202X年8月10日午後7時41分
富ノ森市 相川宅 居間
暗い部屋を、歩く。
窓の外では、近所の家々が順に灯りをつけていく。
橙の光がカーテンの隙間を抜け、床に細い線を描いていた。
静かな部屋の中で、時折、外を走る車のタイヤが水を弾く音がする。
ポットに湯を注ぐ。
コーヒーを淹れようとして、いつもの癖で二人分のカップを並べてしまう。
気づいて、ひとつを下げる。
苦味の匂いだけが残り、薄暗い空気の中でゆっくりと広がった。
テレビをつける。
青白い光が壁をなぞり、影がいくつも生まれては消えていく。
「──本日午前五時ごろ、富ノ森市の住宅街で複数の衝突死事件が発生しました──」
アナウンサーの声が淡々と流れ、映像に切り替わる。
パトカーの列。赤い光。
雨上がりの路面が、それを何度も反射していた。
赤と黒が交互に閃き、部屋の空気が一瞬ごとに染まる。
手の中でリモコンが冷たく固まる。
画面を見ながら、ふと玄関に視線を向けた。
靴が一足だけ、きれいに並んでいる。
もう一足分の隙間は、朝と同じままだ。
胸の奥がざわついた。
八月四日。最初の衝突死事件。
思い出した瞬間、心臓が一拍遅れた。
頭が“違う”と叫ぶ前に、体が知っていた。
心のどこかが冷静に計算を始めていた。
八月四日の夜。風吹はいなかった。
戻ってきた時、何も言わずに部屋に入っていった。
目が合わなかった。
空気の温度が、少し違っていた。
そのとき、胸の奥がざわついたのを覚えている。
けれど理由を考えるのが怖くて、忘れたふりをした。
今になって、あの違和感が蘇る。
思い出したくもないのに、手の中の温度が冷えていく。
テレビの音が遠のく。
赤い光がまた壁を染め、心臓の鼓動と同じ間隔で明滅した。
光のたびに、頭の中の映像が切り替わる。
夜の住宅街。
一瞬で距離を詰める影。
その動きは、人の眼が追えないほど速かった。
空気が破裂した。
鉄が悲鳴を上げ、人の骨が後から折れた。
音が遅れてやってきて、世界の輪郭をひとつずつ壊していった。
返り血もなく、ただ衝撃だけが残る。
倒れる人。ねじれる体。
花弁が砕けたような静けさの中、それらを見下ろすように、藍の瞳が揺れている。
そんな光景を、脳が勝手に再現していた。
頭の奥で、理解がゆっくり形を取り始める。
その速さも、その力も──説明がついてしまう。
心臓が跳ねた。
映像を振り払おうとしても、目の奥に焼きついて離れなかった。
だが、違う。
そんなはず、ない。
あの声を、あの笑い方を知っている。
あの手が、人を殺せるわけがない。
けれど心が否定を叫ぶほど、理屈が形を持って迫ってくる。
頭と胸が逆方向に引っ張られて、息が割れた。
体の奥で、何かがきしむ。
理屈が冷たく告げる。
彼女なら、できる。
心が否定する。違う。違う。そんなはず、ない。
頭が勝手に計算する。心がそれを蹴り壊す。
どうでもいい──そう思うほどに、彼女を信じたい自分が浮き彫りになっていく。
目の奥で何かが焼ける音がした。
泣きもできなかった彼女を前に、俺は立ち尽くしていた。
風吹を見ながら、その顔に重なる別の誰かを見ていた。
その眼差しで、彼女の居場所を壊した。
息が途切れて、視界がぶれて、世界が二重に割れた。
気づけば、自室に走り込み、部屋の隅に置いたリュックを手に取っていた。
無意識に、棚から濃紺のマフラーを取り出す。
端に小さく縫われた雪の結晶の刺繍が、指先に触れた。
その感触が、凍った心臓の奥でまだ“誰かを守る”という記憶を思い出させる。
マフラーをリュックに詰め、ファスナーを閉じた。
そのまま玄関へ向かう。
ドアノブの冷たさが、皮膚の奥まで刺さる。
「帰ってくるから」──その声が耳の奥で鳴り、鎖みたいに足首を掴んだ。
もし俺がここを離れたら、その言葉が行き場を失う気がした。
この場所を空にしてしまったら、彼女が帰る場所を奪ってしまう。
それでも、頭の奥で声が喧嘩を始める。
──今すぐ行け。手遅れになる。
──待て。あいつは帰ると言った。
どっちを選んでも、どこかで取り返しがつかなくなる。
息が浅くなる。
立ち上がろうとして、足が動かない。
指先だけが震えて、ドアノブを掴んだまま離せなかった。
胸の奥で、もう一つの声が囁く。
──今度すれ違ったら、二度と会えない。
外でサイレンが遠ざかる。
風のない夜なのに、どこかで窓が鳴った気がした。
それが錯覚なのか、合図なのかもわからない。
動かない足の中に、熱だけが溜まっていく。
探しに行けば、すれ違う。
ここにいれば、時間だけが腐っていく。
両方の考えが心の中で引きちぎり合って、
見えない針で身体を床に縫いとめられたよう。
息を殺すたび、胸の奥で何かが軋んだ。
外では、パトライトの赤が再び窓を染める。
光が消えた。
目の奥に、藍の瞳が焼きついたまま離れない。
いつかの夜の笑い声が、胸の奥でかすかに跳ねた。
その響きが、まだ俺の中に残っている。
あんな笑い方をする風吹が、人を殺せるはずがない。
そう思わないと、呼吸ができなかった。
気づけば、手がドアノブを廻していた。
血の音だけで、体が動いていた。
疑うくらいなら、喉を裂かれた方がましだ。
風吹を疑うくらいなら、地獄にでも堕ちる。
もう一度、あの瞳を見て確かめる。
それで、世界が終わっても構わなかった。
世界が壊れてもいい。
壊れた世界でいい。
許されなくてもいい。
それでも、風吹を“彼女として”迎えに行く。
俺が壊したのは、彼女の居場所だ。
なら──もう一度、彼女の隣で始めればいい。
何も覚えていないなら、最初から一緒に覚えていけばいい。
名前も、笑い方も、これからの人生も。
夜はまだ終わらない。
それなら、この夜の底から始めればいい。
彼女が包まれた夜を抱いて、俺はその闇の中へ踏み出した。




