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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第參章;コバルトの夜の底──

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File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(陸)  202X年8月9日

──Side 相川(あいかわ)家 居候(いそうろう) 水瀬(みなせ) 風吹(ふぶき)──

◆202X年8月9日午前10時04分

富ノ森(とみのもり)市内二級河川真名川(まながわ) 鏡見橋(かがみばし)


 気づけば私は、彼女と出会った橋に向かっていた。

 なぜかそうしなければならないという引力に、心のもっと深いところから体を引っ張られるみたいに。


 水面が陽に焼けていた。

 白い粒がきらめいて、沈んでは消える。

 吸って、吐いて──夏の川が、まだ息をしている。


 私は欄干に腕をのせたまま、しばらく流れを追っていた。


 ときどき風が渡る。そのたびに川面がきらりと反転し、目の奥で閃光が弾けた。

 水音と風音のあいだに、自分の鼓動が入り込んでくる。


 ──見下ろす水面に影が差した。


 振り返る。


 陽の光の下で、川面の底だけが夜の色をしていた。


 欄干にもたれて、ひとりの少女が立っている。

 目を凝らさなくても分かる。ちゃんと、ここに“いる”。


 明らかに──()()()()()()()()()()()がそこにいた。


 胸がきゅっと縮んだ。

 二日前に会ったときは、彼女はもっと薄かった。

 触れようとすれば風になって消えてしまいそうなくらい、輪郭が曖昧だったのに。


 ──(みお)


 その名を口に出そうとしたとき、川辺の温度が一度下がる。

 彼女の周囲に、白とも黒ともつかない(もや)が立っていた。

 風と混じり、世界の密度がゆっくり歪む。


 思わずまばたきをした。

 二日前には、見えなかった。

 見つめたのに、見つめ返された気がした。

 境界が、ひと呼吸ぶんだけ曖昧になる。


 息を吸うと、空気がざらりとした。

 夏の匂いの奥に、冷えた土と湿った花弁の気配が混じる。


「──祈る者(プレイヤー)だったの?」


 澪の唇がわずかに動いた。

「それは私が()()()()()()()()()()()()っていう質問?」


 反射的に構える。


 叶匣(かなえばこ)──その音を聞いた瞬間、体が勝手に動く。

 指先に力が入り、靴底が橋の石を噛んだ。

 あの名を知るのは、私が知る限り祈る者(プレイヤー)だけ。


 けれど澪は、ただ立っていた。

 力みも敵意もない。

 静かに、そこに“在る”だけだった。


 橋の向こうから蝉の声が渡ってくる。

 その音を裂くように、彼女はぽつりと口を開いた。


「……分からないの」

 それだけ言って、目を伏せた。


「でも、私は選ばれた人たち(プレイヤー)とは違うと思う」


「誰の敵でもないし、誰の味方でもない」


 言葉は風に乗って流れていく。

 その声の薄さが、かえって現実を確かにしていた。


「……私たちは似てるね、風吹」


 その言葉が、水面に小石を落としたみたいに響いた。

 “似てる”──その一語が胸の奥を掻きむしった。


「やめて」


 澪が一歩近づいた。手が伸びる。


「──触んないでよ!」

 声が鋭く弾け、橋の上を風が逆巻いた。

 靄が白く散り、陽の光が一瞬、色を失う。


 澪は何も言わなかった。

 ただそのまま、目を細めて私を見ていた。


風吹(ふぶき)はなにに怯えているの?」

 その声は穏やかで、遠くの海鳴りのように低かった。


「……だってあなたも、(もや)の中にいる」


 風が止んだ。

 音のない世界の中で、澪の言葉だけが残る。


「白き靄、祈りと願い」

 澪の声が、沈黙よりも静かに響いた。


「祈りは願いを(はら)み、願いはやがて呪いとなる」


 言葉がひとつ落ちるたび、世界がわずかに沈む。

 川の流れが遅くなり、光の粒が呼吸をやめた。


 澪は(うた)うように言った。


「私は──お父さんを愛してる。

 お父さんと、互いに想い合えるよう祈ってる。

 その祈りが形になるようにと、願ってる」


 澪の澄んだ声が、空気すら沈めていく。


「お父さんは、私のすべて。

 生まれた理由であり、

 生きている意味であり、

 生きていく理由」


 靄がゆっくり揺れる。


「私は、お父さんを愛してる。

 お父さんを“祈り”でつなぎとめて、“願い”で私に縛りつけたい」


 澪が息を吸った。

 そのわずかな気配で、橋の上の熱が引いた。



「そんな私の祈りと願いは──呪いと何が違うのかしら」



 音が遠のき、匂いが沈む。

 蝉の声も途切れ、川の流れが皮膚の裏をなぞるように聞こえた。


 (のろい)が澪の足もとを這い、夏の色をゆっくり奪っていく。


「裂けゆく(さかい)(まなこ)(うつ)ろなる心の穴。()られざる者の(かお)


「八つの願いは、もう三つが消えた。残りは五つ」


「最後のひとつが残るとき、叶匣はその目を開く」


 静寂が波紋のように広がり、肺の奥で痛みを立てた。


「そして、願いは叶うのよ」


 澪が顔をわずかに傾ける。


風吹(ふぶき)。ねえ、()()()()

 その目には、色というものがなかった。


「あなたなら──()()()何を願う?」


 胸の奥がきゅっと縮んだ。

 言葉が喉の奥で固まり、声にならない。

 呼吸をしたはずなのに、肺に水が満ちていくような感覚だけが残る。


 川の音が近づいた。

 光の反射が欄干に滲み、底のほうで青が脈を打つ。

 私と澪のあいだで、その光がゆっくり揺れていた。


「川の流れは、どこに繋がっているのか」

 澪の声は、水面の向こうから響いてきた。


「答えが出たら、教えてね」


 音の底で何かがはじけた。

 気づいたときには、澪の姿はもうなかった。


 残されたのは、青く濁った水の匂いだけだった。


◆202X年8月9日午後8時58分

相川(あいかわ)


 夜が降りていた。

 蛍光灯の唸りが、静かに天井へ溶けていく。

 夕飯の湯気はもう消え、味噌汁の表面には薄い皮が張っていた。


 澪の声が、まだ頭の奥に残っている。骨の内側にこびりついて離れない。


「遅かったな」

 桜が台所から顔を出した。

「飯、温めるから。座れよ」


 私はうなずき、椅子に腰を下ろした。

 箸を取る手が、少し震えた。


 温め直された味噌汁の匂い。

 けれど、湯気の中にいるのは別の誰かみたいだった。


「ねぇ、桜」


「ん?」


「あの“私そっくりな人”って、どんな人だったの?」


 桜の動きが止まる。

 レンジの低い唸り音だけが残った。


「どうして、そんなことを」


「いいから、教えて」


 少しの間。

 桜は何かを言いかけて、やめた。

 視線が宙をさまよい、唇が一度だけ震えた。

 そして、静かに息を吐いた。


「……真っ直ぐで、不器用で、でも頑張り屋で。よく笑う子だったよ」


 言葉の端に、わずかな(にじ)みがあった。

 笑う子を思い出すことが、笑えないほどの痛みになる。


 短く息を飲む。

 その“よく笑う”という響きが、胸の奥を掠めた。


「全部教えて。はじめから」


 声が自分でも驚くほど低く出た。

 それは命令でも懇願でもなく、何かを確かめたいという本能の音だった。


 桜は、少しだけ(うつむ)いた。

 視線が床の一点に落ちて、そのまま動かない。


 しばらくの沈黙。

 時計の秒針がひとつ鳴るたびに、空気が沈んでいく。


 桜は喉を鳴らし、ゆっくり息を吐いた。

 それから、まるで記憶の引き出しを一つずつ開けていくように、言葉を選びながら話し始めた。


「……同じ日に、生まれたんだ」


 桜の声は、どこか遠くを見ているようだった。

 その一言のあと、静かな時間が流れた。


 私は黙って聞いていた。


 耳に届くたび、胸の奥で何かがずれる。

 声の温度も、言葉の輪郭も、私の知らない場所のものだ。


 蛍光灯の光がテーブルを撫で、白い皺のような影を作る。

 桜の横顔がその影に沈んで、ひどく遠く見えた。


 桜の語る“その子”は、

 私の知らない生の重さを持っていた。

 その子は、確かに桜の記憶の中で呼吸していた。


 私は聞きながら、

 自分の内側から泡が立つような感覚を覚えた。


 浮かび上がる前に弾けて、

 また沈んでいくような、苦い泡。


 私の中には、何もない。

 記憶も過去も、何もない。すべては残り香みたいに漂っているだけ。


 桜が語る“彼女”の思い出を聞けば聞くほど、私の存在が、ますます薄く透けていく気がした。


 言葉の端々から、光がこぼれてくる。

 その光が、胸の奥で泡立って、痛くなった。


 ──祈りは願いを孕み、願いはやがて呪いになる。

 澪の声が、また耳の奥で反響した。


 桜がこの話をすること、それ自体が祈りの続きなのかもしれない。

 過去を手放せず、想いを抱きしめたまま言葉にすること──。

 それはきっと、祈りであり、願いであり、そして同時に呪いでもある。


 忘れられないという名の、やさしい呪い。


 胸の奥がざわめいた。

 桜の声が続いているのに、意味だけが耳の奥でこぼれていく。

 言葉の一つひとつが、水の底でゆらめく光みたいに遠かった。


「ねえ、桜」


 声が、勝手に出た。


「ん?」


「私を通して、誰を見てるの」


「────」

 桜のまつ毛が、わずかに震えた。

 その沈黙が、答えよりも雄弁だった。


「……何言ってんだ、お前をみてるだろってすぐ言わないんだ」

 自分でも知らない声が出た。

 低くて、掠れていて、声が──震えた。


 静かだった。

 台所の時計の音が、世界の中心みたいに響いていた。

 桜は何も言わなかった。

 その沈黙が、いちばん痛かった。


「……似てるって、わかってるよ」

 吐き出すように言葉が出た。


「言われなくても、わかってる! 写真。笑ってた。あの子。私と同じ顔で、私の知らない笑い方してた!」

 自分でも制御できないくらい、声が大きくなる。


「ねぇ、桜……“似てる”って言葉、嫌いなんだよ」

 息が震える。


「似てるって言われるたび、私の中の“私”が削られてく気がする。

 誰かの残り香みたいに思われて、ここにいる私が、どんどん薄くなってく」


 喉が焼ける。

 それでも言葉は止まらなかった。


「私ね……ほんとはきっと怖いんだよ。桜が優しい目で私をみるたび、私の向こうに別の誰かの影を感じるから」


「笑いかけられても、一緒にゲームしてても、桜が“その子”の続きを見てる気がして……息ができなくなる」


 手が震える。

 視界がにじむ。


「私は私が分からない!

 桜にとって私は“あの子”の代わり? それとも記憶がないことへの同情?

 毎日はちゃんと楽しいよ……!

 笑えるし、ご飯もおいしいし、ゲームも映画も漫画も通販も──全部楽しい!

 空もきれいで、朝も昼も夜も、世界はこんなにも生きてるのに!」


 拳を握る。

 言葉が刃みたいに尖っていく。


「でもね、桜……そんな世界の中で、私だけがぼやけてるッ!

 世界が光ってるのに、私だけ影みたいで!

 私はここにいるのに、私は私が誰だかわからなくて!

 こんなに世界はキラキラしてるのに、私だけがこの世界の一員じゃないみたいに思える!」


 声が割れた。

 胸の奥で何かがちぎれる音がした。


「ねぇ、教えてよ桜。私は、誰で……なんなの?」


 桜の唇が動いた。

 けれど、音にならなかった。


 その沈黙が、返答だった。

 “彼も答えを知らない”という、どうしようもない現実だった。


 私の中で、何かがはじけた。


 笑いとも泣きともつかない息が漏れる。

 喉の奥が震えて、言葉にならなかった。



「……ごめん」



 やっとの思いでそれだけ言って、椅子を引いた。


「風吹」


「大丈夫。帰ってくるから」



 玄関を出た瞬間、夜の匂いが肺に沈んだ。


 ──ねえ、呪いの子。

 あなたなら、本当は何を願う?


 答えは、出なかった。


 空気が、潮みたいに冷たかった。

 一歩踏み出す。

 コバルトの夜が爪先(つまさき)を包んでいった。

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