File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(伍) 202X年8月9日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月9日午後1時30分
富ノ森調査事務所
昼下がりの光がブラインドの隙間を縫い、机の上に濃い格子模様を落としていた。
俊兄が藤田直哉──あの通り魔事件の容疑者で、入院中の男──の病院に出かけているため、事務所は俺ひとり。
一緒に行きたい気持ちを、ぐっと飲み込んで。
モニターの光に顔を照らされ、マウスをせわしなく動かす。追っているのは、五日前の衝突死事件の記事だ。
住宅街で人が次々に壁や電柱へ突っ込んでいった。
ニュースは慎重に「連続衝突死」と報じている。
だが、ネットはもう祭り騒ぎだ。
《またしても富ノ森》
《風の祟りだって婆ちゃんが言ってた》
《透明人間、また出た》
笑いと恐怖が入り交じったスレッドを、指先が惰性でスクロールする。
「謎の影」「風の壁」──どれもブレた映像ばかり。
画面の光だけが、現実よりも饒舌に思えた。
カメラには異常なし。
映るのは、人と車と、風に揺れる木の葉だけ。
それでもコメント欄は“見た気”になってる連中で溢れていた。
風吹の勘が当たっているとして。この事件が祈る者の仕業だとして。
それが誰なのか、今のところ手掛かりが掴めない。
せめて住宅街で聞き込みが出来ればと思うが、当然現場にはまだ警察の目がある。
動きにくい。
シンプルにそう思う。
エアコンの風が書類の角をめくる。
その乾いた音が消えかけた瞬間、金属が擦れる音がした。
内部で小さな歯車がこすれ合うような、微かな音。
──誰かが鍵を回している。
息を止めて視線をやると、ドアがすでに開いていた。
森崎刑事が、そこに立っている。
額に浮く汗、浅い息、焦げたような匂い。
鍵穴には、細い金属片がまだ差し込まれたままだった。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れた。
「……不用心だな。鍵はちゃんとかけておいた方がいいぞ」
「冗談でしょ? 現職の刑事さんがピッキングします?」
森崎は返事をしない。
熱を帯びた風が入り込み、苛立ちの匂いを運んできた。
そのまま事務所へ踏み入る。足音が床の埃を巻き上げた。
一瞬どうすべきか判断が遅れる。
森崎は机上のパソコンを一瞥し、「衝突死」の見出しをかすめる。
「……お前、まだ事件を追ってるのか」
言い方は責めというより、呆れに近い。
俺はとっさに立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。
「麦茶、あります。今日もお仕事ですか?」
冗談のつもりだった。だが、背中に落とされた声は、冗談を通り越して硬質だった。
「謹慎中だ。ちょいと大人げなく上に逆らってね」
振り返る間もなく、肩を掴まれた。
掌の熱が、布越しに皮膚を焦がす。
次の瞬間、強い力で背中を押される。
体が椅子の背にぶつかり、そのまま腰を沈めさせられた。
木脚が床を擦って、短く軋む。
「所轄の身で、本庁の目ェ盗んで藤田に無断で会いに行った。そういうことだ」
息が詰まる。
掴まれた肩の跡が、じわりと熱を持っていた。
近い。森崎の呼気が、頬のあたりで荒く弾む。
汗と煙草と、冷めたコーヒーの匂い。そのどれもが、森崎の切迫を物語っていた。
「……大人げない、ですね」
言葉が喉に貼りついて、皮肉にもならなかった。
森崎は応えず、ゆっくりと手を離す。
椅子を逆向きに引き寄せ、背もたれに腕をかけて乱暴に座る。
額から落ちた汗が机に一滴、静かに染みをつくった。
「なりふり構ってられなくてね」
短く息をついて、森崎は俺をまっすぐに見る。
目の奥に、生々しい圧が宿っていた。
「お前と瀬川は、何を知ってる?」
低く響く。
質問というより、訴えに近い。
森崎の焦りと、俺の喉の奥で凍った息が、同じ空気の中でぶつかっては弾けていく。
息を整えながら、できるだけ視線を逸らさないようにした。
背後のモニターがスリープに落ち、画面が黒くなる。
森崎の顔と、そこに映り込む自分の顔が重なって見えた。
「知ってることなら、もう話してます」
声が出た瞬間、喉がひりついた。
「おかしな事件が続いてることも、犠牲者が出てることもわかってます。俊兄はともかく、俺にできることなんてほとんどないですけど……警察に話せることは、ちゃんと話してます」
森崎は反応しない。
唇を噛んだまま、手元のペンを二度三度転がしてから、低く言う。
「瀬川はどこだ」
「調査に出てます」
沈黙。エアコンの風が書類をめくる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「なぜ衝突死のあった住宅街に居た」
喉が鳴る。視線を机の木目に落とす。
「……俺、地元の人間ですよ。普段から通る道で事件あったら気にするでしょう」
森崎の目が細くなる。
指先がゆっくりと机を叩く。
焦りが音になって、狭い部屋を叩いていた。
「──最近やけに甘い匂いのする女に会ったことは?」
いきなりの質問に、反応が遅れる。
「女?」
「病院の廊下で見かけた。茶髪で、妙に甘い匂いがした。あれは君たちの仲間か?」
「違います。知りません」
即答する声が少しだけ強くなる。
森崎は表情を変えず、じっと見ていた。
その視線が皮膚の奥に沈み込んでくるようで、背筋に冷たいものが走る。
「崩落した映画館で、君は何を見た」
「その話は警察署で何度もしました。その、性被害に遭ってた女性が監禁されてるかもと考えて踏み込んだら、急に建物が崩れたんです」
「なぜ瀬川はカフェ・リュミエールの事件を追っている」
心臓が跳ねた。
呼吸が一拍遅れて戻る。
疑われている──そんな程度じゃない。たぶん俺と俊兄は、もう監視下だ。
「仕事……だと思います」
「誰のどんな依頼だ」
「俺ただのバイトですよ。何から何までは知らされてないですって」
森崎は眉を寄せたまま、視線を逸らさない。
机と椅子の間に張り詰めた空気が、乾いた音も出さないまま沈んでいく。
「そもそもお前は何者だ。
二十歳そこそこに見えるが、どうして探偵事務所なんかにいる」
「俊兄には昔から世話になってて。兄貴分みたいな人なんです。俺、大学休学してて……塞いでたのを見かねて、手伝わせてもらってるだけです」
「大学の休学理由は?」
呼吸が短くなる。
答えを探しても、言葉が喉の奥で溶けて消える。
室内の冷気が薄く、肌に張りついた。
「……事情があって。家のことです」
その一言で、空気が止まる。
森崎はしばらく黙ったまま、額を押さえた。
その仕草に、ようやく人間らしい疲労の匂いがにじむ。
蝉の声が、窓の外で一段高く鳴いた。
冷房の風が書類を揺らし、その音だけが会話の余韻を吸い込んでいく。
森崎はポケットから無造作にスマホを取り出した。
手が汗で濡れているのだろう、画面に触れるたびに光が滲む。
親指が画面を滑り、映像が始まる。
「この女を、見たことはあるか」
差し出された画面。
病院の監視カメラ映像。
廊下を歩くひとりの女が、鮮明に映っていた。
肩までの茶髪。整った顔立ち。だが、その表情は薄く、温度がない。
「……知らないです」
森崎は即座に食い下がった。
「ほんとか。どこかで見たろ」
「見てません。誰なんです?」
「分からんから聞いてる。このあとこの女は藤田の病室の前まで行き、警官に会釈したあと、何もせずそのまま帰った」
森崎の声が震えた。
目の奥に怒りとも絶望ともつかない光が揺らぐ。
森崎はスマホを握ったまま、わずかに俯いた。
息をひとつ吐く。熱のこもった声が、かすかに掠れていた。
「──その、十五分後だ。藤田が死んだ。俺の目の前で」
「……は?」
思考が一瞬で白くなる。
何かが頭の中で崩れ落ちていく音だけが、遠くで鳴っていた。
──藤田が、死んだ。
「病室で、だ」
森崎は顔を上げ、俺を真正面から見据えた。
その瞳に宿っていたのは、怒りでも悲しみでもなく、困惑。
理解を拒まれた人間の、痛みに近い表情。
「死因は、溺死」
脳のどこかで、時間の針が止まる。
冷房の風が肌を撫でるのに、感覚がついてこない。
病室で、溺死──そんな馬鹿な。
言葉にできず、口の中がカラカラに乾いていく。
「水も浴槽もない部屋で、だ!」
森崎は吐き捨てるように言い、拳で机を叩いた。
机が震え、ペンが転がった。
「どうしてだよ……!」
声が爆ぜる。
目の前の男が、職業の仮面を捨てていた。
焦りの奥から滲むのは、どうしようもなく人間らしい無力の色だった。
「俺にはもう手がかりがない。上は“事故”で片づける気だ。謹慎も食らって、署にも戻れねぇ。……それでも、どうしても納得できないんだ」
言葉の端が震える。
「お前らは何か知ってるんだろ。──カフェの件、藤田の件、映画館の崩落、衝突死!
この町で何が起きてるのか、どうしても掴みたい。頼む、教えてくれ!」
森崎の声が震えながら落ちる。
お願い、という言葉に変わる寸前の熱。
拳を握る音が、静かな部屋でやけに大きい。
俺はただ、言葉をなくしていた。
呼吸をするたびに、胸の奥に小さな痛みが走る。
──藤田が、死んだ。
頭の中で何度も反響する。
麦茶の氷が解ける音が、まるで遠くの雨みたいに聞こえた。
そのときだった。
外で、かすかな物音がした。
森崎が顔を上げる。
互いに一瞬だけ視線が合う。
何も言わず、同時に立ち上がってドアへ向かった。
外気が流れ込み、夏の匂いが押し寄せる。
その風の中に──甘い匂いが混じっていた。
花の香りのようでいて、もっと濃く、湿った匂い。
空気の中で舌に張りつくような、人工的な甘さ。
森崎は短く息を呑み、事務所前の廊下を睨む。
次の瞬間、顔が一変した。
「……絶対に、また話を聞きに来るからな!」
そう言い捨てて、森崎は走り出した。
足音がコンクリートを叩き、階段の方へと消えていく。
開け放たれたドアの向こうで、甘い匂いがまだ残っていた。
風が止まり、空気が動かない。
その静けさの中で、匂いだけが──こちらを見ていた。