File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(肆) 202X年8月7日
──Side 相川家 居候 水瀬 風吹──
◆202X年8月7日午前10時08分
富ノ森市・住宅街
「ねぇ、病院行こうよ。藤田目を覚ましたんだから」
朝の空気はもう夏の色をしていた。湿気の粒が光を噛んで、道端の金網に小さな虹を作っている。
桜は返事をしなかった。
ポケットからスマホを取り出し、無言で画面を開く。短くメッセージを打つ指の動きが、妙に早い。
送信音が鳴った直後、着信音が割り込んだ。
桜の肩がびくりと跳ねる。
電話の相手は瀬川だった。
「……桜です。はい、藤田が目を覚ましたって」
短い沈黙。桜の眉がわずかに動く。
「……ええ、はい。すぐ俺と風吹も病院へ。え?──飲食店の件、ひと段落ついたんですか。はい」
受話口から低い声がかすかに漏れた。
“病院なら、俺の方が近い。こっちは俺に任せろ。事務所に戻って住宅街の件を頼む”。
桜は小さく頷いた。
「了解しました。……はい、気をつけて」
そのあと一分に満たない会話を交わして、通話が切れる。
画面の光が消えたあとも、桜の指先がわずかに強張っていた。
緊張がそのまま空気に移ったみたいに、場が静まる。
「行くなって?」
答えは分かってるけど、一応聞く。
桜はしゃがみ込んで現場のチョーク跡を見ていた。肩越しに振り返らず、「ああ」とだけ。
「さっき、森崎刑事から“お前を疑ってる”って言われた。そんな状態で病院行ったら、自分から火の中に飛び込むようなもんだってな」
声は乾いていて、夏の空気に溶けた。
私はフェンスの向こうを覗き込んだ。血の跡は消されて、粉の白さだけが残っている。
「へぇ。疑われるのって、ちょっと面白いね。スパイみたい」
「面白くない。そしてお前また勝手にサブスク課金したな」
バレた。
「だって昨日の夜、観たんだもん。“シャドウ・プロトコル”。あれ超かっこよかった」
「タイトルからしてろくなもんじゃないな」
「潜入して、裏切って、爆発して、最後にキスして終わるの。最高だった」
桜は眉をひそめて、ため息をついた。「お前の頭の中、火薬とロマンしか詰まってないな」
「いいでしょ? 燃えてて、ちゃんとキラキラしてるんだから」
私が笑うと、桜の口元が緩んだ。
風が通り抜け、髪が頬を撫でた。夏の匂いが混ざって、空気が甘くなった気がした。
「本当に、お前ってすぐ影響されるよな」
「だってさ、あの人たち、迷わないんだ。撃たれても、走って、助けて、笑って……頭で考える前に身体が動くの」
「それは、考える暇がないだけだ」
「ねぇ桜。私もさ、あんなふうに生きてみたい。撃たれて、転んで、笑って、泣いて。ちゃんと、生きてるって感じのやつ」
「充分、毎日騒がしいだろ」
「そういう意味じゃない」
唇の内側に言葉が引っかかる。けれど、出せなかった。
私は代わりに足元の砂利を蹴った。乾いた音が、風に溶けて遠ざかる。
桜がフェンスから離れてスマホを見た。
「俺は事務所に戻る。ネットで事故の証言を集める」
「地味」
そう言うと、桜が顔を上げた。
墨を落としたような綺麗な黒い瞳が私を真っすぐ射貫く。
「……できることをやるだけだよ」
「できること?」
「ほっといたら、また誰か死ぬ。何もせずに何かが起きて、出来ることがあったんじゃないかって思うのが怖いんだよ」
「そっか」
私はふうっと息を吐いた。桜の声が、いつものからかい甲斐を失っている。
こういうときの桜は止まらないことを、短い付き合いだけど分かってきた。
額の汗が光って、そこだけ現実の匂いが強くなる。
「じゃあ私は、ちょっとブラブラしてくる」
桜の眉が少しだけ動いた。「どこへ?」
「風のあるとこ。ここ、息苦しい」
遠くでトラックのブレーキが軋んだ。
フェンス越しの道路は、太陽に焼かれて揺れていた。
「風吹」
呼ばれて、振り返る。
「あんまり遠くへ行くな」
桜の声が風の中で擦れていた。
笑って答える。
「うん。……風の向こうくらいまで」
桜が諦めたように息を吐いた。
◆202X年8月8日午前10時14分
富ノ森市内二級河川真名川 鏡見橋
しばらく歩くと、橋の上は昼の光で膨らんでいた。
川面に反射した陽が、風に揺れて私の頬を撫でる。
アスファルトの照り返しが熱い。世界そのものが焼けた鉄板みたいだった。
私は欄干に手をかけ、飛び乗った。
川の上を風が抜けた。足元の影がふらりと揺れる。
両手を広げて、私はゆっくりと欄干の上を歩く。下を覗けば、川面が鏡みたいに空を映している。
その青さがあまりに深くて、どちらが上なのか分からなくなる。
車の音も人の声も、遠い。
蝉の鳴き声だけが空の底で響いていた。
その音さえも、自分の鼓動に聞こえた。
私は笑った。
風が髪を持ち上げ、スニーカーの底を押した。
少しバランスを崩して、危うく前のめりになる。
でも落ちない。
風の子だからなんて冗談が、喉の奥で小さく転がった。
前を見たまま、ゆっくり息を吸う。
空気が甘い。川の匂いと、夏草の匂いと、熱された鉄の匂いが混ざって、まるで新しい季節の味がした。
──その時。
背中に、ふと視線を感じた。
振り返る。
さっきまで誰もいなかった橋に、ひとりの若い女が立っていた。
高校生くらいだろうか。
彼女の髪がゆっくりと風に揺れている。
薄い青の服。細い肩。光の加減で、川の色を映していた。
目を凝らしていないと、景色へ溶けてしまいそう、と思った。
欄干の上で立ち止まる。
彼女は黙ってこちらを見ていた。
目の色が、水みたいに淡くて、底が見えない。
その静けさが、不思議と怖くなかった。
むしろ、なぜか彼女を“知っている”気がした。
まるで、遠い夢の続きを見ているみたいだった。
「……危ないよ」
彼女が言った。
風の音に混じって、その声が胸の奥に届いた。
私は笑って答えた。
「大丈夫。落ちても、泳げるから」
「落ちた先が、水だとは限らないでしょ」
少女の声は、風の音に溶けていく。
私は眉を上げ、欄干の上からひらりと飛び降りる。
靴底が橋を叩いて、乾いた音をひとつ残す。
彼女の立つ場所まで数歩。近づくほどに、空気が少しだけ冷えた。
「私、風吹。あなたは?」
不思議と彼女から目を離せず、口が勝手に聞いていた。
少女はゆっくりとこちらを見た。
瞳の中に、空と川と私が全部映りこんでいる。
なのに、どこにも焦点がない。
「……澪」
澪は何も言わず、私を見ていた。
目を合わせているのに、彼女は世界のどこにもいないような気がした。
たった一言なのに、空気が変わる。
夏の光がわずかに冷えて、世界が一拍だけ止まった。
「変な名前」
そう口にした瞬間、自分でも笑い方が下手だと思った。
けれど、澪は少しだけ唇の端を動かした。笑ったのかもしれない。
私は、ただ息を吸った。
胸の奥が、少しだけ重くなった。
「澪、ね」
「うん」
「ここで何してたの?」
「探してた」
「何を」
「人。お父さん」
その言葉のあと、風が止んだ。
川面の光が一瞬だけ鈍くなって、澪の髪に影を落とす。
「……ここにいるの?」
「いる気がする」
「気がする?」
「うん。思い出せないけど、手が覚えてるの。あの人の髪の触り方とか、朝の匂いとか」
澪の声は静かだった。言葉を選んでるというより、浮かんだままの音をそのまま出している感じ。
「思い出せないのに、覚えてるって変だね」
「そう?」
「……夢の断片みたいだね」
「でも、“好き”だけは消えないの」
その一言が、胸の奥で小さく跳ねた。
私は目を逸らした。
川の水が太陽を弾いて、視界が眩しく滲む。
「好きだけは忘れない、ね」
「うん」
「なんか、ドラマみたい」
「ドラマ?」
「ほら、愛のために生きるとか、そういうやつ。だいたい爆発して終わる」
澪が少し目を丸くしたあと、静かに笑った。
「風吹は、そういうの嫌い?」
「んー、どうだろ。好きって言葉、まだうまく掴めないんだよね」
「掴めない?」
「うん。好きって、何かを見てきれいって思うのと同じ? それとも、君を守るためなら俺は世界中を敵に回したっていい! って思うこと?」
「後ろのはマシだけど、どっちも違う気がする」
澪の声は柔らかかった。
「息、みたいなもの」
「息?」
澪は少しだけ首を傾げた。
「止めたら、死ぬの」
澪と目が合う。
「──ほんとに、死ぬと思う」
「お父さんがいないと、空気がないの。どんなに外が明るくても、世界の音がしても、全部、止まって見える」
澪の声はなにかに祈るみたいだった。
「……すごいね、それ」
自分でも驚くくらいの声が出た。
「どうして?」
「そんなふうに言えるの、初めて聞いた。誰かが誰かを好きって言うのって、だいたいなくさないようにとか守りたいからとか、そういうのばっかでさ」
「そうなの?」
「うん。澪のは……もっと、まっすぐだよ」
「すごくなんかないよ。それしかないの」
「それしか?」
「でもそれだけでいいの。だって、そこに全部あるから」
「全部?」
「生まれてきた理由も、生きてる理由も、生きていく理由もぜんぶ」
「……もし、それがなくなったら?」
澪は目を開けて、ゆっくりと私を見た。
「その時は、私もいらない」
風が二人の間を抜けた。
川の音が遠くで響いている。
私は、その言葉を胸の中で転がした。
それがあれば、他に何もいらない。
その響きが、どこか羨ましかった。
──「いらない」
私はその言葉を頭の中で何度も繰り返した。
どこかで何かが引っかかって、うまく息ができない。
澪には、揺るがない理由がある。
好きという一点だけで、全部がつながっている。
もしそれが壊れたら、彼女ごと消えてしまうほどに。
私は……? 何を軸に立っている?
誰かを想って、立っていたことなんてあったのだろうか。
記憶の奥を探しても、何も触れない。
思い出せないというより、最初から形がない感じ。
私という輪郭だけがあって、中は透けている。
胸の奥が、少し痛かった。
澪は川を見つめたまま、何も言わない。
風も蝉の声も遠のいて、時間だけが滑っていく。
風がゆるく橋を渡る。
光の粒が水面に跳ねて、澪の輪郭を一瞬だけ溶かした。
私はその光を目で追いながら、
ほんの一瞬だけ、心の奥で小さく思った。
──いつか思い出せるだろうか。
澪はもう、こちらを見ていなかった。
川の流れを追うように、ゆっくりとまばたきをする。
その横顔を見ながら、私は胸の奥に残った“何か”を掴もうとした。
けれど、それは指のあいだをすり抜ける水みたいで、
掴もうとするほど形を失っていく。
「ねぇ、澪」
呼んでも、返事はなかった。
一瞬、風さえ止まった気がする。
さっきまで澪がいた場所に、影だけが落ちていた。
風が、それを静かに散らしていった。