File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件(參) 202X年8月7日
──Side 富ノ森署 刑事課 警部補 森崎 達也──
◆202X年8月7日 午前10時18分
富ノ森市立総合病院 駐車場
俺はハンドルの上に額を預けた。灰皿の吸い殻がひとつ、崩れて落ちる。
火の消えた煙草の匂いが、湿気を含んだ空気の中で鈍く膨らんだ。
「係長、ほんとに被疑者に勝手に接触するんですか?」
受話口の向こうで山村の声が裏返った。
「これ、殺人事件ですよ。本庁案件ですって! 課長にドヤされるどころじゃ──上が何て言うか!」
「ンなこたァわかってんだよ。今しか、ねぇんだ」
山村の声を切る。
三日前の住宅街。
死者四名。男女比半々。死因は「衝突による全身圧損」。
現場に走行車両なし、スリップ痕なし、目撃者なし。鑑識・科捜研の見立てでは薬物反応も外傷器具の痕も検出されず。
書類にすれば、それだけの話だ。
だが、実際は──骨が砕け、顔が潰れ、肉片がアスファルトに貼りついていた。
あれを“事故”と呼ぶ神経を、俺は持ってない。
本庁は“説明困難案件として保留”のひと言で片づけた。
この三日間、報告書の文面が何度も書き直されているが、現場の実感は一行も反映されていない。
笑わせるなよ。
──富ノ森は春からずっと、おかしい。
五月十六日。
最初はカフェ・リュミエールでの不審死だった。
客の男が一人、胸を押し潰されたように死んでいた。
それ以外は、テーブルも椅子もガラスすら無傷。
三十五メートル先では、トラックが起こした交通事故。
どういう理屈か、その事故が空間をこえて衝撃だけ突っ込んできたとしか思えない遺体。
六月九日、月曜の通り魔事件。二十七人負傷。
通り魔なんて言うが、斬りつけた人影も凶器もなく、倒れた市民の身体には傷だけが刻まれた。
瀬川が言った。「透明人間がいるとしたら」。
そのあと旧映画館の崩落。七月十八日。
女学生死亡。調査の結果、彼女に性加害を加えていたと目される加害者男子生徒が三人行方不明。
性加害動画が出て、事件の裏に人間の闇があったのは確かだ。
崩落の理由は今も不明。
どの事件にも、共通して出てくる顔がある。
瀬川俊二。相川桜。
二人は“月曜の通り魔事件”では、透明人間と思しき窃盗事件の被害者から依頼を受けて動いていた。
その調査の過程で、藤田直哉の情報を警察に提供している。
つまり、協力者としての筋は通っていた。
旧映画館の崩落のときも同じだ。
行方不明になった男子生徒三人の内の一人を依頼のもとに追っていた。
その途中で被害女生徒の性被害を知り、拉致監禁の可能性を考えて、相川が加害の舞台となった廃映画館に踏み込んだ。
不法侵入ではあるが、動機としては理にかなっている。結果、たまたま相川が侵入した、そのときに建物が説明不能の崩落。
女生徒は瓦礫の下敷きになり、相川は建物から脱出後、瀬川と共に事情説明に出頭した。
当然、映画館の件以降ふたりには尾行をつけた。
瀬川は、明らかにカフェ・リュミエールの不審死を追っている。
だが、他には動きがない。
いまのところ、瀬川も相川も、すべての事件に顔を出していながら、加害側にいるという証拠は一切ない。
それどころか、二人とも警察に協力的な態度を取っている。
「瀬川が犯罪に加担する想像ができんのだよな」
俺が知る人間の中で、奴はもっとも優秀な刑事だった。
粘り強くて、頭も切れて、何より“正義”って言葉を疑わない。上には煙たがられたが、現場では信頼されていた。
結局、その実力を買われて本庁に引き抜かれた。
そして、あの事件を境に退職。今は探偵を名乗っている。
だがあんなことがあったとしても、あいつの中にあるものは変わらないと信じている。
筋の通らないことを嫌う頑固さ。理屈より正義と信念を優先する、融通の利かない性分。
あの正義感の塊みたいな男が、人を傷つける側に回るとは思えない。
相川も妙な若造だが、長年の刑事のカンが鈍っていないのなら、悪意はない。
それでもあの二人が、何かを知っているという確信はある。
しかし、確証がない。
引っ張る理由もなければ、任意同行の名目すら立たない。
協力的な民間人を無理に取り調べれば、今度はこっちが叩かれる。
今の時代、警察が“勘で動いた”なんて書かれたら、それだけで一巻の終わりだ。
俺たちは、どれだけ疑わしくても、証拠がなけりゃ何もできない。
それが、現場を腐らせる。
……それでも、真相に触れるための手札がまったくないわけじゃない。
この一連の異常の中で、唯一、今なら“触れられる”人物がいる。
藤田直哉。
嫌疑は、奴の母親の殺害容疑。
さらに家宅捜索の結果、紛失届が出ていた財布が何十点も押収された。
年金暮らしの母親の脛を齧って生きていたことも分かった。
とどめに、奴自身が歩道橋から転落した際、通り魔事件で使われたと思しきナイフが現場から見つかっている。
手口はともかく証拠と動機が揃っている。
どう考えても、藤田は“透明人間”その人だ。
本庁はすでに殺人事件の被疑者として奴を押さえに動いている。
けど、もしあいつを先に本庁が囲えば、全部が分からなくなる。
この町で、何が起こっているのか。
あのカフェの圧潰死も、通り魔も、崩落も、今回の衝突死も──全部、誰かの机の上で“関連なし”に変えられる。
俺には、確信がある。
本庁に先を越されたら、真実は二度と掘り返せない。
だから、俺が行く。
先に、藤田に会う。
この町をずっと見てきたのは俺だ。
どの路地で風が止まるか、どの時間に匂いが変わるか。全部知っている。
富ノ森で何が起きているのか。
この目で確かめるしかない。
蝉の声が車内に染み込む。
湿った風が、窓の縁で鳴っていた。
◆202X年8月7日 午前10時27分
富ノ森市立総合病院
病院の正面玄関をくぐった瞬間、
空気の温度が一段下がった。
消毒液と柔軟剤の匂いが混じった、どこにでもある病院の空気。
それなのに胸の奥がざらつく。
ここが“生”と“死”の境目だと、身体のほうが先に思い出す。
藤田直哉は三階東棟三〇二号室。
当然、病室前には制服が立っている。
見舞いや面会は全面禁止。だがもう今しか、チャンスはない。多少強引でも押し切るしかない。
そう思ってエレベーターの前に立ったときだった。
——甘い。
鼻腔を突くような、ねっとりした匂い。
焦げた砂糖みたいな甘さが、鼻の奥を刺す。
一瞬で汗が冷えた。
足音はしない。
けれど、湿った気配だけが近づいてくるのがわかった。
女が角を曲がって現れた。
灰青のブラウスに、膝下までのタイトスカート。
髪は肩までの茶色。顔立ちは整っているのに、どこか血の気が薄い。
両手には花束。真紅のガーベラ。
目が合った。
だが、その目はこちらを見ていない。
通り過ぎざま、香りがふたたび絡みついた。
まるで喉の奥に砂糖水を流し込まれたような息苦しさ。
鼻の奥が焼けて、思わず眉をしかめる。
——この匂い、どこかで……。
振り返ると、女の姿は、エレベーターホールの向こうに消えていた。
香りだけが、まだそこに残っている。
俺は小さく息を吐き、額の汗を拭った。
……気のせいだ。
そう思いながら、エレベーターの階数表示を見上げる。
数字の変わり方が、やけに遅い。
エレベーターを降り、東棟の廊下を曲がる。
昼間だというのに、照明の光が白く沈んで見えた。
廊下の最奥、壁際に小さなプレート。
──三〇二号室《藤田 直哉》。
俺はドアの前に立ち、深く息を吸った。
消毒液と混ざった、あの甘い匂いが、まだ微かに残っていた。
病室の前には制服が二人。どちらも若い。夏の制服の襟元が、汗で少し濡れている。
一人が俺に気づいて姿勢を正した。
「警察の管理です。面会は──」
言いかけたところで、俺は胸ポケットから警察手帳を出し、無言で見せた。
「富ノ森署、森崎」
若い警官の目が一瞬だけ泳ぐ。
「ですが、上からは──」
「時間を取らせる気はない。こっちはこの町の現場で動いてる。責任は俺が持つ」
声を荒げたわけでもない。
けれど、それだけで空気が変わった。
短い沈黙のあと、警官は小さくうなずいた。
もう一人が無線に手をかけたが、止めるように首を振る。
「……五分だけです。何かあればすぐ呼びます」
「助かる」
俺は軽く礼をして、ドアノブに手をかけた。
金属の冷たさが、妙に重かった。
◆202X年8月7日 午前10時30分/富ノ森市立総合病院 三階東棟三〇二号室
ドアを開けると、ひんやりした空気が肌にまとわりついた。
冷房が強すぎるのか、消毒液の匂いに金属の匂いが混ざっている。
ベッドの横では、ナースが点滴の流量を調整していた。
背の低い女性で、マスク越しに小さく会釈をする。
「刑事だ。確認が済んだら、すぐ出る」
そう答えると、彼女は一瞬だけ目を見開き、うなずいた。
ベッドの上の男——藤田直哉。
顔色は灰のように白く、唇は乾いていた。
右手に点滴、左手にはモニターのセンサー。
心電図が穏やかな波を描いている。
「藤田直哉。話がある」
反応はなかった。
呼吸は浅く、まぶたが微かに震えただけだ。
ナースがシリンジの中身を確認しながら言う。
「投薬は朝の分で終わってます。鎮静剤も切れてますから、意識はあるはずなんですが……」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、藤田の喉が不自然にひくついた。
胸が大きく膨らむ。
呼吸ではない。
まるで何かを飲み込むような、内側から押し上げられる動きだった。
「おい、どうした——」
ナースがすぐに駆け寄り、脈を取る。
ぐぶ、と湿った音。
泡が喉からあふれた。
唇の端から、透明な液体がこぼれる。
水だ。
いや、もっと濁っている。
乳白色。温かい。
「オイ! 医者を呼べ! 早く!」
叫ぶ。
壁のコールボタンが押され、数秒後には医師が駆け込んできた。
しかし、間に合わない。
液体は止まらず、喉と鼻から溢れ続ける。
ベッドのシーツは乾いたまま。
床にも飛沫はない。
なのに、藤田の口からだけ、水音がした。
「呼吸——戻りません!」
心電図の波が乱れ、警告音が室内に鳴り響いた。
俺は壁際に下がりながら、その光景をただ見つめるしかなかった。
医師が顔をしかめて叫んだ。
「肺が……水を吸ってる! 排出反応……溺れてる、病室で!?」
誰も信じられなかった。
医師が胸骨圧迫を始めた。
別の看護師がアンビューバッグを口に当てる。
それでも、泡が気道を塞ぐように湧き続けた。
……一分、二分。
やがて警告音が一本の線になった。
そして──静寂。
◆同日 午前10時58分
富ノ森市立総合病院 医務室
死亡確認。
医師の診断は「急性呼吸不全の疑い」。
ただし、肺の内部に異常量の液体が確認されたという。
窓は閉鎖。
給排水設備なし。
床も乾燥している。
医師は首をかしげたまま、「後日、司法解剖で確認を」とだけ言った。
現場の医師と看護師が立ち会い記録を残し、遺体はそのまま警察搬送。
◆202X年8月8日 午前9時14分/富ノ森署 刑事課
司法解剖の報告が届いた。
死因は、外的要因のない溺水による窒息死と推定。
検死結果:肺内液体は水ではない。
──羊水。
医師のコメント欄に、こうあった。
〈成人男性の肺からは、本来検出されるはずのない成分を確認〉。
俺は報告書の余白に、ひとこと書き足した。
──理解不能。再調査、要。