File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(貮) 202X年8月7日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月7日 午前9時12分
富ノ森市・相川宅
「──続いては富ノ森市北部の住宅街で、男女四人の遺体が発見された件についてです。三日前、帰宅途中の男女四人が路上で相次いで倒れ、いずれも搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は事故と事件の両面で調べを進めています」
画面の花束の白が湿気に溶け、線香の煙が画面を超えて鼻の奥を刺す。
アナウンサーの声が途切れると、耳の奥に自分の鼓動だけが響いた。
画面の静止画に映る現場は、普段から自分も歩くことのある住宅街だ。ありふれた道に並んだ花束が、急に異界のしるしに見えて背筋を冷やす。
四人が同じ場所で叩きつけられ、命を落とした。
偶然で片づけられるはずがない。
ニュースは「事件と事故の両面」と言う。
けれど俺は知っている。過去の夜が証明した常識では触れない領域があることを。
スマホを手に取り、指がためらいなく動く。
『三日前の住宅街の件、調べますか?』
すぐに返事。
『調べるべきだ。ただ俺は飲食店での不審死を追っていて手が回らない。無理のない範囲で頼めるか』
俊兄らしい背中を押すような短文。
メッセージアプリを閉じようかとした途端、背後から腕が回り込んできた。
肩越しに、しなやかな腕が絡む。
背に胸の弾力。頬に温かな吐息。
吐息が首筋をなぞり、ぞくりと鳥肌が走る。
肩甲骨のあたりに押し当てられた体温が、背骨を伝って腹の奥に落ちていく。
締め切った窓の内側は、熱気と湿気がこもって逃げ場がない。
背中に押しつけられた熱と、部屋に溜まった夏の暑さが一緒になって、息苦しさを増していった。
少し動けば腕の輪がきつく締まり、逃げ道がない。
8月。真夏。理屈では突き放すべきなのに、指先ひとつ動かせない。
外では蝉が狂ったように鳴きしきっていた。耳を塞ぐほどの音のはずなのに、今はうまく届かない。
彼女の吐息と鼓動だけが全身を支配し、蝉の声すら水の底に沈んだように遠ざかっていく。
部屋の湿気に混じって、彼女の汗の匂いがすべてを塗り替える。
本来なら部屋に漂うはずの埃や木材の匂いが、一瞬で追い出されていく。
「へえ。面白そうじゃん」
耳元で響く声は澄んでいるのに、吐息だけは生ぬるく肌を撫でた。汗と夏草の匂いが鼻腔を満たし、脊髄に火花が走る。
視線を肩に向ける。
すぐそこに、彼女の顔があった。
睫毛は長く、鼻筋は真っ直ぐ。記憶にある顔そのままだ。ただ小麦色に灼けた頬が違っていた。血の熱を隠さず放っている。
藍の瞳が上目づかいで射し、光を呑んで煌めいた。
束ねられた髪が肩越しに垂れ、結び目から揺れるポニーテールが頬をかすめ、さらに首筋へと滑り落ちる。汗に濡れた毛先が肌に絡みつき、冷たいのか熱いのか分からない感触が神経を焼いた。
その一瞬ごとに火照りが跳ね上がり、声を出す余裕すら奪われる。
心臓の跳ねをごまかそうと、深く息を吐く。
吐き出した息が、彼女の髪に触れて揺れる。
近すぎる距離に自分の熱まで映し出される気がして、余計に視線を逸らせなかった。
「……おい、離れろ」
震えを帯びた声が、彼女の笑いに呑み込まれた。
「いいじゃん、ケチ」
頬を寄せる圧。笑い声が皮膚の内側まで震わせてくる。
胸骨の下で跳ねる鼓動を、彼女に聞かれている気がする。
自分だけが焦らされている錯覚に、喉がひりついた。
手の置き場が見つからず、指先が宙を彷徨う。
絡みをほどき、息を整えた。
「……とにかく、一度、現場に足を運ぶ」
風吹は悪戯っぽく笑い、隣に寄り添った。
◆202X年8月7日 午前10時01分
富ノ森市・住宅街
路地に足を踏み入れた瞬間、空気の色が変わった。
線香の焦げた匂いが湿気に混じり、灰色の膜となって鼻を覆う。
花束が電柱の根元やブロック塀の脇に並べられている。白や紫の花弁が湿気を吸って重く垂れ、青臭い匂いを地面に広げていた。
新聞社の腕章をつけたカメラマンが黙々とシャッターを切る。カメラのレンズが光を反射して、自分を狙った弾丸のように感じる。
野次馬がまばらに集まり、囁き声の視線は規制線の内側に吸い込まれていた。
カーポートのかかった車庫の前にはまだ赤茶の混じった細かなガラス片が散っていて、朝の光に鈍くきらめいていた。洗い流されたはずなのに、アスファルトには円い染みが残っている。
陽射しはもう容赦なく頭上から落ちてきて、路面の照り返しが靴底を焼いた。
湿った匂いと混じり合った熱気が、肺の奥に貼りついて離れない。
頭上からは真夏の陽射しが突き刺さるのに、脳裏に浮かぶのは四人が叩きつけられた瞬間の光景だった。
想像した途端、汗ばんだ肌の下を冷水が這ったように背筋が冷える。暑さと寒さが押し寄せ、足が一瞬すくんだ。
路地の突き当たりにある郵便ポストにはへこみがあり、赤黒い跡がわずかに残っていた。
その脇に、ほかより大きな花束がいくつも重ねられている。
きっと惜しまれて逝った人なのだろう。
赤いポストに寄せられた白が、こびりついた血の痕を覆い隠しているように見えた。
その前で立ち止まる女性が、指先で花弁をそっと撫でていた。
声はなく、肩の震えだけがぬるい空気越しに伝わってくる。
俺は深く息を吸った。
線香の煙と花の匂いが喉を擦り、あとから現場処理の匂い──消毒液と古い油の混じった匂いが胸の奥に沈む。
風吹が横で鼻を鳴らす。
「カン。祈る者で確定」
知る限り外れたことがない風吹の勘。
つまり、これは──また異能。
胸が重くなる。
助けなきゃ、と思うほど、遅れて辿り着いた命の重さが喉を塞ぐ。
あの日から、どれだけ走っても追いつけなかった後悔が、また繰り返されるのかもしれない。
線香の煙が目にしみた。
肩を小突く風吹。俺の気分だけが重くなっていく中──規制線の向こうから声が落ちた。
「……また顔を見かけるとはな」
湿った朝の空気よりも低く響く声だった。
振り向くと、灰色のスーツに身を包んだ森崎刑事が立っている。
額の汗を指で拭い、閉じた手帳を胸ポケットに滑り込ませる。その仕草の合間、視線だけは逸らさず、こちらを射抜いていた。
「月曜の通り魔のときも……映画館が崩れたときも。奇遇だな、どこにでもいる」
言い回しは柔らかい。だが声の隅に棘があった。
灰色の眼差しは笑わず、測るように撫でてくる。
「……見に来ただけです」
返す声が喉で途切れる。呼吸が浅くなり、肺に入りきらない。
森崎は短く頷いただけだ。肯定とも否定ともつかない曖昧な仕草。
だがその沈黙が、言葉よりも重くのしかかる。
煙草を弄ぶだけで火を点けない。湿気を含んだ葉の匂いが漂う。視線は外さない。
その間の重さに、背筋がじわりと汗ばむ。
森崎はふと口調を変えた。
「そういえば──月曜の通り魔事件、藤田の情報提供ありがとうな。瀬川俊二に礼を言っといてくれ」
煙草を胸ポケットに戻しながら、軽く顎を引く。
その一言で、胸の奥に凍った映像が甦った。
先月末のニュース。
藤田の自宅近くの裏山で発見された彼の母親の遺体。ブルーシートの担架が揺れ、記者のフラッシュが閃いた。
あのとき、俺は画面の向こうの事実に言葉を失った。
そして今、こうして現場に立ちながらも、重さだけが腹の奥に沈んでいく。
俊兄が警察に聞いた話によると、藤田は風吹から逃げたその足を歩道橋から滑らせて転落。そのまま市内の病院に入院して意識不明。約ひと月半もの間だ。
俺の口が勝手に動いた。
「……藤田は、まだ目を覚まさないんですか?」
森崎が眉を動かす。
「身体は順調に回復してるそうだがな」
その言葉が空気に落ちた途端、短く笑った。
「……っと、しゃべりすぎか」
湿気を含んだ風が、規制線の黄色をわずかに揺らした。
その揺れが、会話の余韻をすぐに呑み込む。
唐突に着信音が鳴った。
強く日が照り付ける路地。甲高い電子音が響き、俺の肩が思わずこわばる。
最近は少しマシだが電話の音は相変わらず苦手だ。記憶の奥を混ぜ返されるようで、心臓のリズムが乱れる。
森崎はポケットからスマホを取り出し、「失礼」とだけ言って踵を返した。
規制線の向こう、少し離れた場所。受話口を手で覆う。
やがて電話を終え、灰色のスーツの姿がこちらへ歩み戻ってきた。
胸ポケットにスマホを滑り込ませる仕草のまま、鋭い視線を投げる。
「じゃあ俺はこれで失礼させてもらうよ」
わずかに間を置き、吐き捨てるように続けた。
「いろんな現場に顔を出すのはやめとけ──参考人として署で長話したくなきゃな」
その言葉を残し、森崎は背を向けた。
灰色の背中が路地の角に吸い込まれ、黄色い規制線だけが残る。
静かな風が流れた。線香の匂いが濃くなり、喉にしみる。
隣で風吹が口角を上げて言う。
「藤田が、目を覚ましたってさ」
胸の奥が冷えていく。
心臓が一度、痛みを伴って跳ねた。
「なんで分かった……?」
思わず問いが漏れる。
「普通に聞こえた」
風吹は肩をすくめ、悪戯を告げるように言った。
「……地獄耳にもほどがあるだろ」