File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(壹) 202X年8月4日
──Side 株式会社トリニティ広告 営業一課主任 古川亮介──
◆202X年8月4日 午後6時18分
富ノ森市・住宅街
夕方の住宅街は静かだ。細い路地に薄い影がのび、家々の窓はレースの幕で口を閉じている。
アスファルトは昼の熱を薄く残し、革靴にぬるい反発を返す。
電柱の上で蝉が鳴く。規則的で、遠い。エアコンの室外機が低く唸り、どこかの庭からホースの水が土を打つ音が一度だけした。
洗剤の匂いが微かに漂い、鉄柵には今日干されたタオルの水気がまだ残っている。
風はない。シャツの背に汗が貼りつき、肩にかけた鞄のストラップが心地よく重い。ポケットで家の鍵が触れ合って、小さく鳴った。
こういう帰り道が好きだ。仕事を積み上げたあとの体の疲れが、家に近づくほど軽くなる。
営業一課の主任として、今日は一本いい提案ができた。
数字も反応も、確かな手応えがあった。
チームの若い子が目を輝かせて「勉強になりました」と言ってくれたのも嬉しい。
こうして地道に、正しく前に進めば、景色は必ず変わる。──明日もまた同じようにやればいい。それが性に合っている。
角を二つ曲がれば、玄関の灯り。スマホには妻から短いメッセージ。『ミルク、そろそろ』
画面の端にある、娘の写真を拡大する。眉が妻に似てきた。
生まれて二か月、頬は日に日に丸く、泣く時の口は小さな三日月みたいに曲がる。
抱くと、体温が胸にまっすぐ伝わる。ミルクの甘い匂い、やわらかい髪、指の小ささ。あれを思い出すたび、背中の汗さえ嬉しい。
妻は賢い人だ。物事を急がない。俺が話すと最後まで聞いて、必要なことだけを返す。困った時は要点を押さえ、嬉しい時は子どもみたいに笑う。
家事も育児も完璧なんて思っていないのに、結果的にきちんと整っている。彼女がいるだけで、家の空気はまっすぐになる。俺は仕事をがんばれる。
帰る場所がいいと、働くのも楽しい。今日も「おかえり」と言う声が聞きたい。その横で、娘が小さく手を握り開きするのを見たい。
羨ましいと言われたら、素直に頷ける。忙しさはある。でも、今の俺は幸せだ。二人が待つ家まで、あと三分。
ポケットから鍵を出しかけたときだった。
背後で空気が裂けた。息を呑む間もなく、俺の右脇を何かがすり抜ける。ただ風だけが肩を打ち抜いた。
黒い布の裾が一瞬翻った。白い何かがちらと見えた気がした。考える暇もなく、その影は前方へ異様な速度で飛ばされていく。
視線の先で、それはまるで宙に吊られた人形みたいに持ち上げられ、電柱へ叩きつけられた。ドン、と乾いた衝撃。柱全体が震え、金具が軋む。体は折れ曲がり、地面にずるりと滑り落ちた。目が離せない。呼吸が止まる。頭が理解を拒んだ。
何だ……あれは。大きな荷物か、誰かの運んでいた家具か。いや、そんなわけがない。あんな速さで飛ぶものがあるか。
崩れ落ちた塊がわずかに揺れる。影の中で、腕のようなものが伸びている。だが、布かもしれない。影の錯覚だ。そう思いたかった。
しかし、電柱の根元に転がったものが、かすかに震えた。光に照らされた先に見えたのは、白い……手のような。いや違う、違ってくれ。だが革靴の底が夕闇に覗いた瞬間、背中を氷の手で撫でられたように全身が固まった。
いや、そんな……。
喉がからからに乾く。自分の口からかすれ声が漏れた。
「……人だ……」
その瞬間、胃が裏返り、膝が折れそうになった。耳の奥で心臓の音が狂った太鼓みたいに鳴り響く。
何が起きた? ぶつかった? 車? だが音も光もなかった。ただ“吹き飛んで叩きつけられた”。
「救急車……!」ようやく言葉になった。ポケットをまさぐる。いや違うスマホはもともと持っていた。指が震えてホームがなかなか開かない。早く、早く。
画面に指を走らせようとした瞬間、背筋に冷気が走った。耳の奥で、何かが切れるような風切り音。振り返る余裕もなく、視界の端を細い影が抜ける。
「ま、待っ……」声が喉で潰れた。
買い物帰りなのか、白いエコバッグを提げた小柄なおばあさん。その体が地面を蹴らずに凄まじい速度で横へすべっていた。何かに腰を鷲掴みにされ、力任せに引きずられるように。
おばあさんの足が宙を泳ぎ、サンダルが片方、アスファルトに転がる。そしてその体が停められていた乗用車のフロントガラスに叩きつけられた。
ガラスが白い蜘蛛の巣のように一気に広がり、赤い飛沫が散る。車体全体が揺れ、防犯装置が甲高く鳴り響いた。耳を裂くようなアラーム音が住宅街に反響し、胸の奥をかき乱す。
バッグの中身――玉ねぎやきゅうりが路面を転がり、乾いた音が耳の奥で引き延ばされる。
青臭い匂いが鼻から胸へと一気に押し上がり、横隔膜が痙攣して喉を突き上げる。
膝が震える。あり得ない。振り返る。誰もいない。何もない。のに、どうして。
おばあさんは塀にもたれかかるように崩れ、顔は見えない。ただ、腕がだらりと垂れ、落ちたエコバッグの布が風もないのに揺れていた。
頭が真っ白になる。震える手でスマホを握りしめたまま、数字が押せない。
さっきの人に続いて、今度は目の前で。二人も。短い時間の中で。
「な、なんだよ……」声が裏返り、喉に引っかかる。胸の奥で心臓が跳ね続ける。
理解できない。事故じゃない。
頭の奥がガンガンする。立っているだけで足元が揺れるようだ。逃げたいのに、足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。スマホの画面がじわりと汗で曇る。
そのときだった。
視界の先に、人影がにじんだ。
スーツ姿。手にレジ袋。歩いてくる。
ただそれだけなのに、胸が跳ね上がった。肺が勝手に縮み、呼吸が止まる。
もう見たくない、もう十分だ、と頭が叫ぶ。けれど視線は釘づけになり、体が動かない。
足音はしなかった。けれど影はふわりと浮いた。
男の足が地面を離れ、宙に泳ぐ。袋が手を離れ、白い弧を描いて飛んだ。中から弁当のパックがはじけ、ソースの匂いが広がる。
「やめろ……!」叫んだのか、呻いたのか、自分でもわからない。
男はブロック塀へ吸い寄せられるように飛び、ものすごい音を立てて激突した。乾いた破裂音。塀が震え、弁当の中身が散乱して酸っぱいソースの匂いが漂う。体は折れたように崩れ、腕がだらりとぶら下がった。
頭皮が総毛立つ。三人。目の前で三人が続けざまに。理解できない。
喉が塞がる。空気が薄い。呼吸の仕方を忘れる。
どうなってる? 何が起きてる? 世界が壊れている。俺だけが取り残されている。
酸素が薄い。胸がぎゅうっと縮んで、肺に空気が入らない。
立っているはずなのに、足元が頼りない。世界が斜めに傾いているみたいに、路地全体がゆらゆら揺れて見える。
鼻腔を突き破る匂いが押し寄せる。
鉄の濃い匂い。温かい血がアスファルトに広がり、熱気と混ざって生臭さが一角を満たす。
喉の奥がきゅうっと引きつり、吐き出そうとしても声にならない。舌に鉄の味が貼りつき、肺の奥まで赤黒い重さだけ沈み込んでいく。
スマホを握る手が汗で滑り、アスファルトに落ちた。カバーが外れ、画面が小さくひび割れる。拾おうと腰をかがめた、その瞬間だった。
背後で、風が沈んだ。
空気が膨らみ、沈黙そのものが形を持ち、こちらを振り向かせようとしているようだった。
逃げなくては、と直感した。だが、遅かった。
トン、と。背中に軽く触れられる感触。
胸の奥が強く引かれた。体が、前へ落ちていく。
踏ん張ろうと足に力を込めても、地面ははるか後ろに逃げる。
勢いでスーツの布が背中から剥ぎ取られ、風にめくり上げられる。
内臓が浮き上がり、喉までせり上がってくる。胃が逆さに振られ、胸の中で心臓が無重力に浮いた。
視界に、赤黒い郵便ポスト。近づく。速すぎる。
「う、あ──」声にならない音が喉から漏れた。
最後に浮かんだのは、娘の小さな手の温もりと、ミルクの甘い匂いだった。
郵便ポストの赤が滲み、破片のように視界を切り裂く。
一瞬の無音のあと。
俺は、果実が潰れるような音を聞いた。