Fragment:水瀬 風吹Ⅰ
──Side 相川家 居候 水瀬 風吹──
◆202X年8月1日 午後7時12分
富ノ森市 相川家 二階・自室
夜の空はコバルト色だ。
夕焼けが沈んだあとに残る青は、群青でも藍でもない。まだ熱を抱えたまま、静かな揺らぎをひろげる色。
街灯が橙の光を落とすと、水面に石を投げたみたいに揺れて、夜空は幾重もの輪を描いて震えた。
窓を開ける。
むっとした湿気が押し寄せ、頬にまとわりつく。舌先に汗の塩が残り、湿気に混じると甘ったるくて重い。
首筋を流れる汗が風に冷やされ、一瞬ひやりとしたかと思えば、すぐまた粘りついて戻ってくる。夜の風は気まぐれで、私の肌を撫でては離れ、また舞い戻った。
窓の外、夜景の奥。丘の稜線に黒い積み木を重ねたような団地の影が浮かんでいる。
遠いのに、棟がいくつも並んでひときわ目立つ。
あれは何かと桜に聞いたら、十五年くらい前に倒産した企業の社宅団地だという。もう誰も住んでいない廃墟のはずなのに、夜空の下では奇妙な存在感だけが残っていた。
耳を澄ますと、夜は静けさだけでできているわけじゃなかった。開け放した窓から、細い声がいくつも流れ込んでくる。
鈴を転がすような虫の音。カサリと葉をかすめる羽音。間を置いて、別の声が応えるように鳴き、やがてひとつの波のように重なっていく。
音は柔らかいのに、湿気に包まれると重みを帯びて響いた。闇にしみ込んで、光の残滓と一緒に揺らめく。私はその響きを耳ではなく、皮膚で受け止めている気がした。
ふと、窓の外へ手を伸ばす。
夜気は水のようにまとわりつき、指先がかすかに震えると、そこから波紋が広がっていくように思えた。目には見えないはずの水面が空にあるみたいに、橙の街灯とコバルトの空が重なって揺れ、波を打ってほどけていく。
夜を撫でているのは私か、私を撫でているのが夜か。境目がほどけて、光も音も匂いも、全部がひとつのゆらぎになって胸に沈んでいった。
夜の色も、音も、匂いも、新しい。
窓の外に漂う湿気の重さでさえ、まるで宝石の粒を手に受けたみたいに鮮やかだ。
壁に映る橙光の影がひらひらと揺れるのを、私は目で追い、耳で聴き、肌で触れる。
この部屋で暮らすようになって、約一か月半。
四十六日を指折り数える。
部屋には、まだ私に馴染みきらない匂いが残っている。
乾いた木材のにおい。紙が古びて崩れる粉っぽさ。奥に沈む湿り気。時折それらに混じって、薄く甘い香りが漂う。
机の引き出しを開けた。
一枚の写真。
桜と、私と同じ顔をした女の子が並んで笑っている。肩を寄せて、楽しげに、当たり前のように。
見知らぬはずなのに、どうしてか胸の奥がふるえて、指先がその輪郭をなぞっていた。
写真の中の笑顔を見つめながら、心の奥に靄がかって霞む一角に目を向ける。
私と桜と瀬川――その三つの点を結ぶ線は、最初から歪んでいる。
たった一人の勝者があらゆる願いを叶えられる叶匣の遊戯。
私。桜。瀬川。一緒に動くことが、そもそも歪。
ただ、瀬川のことを、私はどうしても敵だと思えない。根拠などないのに、あの男が敵に回るビジョンが見えない。
桜に感じるものは、また違う。
彼の傍にいると、私はなぜか、形のない場所がざわめく。
まだ言葉にならない何かが、私を桜へ引き寄せ、同時にその境界を曖昧にしてしまう。
ずっと前から町のどこかで彼の気配を嗅ぎ取っていたような感覚。初めて彼を目にしたとき、それが確信に変わった。
それが何なのか、私自身にもわからない。ただ、切り離せないもののように、守らなければならないと思ってしまう。
ふぅ、と小さく息をついた。
夜は湿った絹のように肌を包み、虫の声は透明な雫となって鼓膜に滴り落ちる。
風に混じる土と草の匂いは舌の上で淡く苦く、街灯の光はまるで熱を帯びた花弁のように瞼の裏に散った。
五感がひとつに溶け合って、夜そのものに溶けていくような心地よさを感じる。
世界は、美しい。
◆202X年8月2日 午後5時42分
富ノ森市 相川家
桜宛の荷物が届いた――けれど注文したのは、勝手に彼のアカウントを使った私だ。
段ボールを開けると、そこに転がっていたのは――切り落とされたばかりの人間の手。
血の匂いこそしないが、皮膚の皺から爪の半月、関節の節まで精巧に作られている。光を受けると汗ばんでいるように艶めき、爪の縁には半透明のささくれまであった。
握ってみる。
肉を包む皮の張りと、その下で沈む柔らかい組織。指を一本ずつ折り曲げると、関節が「こきり」と鳴るような感覚が返ってくる。温度こそないが、重さと形は本物のそれと変わらなかった。
悪趣味極まりない玩具。ぞわりと鳥肌が立ち、背筋がひやりとしたのに、胸の奥からは笑いがこみ上げた。
机の引き出しに忍ばせれば、桜はどんな顔をするだろう。
そして夕方。
桜が無防備に引き出しを開けた瞬間――。
「……ッ!?」
息が詰まったような短い声。椅子を蹴るように身をのけぞらせ、机に手をついたまま固まる桜。瞳に走った恐怖が、私には最高のごちそうだった。
私は廊下に転がって、腹を抱えて笑った。
喉の奥で噴き出す笑いは止まらず、涙がにじむほど。
「……返品しろよバカ!」
ようやく吐き出された桜の言葉は、呆れと苦笑の混じった声だった。
その声さえも、私には冷たい水に素足を浸したように心地よく響いた。
桜と過ごす朝も昼も夜も、楽しい。
笑いすぎて息が切れたまま、机の上に置かれた写真に目がいった。
桜と、私と瓜二つの女の子が並んで笑っている。肩を寄せ合い、あまりに自然で、見ているだけで頬が緩む笑顔。
「ねえ、桜」
笑いを残した声で呼びかける。写真を指先で軽くつつきながら、口をついて出た。
「これ……付き合ってたの?」
桜の手が止まった。
眉をひとつ上げ、数秒だけ黙ったあと、小さく息を吐いて笑う。
「いや……違うよ」
「ふうん?」
私は首をかしげる。写真をもう一度見て、彼の横顔をのぞき込む。
桜は視線をそらし、窓の外にちらりと目をやった。
「生まれたのも同じ病院で、家も隣だったんだ。幼稚園から大学までずっと一緒」
言葉を選ぶみたいに途切れ途切れで続ける。
「世間からすれば幼馴染ってやつなんだろうけど……」
そこで言葉を切り、肩をすくめた。
私は黙って待つ。
「……兄妹とも違うんだよな。うまく言えないけど……分身、みたいな」
桜は少し照れたように口の端をゆがめた。
「半身、って言ったほうが近いかもしれない」
「半身?」
その響きを舌の上で転がすと、胸に熱が落ちた。
意味はよくわからないけど、ただの“友達”じゃ届かない距離にある言葉。
「今まで聞かなかったけどさ……振られたの?」
桜は一瞬、息を詰めたように黙り込み、それから視線を落とした。
机の木目を見つめたまま、低く答える。
「……亡くなった。この春に」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が張りつめる。
風の通り道さえ止まったみたいに静かで、私も返す言葉を失った。
数秒の沈黙。桜はふいに顔を上げ、ぎこちなく笑みを作る。
「……まあ、飯にしようか。何食べたい?」
声が少し上ずっていた。わざと明るく振る舞うみたいに、立ち上がって居間のある階下へ向かう。
それが彼なりの取り繕いなのだと、私はすぐにわかった。
その背中を見ていると、心臓にじくりと熱が滲み広がっていった。
◆202X年8月2日 午後11時41分
富ノ森市 相川家 二階・自室
食後、家のざわめきが眠りに沈んでから、自室に戻った。
灯りを落として窓を開けると、深夜の風がひやりと頬を撫でた。
昼間の熱気が残っているはずなのに、夜の風はまるで違う。湿った石畳の冷えをそのまま吸い上げたようで、舌の奥に渋く苦い味を残していく。草の陰で鳴く虫の声は細い硝子片みたいに耳に落ち、砕けた残響が胸の内側に広がった。
世界は、美しい。
昼間とは別の姿で。
暗闇が濃いぶん、わずかな光がやけに鮮やかで、闇に漂う匂いが一層くっきりと鼻を衝く。
窓辺に射した街灯の光が床に淡く揺れ、肌を撫でる風の動きと重なって、影までもが呼吸をしているよう。その影は冷たく、まるで濡れた絹を踏むような感触を足裏に伝えてきた。
遠くの丘の廃団地さえ、その光と風に絡め取られ、黒い鉱石のように夜空へ沈んでいた。
記憶がないせいで、私は世界を何度でも初めてのように味わえる。
壁をなぞる風の動きでさえ、初めて触れる楽器の音色みたいに瑞々しい。
だから毎日は楽しい。見えるものすべてが宝石みたいにきらめいて見える。
でも、ときどき。
こんな美しい夜に包まれるほど、理由のない不安が胸を刺す。
私はどこで生まれ、どう生きてきたのか。この美しい世界の中で私は何者だったのか。
根っこを持たない木が風に揺さぶられるように、足場を失った感覚が私をよろめかせる。
自分のルーツがわからないということは、自分がどこに立っているのかもわからないということ。
もし――叶匣が本当に、何でも願いを叶えるのなら。
私は、私を知りたい。
◆202X年8月4日 午後5時56分
窓の外の空は、群青に沈みかけていた。
風が軒をすり抜け、カーテンの裾を持ち上げる。
その動きが、なぜだか胸の内と重なって見えた。
じっとしていられなかった。
呼吸のたびに世界が狭くなるようで、
何かを確かめなければ、このまま溺れてしまいそうだった。
靴を履く。
ドアの鍵を音を立てないように閉め、外に出た。
夕闇の底で、街がゆっくりと光を灯していく。
湿った風の中、足音だけが小さく響いた。
私は歩く。
理由なんて、どこにもない。
ただ、この胸のざわめきを、どうにかしたい。
夜が、私を迎え入れるように、静かに満ちていった。
本エピソードより新章「コバルトの夜の底」開始です。
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