File3:月曜日の通り魔事件(Epilogue) 202X年6月16日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト相川 桜──
◆202X年6月16日 午後7時41分
富ノ森市立総合病院/処置室前
消毒液の苦味が舌に貼りつく。
蛍光灯の白は、縫い針の疼きまで透かすように冷たかった。
左肩から腕にかけて巻かれた包帯が胸郭を締めつけ、呼吸を浅くする。
扉が背中で閉まる。金属音が骨の奥で弾ける。
痛み止めがまだ効いているはずなのに、指先には痺れが残っていた。
「……大丈夫?」
処置室の扉を開けてロビーに出た瞬間、声がした。
振り向けば、壁にもたれてこちらを覗き込む彼女。
水色のTシャツは雨で濡れ、胸のあたりがナイフで裂かれていた。
布地が筋肉を浮かばせ、裂け目からのぞく素肌に視線を逸らす。
手には桜色の指ぬき手袋。場違いな鮮やかさが、目を刺した。
「……三十四針。肩と腕。全治一か月だってさ」
独白めいた答えになった。
彼女は目を丸くしたあと、なぜか小さく笑った。
「そっか。治るならよかった」
軽さに救われるどころか、逆に心臓がざわめいた。
奇跡。そんな言葉を信じるはずもなかった。
けれど叶匣なんてものがあるのなら。
この世には、俺の知らない奇跡がまだ残っているのかもしれない。
似ている──どころじゃない。まったく同じ顔。
三月八日。百日前もう二度と会えなくなった幼馴染が、平然と目の前に立っている。
そうとしか思えなかった。
「君は──」
喉の奥で言葉がもつれた。
足音。背後から。
「桜、怪我の具合は──」
俊兄の声。
振り返る前に、彼の視線が横を射抜いた。
壁にもたれる彼女と、目が合った。
「「あ」」
ふたり同時に声が漏れた。
蛍光灯の光がひときわ冷たくなった気がした。
空気が一瞬止まり、俺だけが置き去りにされた感覚。
俊兄が眉をわずかに上げた。
「……久しぶりだな。あの案件で会った」
彼女も頷く。
「うん。覚えてる」
俺の喉がひりついた。
知り合い。
俺の知らないところで、この二人は会っていた。
血の匂いがまだ指先に残っているのに、現実感だけが遠ざかっていく。
まるで自分だけ別の場所に立たされているようで、息が浅くなる。
喉が渇く。声が勝手に零れた。
「ふたりは?」
俊兄の声が落ちた。
「桜。彼女は祈る者だ。だが俺の敵じゃない」
彼女もすぐに頷いた。
「そうだね。私と瀬川は敵じゃない」
あまりにも自然で、息を呑む間もなかった。
二人とも疑いなくそう言う。
あらかじめ決まった脚本を読み上げたように。
胸の奥にひっかかりが残ったまま、口が動いた。
「……君は、本当に何者なんだ?」
彼女は首をかしげて、あっけらかんと笑った。
「私? さあね。覚えてないんだよ。自分の名前もわかんない。記憶喪失ってやつ」
肩の傷がうずいた。
冗談にしか聞こえないのに、妙に真顔だった。
「君もその……祈る者なんだよな。叶匣に選ばれた」
言いながら、自分でも震えているのがわかった。
彼女は少しだけ視線を泳がせた。
「正直わかんないんだけど、たぶんそうなんじゃない?
叶匣……言葉に、聞き覚えがある気がするから」
軽く言い放つ声が、やけに遠く響いた。
俺の知りたい答えにはならないのに、逆に胸をざわつかせる。
「ところで」
俊兄の声が落ちる。
「……藤田は、どうなった?」
答えようとした瞬間、肩が焼けるように疼いた。
言葉が喉で途切れ、顔が勝手に歪む。
「……いや、いい」
俊兄は短く言い、俺の額に指を触れる。
冷たい感触。
その瞬間、俊兄の身体がわずかに揺れた。
立ちくらんだように視線が揺れ、瞳の奥が鋭く細まった。
沈黙ののち、俊兄は低く吐き出す。
「……逃がしたのか」
胸の奥が詰まる。
言葉を探す前に、彼女が口を開いた。
「大丈夫だよ」
あっけらかんとした彼女の声。
「アイツは狼のふりをした羊。もう偽物の牙は折れてる。怖がって、ねぐらにだって戻れない」
俊兄は目を細め、ふむ、と短くうなずいた。
彼女の言葉が、自分の中の像と重なったように。
彼女は壁から背を離した。
「じゃ、そろそろ行くね」
背を向けかけた姿に、思わず声を飛ばす。
「待ってくれ。……どこに住んでるんだ?」
言ってみて、何言ってるんだ俺、と思う。
振り返った顔は、首をかしげるように笑っていた。
「どこって……橋の下かな。川で水浴びして、魚釣って、サワガニ食べて。そうやって生きてる」
一瞬、言葉が出なかった。
頭に浮かんだ光景は、野宿の冷たさと泥の匂い。
それを、まるで遊びの思い出みたいに言う声。
唇が渇いて動かない。
俊兄は眉を寄せ、軽くため息を漏らした。
「……そうか」
俊兄が顎に指をあてながら言う。
「橋の下じゃ不便だろう。……人手は常に足りないしな。うちに住むか?」
あまりにも自然な口ぶりに、胸がざわついた。
言葉より早く声が出ていた。
「駄目だ」──自分でも驚くほど強い声が出ていた。
俊兄が眉を上げる。
「駄目、とは?」
「助けてもらった恩がある。命を拾った。その礼を返さないといけない。……だから、うちに来てくれ」
吐き出すように言った。
衣食住を命の恩で差し出すこと。それしか思いつかなかった。
きっと、そうだ。
彼女は目を丸くしてから、肩をすくめた。
「ふーん。じゃあ、そうしよっかな」
あっけなさすぎる返事に、逆に息が詰まった。
俊兄は短くうなずいた。
「……わかった。異論はない。仕事がほしければ、事務所を手伝え」
彼女は目を瞬かせてから、軽く笑った。
「仕事かあ……考えとく」
「俺は警察に藤田の指名手配を改めて頼む。それと、地主の吉村さんにこれを返さなきゃな」
俊兄はポケットから小さなリングケースを取り出し、指先で軽く弾いた。
ケースの蓋がわずかに開き、中の光が蛍光灯に反射して瞬いた。
「また落ち着いたら顔を出せ。……じゃあな」
背を向け、背広の裾を翻して歩き出す俊兄の後ろ姿が、白い光に溶けていった。
労災おりるか、聞くのを忘れた。
◆202X年6月16日 午後8時15分
富ノ森市内 住宅街
病院を出ると、雨はまだ降り続いていた。
街灯に濡れた路面がぼやけ、にじんだ光が水面をゆらしている。
並んで歩く彼女の足取りは軽い。
包帯に締めつけられる自分の呼吸とは対照的で、横顔は雨粒をものともせず前を向いていた。
やがて家の前に着く。
隣の空き家は闇に沈んでいた。
瓦が風に鳴り、郵便受けのチラシが雨を吸ってぶよぶよと震えている。
湿った木材のにおいが夜気とともに鼻の奥にこびりつく。
窓ガラスは濡れた鏡のように街灯を返し、こちらの影だけを映していた。
彼女が立ち止まる。
「……ここ、なんか懐かしい感じがする家だね」
雨にかき消されそうな声だったのに、やけに鮮明に耳に残った。
帰らないはずの家に向けられる響き。
胸の奥で、古い痛みがじわりと疼いた。
◆202X年6月16日 午後8時16分
富ノ森市内 自宅
鍵を回す音が雨にまぎれ、重い扉が軋む。
中に入ると、むっとする埃の匂い。乾いた木材のにおいと混ざって、古い紙の粉っぽさが舌に残った。
廊下の奥からはカビ臭がかすかに漂い、空き部屋の闇に押し込められている。
靴を脱いだ床は冷たく、散らかった雑誌やプリントが足先を押し返した。
冷蔵庫のモーター音が低くうなり、時計の秒針が規則的に刻む。
遠くで踏切が鳴り、雨音にかき消されていった。
彼女は一歩、二歩と踏み込み、ぐるりと見渡す。
「汚い」
率直すぎる言葉に胸がちくりとした。
机には読みかけの参考書と空のカップ麺。
洗濯籠からはシャツがはみ出していた。
広すぎる家に残された孤独が、散らかりとして形を取っていた。
彼女は、鼻をひくつかせて小さく笑った。
「……でも、なんか落ち着く」
窓の外では街灯の橙光が濡れたガラスにまだら模様を描き、壁にゆらめきを投げている。
散らかっているだけの空間に、どうしてそんな安堵を見つけられるのか。
その言葉が、胸をかき乱す。
沈黙が落ちた。
包帯の下で脈打つ痛みよりも、胸の奥のざわめきのほうが強かった。
「君のこと、なんて呼べばいい?」
気づけば声に出していた。
彼女は首をかしげ、肩をすくめる。
「なんでもいいよ。名前、覚えてないし。興味もない」
喉が震える。
俺は一歩、彼女に近づいた。
窓を叩く雨粒の音が、まだ細かく部屋を包んでいた。
「──風吹だ」
口にした瞬間、胸がひりついた。
「君は、水瀬……風吹だ。風が吹くで、風吹」
彼女の瞳が大きく見開かれる。
赤い唇が蠟燭に命の火を灯すように、小さく動く。
「ふぶき……」
自分の舌で転がすように、もう一度。
「ふぶき……風吹」
何度か繰り返すうちに、声に熱が混ざっていく。
「風吹……いいね」
声は、夜気を温めるみたいに柔らかかった。
「すごく気に入った。私は──風吹」
笑みが零れ、目尻が柔らかくほころんだ。
その笑顔に見とれているあいだに、耳を満たしていた雨の音が少しずつ薄れていく。
窓を叩いていた水滴が途切れ、静寂がじわじわと広がる。
湿った空気が軽くなり、埃と木材の匂いが新しい風にかき混ぜられる。
街灯の橙光が水溜りから立ちのぼる蒸気を照らし、ゆらめく影が壁に踊った。
その笑顔に、幻が重なった。
二十一年間、いつもいつでも隣にいたあの顔。
失われたはずの記憶と、いま目の前にある光景が、ひとつに重なって見えた。
胸の奥で、固く結ばれていた何かがほどけていく音がする。
────その日、雨は止んだ。
作者からのお知らせです。
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次回更新は2025/10/2㈭の20:30前後を予定しています。
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引き続き『桜風吹にいだかれて』を完結までお楽しみください!