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桜風吹にいだかれて【「コバルトの夜の底」連載中!】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──
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Interlude:藤田 直哉

──Side 無職 藤田直哉(ふじたなおや)──

◆202X年6月16日 午後6時32分

富ノ森市内幹線道路沿い


 痛い。折れた(あばら)が胸の奥で擦れ合い、骨の内側で火花が散るようだ。

 咳をするたび、血の鉄臭さが喉を焼き、涙が勝手ににじむ。


 女の顔が脳裏にちらつく。白い(もや)なんか纏いやがって、偉そうに。

 まるで私は特別だって見せびらかすみたいに。特別なのは僕なのに。

 飛び道具だと? 上等だ。次に会ったら、なにをしてやるか……想像だけで嗤いが喉を濡らす。


 泣かせて、裸に引っぺ剥がして、ずたずたに辱めてやる。

 ×△□◎※して、◇◆●▼☆して、●×▼■■して、◇◆◎※☆▲▽して……まだ足りねぇ。

 頭の奥でぬめった欲望が泡立ち、痛みと混じって気色の悪い熱になる。


 痛い。痛い。右腕がぶら下がって重い。骨が折れてる。振動するたびに、腕の中で何かが擦れあってる音がする。

 力が入らねぇ。けど走る。走らなきゃ。止まったら全部が終わる。


 雨が強い。涙が止まらない。

 鼻が詰まり、呼吸のたびにズズッと醜い音が鳴る。

 この雨では認識阻害(のろい)が使えない。濡れたベールが視界を曇らせる代わりに、僕自身が街に晒される。

 すれ違う人間どもの目が、こっちに突き刺さる。見えないはずの僕を、見やがって。


「見てんじゃねぇよ……!」


 歯の隙間から声が漏れる。

 痛い。足元が滑って膝が揺れる。

 くそっ、痛い。痛いよ。母ちゃん。


 歩道橋の階段。目の前に現れる。

 昇るしかない。高く登れば、奴らから遠ざかれる。

 鉄の段に足を置く。雨でぬめった感触が靴底を撫でる。


 痛い。膝が笑う。呼吸が詰まる。

 右腕が役に立たねぇ。手すりが遠い。左手だけで体を引き上げる。

 背中に電気が走る。折れた骨が悲鳴を上げる。


 視線。通行人の視線が、針のように皮膚に刺さる。誰も触れていないのに、全身を撫で回されるみたいに。

「見んなよ……ッ!」と叫んだ声が裏返って、子供の泣き声みたいになる。

 じろじろと、いやらしい目で見やがって。


 心の奥から湧き上がる。あの目を歪ませたい。泣かせたい。沈めたい。

 次に会ったら、骨の一本一本まで弄んでやる。あの白い靄ごと、泥に沈めてやる。


 痛い。痛い。膝が折れる。

 金属がヌメり、靴底がつるりと滑る。

 バランスが崩れ、右腕に力を入れようとした瞬間、激痛が胸を裂いた。

 痛い、痛い、痛い。息が出ない。


 視界が傾く。

 世界が斜めに沈んでいく。

 階段の段差が遠ざかり、足元が空っぽになる。


 雨の粒が横殴りに頬を叩きつける。


 階段を昇り切った瞬間、背中を鋭くなぞるような視線を感じた。

 鳥肌がぴくりと立つ。

 下を見れば、階下の闇に一人、女がいた。

 茶髪のセミロングが雨で貼りつき、痩せた輪郭を黒い(もや)が縁取っている。

 視線が冷たく、確かな刃だった。


 構えようとして、足が滑った。金属の段がぬめり、靴底がつるりと沈む。

 痛い。痛い。右腕に力が入らない。折れてる。痛い。痛い。痛い。


 視界が裂け、音も匂いも剥がれ落ちる。落下するように、意識は過去の残骸に飲み込まれていった。


 父と母。両の手で笑われた夕暮れ……。台所の暖かさ、寝かしつけられたときのぬくもり。

 胸にあった単純な安心。痛い。あの温度が今は眩しく刺さる。


 学生時代。誰もいない教室。

 ちょっといいなと思ってやっていた女の縦笛を、口一杯に頬張っているのが、クラスメイトに見つかった。

 瞬く間に話は広まり彼女の顔が青ざめ、思わず吐き出した。嘔吐の音が床にこだまするのをみて、僕は表現しようのない昂ぶりを下半身に覚えた。

 指差し。クラスメイトの笑い。赤く腫れた頬。誰も手を差し伸べず、僕だけが恥に震えた。あの瞬間、から、僕はこの世に居るのに居ない透明人間になった。


 僕は悪くないのに。僕が落とした消しゴムを拾い上げて、僕に渡して、思わせぶりな視線を向けたあの女が悪いのに。


 過去が一緒に噛み合い、ねじれて胸の奥で黒い粘りを作った。痛い。痛い。湿った熱が意識をどろどろと満たす。


 足元が空間を切り裂く。回転する感覚。雨が流れ、音が伸びる。金属の冷たさが皮膚を擦り、肋が脳まで響くような衝撃が走った。痛い。痛い。痛い。視界が赤白に裂けて、世界が滲む。


 地面に叩きつけられる。衝撃が全身をつんざく。血の味、泥の匂いが口を満たす。叫び声が群衆を引き寄せる。

「おい、落ちたぞ!」「救急車!」——声が割れ、足音が群れを成す。


 その渦のなかで、白い顔が冷たく浮かんだ。

 転がる僕のすぐ足元。女がしゃがみ込んでいた。茶髪のセミロングが雨に貼りつき、痩せた輪郭を黒い靄が縁取る。彼女は、群衆のざわめきとはまるで別の温度をまとっていた。


 細い指がスマホを掲げる。濡れたレンズがこちらを舐めるように動く。

 一枚。もう一枚。さらに角度を変えて、肉を削ぐみたいに俺の顔を切り取っていく。


 僕の苦悶を、血と泥を、涙と(はな)でぐしゃぐしゃになった顔を——執拗に収めていく。

 シャッター音はしない。だが液晶の青白い光が脈打つたび、頬を焼かれるように照らされ、僕は自分が「記録」されていくのを理解した。


 女は、口元だけで笑った。声はない。だが笑みは消えず、長く、長く、雨粒よりもしつこく僕の視界に貼りついた。

 撮った画面を覗き込み、親指でスクロールし、拡大して確認する。血の滲む頬のアップ。泡混じりの口元。彼女の唇の端が、また少しだけ持ち上がる。


 痛い。痛い。意識がにじむ。

 群衆の叫びは遠のき、霞んだサイレンの音が頭の中で反響する中、女の笑みだけがやけに鮮明に浮かびあがる。

 最後に見たのは、スマホをポケットに滑り込ませる仕草。

 まるで記念品をしまうように、なにげなく。


 意識が泥の中に沈んでいく。

 遠くでサイレンと群衆の叫びが混じり合う。

 暗転する視界の中、あの笑みだけが皮膚の裏にこびりつき、頭蓋の内側で膿んだ花弁のように広がっていった。

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