File3:月曜日の通り魔事件(拾貮) 202X年6月16日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト|相川 桜──
◆202X年6月16日 午後6時19分
富ノ森駅前 裏路地
光に浮かんだ横顔を見た瞬間、呼吸が止まった。
雨上がりの路地に立つ彼女の輪郭から、靄が立ちのぼっている。
それは叶匣に選ばれた者──祈る者である証左。
絶望に沈んだ者の靄は、沼から染み出す臭気のような黒。
彼女を包むのは、しかし、穢れを拒むように澄みきった”白”だった。
胸を締めつける感情の瀑布。
目の前の彼女の顔は、死んだ水瀬風吹に瓜二つ──いやそのものだった。
けれど、漂う気配は儚さではない。日に焼けた素肌。
獣が大地を蹴る衝動と、女神が火を灯す烈しさ。
生の炎に溢れる眼差しは、風吹の顔をした別人だった。
「……っ」
声をかけようとしたのに、舌が動かなかった。何を言えばいいのか、頭が真っ白になる。
ただ。
──神様みたいだ──。
そう思った。
次の瞬間、襟首を荒々しくつかまれた。
胸がのけぞる。宙に浮く。
「な──っ!」
地面が遠ざかる。
背中に衝撃。
叩きつけられる寸前、腕が支えた。
抱えられたまま、路地を跳ね飛ぶ。
直後、見えない刃がフェンスを裂いた。
火花が散る。
鼻を灼く金属の焦げ匂い。
ほんの一瞬の差。俺の胸は割かれていた。
「……助けた」
彼女は短く吐き捨てるように言い、腕を放した。
硬い路面に膝をついた俺は、まだ震えの残る喉で必死に息を吸い込む。
短い吐き捨て。腕が放される。
膝をつき、荒く息を吸った。
「……見えてるの?」
「いや、全然」
即答。
また腕をつかまれる。
横へ跳ね飛ぶ。
背後の壁が裂けた。
コンクリート片が弾け飛ぶ。
モルタルの粉塵が喉を刺す。
「なんで避けれるっ?!」
「カン」
呆然とした。
──勘かよ。
「ちょっと邪魔だから、向こう行ってて」
彼女は俺の襟首をつかんだまま、大きく体をひねった。
体が宙を舞う。
「マジかっ──よっ!!」
衝撃。
路面に叩きつけられ、肺が潰れる。
彼女は震える空気を読むように動いた。
刃を紙一重でかわす。
空き缶が弾け飛ぶ。
電柱が削がれる。
完全には避けきれない。
腕に線が走る。
腿をかすめる。
血の匂いが混じる。
「全然見えないしどこいるかわかんないや」
笑うように言い、再び沈む。
赤がじわじわと滲む。
だが動きは止まらない。
一閃。
薄水色のTシャツが裂けた。
胸に赤い華が咲く。
俺の喉が鳴る。
白い靄が動いた。
意思を持つかのように傷へ集まる。
糸のように縫う。
光の膜が皮膚を閉じる。
血痕だけが布に残る。
裂け目から覗く褐色の肌は、もう傷ひとつなかった。
濡れた胸元が上下し、治癒の異常さを際立たせる。
「……嘘だろ……」
驚愕の吐息しか出なかった。
見えない刃の連撃が、不意に止んだ。
湿った空気だけが残り、路地の奥で水滴の音が規則正しく響く。
彼女は胸元を裂いたままのTシャツも気にせず、片手を前に差し出した。
桜色の指ぬき手袋を締めた掌。
天に向けたその指を、小指からゆっくりと一本ずつ折ってみせる。
──来いよ。
挑発は言葉より雄弁だった。
胸の奥を凍らせるはずの空虚に、彼女だけが熱を灯していた。
数歩、後方へ飛びのく。
濡れたアスファルトを蹴るたび、靴音が乾いた銃声のように響く。
「あのさあ」
壁際まで退いた彼女が、鼻で笑う。
額を濡らす汗も、瞳に燃える光も消さぬまま、挑むように吐き捨てる。
「あんた、バカでしょ」
飛び退いた先、路地に沈む一台の自販機。
鉄の塊を前に、彼女の足が止まった。
「──なんで飛び道具つかわないの?」
目を疑う。
両腕が自販機の縁に食い込み、踏みしめたアスファルトが悲鳴をあげて割れた。
固定ボルトが弾け、火花が雨粒に砕け散る。
メリメリと骨折のような音を立て、鉄塊が浮き上がる。
自販機はありえない軌道で宙を泳ぎ、内部の缶コーヒーやジュースがガチャガチャと暴れた。
路地全体が、重機を叩き起こしたみたいに揺れる。
筋肉の稜線が爆ぜる。
背筋が弓のようにしなり、腰の捻りが雷鳴となって全身を駆け抜けた。
その力は両肩から腕へ、握り込んだ掌へ、鉄塊の質量すべてを「凶器」に変える。
彼女は笑った。
「カッ飛べ」
──暴風。
空気が悲鳴をあげた。
重金属の塊がフルスイングされ、空気を切り裂いて白い弧を描く。
衝撃波が路地の壁を震わせ、貼り紙がちぎれて宙を舞った。
鈍い衝突音が耳を貫く。
鉄の塊が見えないものにぶつかった瞬間、世界が揺さぶられた。
振り抜かれた軌跡に沿って水煙が弾け、俺の頬を叩く風圧だけで皮膚が焼けるように痺れる。
次の瞬間、押し出されるようにその姿が突如現れた。
「イィイィイイイッッッ!!」
脂ぎった髪を振り乱した中年男──藤田直哉。
尻もちをつき、腕とあばらを抱え、痛みに歪んだ顔から唾を飛ばす。
その身体を、どす黒い靄がまとわりついていた。
まるで底なしの沼から吹き出した悪臭そのもの。
濃く、粘りつき、蠢きながら肩口や背中に絡みつく。
周囲に溜まった雨水すら濁らせて、闇をいっそう重く沈めていた。
白を纏った彼女と、黒に覆われた藤田。
対照のあまりに鮮烈な光景に、俺は息を呑んだ。
彼女の瞳が細められる。
深い藍に潜む光が、獣の牙のように剥き出しになった。
「──ぶち殺す」
その声は低く、路地全体を震わせる。
「消えても、逃げても、どこに隠れても……這いつくばって探し出して、必ず殺す」
黒い靄がざわめき、藤田の顔から血の気が引いていく。
下腹部が濡れ、悪臭が広がる。
声にならない悲鳴を残して黒い靄とともにかき消えた。
彼女はため息をつき、肩をすくめる。
「……あ、やべ、逃げちゃった。見えないなら追えないや」
路地に再び静けさが戻った。
残ったのは、雨と血と鉄の匂いだけ。
彼女は、ひとつ息を吐いてこちらを見た。
そして、桜色の指ぬき手袋をはめた掌を差し出してくる。
一瞬迷って。その手を取った。
生きた温度が指先から染み込む。
掌を通り、腕を這い、肩へ、胸の奥へ──心までじんわりと温めていく。
冷え切った血が溶け出すように、鼓動がやっと自分のものになった気がした。
思い出す。
病室で握ったあの手は、いつも冷たかった。
どれだけ強く握っても、零れていく熱を止められなかった。
いまは違う。
この手は確かに温かい。
俺を支える熱が、ここにある。
空を仰ぐ。
ぽつり、大粒の雨が頬を打った。
細い糸のような雨脚がふたたび広がり、濡れたアスファルトを濃く染めていく。
しとどに、しめやかに──やがてざわめきに変わる雨音。
水煙が立ちのぼり、遠ざかる世界を曇らせていく。
そのなかでただ、握った手の熱だけが、確かに存在していた。