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桜風吹にいだかれて【「コバルトの夜の底」連載中!】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──
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File3:月曜日の通り魔事件(拾壹) 202X年6月16日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年6月16日 午前9時02分

富ノ森駅前 商店街ロータリー脇


 雨はまだ細い糸のように降り続いていた。

 透明な合羽(かっぱ)のフード越しに見える街は、硝子の膜に包まれたみたいに濁っている。

 群衆の傘が擦れ合う音が、魚群の鱗が触れ合うみたいに絶え間なく続き、濡れたアスファルトは赤や青の信号を溶かして、歪んだ鏡を広げていた。


 本命は夕方だ。俊兄(しゅんにい)はそう読んでいた。

 けれど「もし外れたら」では済まない。だから俺は朝からここにいる。


 昨日の夜、俊兄と立てた作戦を思い出す。

 ひとつ、藤田の家を張るのは俊兄。扉が開いた瞬間、俺に知らせる。

 ふたつ、駅前で待ち伏せるのは俺。藤田がここに来ると踏んで。

 身体に濡れた雨粒さえ消してしまう透明人間。絶えず雨が降っているなら、水のベールを塗りつぶす輪郭があぶり出されるはずだから。


 俊兄は、最後まで反対していた。

「お前を危険にさらすのが気に食わん」と。

 俺は笑って言ってみた。まだ自分の異能(のろい)が何なのかもわからない。だがもし、とんでもなく戦闘向きの力だったら? 説得力も合理性もない話だが、押し切った。

 うまく笑えていた自信はない。


 喉の奥が渇く。スマホを握った手に、汗と雨が混じり、すべりそうになる。

 濡れたシャツの襟元には、夏なのにマフラー。濃紺の糸に縫い込まれた雪の結晶。風吹(ふぶき)から最後にもらったもの。

 俺は布地をぎゅっと握りしめる。毛糸は雨を吸って重く、それでも確かに温度を返してくれる。


 遠くに誰かの気配を感じる。

 群衆でもない、車の音でもない。背筋を撫でていく存在。

 嫌じゃない。むしろ、ずっとここにいてくれるみたいで。


『桜は、私のヒーローだよ』


 あの声が、雨粒のざわめきに混ざって耳奥に蘇る。

 でも、胸の奥にあるのは誇らしさよりもむしろむず痒さだ。

 俺はヒーローじゃない。ただ怖がって、それでも立ち止まれずにいるだけだ。


 何もできないかもしれない。

 それでも、もし自分にできることが一つでもあるなら。


 その「もし」にすがらないと、ここには立っていられなかった。


 ロータリーの端を、制服警官が二人組で歩いていく。

 無線の雑音が雨に混じって耳にかかる。

 先週の惨劇がここで起きたことは誰だって知っている。だから当然、巡回は強化されているはずだ。

 それでも俊兄は「人数が足りん」と言っていた。


 俊兄は森崎刑事に“透明人間”と藤田直哉のことを伝えていたが、証拠がなく取り合ってもらえなかった。

「先週事件があったばかりなんだから、当然駅前のパトロールは強化している。藤田とやらについてはなんの根拠もなく家宅捜索なんぞ不可能。そのうち事情聴取くらいは考えてやる」と。


 透明な合羽のフードを指先で押さえる。

 濡れた毛糸が胸の中で冷たく重い。

 鼓動が大きすぎて息が追いつかない。


「怖えよ」

 小さく漏れた声は、雨に溶けて誰の耳にも届かない。


 時間は重く、雨脚と一緒にゆるんではまた強まった。

 午前の張り込みは何もなく過ぎていく。通勤客の波が引いて、人通りはまばらになった。


 合羽の内側は自分の熱気で蒸れて、背中にじっとりと汗が貼りつく。

 じっと立っているだけで、膝の関節がじわじわと痺れていた。


◆202X年6月16日 午後1時26分

富ノ森駅前 商店街ロータリー脇


 午後になって、さすがに腹が減った。

 駅裏のコンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買って、路地のベンチに腰を下ろす。

 食べながらも視線は通りから外さない。カフェインの苦味が舌に残り、胃に落ちる音まで妙に大きく響いた。


◆202X年6月16日 午後6時16分

富ノ森駅前 商店街ロータリー脇


 本命は帰宅ラッシュ。俊兄の読みはここからだった。

 ざわめきが濃くなる。

 駅前のロータリーを埋める傘の群れは、魚群から濁流に変わっていた。肩と肩がぶつかり、吐息が絡まり合い、酸素が薄くなった気がする。湿った群衆の熱が、胸骨の奥まで押し込まれる。


 スマホが震えた。

 俊兄からだ。胸の奥で心臓と一緒に震える。


「まだ動きはない。雨だから外出を控えているのかもしれん」


 予測していたことだ。

 もし藤田が今日は出歩かないなら、それはそれで今週は事件が起こらない。

 そのときこそ警察を一週間かけて説き伏せればいい。証拠は薄いが、繰り返し藤田を押さえるべきだと説得できる時間が手に入る。


 けれど──音が変わった。


 雨がやんだ。


 フードを叩く水音が消え、代わりに群衆のざわめきがむき出しで押し寄せてくる。喉がひゅっとすぼまり、舌先に苦味が走った。


 受話口から低い声。

「……出た。扉が開いた。今は姿が見えている」


「身長百七十ほど、太った男だ。黒いTシャツに白のハーフパンツ、髪はぼさぼさでだらしない」

 短い沈黙ののち、冷たい命令が落ちる。


「雨が止んでいる。撤収しろ」


 正しい。頭ではわかっている。

 それでも、マフラーを握る手は震えたままだった。


 撤収しろ。

 間違っていない。

 けれど足が動かない。動かそうとするほど、胸の奥で何かがせり上がってきて喉を塞ぐ。


 怖い。いまにも背中を刃でなぞられる気がする。

 それでも、もしここで帰ってしまったら。

『次があれば……死人が出るぞ』

 俊兄が先週呟いた言葉が耳の奥で木霊する。


 雨で曇った合羽のフードを指先で押し上げる。

 視線を西に向けた。駅から見て、丘を越えた向こう。藤田の家がある方角。

 夕暮れに沈みかけた空は、まだ薄く湿り気を残している。

 あの奥に、“いる”かもしれない。そう思うだけで背骨が冷たくなった。


 震える息を押し殺すように吐き、俺はロータリーを外れて路地に入った。

 群衆のざわめきが背後で遠のき、薄暗い路地には室外機の低い唸りと、濡れた紙屑を踏む音だけが残る。

 人通りの縁で息をひそめると、湿った壁の匂いが鼻腔にこびりつき、胸が重く沈んだ。


「逃げろ」と「逃げちゃだめだ」が、頭の中で何度もぶつかる。

 心臓の音は、どちらの答えを選んでも裏切られる、と告げていた。



 通りのざわめきが吸い込まれたように静まった。

 次の瞬間、強い風が路地へ吹き込む。


 背中を押すような突風。傘の群れがざわめき、紙屑が舞い、合羽のフードが跳ねた。


 胸もとを握っていたマフラーが、その風に(さら)われた。

 布は宙を泳ぎ、路地の奥。背後へと飛ばされていく。


 反射的に振り返り、足を路地へ踏み出す。

 伸ばした手が、飛ばされた布を掴んだ。


 その瞬間だった。


 左肩に、後ろから衝撃。

 思わず息が詰まり、足がもつれる。

 一瞬、何が起こったのかわからない。肩の奥を痺れが走り、視界が白く弾けた。


 遅れて、焼けるような痛みが血と一緒に溢れ出す。

 冷たい合羽の内側を温度が広がり、鼻腔に鉄の匂いが押し込まれた。


 ──刺された。


 もし振り返らなければ。

 もしマフラーを追わずに前を向いたままだったなら。

 この刃は、肩ではなく後ろから心臓に吸い込まれていた。


 振り返った。

 誰もいない。


 生存本能が腕を交差させる。

 次の瞬間、刃が走った。


 前腕に裂け目が刻まれ、熱いものが弾け飛ぶ。

 皮膚が裂けた感触よりも、濡れた布越しに流れ出す体温の速さで事態を理解する。

 スマホが手から滑り落ち、濡れた路面に硬い音を残した。


 見えない。

 どこから来るのかもわからない。

 それでも次の一撃が来るのは確かだった。


 体が勝手に路地の奥へ逃げた。


 見えない。

 でも、いる。

 室外機の上に置かれていた空きビンをつかみ、後ろへ向かって投げつける。腕を振ると、ガラスは湿った空気を切って飛び、路地の闇へ音を残した。近くのゴミ箱を蹴り倒す。


 直後、倒れたゴミ箱が誰かに蹴られたように跳ね上がった。


 プラスチックの腹が空気を打ち、体に向かって飛んでくる。

 枯れた植木鉢が、勝手に弾けて飛び、焼けた土の塊が粉雪のように散った。陶片がはじき合って、高い音を刻む。


 音が連鎖して、心臓が耳元で跳ねる。

 振り返る暇はない。


 路地をさらに奥へ走る。室外機の縁を蹴り、空き瓶の破片を踏んで金属の痛みが踵に跳ね返る。陶片が靴底を刺し、冷たい痛みがしみ込んだ。


 行き止まり。壁は落書きで覆われ、誰がこんな場所で飲み物を買うのかと嘲る自販機が青白く光る。フェンスが高くそびえ、向こう側には暗い空だけが見える。ここで終わる。肉体がそう告げる。


 フェンスを越えようと飛びつく。手が金属を掴み、体を持ち上げる。

 瞬間、足元に冷たい刃が走った。浅く切られた足が崩れ、重心を失って地面に転がる。

 胸の奥を打たれたような痛み。荒い息が路地を裂き、世界が断片的に縮んでいく。


 唇が震える。血と土の匂いが鼻を突き、耳に残るのは自分の呼吸だけ。全身が痙攣し、立ち上がる力が抜けていく。


 だめだ、と喉の奥で声にならない声が潰れる。




 世界が反転した。




 闇を裂いて熱と光が流れ込み、土の匂いが消え、雨の粒子が舞い上がって煌めいた。


 黒髪が跳ねた。

 街灯の白が刃のように閃光を走らせる。


 日焼けした肌は濡れて光を帯び、筋肉の稜線を刻み出す。

 張り付いたTシャツが胸郭の呼吸を映し、デニムの裾から伸びる脚が地面を揺らす。

 桜色の指ぬき手袋(フィンガーレス)が、血と闇を切り裂くように鮮烈に燃えていた。


 存在感に圧倒されて息が詰まる。

 路地が狭すぎる。世界が狭すぎる。

 ひとつの人影に押し広げられ、すべての闇が後ずさる。


 ──その横顔。


 唇は濡れた血のように赤く、吐息に合わせてかすかに震えた。


 頬は汗に濡れ、街灯を反射して煌めく。褐色に焼けたその色は、命そのものの熱を宿していた。


 鼻筋は夜の匂いを裂くように鋭く、雨粒を弾いて軌跡を描いた。


 瞳は深い藍。獣の眼光と女神の冷ややかさ、その両方を孕んで、闇を呑み込んで燃えていた。


 そして──。


 絶えず寄り添っていた気配、遠くからずっと注がれていた視線の正体が、いま目の前にあると悟る。


 胸が軋む。喉が焼ける。


 生まれた日から二十一年間、隣にあり続けた顔。



 光に浮かんだその顔は──風吹(ふぶき)だった。

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