Fragment:藤田 直哉Ⅱ
──Side 無職 藤田 直哉──
◆202X年4月14日午前2時31分
富ノ森市内ニュータウン藤田家
静けさが重い。家の中が、外が、世界そのものが音を吸い込んでいくみたいだ。
母の息遣いはもうここにはない。胸の奥の安心が冷たく広がって、まるで氷の塊を喉に押し当てられたようにずんと沈む。終わったんだ。
次に襲ってきたのは重たい、どうにもできない恐怖だ。これからどうやって生きればいい?
僕は何も悪くないのに。勝手に僕を作った両親が悪いのに。
なんで僕が片付けなくちゃいけない?
人生は親に勝手にアカウントを作られてログインさせられるクソゲーだ。毎朝満員電車に詰め込まれて、意味もなく働いて、誰かの歯車にされる。それが理想の「普通」だって? ふざけんな。
そんな人生を強要される筋合いはない。
働く? いやそれ以前に明日には警察が来るかもしれない。胸が詰まる。
──そのとき。
脳髄に声が降りた。
『汝、叶匣と申すもののえらびたまへり。
絶望にて呼応せし者、今より此の遊戯に参加するべし──』
目の前の光景が信じられなかった。だがその夜の僕は、衝動に突き動かされていた。
誰かに「選ばれる」って想像すると、絶望が、甘い光を帯びて見える。選ばれたら、僕は特別になる。誰にも選ばれなかった僕が。
期待が、胸の中でじくじくと濡れていく。
◆202X年4月14日午前3時02分
富ノ森市・ニュータウンの夜道
母を担いで歩く。腕は重いはずなのに、僕の肩に沈むのはただの布袋みたいに軽い。さっきまで家の中にこもっていた汗の臭いも、血の鉄っぽさも、全部僕の皮膚に吸い込まれて消えていく。月明かりの下、僕はまっすぐ堂々と歩いていた。
車のライトが遠くから伸びてきて、僕と母の影を切り裂いた。瞬間、鼓動が跳ねた──が、運転席の男は何も見ない。まるで僕たちがそこにいなかったみたいに、無反応で通り過ぎる。ブレーキの赤が湿った路面に広がり、その赤は僕の唇に鉄の味を置いていった。
さらに先、懐中電灯を持ったジジイが夜中なのに犬の散歩をしていた。懐中電灯の光がふらふら揺れて、僕の顔や母の垂れ下がった腕を舐めていく。
それでもジジイはまばたきひとつせず、すれ違って行った。犬は吠えもしない。僕の笑いが胸の奥でくぐもった音を立てた。
──これだ。これが力だ。
誰にも見えない、誰にも嗅がれない、誰の耳にも届かない。僕は本当に透明になった。いや、違う。社会にとって透明だった僕が、今は自分の意思で透明を選べるんだ。
◆
裏山の麓に着くと、雑草の匂いが厚く重なり合い、靴底に冷たい露が張り付いた。藪の向こうに、古い管理用の小屋がぽつんとあって、扉は半ば外れていた。
中を覗くと長い柄のシャベルが立てかけられている。握ると柄の長さが腕の力を補ってくれる気がした。僕はシャベルを抜いた。
◆
どれくらい、山に入り込んだだろうか。
足を一段、土に下ろして、シャベルの背に体重を預ける。柄を両手で固く握り、膝を曲げて腰を落とす。
足で踏み込むと刃が土に食い込み、湿った匂いが鼻腔を満たした。掘る動作が僕の呼吸と同期していく。
土は重くて、湿っていて、指先に黒い粒が張り付く。
シャベルの柄が掌でじくじくする感触が、安心感に変わった。掘っては踏む、その繰り返し。
長い柄が力を運び、穴は思ったより深くなった。
母を抱えてその穴へ滑り込ませると、布が土に擦れる低い音がして、根の匂いが鋭く鼻を刺した。
土の匂いが肺にこびりつく。汗が首筋をつたって背中の布団みたいに湿ったシャツに吸い込まれていく。腕は重く、息は荒い。けれど、胸の奥は妙に澄んでいた。
運動なんてろくにしたことのない僕の心臓が、ここまで強く鳴ったのは初めてかもしれない。土を蹴り上げ、シャベルを踏み込み穴を広げるたびに、体が勝手に熱を帯びていった。
額の汗が目尻に落ち、しょっぱい味が舌に触れた。
運動不足の身体には堪えるはずなのに、今だけは違う。全身がだるいのに、胸の中だけが軽くて、心臓が笑っているようだった。
……ああ、まるで「いい汗」をかいたようじゃないか。
誰にも邪魔されず、誰にも見られず、僕だけの世界で、体の芯から満たされている。この清々しさを知ってしまった以上、もう戻れない。
僕は泥だらけの掌を見つめて、唇を歪めた。
「やっぱり……僕は特別なんだ」
夜風が頬を冷やし、汗を乾かしていく。爽やかさとともに、胸の奥には熱の名残がじっとり残り、笑いが喉の奥から湿ってこみあげた。
◆202X年4月14日 午後
この日から、月曜は、僕にとって祝祭になった。
最初は小さな遊びだった。コンビニで週刊誌と冷凍食品を万引きした。店員の目は僕をすり抜け、監視カメラのレンズは僕を映さない。袋を握った手の中で雑誌の角が汗に濡れて、心臓の鼓動が紙を震わせる。
店員は僕を見てすらいなかった。あの瞬間、胸の奥が灼けた。
◆202X年4月21日
スーパーで冷食や弁当をつかみ取り、ホビーショップではレジ内の棚からゲームソフトを数本。あの瞬間の高揚を、どう言えば伝わるだろう。普段なら店員が飛びつくはずだ。なのに誰も僕を止めない。
僕の手は神の手だった。ゲームソフトを抱える感触が勲章のようだった。
コンビニで週刊誌を万引きするのも忘れない。
◆202X年4月28日
通行人の尻ポケットから財布を抜き取った。何人も。
金の匂いは生ぬるい。札束の端に触れた瞬間、脳の奥がビリッと震えた。
僕はただ財布を開き、中身を数えるだけ。小さな革の匂いが甘美に思えた。
週刊誌も当然万引きする。
◆202X年5月5日
黄金の日。コンビニから弁当を抜き取り、家電量販店では家庭用ゲーム機とゲーミングPCをそのまま持ち去った。店員は目の前にいたのに、僕を素通りした。高価な機械を抱えて歩く僕を、まるで壁でも見るように。
心臓が笑っていた。確信する──神に選ばれたのは、僕なんだ。
週刊誌で長年追いかけていた連載が終わった。カスみたいな最終回だった。
◆202X年5月12日
人を直接突き飛ばして財布を奪った。ジジイの肩を押し、OLの背中を押し倒す。
人が倒れる瞬間の音は、ジャムより甘い。悲鳴が僕の耳を濡らす。だが誰も僕を見ない。僕は罰せられない。胸の奥が焼けるように熱くて、呼吸が震えた。……快感だった。
もう週刊誌は必要ない。僕は少年から蛹を経て羽化したのだ。
◆202X年5月19日
昼、商店街で女のバッグを引き剥がした。革の匂いと財布の重み。女の濡れた目を誰も見ない。僕だけが祝祭の真ん中にいた。
夜になっても熱は収まらず、近所の女子大生の部屋へ忍び込んだ。
寝苦しそうな体に指を這わせた。女は金縛りのように硬直し、震えを漏らす。その恐怖を舐めるように味わった。
……すごい。体の奥が熱くなる、征服の余韻。
これが「性」か。
暴れて殴られたのには少しだけ驚いた。
少しだけだ。
◆202X年5月26日
近所でも有名なでかい屋敷。
家主の後ろを堂々とついてホームキュリティなぞ知らぬ顔。
仏間に忍び込む。線香の匂いと畳の匂いが混ざり合う中で、僕はタンスを開けた。札束を丸ごと奪い、さらに小箱を懐に入れる。宝石箱。中にはでかいダイヤモンドの指輪。
クエストクリアの「戦利品」。
◆202X年6月6日。
湯気の向こうで女がシャワーを浴びていた。僕は背後に立ち、柔い肩に手を伸ばした。
悲鳴が泡のように弾けて消えた。何が起きたのか彼女にはわからなかっただろう。ただ怯え、泣き、震えた。
──これが初めて。
四十二年分の鬱屈が、いま僕の腰の奥で熱を帯びて爆ぜている。
初めての女の温度。初めての震え。初めて僕が「男」になった証。
終わったあと、湯気の中で僕は息を吐いた。
石鹸の匂いが胸の奥に沈んだ。
──気持ちよかった。ぞっとするほど、気持ちよかった。
僕は震える手を見下ろしながら、口元をゆがめた。
◆202X年6月9日午前1時12分
富ノ森市内ニュータウン藤田家自室
ゴミの山をかき分ける。紙屑と弁当の殻が指先にざらつく。
汗の膜が額に張りつき、匂いが粘る。どこかにしまいこんだ趣味の残骸があるはず。そういうときの期待は、ゲームのレアドロみたいに胸を熱くする。
手が金属に触れた。冷たくて固い感触が掌に走る。引き抜くと、黒い鞘から銀の刃が薄く光った。ああ、これだ。昔、趣味で買ったサバイバルナイフ。
刃先はまだ利きそうな顔をしている。柄の木目が掌の形に少し馴染んでいるのが、妙に自分の歴史みたいで気持ちがいい。
ナイフを眺めると、胸がすうっと空気を吸い込んだ。これ一つで世界が少しだけ変わる気がする。手に持ったときの重み、指先に伝わる微かな振動、鋼の冷たさが体に線を引く。
ナイフだけが鮮やかに浮かび上がり、想像するほどに笑いが深まる。
僕は嗤った。小さく、湿った嗤い。声に出して笑えば良かったのかもしれないが、口元だけが勝手に歪む。刃を鞘に戻す仕草が、まるで儀式みたいに思えた。
◆202X年6月15日午後11時28分
富ノ森市内ニュータウン藤田家自室
テレビの光が部屋のゴミを白く撫でる。アナウンサーの言葉が粘ついて胸に残る。
画面の隅のテロップが赤く点滅して、「駅前通り魔 複数負傷」とひとつ、冷たく告げる。音量を上げていないのに、声は僕の胸を直接撫でた。
映像は交差点の群衆、倒れた人、救急隊の足音。手元のニュースは具体的な犯人像を示さずに憶測を撒き散らしている。
「説明のつかない傷」「被害者の証言が混乱」──そういう言葉が網になって、街の神経を引っ張っている。
インタビューの声がざわめきに溶け、SNSのコメントやハッシュタグが画面を埋める。みんなが騒いでいる。
誰かが「透明人間」みたいだと呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。笑いが喉の奥で膨らむ。静かな、湿った嗤い
コメンテーターが「犯人はどこにいるのか」と問いを重ねるたび、僕の嗤いは深くなる。誰も僕の名を挙げられない。警察の話題が回る。市長が厳しい顔をしてコメントを出す。
街はお祭りのように湧き、ネットは喧騒に塗れる。みんながこちらを向いている。みんなが話題にしている。
胸の中で、世界を自分の掌に握っているような感覚が広がる。見えないという利点を手に入れたことで、いまや僕は誰よりも見られている。矛盾は、快楽になる。
誰にも認められなかった僕が、いまは全世界の注目を引いているんだ。
見られないことでしか存在できなかった僕が、見られることで存在になった。矛盾が、甘い蜜みたいに胸に滴る。僕はその蜜を舐める。
テレビの最後のカットが交差点を引いて、画面がひとつの夜景に溶ける。胸が疼く。鼓動が濡れて、嗤いが湿っていく。
ぶひゅ……ひゅひゅひゅ。
嗤いが、やがて声になって夜に溶けた。
誰も僕を捕まえられない。誰も僕を見つけられない代わりに、誰も僕から目を離せない。そうだ、そうなんだ。僕は世界を動かしている。僕が動けば、世界がざわめく。僕が嗤えば、世界が騒ぐ。
──明日は、待ちに待った月曜日。