File3:月曜日の通り魔事件(拾) 202X年6月10日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年6月10日午後3時40分
富ノ森市内カフェ・リュミエール
入口で目が合った瞬間、俊兄が席から立ち上がり、低く尋ねた。
「大丈夫なのか?」
喉の奥にまだ痛みは残っていた。それでも背筋を伸ばし、答える。
「大丈夫です」
俊兄はそれ以上は問わず、頷いて席を勧めた。
◆
俊兄と並んで、コーヒーカップの熱を掌で押さえる。
「まずは足だ。足で回って、ネットで拾えるものは全部拾う」
俊兄が淡々と言う。
俺はノートPCを取り出し、駅前の地域掲示板、SNS、匿名のうわさスレッドをたどる。
万引き被害を受けた複数のコンビニにスーパー、家電量販店、桜ヶ丘の女子大生のマンションの位置、OLのマンションの位置、商店街・駅前交差点。地主・吉村さん宅を地図にプロット。
複数の点が、丘の上のニュータウンの住宅地を中心に円を描いている。
「ここだ」
俊兄が地図アプリを指差す。その中心を、低く「ねぐら」と呼んだ。
◆202X年6月10日午後4時55分
富ノ森市内ニュータウン/路地
道行く人に同じ口調で声をかける。
俊兄は「地域の福祉関係で調査している」と名乗る。
俺は横でメモを取る。
「この近所で引きこもりで困っているというお家の話を聞きませんか」と訊く。
答えは断片だ。誰かの苛立ち、誰かの諦観。複数の家について似たような色の断片が出る──「家に籠る」「娯楽はテレビだけ」「仕事を辞めて親のすねをかじっているらしい」
まだ確証はない。
◆202X年6月11日午前9時12分
富ノ森市自治会掲示板前/自宅のノートPC
朝、ネットを詰める。
旧掲示板のログ、地域SNSの過去スレ、誰かが残した匿名の目撃談をクロスする。
八つの名前が候補として浮かぶ。
だがそのうち二つは、出入りの記録や訪問の証言で外れる。病院の通院記録、介護施設の送り迎え記録、SNSの外出投稿──地図の点が消えていく。
残るのは五人。決定打はない。
◆202X年6月11日午後6時20分
富ノ森市内ニュータウン/路地
夕方の路地は湿った土の匂いが沈む。犬を散歩させていた主婦が眉を寄せた。
「うちの並びに、ずっと家に籠ってる人がいるのよ。ゴミ出しの時くらいしか見かけない」
俊兄は「ひきこもりの支援団体です」と名刺を差し出し、軽く会釈する。
別の老人は、別の家を指して「あそこの家は昼間にカーテンを開けない」と囁いた。
証言は曖昧で、だが確かに“内向きの生活”という像を濃くしていく。
◆202X年6月12日午前10時45分
富ノ森市役所/資料室
自治会名簿と不動産登記を突き合わせる。赤ペンで線を引き、丘の上の住宅群を塗りつぶしていく。
五件中三件がヒット。そこに暮らすのは、どれも「昼間は静か、ほとんど出てこない」と言われる家ばかり。
俺はスマホで地域掲示板を検索する。
『近所に突然家の中で大きな声をだす変なおじさんがいる』
『あそこのお婆ちゃんボケてる』
『母親とよく言い争ってる声がする』
『コンビニに月曜だけ現れる客』
断片はノイズだらけだ。けれど重ねると、不自然な重みが残る。
◆202X年6月12日午後4時18分
富ノ森市内ニュータウン/路地
候補の一人を張り込む。だが、彼は午後になると自転車で出勤した。勤務先に電話で確認すると、夜勤明けの休みが月曜に当たっているだけだった。外れる。
別の一人は母親を介護施設に送る姿が確認された。記録と一致。これも外れる。
残る点が少なくなっていく。一軒の家が、地図上、赤い円の中心に残る。
◆202X年6月13日午前4時48分
富ノ森市内ニュータウン/ゴミ集積所
甘ったるい油の匂い、蒸れた袋の中でわずかに酸味に変わり始めている臭気が鼻を刺す。
「俊兄これ」
スマホの懐中電灯を点け、ゴミ袋を観察する。ビニール越しに見えるのは、同じメーカーのレトルトパック、同じ種類の弁当箱が複数。開封すらされていない。
「アタリをひいたかもしれん」
朝闇のなか、透けたゴミ袋は、赤黒い影を残した。
◆202X年6月13日午後9時14分
相川家/自室
ノートPCの青白い光が、壁を病的に照らす。
SNSのタイムラインをさかのぼる。
『月曜の昼、週刊誌を買っていく無愛想な男』
『最近、見かけない』
古い投稿が静かに沈殿していた。スクロールする指先に汗が滲み、匂いが鉄に変わる。
◆202X年6月14日午後4時52分
富ノ森市内ニュータウン/コンビニ
レジ台の向こうで、店員が思い出すように言った。
「毎週月曜の昼前に来るお客さんがいました。決まって週刊誌を買う常連さん。でも春先から来てないんです。最後は四月の頭だったかな」
「監視カメラを見せてもらえませんか」思わず口をついた。
俊兄が代わりに淡々と答える。
「コンビニの監視カメラの記録保管は通常1カ月程度だ。4月ならもうない」
「そうですか……」
俊兄は深く頭を下げ、店員の手を取った。
「お仕事中にすみません。ありがとうございました」
その瞬間、俊兄の身体がわずかに揺れた。
「大丈夫ですか?」店員が目を丸くする。
「ええ、片頭痛もちでして」俊兄は苦笑を浮かべた。
俺は横顔を盗み見る。瞼の奥に、記録には残っていない記憶を刻んでいることを、知っていた。
◆202X年6月15日午後9時38分
富ノ森市内ニュータウン/住宅街
夜の丘は息をひそめていた。街灯の光は黄ばんで、虫の翅を焦がすだけで路地の奥までは届かない。
湿った風が頬を撫で、犬の遠吠えがかすかに尾を引く。
俺と俊兄は地図の赤丸をたどり、最後に残った一軒の前に立っていた。玄関脇の郵便受けはチラシで膨れ、錆びの匂いが鼻を突いた。窓は全部閉じられ、カーテンは隙間もなく下ろされている。
「……ここだ」
俊兄の声は低かった。玄関のドアノブから手を放し、続ける。
「間違いない」
藤田直哉。すべての証言、すべてのノイズをふるい落として、最後に沈殿した名。
ゴミ集積所で見た未開封の弁当。商店街の「月曜だけ外を歩く」噂。コンビニの「春先から来なくなった常連」。どれも細い糸にすぎなかったが、一本に撚られてこの玄関へと収束している。
俺の胸の奥で、風吹の声がまたよみがえる。──『桜がいるから、がんばれるの』。
指先が冷え、喉が渇く。立ち止まっていること自体が裏切りのように思えた。
◆202X年6月15日午後10時02分
富ノ森市内ニュータウン/住宅街の暗がり
藤田の家は闇に溶けていた。
窓のカーテンは隙間なく閉ざされ、外灯の届かない路地は冷えた湿気で満ちている。
俊兄は遠目に見える玄関を見据え、それから俺に向き直った。
「今回の依頼は、地主の吉村さんの指輪を取り返すことだ。ここから先は、藤田の家を監視して、隙を見て探す。それ以上は、警察に任せる」
淡々とした声。理屈では正しい。だが、胸の中の雨は止まなかった。
「前回が真昼間の駅前だった。なら次は人が多い時間帯だ。引きこもりなら朝は弱い、狙い目は帰宅ラッシュだと推測する」
理路整然とした声。正しいことしか言っていない。
だが胸の奥で雨はまだ止まらない。
「……それでいいんですか」
自分でも抑えられず声が出た。
俊兄が眉をわずかに動かす。
「相手は透明になるような能力を持っている。記憶でも報道でも刃物は見当たらない。
身につけたものまで透明化できるのだろう。浴びた返り血すら見えなくなると想定すべきだ。俺たちが現場にいたところで、何ができる」
「姿も凶器も見えないなら警察がいたって同じじゃないですか」
喉が震えた。
その時、空気に冷たい粒が落ちてきた。
雨だ。
路地の舗道を叩く音が広がっていく。
「……そうか。雨だ」
俺は顔を上げた。
俊兄が首を傾げる。
「どういうことだ?」
俺はスマホを取り出し、天気予報を表示させる。画面の青い文字が夜気に浮かぶ。
「明日、一日雨です」
「六月九日、俺たちが現場に向かって走り出したとき、雨が降りだしましたよね」
「ああ」
「犯行のときは?」
俊兄は一瞬目を伏せた。
「犯行の瞬間には降ってなかった。報道映像でも、被害者の記憶でも」
二十七人も切り付けられていて、ひとりも死者が出ていないこと。
犯行は段階的にエスカレートしていく──それが俊兄のプロファイリングだった。
そこに合わない違和感の正体。
「雨が降ってきたから、途中でやめたんじゃないですか?」
心臓の奥で電流が走った。
「返り血すら見えなくなるなら、浴びた雨も見えなくなるはず。
なら、雨が降っていれば──落ちる雨粒がそこだけ見えない"人型の空白"が浮かび上がる」
俊兄の目がわずかに揺れた。
「その空白の中に──"透明人間"がいるんです」




